1000827313 の回答履歴

全62件中21~40件表示
  • 無意識ないしアーラヤ識をめぐって おうかがいします。(続編)

     この主題じたいが 広い範囲のことがらを扱うと思いますが この質問も 項目がいくつかあります。  質問の基本的な志向内容は なぜ無意識の理論を必要とするのかです。なくてもかまわないのではないかという見方からです。  (A) 《wiki:無意識=http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%84%A1%E6%84%8F%E8%AD%98》の中から 質問です。  (1)《言語能力は先天的であるので これは 無意識の領域である》との趣旨で伝えていますが これは 《記憶という行為能力》に含まれるとすればよいのではないか。  心臓の鼓動は 意識し得ますが なぜ動くのかは意識し得ません。では そのことを称して 無意識と言うのかと言えば そうではないはづです。それと同じように 意識し得ない言語能力を わざわざ無意識と呼ぶ必要はないように思われます。  (2) フロイトは《精神分析の理論の応用として、個人における「良心」、社会における「道徳」の起源を、無意識の抑圧構造の文化的な作用として説明した》というとき 《「抑圧する無意識」は 実証できない》とも同時に批判しています。上の応用は 分かったようになっているだけではないですか。言いかえると 意識的にしろ無意識的にしろ 《わたし》が 世間に倣ったり反発したり 発現しようとする自己を抑圧したりあるいはいろんな形で表現したりしているというただそれだけのことではないですか。  (3) ユングの理論に対して wikiは次のように批判しています。 《「神へとみずからを高める無意識の構造」は実証できない。しかし、「ユングの基本理論」と「ユングの思想」は分けて考えねばならない。ユングの理論は反証可能性を持たず、現代的な範疇での科学としては、成り立たない》。つまり 記憶なり精神なり《わたし》の自己同一性のことを 《無意識》という言葉でわざわざ指し示す必要もないのではないでしょうか。  (B) 《wiki:唯識=http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%94%AF%E8%AD%98》の中で質問です。  (4) 《三性》を立て   ▲ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  1.遍計所執性(へんげしょしゅうしょう):〔自己が世界を描き出したという〕構想された存在  2.依他起性(えたきしょう):相対的存在、他に依存する存在  3.円成実性(えんじょうじっしょう):絶対的存在、完成された存在 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ の如く――つまりはいわゆる《仏性》のごとく―― 最終的に《円成実性》を想定するときには その扱いが 《有神論》のようになるので微妙ですが そうではなく あくまで《識・こころ》も実体ではないという大前提に立つならば(立つのですから)  そうするならば なぜそのような《相対的で移ろい行くアーラヤ識》を《根本の心》として出してくるのですか。なぜ すべてを取り仕切る働きであるかのように  ▼ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  この〔アーラヤ〕識が前五識〔* つまり眼識(視覚)・耳識(聴覚)・鼻識(嗅覚)・舌識(味覚)・身識(触覚など)そして〕・意識・末那識を生み出し、さらに身体を生み出し、更に我々が「世界」であると思っているものも生み出していると考えられている。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ということになるのでしょう? 《わたしとその記憶行為またその知解行為そして実行としての意志行為》では 足りませんか。世界とわたしとが互いに応答するというその相互作用という見方では 足りませんか。  * ご回答の中で 精神分析の継承・発展として ラカンやクリステワ゛を出されたときには 分からないなりについて行きますが そのほかの人びとを出されれば 一から尋ねてまいります。

  • 無意識ないしアーラヤ識をめぐって おうかがいします。(続編)

     この主題じたいが 広い範囲のことがらを扱うと思いますが この質問も 項目がいくつかあります。  質問の基本的な志向内容は なぜ無意識の理論を必要とするのかです。なくてもかまわないのではないかという見方からです。  (A) 《wiki:無意識=http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%84%A1%E6%84%8F%E8%AD%98》の中から 質問です。  (1)《言語能力は先天的であるので これは 無意識の領域である》との趣旨で伝えていますが これは 《記憶という行為能力》に含まれるとすればよいのではないか。  心臓の鼓動は 意識し得ますが なぜ動くのかは意識し得ません。では そのことを称して 無意識と言うのかと言えば そうではないはづです。それと同じように 意識し得ない言語能力を わざわざ無意識と呼ぶ必要はないように思われます。  (2) フロイトは《精神分析の理論の応用として、個人における「良心」、社会における「道徳」の起源を、無意識の抑圧構造の文化的な作用として説明した》というとき 《「抑圧する無意識」は 実証できない》とも同時に批判しています。上の応用は 分かったようになっているだけではないですか。言いかえると 意識的にしろ無意識的にしろ 《わたし》が 世間に倣ったり反発したり 発現しようとする自己を抑圧したりあるいはいろんな形で表現したりしているというただそれだけのことではないですか。  (3) ユングの理論に対して wikiは次のように批判しています。 《「神へとみずからを高める無意識の構造」は実証できない。しかし、「ユングの基本理論」と「ユングの思想」は分けて考えねばならない。ユングの理論は反証可能性を持たず、現代的な範疇での科学としては、成り立たない》。つまり 記憶なり精神なり《わたし》の自己同一性のことを 《無意識》という言葉でわざわざ指し示す必要もないのではないでしょうか。  (B) 《wiki:唯識=http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%94%AF%E8%AD%98》の中で質問です。  (4) 《三性》を立て   ▲ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  1.遍計所執性(へんげしょしゅうしょう):〔自己が世界を描き出したという〕構想された存在  2.依他起性(えたきしょう):相対的存在、他に依存する存在  3.円成実性(えんじょうじっしょう):絶対的存在、完成された存在 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ の如く――つまりはいわゆる《仏性》のごとく―― 最終的に《円成実性》を想定するときには その扱いが 《有神論》のようになるので微妙ですが そうではなく あくまで《識・こころ》も実体ではないという大前提に立つならば(立つのですから)  そうするならば なぜそのような《相対的で移ろい行くアーラヤ識》を《根本の心》として出してくるのですか。なぜ すべてを取り仕切る働きであるかのように  ▼ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  この〔アーラヤ〕識が前五識〔* つまり眼識(視覚)・耳識(聴覚)・鼻識(嗅覚)・舌識(味覚)・身識(触覚など)そして〕・意識・末那識を生み出し、さらに身体を生み出し、更に我々が「世界」であると思っているものも生み出していると考えられている。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ということになるのでしょう? 《わたしとその記憶行為またその知解行為そして実行としての意志行為》では 足りませんか。世界とわたしとが互いに応答するというその相互作用という見方では 足りませんか。  * ご回答の中で 精神分析の継承・発展として ラカンやクリステワ゛を出されたときには 分からないなりについて行きますが そのほかの人びとを出されれば 一から尋ねてまいります。

  • 無意識ないしアーラヤ識をめぐって おうかがいします。(続編)

     この主題じたいが 広い範囲のことがらを扱うと思いますが この質問も 項目がいくつかあります。  質問の基本的な志向内容は なぜ無意識の理論を必要とするのかです。なくてもかまわないのではないかという見方からです。  (A) 《wiki:無意識=http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%84%A1%E6%84%8F%E8%AD%98》の中から 質問です。  (1)《言語能力は先天的であるので これは 無意識の領域である》との趣旨で伝えていますが これは 《記憶という行為能力》に含まれるとすればよいのではないか。  心臓の鼓動は 意識し得ますが なぜ動くのかは意識し得ません。では そのことを称して 無意識と言うのかと言えば そうではないはづです。それと同じように 意識し得ない言語能力を わざわざ無意識と呼ぶ必要はないように思われます。  (2) フロイトは《精神分析の理論の応用として、個人における「良心」、社会における「道徳」の起源を、無意識の抑圧構造の文化的な作用として説明した》というとき 《「抑圧する無意識」は 実証できない》とも同時に批判しています。上の応用は 分かったようになっているだけではないですか。言いかえると 意識的にしろ無意識的にしろ 《わたし》が 世間に倣ったり反発したり 発現しようとする自己を抑圧したりあるいはいろんな形で表現したりしているというただそれだけのことではないですか。  (3) ユングの理論に対して wikiは次のように批判しています。 《「神へとみずからを高める無意識の構造」は実証できない。しかし、「ユングの基本理論」と「ユングの思想」は分けて考えねばならない。ユングの理論は反証可能性を持たず、現代的な範疇での科学としては、成り立たない》。つまり 記憶なり精神なり《わたし》の自己同一性のことを 《無意識》という言葉でわざわざ指し示す必要もないのではないでしょうか。  (B) 《wiki:唯識=http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%94%AF%E8%AD%98》の中で質問です。  (4) 《三性》を立て   ▲ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  1.遍計所執性(へんげしょしゅうしょう):〔自己が世界を描き出したという〕構想された存在  2.依他起性(えたきしょう):相対的存在、他に依存する存在  3.円成実性(えんじょうじっしょう):絶対的存在、完成された存在 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ の如く――つまりはいわゆる《仏性》のごとく―― 最終的に《円成実性》を想定するときには その扱いが 《有神論》のようになるので微妙ですが そうではなく あくまで《識・こころ》も実体ではないという大前提に立つならば(立つのですから)  そうするならば なぜそのような《相対的で移ろい行くアーラヤ識》を《根本の心》として出してくるのですか。なぜ すべてを取り仕切る働きであるかのように  ▼ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  この〔アーラヤ〕識が前五識〔* つまり眼識(視覚)・耳識(聴覚)・鼻識(嗅覚)・舌識(味覚)・身識(触覚など)そして〕・意識・末那識を生み出し、さらに身体を生み出し、更に我々が「世界」であると思っているものも生み出していると考えられている。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ということになるのでしょう? 《わたしとその記憶行為またその知解行為そして実行としての意志行為》では 足りませんか。世界とわたしとが互いに応答するというその相互作用という見方では 足りませんか。  * ご回答の中で 精神分析の継承・発展として ラカンやクリステワ゛を出されたときには 分からないなりについて行きますが そのほかの人びとを出されれば 一から尋ねてまいります。

  • 無意識ないしアーラヤ識をめぐって おうかがいします。(続編)

     この主題じたいが 広い範囲のことがらを扱うと思いますが この質問も 項目がいくつかあります。  質問の基本的な志向内容は なぜ無意識の理論を必要とするのかです。なくてもかまわないのではないかという見方からです。  (A) 《wiki:無意識=http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%84%A1%E6%84%8F%E8%AD%98》の中から 質問です。  (1)《言語能力は先天的であるので これは 無意識の領域である》との趣旨で伝えていますが これは 《記憶という行為能力》に含まれるとすればよいのではないか。  心臓の鼓動は 意識し得ますが なぜ動くのかは意識し得ません。では そのことを称して 無意識と言うのかと言えば そうではないはづです。それと同じように 意識し得ない言語能力を わざわざ無意識と呼ぶ必要はないように思われます。  (2) フロイトは《精神分析の理論の応用として、個人における「良心」、社会における「道徳」の起源を、無意識の抑圧構造の文化的な作用として説明した》というとき 《「抑圧する無意識」は 実証できない》とも同時に批判しています。上の応用は 分かったようになっているだけではないですか。言いかえると 意識的にしろ無意識的にしろ 《わたし》が 世間に倣ったり反発したり 発現しようとする自己を抑圧したりあるいはいろんな形で表現したりしているというただそれだけのことではないですか。  (3) ユングの理論に対して wikiは次のように批判しています。 《「神へとみずからを高める無意識の構造」は実証できない。しかし、「ユングの基本理論」と「ユングの思想」は分けて考えねばならない。ユングの理論は反証可能性を持たず、現代的な範疇での科学としては、成り立たない》。つまり 記憶なり精神なり《わたし》の自己同一性のことを 《無意識》という言葉でわざわざ指し示す必要もないのではないでしょうか。  (B) 《wiki:唯識=http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%94%AF%E8%AD%98》の中で質問です。  (4) 《三性》を立て   ▲ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  1.遍計所執性(へんげしょしゅうしょう):〔自己が世界を描き出したという〕構想された存在  2.依他起性(えたきしょう):相対的存在、他に依存する存在  3.円成実性(えんじょうじっしょう):絶対的存在、完成された存在 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ の如く――つまりはいわゆる《仏性》のごとく―― 最終的に《円成実性》を想定するときには その扱いが 《有神論》のようになるので微妙ですが そうではなく あくまで《識・こころ》も実体ではないという大前提に立つならば(立つのですから)  そうするならば なぜそのような《相対的で移ろい行くアーラヤ識》を《根本の心》として出してくるのですか。なぜ すべてを取り仕切る働きであるかのように  ▼ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  この〔アーラヤ〕識が前五識〔* つまり眼識(視覚)・耳識(聴覚)・鼻識(嗅覚)・舌識(味覚)・身識(触覚など)そして〕・意識・末那識を生み出し、さらに身体を生み出し、更に我々が「世界」であると思っているものも生み出していると考えられている。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ということになるのでしょう? 《わたしとその記憶行為またその知解行為そして実行としての意志行為》では 足りませんか。世界とわたしとが互いに応答するというその相互作用という見方では 足りませんか。  * ご回答の中で 精神分析の継承・発展として ラカンやクリステワ゛を出されたときには 分からないなりについて行きますが そのほかの人びとを出されれば 一から尋ねてまいります。

  • 無意識ないしアーラヤ識をめぐって おうかがいします。

     この質問は 《QNo.4140486:人の業績は 人間そのものですか = http://oshiete1.goo.ne.jp/qa4140486.html 》を継ぐものです。  さしづめお伺いしたいことは 次のような主題です。  (1) 意識と無意識との関係が知りたいです。あっても 知り得ないという想定ですか。  《無意識》と規定すると 無意識という場やはたらきがあると捉えがちになります。記憶という行為において 含まれるであろうとは思います。ですが 実際には その働きは 意識し得ませんし なかなか 理解しがたいものです。想定する場合には どこまでを 捉えているのでしょう?  (2) 記憶と意志との関係を 無意識説の立ち場から おしえて欲しい。  人間の行為能力には 三つを想定します。記憶行為(≒司法)は ほかの知解行為(≒立法)や意志行為(≒行政)と どうかかわっているのか これを 無意識野を想定する立ち場では どう説いているのでしょう?   *  *  *  なお さらに趣旨説明として 掲げておきます。  この問いの課題は 一つ あって それに決まっているように考えています。つまり 《意識および無意識なる経験領域》と《それらを超えたさらに無の領域》 これら両領域の互いの関係や如何に? の一点だと思います。その具体的な視点が 上の主題です。  すでに 質問者も かなり問い求めを進めて来ております。(前の質問の質疑応答を参照されたし)。再掲します。  人間にとって 表象は 視認にせよ概念の把握にせよ 心の志向性にとって 或る目標を与えます。理想や理念のそれであれば その心の視像は 意志の目的とそこにおける休息になり得ます。  《記憶そして無意識野〔での出来事だ〕》と想定し規定すれば わたしたちは そこを あたかも探究の途上にありつつ 〔あたかも〕到達点として位置づけてしまいがちです。合点! 合点! 合点! というわけです。  早い話が 通り魔殺人事件での加害者にせよ被害者にせよ その原因究明に際して ポーンと 《アーラヤ識なる場における記憶行為の積み重なり》の説を出すと 《ああ 犯人は 無意識野だ》という早飲み込みに到らないとも限りません。  というよりは それでもよいのですが 問題は その先にあって では この無意識野におけるわが生命の息吹きでもあり しかもちょっとよそ道に逸れてしまったこのわが衝動を どうすればよいか これを 同時に 明らかにしてくれたまえ。そうしてこそ この《アーラヤ識》の理論の真骨頂があるのではないか。ということになります。のではないでしょうか?  《記憶》行為は 《意志(つまり これに色をつければ 愛です)》の行為と そして《知解(知識ないし経験合理性)》と それぞれの内容が 互いに時間的な食い違いをゆるしつつも おそらくは 一定の時系列において・もしくは一つの生涯において 互いの一体性を持つと考えます。わたしたちは それら三つの能力行為のあいだこに 互いの整合性を問い求めようとします。(ホンネとタテマエの食い違いと それの是正のようにです)。  このような時間的な差延を持った三つの行為能力の一体性に仮りに立つとすれば 記憶にかんする〔知解としての〕科学的な解明のほかに それと並んで 意志としての心の志向性のあり方 これも 大いに 自己主張をしてよいのではないか。こう考えますが いかがでしょうか。

  • 人の業績は 人間そのものですか

     まづ 地位や職務が その人自身の存在であるとは言えません。  では 作品は それが あとあとまで遺ることもあって その人の存在そのものであるでしょうか?  ちがうと思うのですが そのあたりをはっきりさせていただけないでしょうか。  言いかえますと 存在以外のものをいっさい取り払ったその存在じたいが その人だとまで思っているのですが どうでしょう?  形見が その人自身ではなく 墓がその人の存在を表わしているとも言えず あるいは 思い出が いくらなお生きているからと言って 存在じたいであると見なすことは出来ないと思うのですが では 人類や社会に貢献したその仕事や作品が かれ(かのじょ)自身なのでしょうか。  なおこの質問は 《QNo.4120187:ひとの個性とは 何でしょう。=http://oshiete1.goo.ne.jp/qa4120187.html 》を継ぐものです。  この伝で言えば 《無個性》が そのまま その人の存在であるという憶説なのですが これについて おしえてください。この説は 少数派というよりも ほとんど 見当たらないので おしえて欲しいと思いました。

  • 人の業績は 人間そのものですか

     まづ 地位や職務が その人自身の存在であるとは言えません。  では 作品は それが あとあとまで遺ることもあって その人の存在そのものであるでしょうか?  ちがうと思うのですが そのあたりをはっきりさせていただけないでしょうか。  言いかえますと 存在以外のものをいっさい取り払ったその存在じたいが その人だとまで思っているのですが どうでしょう?  形見が その人自身ではなく 墓がその人の存在を表わしているとも言えず あるいは 思い出が いくらなお生きているからと言って 存在じたいであると見なすことは出来ないと思うのですが では 人類や社会に貢献したその仕事や作品が かれ(かのじょ)自身なのでしょうか。  なおこの質問は 《QNo.4120187:ひとの個性とは 何でしょう。=http://oshiete1.goo.ne.jp/qa4120187.html 》を継ぐものです。  この伝で言えば 《無個性》が そのまま その人の存在であるという憶説なのですが これについて おしえてください。この説は 少数派というよりも ほとんど 見当たらないので おしえて欲しいと思いました。

  • 人の業績は 人間そのものですか

     まづ 地位や職務が その人自身の存在であるとは言えません。  では 作品は それが あとあとまで遺ることもあって その人の存在そのものであるでしょうか?  ちがうと思うのですが そのあたりをはっきりさせていただけないでしょうか。  言いかえますと 存在以外のものをいっさい取り払ったその存在じたいが その人だとまで思っているのですが どうでしょう?  形見が その人自身ではなく 墓がその人の存在を表わしているとも言えず あるいは 思い出が いくらなお生きているからと言って 存在じたいであると見なすことは出来ないと思うのですが では 人類や社会に貢献したその仕事や作品が かれ(かのじょ)自身なのでしょうか。  なおこの質問は 《QNo.4120187:ひとの個性とは 何でしょう。=http://oshiete1.goo.ne.jp/qa4120187.html 》を継ぐものです。  この伝で言えば 《無個性》が そのまま その人の存在であるという憶説なのですが これについて おしえてください。この説は 少数派というよりも ほとんど 見当たらないので おしえて欲しいと思いました。

  • 人の業績は 人間そのものですか

     まづ 地位や職務が その人自身の存在であるとは言えません。  では 作品は それが あとあとまで遺ることもあって その人の存在そのものであるでしょうか?  ちがうと思うのですが そのあたりをはっきりさせていただけないでしょうか。  言いかえますと 存在以外のものをいっさい取り払ったその存在じたいが その人だとまで思っているのですが どうでしょう?  形見が その人自身ではなく 墓がその人の存在を表わしているとも言えず あるいは 思い出が いくらなお生きているからと言って 存在じたいであると見なすことは出来ないと思うのですが では 人類や社会に貢献したその仕事や作品が かれ(かのじょ)自身なのでしょうか。  なおこの質問は 《QNo.4120187:ひとの個性とは 何でしょう。=http://oshiete1.goo.ne.jp/qa4120187.html 》を継ぐものです。  この伝で言えば 《無個性》が そのまま その人の存在であるという憶説なのですが これについて おしえてください。この説は 少数派というよりも ほとんど 見当たらないので おしえて欲しいと思いました。

  • ひとの個性とは 何でしょう。

     人と人との違いは いったいどこにあるのでしょう?  くせや趣味の違いから 思想の違い 意見の相違などなど 実際に見られることですが では そもそも その個性の違いとは なんでしょうか?   逆に 趣味を同じくし 志まで同じくしていたら 個性の違いは ないのでしょうか?  いま その答えについて 方向性もその兆しも ない状態に陥りました。どちらとも分かりません。  こう考えるきっかけになったことと言えば こうです。  われわれ日本人は よく 右へならえで行動するとの悪評を得ます。では そうではない個性の発揮とは いったい何なのかと考えました。もし J.‐J.ルウソのように 一般意志が想定されるとして それに人びとが従うのならば 個性はあっても 見解は おおよそ同じになるとも考えられます。  では 個性とは 何なのでしょう?  * ご回答について 分からないところは 自由に 突っこませていただきます。

  • ひとの個性とは 何でしょう。

     人と人との違いは いったいどこにあるのでしょう?  くせや趣味の違いから 思想の違い 意見の相違などなど 実際に見られることですが では そもそも その個性の違いとは なんでしょうか?   逆に 趣味を同じくし 志まで同じくしていたら 個性の違いは ないのでしょうか?  いま その答えについて 方向性もその兆しも ない状態に陥りました。どちらとも分かりません。  こう考えるきっかけになったことと言えば こうです。  われわれ日本人は よく 右へならえで行動するとの悪評を得ます。では そうではない個性の発揮とは いったい何なのかと考えました。もし J.‐J.ルウソのように 一般意志が想定されるとして それに人びとが従うのならば 個性はあっても 見解は おおよそ同じになるとも考えられます。  では 個性とは 何なのでしょう?  * ご回答について 分からないところは 自由に 突っこませていただきます。

  • ひとの個性とは 何でしょう。

     人と人との違いは いったいどこにあるのでしょう?  くせや趣味の違いから 思想の違い 意見の相違などなど 実際に見られることですが では そもそも その個性の違いとは なんでしょうか?   逆に 趣味を同じくし 志まで同じくしていたら 個性の違いは ないのでしょうか?  いま その答えについて 方向性もその兆しも ない状態に陥りました。どちらとも分かりません。  こう考えるきっかけになったことと言えば こうです。  われわれ日本人は よく 右へならえで行動するとの悪評を得ます。では そうではない個性の発揮とは いったい何なのかと考えました。もし J.‐J.ルウソのように 一般意志が想定されるとして それに人びとが従うのならば 個性はあっても 見解は おおよそ同じになるとも考えられます。  では 個性とは 何なのでしょう?  * ご回答について 分からないところは 自由に 突っこませていただきます。

  • ひとの個性とは 何でしょう。

     人と人との違いは いったいどこにあるのでしょう?  くせや趣味の違いから 思想の違い 意見の相違などなど 実際に見られることですが では そもそも その個性の違いとは なんでしょうか?   逆に 趣味を同じくし 志まで同じくしていたら 個性の違いは ないのでしょうか?  いま その答えについて 方向性もその兆しも ない状態に陥りました。どちらとも分かりません。  こう考えるきっかけになったことと言えば こうです。  われわれ日本人は よく 右へならえで行動するとの悪評を得ます。では そうではない個性の発揮とは いったい何なのかと考えました。もし J.‐J.ルウソのように 一般意志が想定されるとして それに人びとが従うのならば 個性はあっても 見解は おおよそ同じになるとも考えられます。  では 個性とは 何なのでしょう?  * ご回答について 分からないところは 自由に 突っこませていただきます。

  • ひとの個性とは 何でしょう。

     人と人との違いは いったいどこにあるのでしょう?  くせや趣味の違いから 思想の違い 意見の相違などなど 実際に見られることですが では そもそも その個性の違いとは なんでしょうか?   逆に 趣味を同じくし 志まで同じくしていたら 個性の違いは ないのでしょうか?  いま その答えについて 方向性もその兆しも ない状態に陥りました。どちらとも分かりません。  こう考えるきっかけになったことと言えば こうです。  われわれ日本人は よく 右へならえで行動するとの悪評を得ます。では そうではない個性の発揮とは いったい何なのかと考えました。もし J.‐J.ルウソのように 一般意志が想定されるとして それに人びとが従うのならば 個性はあっても 見解は おおよそ同じになるとも考えられます。  では 個性とは 何なのでしょう?  * ご回答について 分からないところは 自由に 突っこませていただきます。

  • 自殺、死についてのレポート

    大学の哲学の授業のレポート課題を「選択肢としての死」というテーマで近年の自殺問題などと絡めて書こうと思っています。 参考になりそうなウェブサイト、書籍、学者の考え方などあったら教えてください。

  • ひとの個性とは 何でしょう。

     人と人との違いは いったいどこにあるのでしょう?  くせや趣味の違いから 思想の違い 意見の相違などなど 実際に見られることですが では そもそも その個性の違いとは なんでしょうか?   逆に 趣味を同じくし 志まで同じくしていたら 個性の違いは ないのでしょうか?  いま その答えについて 方向性もその兆しも ない状態に陥りました。どちらとも分かりません。  こう考えるきっかけになったことと言えば こうです。  われわれ日本人は よく 右へならえで行動するとの悪評を得ます。では そうではない個性の発揮とは いったい何なのかと考えました。もし J.‐J.ルウソのように 一般意志が想定されるとして それに人びとが従うのならば 個性はあっても 見解は おおよそ同じになるとも考えられます。  では 個性とは 何なのでしょう?  * ご回答について 分からないところは 自由に 突っこませていただきます。

  • メタファー

    メタファーという言葉はいったいどういう意味なんですか?

  • 神に従うとは?

    私は洗礼をうけます。 私は仕事をやめ、実家を離れ教会生活をしています。 病気をしましてたまたま教会生活をすることになったのですが・・・。 これから仕事に復帰しようと思うのですが、その前に「神とともに生きていこう」と思い洗礼を受けて実家に帰ろうと思ったのですが、牧師に「神の洗礼を受けてすぐには帰らないほうがいい」とのアドバイスを受けました。「神に従いなさい」とのことです。 しかし、実際に働かなければ経済的にもお金がつきていますし、仕事の紹介とかきていて社会復帰をしたいと思っています。 このようなところでお聞きしては「神に従っていな」のでしょうが、どうしてもわかんないんです。 まだ、「神を信じようとして間もないんです」私としては社会復帰をしたいのですが・・・。

  • 神に従うとは?

    私は洗礼をうけます。 私は仕事をやめ、実家を離れ教会生活をしています。 病気をしましてたまたま教会生活をすることになったのですが・・・。 これから仕事に復帰しようと思うのですが、その前に「神とともに生きていこう」と思い洗礼を受けて実家に帰ろうと思ったのですが、牧師に「神の洗礼を受けてすぐには帰らないほうがいい」とのアドバイスを受けました。「神に従いなさい」とのことです。 しかし、実際に働かなければ経済的にもお金がつきていますし、仕事の紹介とかきていて社会復帰をしたいと思っています。 このようなところでお聞きしては「神に従っていな」のでしょうが、どうしてもわかんないんです。 まだ、「神を信じようとして間もないんです」私としては社会復帰をしたいのですが・・・。

  • 誰の言葉でしょうか

    ある偉人の名言で、「人間の全ての行動には、性的欲求が働いている」というのを聞いた事があるのですが、これは誰の言葉でしょうか? 心理学者のフロイトでしょうか? また、この言葉はどの位正しいでしょうか? よろしくお願い致します。