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江戸城への「総登城」

pri_tamaの回答

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  • pri_tama
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回答No.2

>礼装して騎乗するのは厳しいとは思いますが、絵で見る限り、装束は立派に見えます。 >烏帽子姿です。  添付した画像の様な例でしょうか?  右下の騎乗している武士の装いは、膝下が見えているので小素襖(陪臣の正装)だと思いますので、大名では無いかと思います。 (なお江戸城内に入る大名・旗本の礼装なら袴は後ろに長く引きづる様な長さの長袴となります。)  騎乗のすぐ前が手を広げて歩いている事から、行列の最先頭だと思いますので、先触れの責任者(数百石取り以上の上級武士)だと思います。  因みに奥側の行列の駕籠は担ぎ棒が長く、周りに布衣?を着た者が居ますので、恐らく中の人は大名かと思います。 >総登城では、大名と旗本は日を分けるなど、何か決まりがあったのでは、と想像していました。  年始の謁見だと元旦は御三家・親藩、二日は外様大名・従五位の幕臣、三日から無位無冠の大名・寄合・非役の御目見と日は変えていたようです。  (入る門とかも位階、格式によって本丸大手門や内桜田門と変えている。) >馬上から駕籠を見下ろすのは失礼  まあ御三家と会ったら大名でも駕籠や馬から降りて挨拶しなければならないし、格差がある大名同士だと格下側が脇によけ、降りる振りをして、格上側がそれを目礼で制する何てことを毎回していたようですし…。←行列が集中して渋滞状態な時にこんな事していると遅刻しかねないので、事前確認する先触れ役の責任は重かったとか…。  (ちなみに大名行列は「窓から見下ろさない様に」との当時の注意書きが宿場の宿屋に書いてあるのを見たことが有ります。) >馬糞は、肥料になりますが、問題は小便です。子供の頃、よく見ましたが、ものすごい量です。後に続く行列に大迷惑です。  現代の馬車でも、馬がもよおした時に備えて桶を準備している位なので当時もそこは大丈夫だと思います…。  (江戸は、落語の「開帳の雪隠」何て話がある様に貸しトイレが流行ってましたので、中身の処分は大丈夫なのも…。)  あと、乗り物や降りる場所は結構ケースバイケースだった様です。   →小身旗本でも老齢や病気等が理由なら駕籠での登城が許されれた。   →旗本の駕籠での登城を禁止したら、桶に乗って登城する旗本が続出…。   →鷹狩のお供を命じられた時などは、もちろん騎乗しないと…。      →でも三代家光の時代には、もう馬に乗れない大名や旗本が大量に居たようですが…。   →本願寺の使者は、門番が口だけ「とまれとまれ」と言われても玄関まで駕籠で乗り付ける事が可能だったとか…。     →宗派間の扱いの問題と事前の袖の下が有っての行為ですが…。

kouki-koureisya
質問者

お礼

再度のご回答ありがとうございます。 だんだん分かってきました。 同時に次から次へと新しい疑問が出てきます。 際限なく私の疑問は続きそうなので、一応明後日締め切りたいと思います。 これからは、旗本の日記をさがしてみます。 元旦拝賀に出席した大名・旗本の具体例については「幕府日記」も調べてみます。 私が見た騎乗姿の武家の絵は、ご指摘の絵です。 ただし、他にもいろいろ見つけました。 >(なお江戸城内に入る大名・旗本の礼装なら袴は後ろに長く引きづる様な長さの長袴となります。) これは疑問です。 手元にある高校教科書では、 「江戸時代、武家礼装は三位以上が直垂、四位は狩衣、五位は大紋、六位以下が素襖。長直垂は殿中の将軍・御三家・大名の正装である。」 周延(ちかのぶ)作の 「千代田之御表 正月元日諸侯登城御玄関前之図 明治30年(1897)」 は、御殿に入る場面で、大名の礼装の様子が分かります。 ただし、明治30年、昔を思い出して描いたものですが。 https://www.harashobo.com/ukiyoe/ukiyoe_detail.php?print_id=23783 >現代の馬車でも、馬がもよおした時に備えて桶を準備している位なので当時もそこは大丈夫だと思います…。 なるほど! 桶とは、気づきませんでした。 馬の近くに“桶持ち”がおるはずですから、おいおい調べてみます。 余談ですが、ベルギーのグランプラス広場には、観光馬車の乗り場があって、何台かの馬車が客待ちしていましたが、その内の1頭がいきなり猛烈に放尿したのを、強烈に覚えています。 後始末は、何もしていなかったと思います。 雨水の排水溝に自然に流れるのでしょう。 しつこい私に付き合って下さって、真にありがとうございました。 おかげさまで解決の道筋が見えてきました。

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