• ベストアンサー

江戸城への「総登城」

pri_tamaの回答

  • pri_tama
  • ベストアンサー率47% (675/1412)
回答No.1

>大名の“乗り物”は、駕籠と決められていたのですか。  大名の騎乗禁止は無かったと思います。  ただ、「総登城」の様な礼服が定められたときに、礼装して騎乗するのは厳しくないですか?  (江戸城内には家臣が付いてこれないので、江戸城内で装いを正すのは限度がある…。)  あと駕籠には載っている人の身分が分かるように細かい規定(形式や装飾に差異がある)が有りますので、総登城時の混乱時に騎乗で乗り付けると身分が分かりにくくて、失礼な扱いを受けるかもしれません。  (公式な場では確か2千石以上の者が駕籠に乗れるので、騎乗で乗り付けるとそれ以下に見られかねない…。)  因みに名奉行で有名な大岡越前守(忠相)は、旗本でありながら大名職である寺社奉行時に着いたせいで、伺候席から大名ではないと追い出される辱めを受けています。  (将軍吉宗が専用の詰所を用意するまでの数年間、登城した際に居場所が無くて時間をつぶすのに苦労したとか…。) >馬の場合、排泄物の処理が大変だと思います。  騎乗の際には、家臣が付いてますので其処は、大丈夫かと…。  (まあ、江戸では排泄物はお金に成るので、道端に落ちていても直ぐ無くなったとか…。) >2.旗本の場合、全員ではなく、一部の者のみ登城したと思いますが、役職によって登城が決められていたのですか。  旗本も上級の者は、大名と同じく参勤交代しますから全員集合は有りえません。  なお、中級以下の者は組ごとに3年毎に1回とかで毎年必ずでは無かったようです。  下級に至っては、当主就任時の一回ぐらいしか、将軍へのお目見え出来ないとか…。

kouki-koureisya
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 「江戸城下馬先」で画像検索すると、騎乗で登城する武家(大名か旗本か、私には識別できません)を描いた絵がいくつかあります。 礼装して騎乗するのは厳しいとは思いますが、絵で見る限り、装束は立派に見えます。 烏帽子姿です。 騎馬姿でも、お供の武士は、裃です。 大名は駕籠、旗本は馬または駕籠かな、と思っていました。 馬上から駕籠を見下ろすのは失礼なので、総登城では、大名と旗本は日を分けるなど、何か決まりがあったのでは、と想像していました。 馬糞は、肥料になりますが、問題は小便です。 子供の頃、よく見ましたが、ものすごい量です。 後に続く行列に大迷惑です。 ご回答でいろんなヒントをいただきました。 も少し考えてみます。

関連するQ&A

  • 大名の行列

    江戸市中、特に江戸城周辺では登城する大名の行列同士・旗本の駕籠などがすれ違う事はままあったと思うのですが、その際に何か作法みたいなものはあったのでしょうか?

  • 江戸時代の駕籠について

     かねがね不思議に思っていたのですが、江戸時代の殿様などは移動の時に駕籠を使っていたと思います。ただ駕籠というのは前後に担ぐ人がいて、駕籠がぶら下がっている状態になります。これだと担いで歩く人も重くて大変だし、乗っている殿様もゆらゆら揺れて乗り心地が悪いと思います。結構酔ってしまう人もいたはずです。  ここで疑問ですが、なんで車輪のついた乗り物がなかったのかが不思議です。大八車のようなものに箱を載せれば乗り物になるくらい分かりそうなものですが、なんでそれがないのか不思議です。平安時代だって牛車があるし、その知恵がないはずはなかったと思うのです。ただ幕末に書かれた福沢諭吉の福翁自伝に、諭吉がアメリカに行ったときに馬が車輪の付いた箱を引いているのを見て、それが人を運ぶ馬車だと分からなかったとの記述があります。なので、当時は人を車輪のついた物で運ぶという概念がなかったのかもしれませんし、人力車も江戸時代にはなかったのかもしれません。  いずれにしても、駕籠という乗り物がいかにも人を運ぶには非効率的に思えてならず、馬車や人力車を使わなかったのか理由を知りたいです。 どうでもいい疑問ですが、よろしくお願いします。

  • 駕籠

    時代劇の大名行列ですと、殿様が駕籠に乗り参勤交代の旅に出ます。 ところであの駕籠ですが、最低地上高がけっこう低いように思います、つまり山道や林道ではどうしたんでしょうか? 下記はいわゆる山駕籠の写真で http://ohoshisama.info/syowakarano/05syouwaC/syouwaC44hieizan.htm 山道で用いられたようですが、大名駕籠ではでこぼこ道で底が引っかかる、急坂で乗っている殿様が仰け反るなど、ひどく不自由な気がしますが、箱根などでは馬にでも乗り換えたんでしょうか、それとも殿様といえど自家用駕籠を降りて専門の山駕籠に乗り換えたんでしょうか? 女性ですと輿で中山道を往来する人(和宮とか)もいたようですが、江戸時代に輿で旅に出る男性はいなかったんでしょうか?

  • 参勤交代の大名行列に女性は。

    『東海道中膝栗毛』。 小田原宿での話ですが、「お大名のお国からお江戸入りの女中たち、駕籠をつらせて四五人づれ騒ぎ連れて来るのを見て」と、あります。 大名行列に女性はいましたか。 「入り鉄砲に出女」ですから「参勤」の場合には、目立たぬようにして、女性もいたのではないかと思っています。 よろしくお願いいたします。

  • 旗本の縁組

    江戸時代、旗本の縁組相手はどのように選ばれていたのですか? たとえば、御書院番の旗本が御小姓組の娘を嫁にもらい、さらに大名家家臣の娘を養女にしていたとします。 この場合、職場での付き合い・大名家とのつながりを考えたものと見ていいんでしょうか。

  • 五騎の騎は馬一騎?

    1室町時代から戦国時代に関する小説や現代語訳された古文書などに「土岐山城守手勢五騎」などと出てきます。 この場合の五騎とは馬に乗れる身分の上級武士の数でしょうか。また一騎につく下級武士や雑兵の数は、地域によって異なるのでしょうが、何人ぐらいいたのでしょうか。 2江戸時代千石未満の旗本でも「近江守」のような官職名を持った人がかなりいたようですが、この場合官位は従五位の下などに相当する程度のものだったのでしょうか。だとすると、同じ官位を持った小大名と同格だったのでしょうか。旗本が詰める江戸城での部屋は帝鑑の間ではなと思いますが、同格だと廊下で小大名とすれ違ってもお互い会釈で済ませていたのでしょうか。言葉遣いなども同等だったのでしょうか。 わかる方、ご教示ください。

  • 家老と御家人・旗本

    江戸において、大名家の家老(陪臣)と小身の旗本・御家人(直臣)とではどちらが立場が上だったのでしょうか? 例えば、共に宴会に招待された場合、どちらが上座に座ったと考えられるでしょうか。 ご意見を伺えれば幸いです。

  • 旗本領

    江戸時代の旗本領は大名とちがいあまり仰々しい体制づくりはしてないと思いますが治安維持組織は地元の村役人など百姓衆自身でやってた場合が多いのですか?それとも領主がお役所設置してたりしてましたか?

  • 郷士制度

    江戸幕府が始まったはがり初期の頃、常陸国の水戸藩以外に旗本領とか天領とか沢山ありました 常陸国の天領、旗本領でも郷士がいたのは、幕府誕生より前から住んでた旧家臣、武士が大名移転とかで郷士判定されたってことですか? 大名移転のさい転封先の領地の問題で全員は連れていかなかったみたいです 天領地域でも、そこの領主(代官等)に従うことができる、元家臣等の武士は郷士として認められたと言われた人がいました 実際に常陸国には郷士と呼ばれる地侍が結構いました、大きな村では12名ほどいた所もありました 水戸藩の郷士制度の影響かはわからないですが、基本天領や旗本領が新らたに農民とかに褒美として与えるなら郷士ではなく在郷の幕臣ですからね

  • 京の都から鎌倉まで、あるいは江戸までの移動日数は

    中世や近世の交通に関する質問です。 鎌倉時代、都と鎌倉の間は頻繁に往復(公的・私的・軍事的に)していたと思います。 日数はどのくらいかかったのでしょうか。少人数と大人数によっても異なるとも思います。 東海道の場合と東山道(一部鎌倉街道)の場合でどうでしょうか。 江戸時代は京の都と江戸の間は何日くらいかかったのでしょうか。 大名行列、一般市民、飛脚の場合 これも東海道と中山道の違いを教えてください。 また例幣使は何日くらいだったのでしょうか。(都~中山道~一部東山道~例幣使街道~日光)