体罰(暴力)が必要悪的な人種も居るのでしょうか?

このQ&Aのポイント
  • 体罰(暴力)についての問題を考える際に、昔の学校での体罰と現代の社会問題を結びつけることが必要です。
  • 一部の人々は、暴力が必要な状況や人種が存在すると考えていますが、一般的な価値観とは異なる意見と言えます。
  • 体罰を肯定する立場に立つ人々がいる一方で、現代社会の変化や法的な観点から見ると、体罰は否定すべきであるとする意見も存在します。
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体罰(暴力)が必要悪的な人種も居るのでしょうか?

昔の学校で罰則としての体罰(正座や走る等のペナルティ  いのちに関わる事 止む得ない理由(酷い苛め等))と云う事は 別として、殴り合う事で「叶わないから従う」的な人が同級生で居りました。 人として正しいとは思わないし、未成年であった時も、この様な事を するのは可笑しいと思ったのですが、彼等は特に理由は無いが、 周りに喧嘩を売り、それで相手を制すると「自分は強いから従え」的な感覚で、相手と殴り合う事で、相手に叶わないと従い、 自分に次ぐ位置に成れば「根性のある奴」暴力が嫌いな人種は 「根性がない」と見ていく様な感覚でした。 当時から私は特に理由が無ければ暴力等無意味だと思って居りましたし、「強ければ全て」的な感覚の人種は違うと思って居りましたが、 この様な人種は「相手が従う(実態はややこしいので関わらず、 避けているだけだが)迄殴り続け」此方が従うのを快感としている様な処がありました。 が、その様な人達の受け皿を果たすのが所謂怖い体育教師 (多分腕力だけでなく正しくはないが彼等の気持ちを理解している) や開星高校の野々村直通氏や長嶋茂雄、星野仙一と云った面々の感覚なのでしょうか?(嫌な人には嫌でしょうが小林まこと氏の『柔道部物語』等にも殴り合う事でこの人には叶わないといい信頼関係が生まれる(勿論そこに技術的指導や愛情があるとは思いますが)というものなのでしょうか?) 私は1980年頃に小中学生でした。特に粋がりたいとかと云う気はありませんでしたし、無意味な暴力は可笑しいと思いました。 唯彼等は「暴れる」「暴力」が意思疎通であり、叶わない人ならば 理不尽な事でも受け容れ、普通の人の当たり前の事を云う事に反抗しておりました。 現在ブラック企業 パワハラ等の問題がありますが、彼等ならば正しくはないがその様な社会を上手く渡れていくという事に成るのでしょうか? ご回答お願いいたします。

noname#250543
noname#250543

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  • izumi044
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回答No.5

>現在ブラック企業 パワハラ等の問題がありますが、彼等ならば正しくはないがその様な社会を上手く渡れていくという事に成るのでしょうか? どちらかといえば、そういった世界でうまく渡っていけるのは、スネオみたいなタイプじゃないでしょうか。(場によって、自分のありようを素早くかえるタイプ) 暴力を必要悪だと考える人にとっては、序列がはっきりしている世界がありがたいわけですよね。 それはなにも暴力に限らず、知識、学歴、人種、性別、思想など、さまざまあると思います。 暴力が必要悪な人にとっては、腕力がある世界が序列で上に行きやすい世界なんでしょうね。 相手を尊重して力の均衡を保つような世界より、はっきりとした立場が示せる場があることが好ましいんじゃないんでしょうか。 一度序列が決まれば、後はなにもしなくていいなら、こんなに楽なこともないでしょう。 常に関係を良好に保つための努力が要らないんですから。 手を変え品を変え、序列を作りたがる人種は、一定数いるように思います。

noname#250543
質問者

お礼

ご回答有難うございました。 >どちらかといえば、そういった世界でうまく渡っていけるのは、スネオみたいなタイプじゃないでしょうか。(場によって、自分のありようを素早くかえるタイプ) 誉められた話ではないが、橋下徹氏が荒れた小学校に転校した時に、その時のボス的な人に付くという事を学んだと 云う事に似ていると思います。大人に成り腕力でなくても時の権力者に付くという人も居り、頷ける話です。 >暴力を必要悪だと考える人にとっては、序列がはっきりしている世界がありがたいわけですよね。 それはなにも暴力に限らず、知識、学歴、人種、性別、思想など、さまざまあると思います。 成程、腕力だけでなく、今の政治や経済でもその時の 「力のある人に付く」と云う人は居られると思います。 >暴力が必要悪な人にとっては、腕力がある世界が序列で上に行きやすい世界なんでしょうね。 相手を尊重して力の均衡を保つような世界より、はっきりとした立場が示せる場があることが好ましいんじゃないんでしょうか。 多分、上だからという事で自分の立ち位置が確認できると 云う事かと思います。 >一度序列が決まれば、後はなにもしなくていいなら、こんなに楽なこともないでしょう。 常に関係を良好に保つための努力が要らないんですから。 手を変え品を変え、序列を作りたがる人種は、一定数いるように思います。 唯、小中学の時力だけを信奉していた同級生は 力で圧倒し支配していた時は良かったが、それが崩れる (報復される)と、普通に居て特に支配する事も無かった 多数の同級生よりも惨めでしたが、彼は更に報復するために(格闘技を習う)強さを身に付けようとしておりました。が子どもの時の事で大人に成れば「喧嘩が全て」でもないし、当時でも「常に警戒心を持っている」のはしんどい生き方だと思いました。

その他の回答 (4)

回答No.4

 こんばんは   暴力で従わせる事は 何時の時代にもある物でしょう   自然界の動物の世界では           それが ルールの一部でもありますよね。   しかし 人は それら 動物とは 異なり                 理性等 ありますよね。      でも 喧嘩をして 仲良くなる 等も あったりする物ですよね           色々 あると思います(笑)   学校での 体罰 これは 昔は 当たり前で    悪い事なのだが 悪い事では無いとされていた物だったり                    あると思います。      先生が 何かで 生徒を 悪いと決めつけ  体罰や酷い言葉の責めで 一方的に 指導等として居たりあり   それに対して 物を言っても もっと 酷くされるだけとなるので  何をしても無駄なので 反抗的な態度を取ったり  皆 余計な事は云わなくなり     上手い事やって居たり等に成る等も     昔は どこの学校でも 起きていた物だと 思いますよ。   そう云う教育方法は 間違いだから しない様に成ったのは              最近の話なのでは無いのでしょうか     偶に 昔からの教育方法を   今もして居て NEWSに成って居たりありますよね。       基本 体罰などは 何時の時代も いけない事だけど    時代によって   それも 人が 其々に     決めている物でもあったりする物だったりあると思います。      力での支配は 本人の意思とは関係無く ある物だと思いますから  力に従うしかない立場の人達を悪くは         決め付けない事も忘れてはいけない物だと思います     彼らが 社会を 上手く渡れるかは 色々あると思います   真面目に 生き    それでも 苦しんで居る人達もいたりあるでしょう        彼らも 他の人も 何も 変わらないと思いますよ                  この世の中は 色々 在るだけですよ

noname#250543
質問者

お礼

ご回答有難うございました。 〉暴力で従わせる事は 何時の時代にもある物でしょう   自然界の動物の世界では            それが ルールの一部でもありますよね。   植物連鎖などはその様な事は伺われますし、   間引きもそうです。   意識していないが私達も多くの細胞の一つが受精して   この世に出て来たので、そう考えると私達も頷ける話です。   〉   しかし 人は それら 動物とは 異なり   理性等 ありますよね。   でも 喧嘩をして 仲良くなる 等も あったりする物ですよね   その理性が無い人が居るので、上述の様な事がが起こるのだと思います。            〉学校での 体罰 これは 昔は 当たり前で    悪い事なのだが 悪い事では無いとされていた物だったりあると思います。  現在の「殴れるものならば殴ってみろ」と生徒を挑発する生徒や明らかに悪い場合や罰則は別として、 統制をとり易いと云うので戦後復員した軍隊上がりの人が 軍隊の経験をそのままに勧めたので問題に成ったのだと 思います。      〉先生が 何かで 生徒を 悪いと決めつけ  体罰や酷い言葉の責めで 一方的に 指導等として居たりあり   それに対して 物を言っても もっと 酷くされるだけとなるので  何をしても無駄なので 反抗的な態度を取ったり  皆 余計な事は云わなくなり     上手い事やって居たり等に成る等も     昔は どこの学校でも 起きていた物だと 思いますよ。 云わばその様な事で校内暴力等も起こったのだと思います。 唯純粋に暴力で上下を決める生徒はその様な教師に服従し 弱い処にぶつける、それが運動部等では可笑しいと思いつつも、彼等に実力があれば、OB有力者(議員など)を 使いもみ消していた事実があります。 1970-80年代は相撲部屋の不祥事 運動部の不祥事 (苛め 暴力 死亡等も)その様な事が為されたいたと 聞きます。   >そう云う教育方法は 間違いだから しない様に成ったのは    最近の話なのでは無いのでしょうか     偶に 昔からの教育方法を   今もして居て NEWSに成って居たりありますよね。       基本 体罰などは 何時の時代も いけない事だけど    時代によって   それも 人が 其々に     決めている物でもあったりする物だったりあると思います。     やはり、可笑しいと思う動きがあるからこそ変わっていったのだと思います。  >力での支配は 本人の意思とは関係無く ある物だと思いますから  力に従うしかない立場の人達を悪くは         決め付けない事も忘れてはいけない物だと思います 確かに私も腕力だけでなく立場(上からの指示など)は そうだと思いますので否めないと思います。     >彼らが 社会を 上手く渡れるかは 色々あると思います   真面目に 生き    それでも 苦しんで居る人達もいたりあるでしょう        彼らも 他の人も 何も 変わらないと思いますよ                  この世の中は 色々 在るだけですよ  私も完全には否定しませんが小中学時代  「強いから無茶振りでも従え」的な事をされたので  トラウマに成っているのですが、酷いと法律等の手法もあったのだと思います。

  • 46help
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回答No.3

人間と動物の違い 言葉でわかりあえる会話が存在する でもそれができない人間も存在する 国によって言語がちがう 会話は成立しにくい でも身振り感情で伝わる ここが伝わらないヤツには身体で表現 それを体罰ととるかは自由です

noname#250543
質問者

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ご回答有難うございました。 >人間と動物の違い 言葉でわかりあえる会話が存在する でもそれができない人間も存在する 国によって言語がちがう 会話は成立しにくい でも身振り感情で伝わる その様な事が手っ取り早く統制できるので 罰則とは別に用いてきた事実もあります。 >ここが伝わらないヤツには身体で表現 それを体罰ととるかは自由です 確かにそういう人間は居ります。 だから此方が可笑しいと思ってもそうするしかない、 必要悪かと云う事かと思います。

  • Don-Ryu
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回答No.2

私も80年代に小学生でしたが・・・ 例えば今振り返って、「やっぱりあの先生のアレはないよな」と思うものもあります。 殴り合えば分かり合うなんてのはないです。殴られたら腹が立つだけです。 でも今の若者を見ていると、何かがあった時に 「まずはぐっとこらえて、理屈抜きでやって、全て終わった後にやり返す」 「それは理屈抜きでやってはいけない事だから、やらない」 そういう感覚って、ゼロとは言わないが、すごく希薄ですよね。ひとつひとつにいちいち懇切丁寧な説明を与えないと、受け入れることができない。 ダイバーシティという名の下で、何をやっても許されて大人になってしまうのでしょうか。 「友達親子」が増えたせいか、子供の頃に自分より大きな大人に怒られて怖い思いをしたことがないので、社会人になって上司に注意されても、同級生にケンカを売られたぐらいにしか思わないようです。 ブラック企業とまともに戦えないのも、今の若者です。ブラック企業につかまらないよう日頃から努力して自分のスキルを磨かないのも、若者です。 そして一部の優秀な若者はその中で、ほんのちょっとの努力で自分が頭一つ抜け出すことが出来ることを知って、きちんと努力しています。格差が広がるのも、当たり前でしょうね。ちゃんと気づいて、やる人はちゃんとやっています。 子供の頃の学校の理不尽なんて今思えば、大人になって社会で出くわす理不尽に比べれば、小さいものです。それに立ち向かったり悔しい思いをしないまま大人になって、その後の色々なものを乗り切れるわけがないですよね。そしてニートになっても、親が何十年も面倒を見てくれる。 踏ん張るところは踏ん張って、まっとうな努力をして、言うべきことはきちんと主張する、頑張ってもダメならその場を去る、どこに移ってもやってゆけるスキルを持ち、磨く、全ての根底に存在して思いの芯になるのは、子供の頃に理不尽と向き合った経験だと思います。それがある人とない人とでは、預けられる信頼が全然違います。それを得られる機会がびっくりするほど乏しい今の子供たちは、可哀想だなあ、と思います。 私は、「柔道部物語」、今も大好きです。

noname#250543
質問者

補足

ご回答有難うございました。 でも今の若者を見ていると、何かがあった時に 「まずはぐっとこらえて、理屈抜きでやって、全て終わった後にやり返す」 「それは理屈抜きでやってはいけない事だから、やらない」 そういう感覚って、ゼロとは言わないが、すごく希薄ですよね。ひとつひとつにいちいち懇切丁寧な説明を与えないと、受け入れることができない。 ダイバーシティという名の下で、何をやっても許されて大人になってしまうのでしょうか。 確かに頷ける話です、昔(暴力とは別として)給食で嫌なものがあってもこれは我慢するとか、まあ気に入らないが 普通に与えられた事はこなす(地域の行事 役員など)と 云うものでしたが、我々(40代 50代)の大人も 「したくないからしない」という風潮の人が居り、 その姿勢が子に伝播しているのかとも思えます。 だから幼稚園位の時でも片付けや掃除は当たり前と伝わっていた事が「何故しなければいけない」と云う風に云われるのでやりにくくなったと教師の方の声があります。 子供の頃に自分より大きな大人に怒られて怖い思いをしたことがないので、社会人になって上司に注意されても、同級生にケンカを売られたぐらいにしか思わないようです。 ブラック企業とまともに戦えないのも、今の若者です。ブラック企業につかまらないよう日頃から努力して自分のスキルを磨かないのも、若者です。 そして一部の優秀な若者はその中で、ほんのちょっとの努力で自分が頭一つ抜け出すことが出来ることを知って、きちんと努力しています。格差が広がるのも、当たり前でしょうね。ちゃんと気づいて、やる人はちゃんとやっています。 確かに、ブラック企業に捕まらない様にする、やる事をやってスキルを磨けば生きて行く術もあるかと思います。 子供の頃の学校の理不尽なんて今思えば、大人になって社会で出くわす理不尽に比べれば、小さいものです。それに立ち向かったり悔しい思いをしないまま大人になって、その後の色々なものを乗り切れるわけがないですよね。そしてニートになっても、親が何十年も面倒を見てくれる。 踏ん張るところは踏ん張って、まっとうな努力をして、言うべきことはきちんと主張する、頑張ってもダメならその場を去る、どこに移ってもやってゆけるスキルを持ち、磨く、全ての根底に存在して思いの芯になるのは、子供の頃に理不尽と向き合った経験だと思います。それがある人とない人とでは、預けられる信頼が全然違います。それを得られる機会がびっくりするほど乏しい今の子供たちは、可哀想だなあ、と思います。 私も中学の時暴力的な人種が多い部活動に仮入部しましたが、耐えられず辞退しました。 それが、人との対応の仕方も学んだかと思いますが、 同級生で暴力的な者は退部を認めてくれず、 私に暴力や恫喝をされた事がトラウマに成っております。 彼の言い分としては「鍛えてやったのに耐えらない弱い奴」と云う事でしたが、彼等のルールには付いていけませんでしたのでこの様な対応をしましたが、人によっては あの環境で心地よい人も居るという事かとも思えます。

  • tzd78886
  • ベストアンサー率15% (2589/17102)
回答No.1

個人的には必要だったとは思えません。そういう考えが一般的だったのは確かでしょう。うちのオヤジなどもそうでしたから。こういう考えの人は自分が弱い立場になった場合のことなんて考えもしないのです。今は高齢で病気持ちですから仕返しするのは簡単ですが、正直顔を見るのも嫌です。

noname#250543
質問者

お礼

ご回答有難うございました。 >個人的には必要だったとは思えません。そういう考えが一般的だったのは確かでしょう。うちのオヤジなどもそうでしたから。こういう考えの人は自分が弱い立場になった場合のことなんて考えもしないのです。 確かにその様な人大人に成っても居りますが(腕力だけでなく権力恐怖で人を従わせる人)、崩れた時普通の人よりも惨めだと思いますが、それで更に変な強がりをする様なのは困りものだと思います。 それが共産主義の北朝鮮などが良い例だと思います。 (唯それで崩壊はしていないので、正しくはないが こう云う事かと考えます。)

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    偏見では行けないのですが、 10年程前に起こった大津のいじめ加害者の家庭も暴力的で 自身も被害者が出て転校をしたが、そこでも暴力的な行為をしていた そうです。 幼少時の躾と云うのは大切だと思いますが、 幼い頃から暴力の支配で育つとその様に成るのでしょうか? 罰則としての体罰を超えて、彼等は「暴れてみたい気持ちがあり」 「それを(力で)叶わない者に制され従う」と云う事で統制が取れているのでしょうか? 現在に成って指導方法も見直されましたが、昔の野球部等はその様な気質の者が多かったのでしょうか? 人間としては正しくはないが「闘争心」「負けん気が強い」と云う事で昔気質の体育教師とその様な生徒は相性が良かったのでしょうか? (そこに優しさもある事を踏まえた上で)昭和40年代の梶原一騎氏やちばてつや氏の漫画等にはその様なキャラクターが出て来るのでそうかと思います。 高校野球や運動部の暴力で「理由も無く殴る」と云うのは昔でも引いてしまうし可笑しいと思う様な感じですが、これは暴力的でない人に適応できるレベルでそうせざる得ない(そのやり方しか通用しない)人も居ると云う様な事を言いたいのかと思います。 (現在60代のタレント清水アキラ氏が20才前に芸能界入りしたが、 日本拳法をやり、喧嘩無敵で粋がっていたそうである。 それを屈強な先輩に「お前ら並べ」と殴られ、目覚めたと云っておりました。) その様な感覚を「古き良き時代」といい大切にしたいと思うのが、 長嶋茂雄 星野仙一という人達なのでしょうか? (そうせざるえない人も居るという事は熟知しておりますが、 1980年頃に居た教師 不良や暴力的な生徒にはそれで良かったのかも しれませんが、特に暴力的でない生徒にも同じ事を行い、 非道をせず、やることをやり普通に学校生活を行っても 「根性がない」「なんか嫌」という様な態度を取られましたので、 傷になっているのですが、不良や暴力的な人に基準を併せるとそうなり、こちらは我慢しなければいけなかったのでしょうか?)

  • 暴れてみたい人の受け皿は必要悪

    ①一概には云えませんが、数年前から 桑田真澄氏 古田敦也氏 落合博満氏等が 「野球の意識改革」「暴力の根絶」を説いております。 (落合氏は絶対暴力や理不尽な要求はしない代わりに 愛甲猛氏に厳しい練習を課した事等からもその事が伺われます) ② プロ野球選手になるには実力が伴わないといけません。 昔の根性論とかそれに伴うしごき等は受け容れても 相容れない人 噛み合わない処があり矛盾を生み出しているのでは 無いかと思います。 唯、相容れない人噛み合わないと思ったのは 「何か知らないけれども暴れてみたい人」が居り、 その様な人が学校や職場にいると不可解なものに映ったのです。 ③ 現在では発達障害と判断されるのですが、 昔はその様な人にとっては 「暴れてみたい→周りに喧嘩を売る→立ち位置を確認する」と いうものだったのでしょうか? そして彼等には居心地の良い感じだったのでしょうか? 仕事は実力がものを云い、秩序を守り、暴力振えば昔でも傷害罪に 成りますが、とび職や漁師でも(あってはならないが) 「暴れる」人が40年程前には居たと思います。 ④ 発達障害でそれを抑える様に現在では対応されてますが、 その気質を良き事として持って行きたいのが、故星野仙一氏 長嶋茂雄氏 清原和博氏や先述の愛甲猛氏なんでしょうか? (褒められないし許されないが、「意味もなく暴れてみたい気持ちや 周りに喧嘩を売りそれで認められたいと云う気質を認めて欲しい的な) 前に例を出した私の同級生や先輩で野球部所属のM・Y君やR・Y君も 勿論実力はそこまでなくプロには成れませんでしたし、 成人しても暴力で逮捕された事も有ります。 小中学時代暴力を振るった時に担任の先生に云った言い分が この様な事でしたので。 (学校も職場も労働条件よりも彼等の様なタイプが居るとブラック化 している様に思えますが、彼等はあれで感情がコントロールされているようですので)

  • 暴力的な人を受け入れてくれる組織も必要?

    「暴力がスキンシップの人も居る」 https://okwave.jp/qa/q10091715.html と云う処でも質問させていただきましたが、 公立の小中学校ではその地域に居るだけで様々な人が入ってきます。 絶対正しくは無いし、良い事だと思いませんが、極一部の人は 「暴力を行使し自分の立ち位置を確認する」と云う人が同級生でも 居りました。 良く運動部の体罰が問題に成っておりますが、此方が悪い事をした場合を除き、私の小中学時代も極一部の人は 「苛々しているから暴力」 「その暴力に耐えれた者だけが根性がある」 と云う様な処で組織が暴力的に成っていく処があります。 (運動部の理念(当時でも顧問や部長はその様な事を否定していたが) とは別に暴力的な人が居るとそうなる処があります) ① 前述のY君はじめ数人の人間は、 「この人には叶わないと 思わないと基本的な事も聞かない」 「その代わり腕力で叶わないと云う事を聞く」 と云う感じでした。 これは、両親はじめ、周りの環境が大きいのでしょうか? ② 罰則の体罰とは別にして、彼等の思いが発揮できる組織が 暴力を行使し、感情がコントロールできる組織に成るのでしょうか? 叱咤激励とは別に、野球部等にはこの様な部員が居り、 非行防止よりも野球部と云う枠に囲い込む事でその暴力性を 正当化(私は正しいとは思わないし、当時でもおかしいと思ったが、鍛えてやっている)出来ている処があると云う事に成るのでしょうか? ③ 無意味な体罰(罰則の体罰は別として)やいじめは絶対にいけない し、現在態度教育等でタイムを伸ばしたアスリートも居られ、必ずしも スパルタ教育が正しい事だとは思わないし、昔の叱咤激励するレベルを超えて、前述のY君の様なタイプが運動部でレベルが高いと、 どうしてもY君が周りに無意味な暴力やいじめを行っても「鍛えてやっている」と正当化されていき、Y君の様なタイプの気持ちを何処か受け入れているのが、「暴力で序列を造る世界」になるのでしょうか? ④ 何処かの野球部や柔道部の顧問が 「この人は怖いと思わせやきを入れ従わせる→そこで信頼関係が生まれる」と云っておりましたが、この様なタイプも居り、彼等にとっては この様な感覚で感情がコントロールされている様です。 Y君は野球の勝ち負けよりも、暴力で圧倒し服従させる、そうすれば通ると思っている節がありました。 もしかして、正しくはないが彼等の様な心理の者を活かす道として、 「強いから従う、暴力で圧倒」と云う組織があるのでしょうか? このあたりの事をご回答いただければと思います。

  • 暴力的な人間を活かす事も必要悪?

    1980年代に小学中学時代を送りました。 当時、暴力的な同級生が居り、その様なタイプの人間が居る スポーツ少年団や 部活動は 特に理由も無いが、暴力三昧の感じでした。 彼等は 1 序列を造る為に喧嘩をする 2 それで上下を決める という感じでした。 1 良く、運動部の体罰の問題が云われておりますが、当時の彼等の様な気質ならば、顧問(彼等と似た様なタイプだった)や先輩に服従し、弱い処にぶつけるが、 顧問という存在があるので纏まるという事や この競技に打ち込む事で暴れてみたい エネルギーをこの方向に持っていけるという事で、彼等にとってはその様な 組織が良かったのだと思います。 (現在60-70才位で野球選手や力士に成った人もその様な事を言っていたと 思います。) 2 唯、この顧問や部員は非道をしていないが 練習とは別に喧嘩や暴力嫌いと いう人を「根性がない」と嫌い、退部する折にも暴力を振るったりしておりました。 結局暴力好きな人間を活かす道があり、その為には暴力嫌いの人は我慢して犠牲に成らないといけないという事なのでしょうか? (1980年頃に国士館大学で特に非道はしていないが、寮やクラスで誰が強いとか  という事で殴り合いの喧嘩が続く日々に、馴染めず退学し、別の大学に入り直した  人が居りました(私もその人の気質に近いのですが)  3 小学中学時代 暴力的な同級生やこの部活の顧問は 特に非道をしていないが  喧嘩 暴力嫌い 以上でも以下でも無い人間を(私もその様な気質でした) 根性がないと云われたので これには矛盾を感じたのです。  この顧問は いじめや暴力があっても 暴力的な人間の方が「この人と思うと」  なんでも受け入れる、そして「限界を有する精神を持つ」事を第一に置いており、  その感覚に叶う者は暴力的なものが多いので好きという事なのでしょうか?)   ご回答お願いいたします。

  • 暴力が抑えられない人にとって必要悪なる組織も必要?

    暴力が抑えられない人にとって必要悪なる組織も必要? 反社会的な暴走族や暴力団はそうですし、 それを辛うじて止めているのが、昔の芸能界や野球選手 プロレス ボクシング 相撲部屋などもそうだったと思います。 暴力は犯罪で、いじめもいけないのは最もなのですが、 中に抑えられない人種がおり、そのようなタイプが 抑えられるのがその様な組織なのでしょうか? 「体罰はいけない」のですが、この様なタイプは 1 殴り、この人は叶わないと思わせる(占める 焼きを入れる) 2 暴れる精神を野球等に打ち込む事で闘争心があるので   その様な気質の者が使える(今はメジャーな競技も増え  大リーグへの挑戦する選手もいるのでそういえないが、  昔は球技なら野球 格闘技ならボクシングかプロレスか相撲  に限られていたのでそういう感じだったと思います) 3 家でも暴力に慣れているので、この様なタイプの方が使える と云う事なのでしょうか? 「体罰はいけない」「未成年の暴行なども法律で逮捕させるべき」 真っ当な意見ですが、彼らにとっては「暴力による統制」が居心地がよく、それで感情がコントロールされているのでしょうか? 大阪桜宮高校のバスケットボール部の小村氏や島根開星高校野球部の野々村直通氏等はその様な生徒の立場に立ってその思いを発揮させてやりたいと云う事なのでしょうか? 唯、1980年頃私の学校の運動部の顧問は 普通の生徒で仮入部で辞退する生徒に体罰 ついていけない生徒の退部も認めず体罰(結局辞めたが) 残った生徒は血の気の多い暴力的なタイプが多く、 優秀な成績を残してましたが、不良生徒の為に 一般生徒が犠牲にならないといけないのでしょうか? 又、当時は今ほど体罰が問題になりませんでしたし、 罰則や悪い事をすれば仕方ない位に思っておりましたが、 この顧問をする教師は「気合を入れる」「強くする」為に 体罰が必要であると考えており、普通の真面目な生徒で 「唯日常的に殴られるのは嫌」と云う生徒にも 「あいつは根性がない」といい大人しい生徒や特に非道せず 唯暴力的な組織に順応できない生徒にも自分の思いを押し付け ておりました。(戸塚ヨットスクールの校長と似た様な感じでした) 流石に当時でもこれは問題になり、この教師は退部を認めるようになりましたが、不良生徒を生かす道、その様な生徒を統制する為にはこの様な感覚になるのでしょうか? ご回答お願いいたします。