内戦回避の西郷どんが倒幕の訳け

このQ&Aのポイント
  • 幕末の英傑トップは、アヘン戦争を知っていたので、内戦回避が常識でした。
  • 西郷どんが日本を二分しかねない倒幕に切り替えた理由は何でしょうか。
  • A:公武合体は所詮、薩摩はNO2。 倒幕ならNO1になれる。 長州は今、朝敵で動けない。
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内戦回避の西郷どんが倒幕の訳け

幕末の英傑トップは、アヘン戦争を知っていたので、 内戦回避が常識でした。 西郷どんもその一人です。 その西郷どんが日本を二分しかねない倒幕に切り替えた 理由は何でしょうか。 A:公武合体は所詮、薩摩はNO2。    倒幕ならNO1になれる。   長州は今、朝敵で動けない。 B:西郷どんを英雄視する人達のイメージは、ブレず、   未来志向で、強くて優しい人。   実際は違う。試行錯誤の繰り返し。   人間皆そう。紆余曲折が人生。   そういう一人だっただけ。 C:勝と会った時、不戦が暗黙了解。   公武合体にせよ倒幕にせよ、幕末は薩摩がリード。   この二つの理由から安心して倒幕に切り替えた。 D:その他の理由  (この場合、理由を添えて下さい。) 以上、よろしく願います。

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  • eroero4649
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回答No.3

西郷さんの本質って、ヤク・・・いえ、「任侠の親分」だったと思うんですよ。ああいう業界の大物。そう考えるとピッタリな気がするんです。 明治新政府では自分の居場所がなくなり、後に下野して西南戦争に担がれるわけですけれども、西郷さんには「思想的なもの」ってあまり感じないですよね。「日本をどうしよう」みたいなのは伝わらない。ただ、人柄というか義理と人情話みたいなのはわんさと出てくるわけです。思想家でも実務家でもなかったと思うのです。じゃあなんだといわれたら「親分」だったと思うのですよ。 で、任侠の親分ですから、本質的には乱暴というか「最後はカチコミで決着をつける」という部分があったと思います。 大政奉還をそのまま受け入れたら、結局政治の主導権を握るのはどのみち徳川家です。朝廷なんてのは政権交代のときの民主党みたいなもので、実務経験がないのです。そのままの方法だと、民主党がそうだったようにいずれ徳川家という経験豊富な自民党に政権を返すことなったでしょう。 しかもその徳川家の当主慶喜は、英明ではあったものの典型的なお坊ちゃん気質で腹が固まらない。思い通りにいかないと拗ねちゃうのです。「こんなお坊ちゃん政治が続いたらたまらない。いつまで経っても話が進まない」と思ったと思います。そこにいたのがこれまた任侠の親分にしか見えない公家にあるまじき目つきの悪さを誇る岩倉具視ですから、「岩倉さん、やっちまいましょう」「こりゃあもう腹を括るしかねえぞ、西郷どん」とアウトレイジみたいになるのは避けられなかったと思います。 結局政治体制改革って、どこかで戦争はしないと収まらないんですよ。 幕末日本が欧米の植民地にならなかった主な理由は「日本にはこれといった輸出品がなかったから」です。江戸時代初期は銀や銅といった輸出品があった(そのおかげで徳川家光は裕福でした)のですが、もう銀も銅も枯渇して輸出品がなかった。おまけにヨーロッパからはファーイーストの最果ての場所で港の拠点としても不要だし、無駄に人が多い。唯一アメリカだけは「太平洋を渡った向こう側で中国にコミットできるじゃん」だったのですが、南北戦争でそれどころではなくなりました。 日本は地下資源がマグマと温泉しかなく、食糧自給もできないほどに土地が狭くて人が多いのです。植民地にしたくなる要素がカケラもないんですよ。

whaihansei
質問者

お礼

ご返答、ありがとうございます。 つまりB、それも清水さんのような人だった、 という訳ですね。 幕末をリードしたのは徳川と薩摩。NO1と2です。 1862年、幕府は海軍力強化のため各藩に蒸気船 購入を促しました。 その結果は、 幕府21隻購入 薩摩18隻購入 でした(長州は4隻)。 徳川は利権派。 薩摩は新興。 慶喜が妥協し「公武合体」を飲めば徳薩新政権が できたはず。 が慶喜はするどころか「四侯会議」を潰しました。 それで薩摩はNO2、3連合を目指しました。 第二次長州征伐では、薩摩が用意した武器で長州は圧勝。 薩摩は「軍事NO1」を自覚しました。 これで政治NO1も取れると。 これが明治維新です。 既に会つており、互いに内戦回避派ですから当然無血開城。 ただ、これ余りにも出来すぎなので質問したものです。 私の回答はCです。

その他の回答 (2)

回答No.2

D;幕末時点で,西日本の各藩には,勤皇・倒幕気運が高く,勤皇家の脱藩・浪士達が,京や江戸などで,過激な対幕・反幕府活動などを,繰り広げていましたが,藩内での弾圧や,内部抗争などにより,最後まで意見などが,バラバラの藩なども,ありましたが,薩摩や長州藩などの,いわゆる戦国時代から続く雄藩では,藩内の結束が,比較的強く,兼ねてからの,反幕・倒幕気運なども高まり,欧米など海外との交流・交易による,最新兵器の獲得などにも成功し,自信があり,京では,開明的な公家の岩倉具視や,~宮熾仁親王(m(__)m)などの活躍も有り,優柔不断で,戦嫌い,権威主義的な,徳川慶喜氏や,幕府の重役などを一掃し,薩・長・土・肥などの西国雄藩達が,立ち上がり,今まで,幕府にないがしろにされていた境遇などの,京の公家衆達と共に,日本を,天皇のもとに一つにし,欧米などの,列強諸国などに,積極的に対抗しようとしたのだと思います..内戦を回避したのは,幕臣の勝海舟氏や,神戸港から東下した徳川慶喜氏,天障院篤姫氏などの尽力が大きいかもしれません..

whaihansei
質問者

お礼

ご回答、ありがとうございました。 ん~ 幕末も関ケ原も同じではないでしょうか。 つまり各藩「二股」。 公武合体を進めた薩摩久光に対し、西郷大久保は 倒幕を進めた。 土佐も公武合体を進めたが、薩長の「倒幕」が 優勢になると、藩内の倒幕派が参戦。 こうして藩の多くは幕末を乗り切った。

  • jkpawapuro
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回答No.1

先週の西郷さんは私まだ見てないんですよね。 D、イギリスに勧められた(そそのかされた) この時代の意思決定の主体が薩摩では西郷なのか小松なのか、イギリスは誰なのか、主語の置き方が難しい時代です。 薩摩の方針転換ですが、これはフランスによる日本の植民地化に強く反応したのだと思います。この時代幕府はフランスに借金をし、横須賀製鉄所・ドック・仏式陸軍など近代化を始めています。(巷間蝦夷地を担保にしたと言われてますがその部分は私はよく調べていません。)この状況は逐一イギリスから警告されたはずです、イギリスとしても日本が自国が食い込むことなくフランスの植民地になるのは面白くないですから。 この外国に借金をさせ近代化というのが列強が植民地化をする常套手段です。開港による幕府の管理貿易もあいまって、薩摩から見ると幕府と藩の力関係をつよく幕府に引き戻すと共に、日本全体が衰退・植民地化して幕府だけ生き延びる構図になります。幕府は第二次長州征討で長州を滅ぼしその領地の資金でさらに近代化をはかるわけですから、第二次長州征討を成功させてしまうと逆らう藩は幕府に力ずくで潰され日本の衰退と幕府の強大化が進むことになるわけです。薩摩としては容認できないでしょう。 さらに歴史上この動きは特になかったわけですが、横浜開港で外国商人により砂糖が江戸にもたらされると薩摩藩の商売が派手に吹っ飛ぶことになります。実際に危機感を感じてたのはほんの数名でしょうが、状況を考えれば藩の存亡をかけてでも放置はできなかったでしょう。

whaihansei
質問者

お礼

お答え、ありがとうございます。 当時の人が植民地化への危惧を持っていたのは やむをえないものでしょう。 しかしながら客観的には以下の理由から不可能 だといえるのではないでしょうか。 1)日本は武器が劣るものの軍事大国であり   植民地化は容易ではない。 2)当時最強の英国が「インド経営」を始めた   ばかりであり、もはやアジアでの植民地化   には限界が来た。   仏も東南アジアで手一杯。 >幕府は第二次長州征討で長州を滅ぼしその領地の資金で >さらに近代化をはかるわけですから、第二次長州征討を >成功させてしまうと逆らう藩は幕府に力ずくで潰され >日本の衰退と幕府の強大化が進むことになる と幕府が考えたとしても、それは「薩摩」がいることが前提。 ここで一つの事実をお知らせします。 1862年、幕府は海の守りを強化するため、各藩に海軍力 強化を奨励します。 この結果は以下です。 幕府21隻強化 薩摩18隻強化 長州 5隻強化 つまり薩摩の力は幕府並みということ。 更には薩英戦争で英国に近づいた結果、アームストロング砲等 最新兵器を購入。 そして薩長密約でこれを用いた長州は幕府軍を圧倒したので、 薩摩は軍事NO1を確認したものです。 あとは政治NO1を手にいれるだけ。 それが朝敵長州が動けない「倒幕」策だと思われるのです。 公武合体派だった岩倉は尻馬に乗ります。公家のNO1を 目指し。 結局のところ幕末は関ケ原に変わらず、各藩は二股を掛け 生き残りを模索。 当初は「公武合体」を支持し、薩長が天皇を握るや「倒幕」。 公武合体を根強く進めた土佐も藩内の倒幕派がすぐ呼応。都合の よいこと。 なお大河ドラマは西郷どんをよく見せようとしているので 史実とは異なると思います。

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