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細川忠興について
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細川忠興 (1563-1645) 1通称与一郎。越中守、従四位下・参議。三斎と号し、利休七哲の一。 2足利義輝の命により、将軍御供衆細川輝経の養子となる。父が信長に従うと側近く仕え、天正五年、弟興元と共に松永久秀の属城河内片岡攻めに功名をたて、信長の感状を得た。 3天正六年、信長のはからいで明智光秀の女(ムスメ)玉(タマ:ガラシヤ)を室とした。本能寺の変が勃発すると夫人を丹後三戸野(ミトノ)に幽閉、岳父の誘いに乗らなかった。4関ケ原の役に際し夫人は石田三成の大坂入城命令を拒絶して自刃、東軍に属した忠興は、戦後、豊前中津(のち小倉)三十九万九千石に栄進。 5参照URL 細川忠興の紹介 http://tikugo.cool.ne.jp/osaka/busho/hosokawa/b-hosokawa-tada.html 細川忠興とガラシャ玉 http://www.shigin.com/room/hosokawa_garasya.htm 田辺城動乱 http://kammuri.com/special-2/tanabe/douran.htm
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長ったらしい文章を、読まなくても済みそうです。ありがとうございました。