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何故、一橋治済は徳川宗尹の四男なのに後を継げたのか

徳川(一橋)治済は徳川宗尹の四男だったのに、何故、徳川宗尹の後を継いで、一橋家2代目当主になる事ができたのでしょうか? 徳川治済の実母が、徳川宗尹の正室だったからでしょうか? 「徳川宗尹の長男が養子に出された。」と聞いた事があるのですが、何故、長男が養子に出されたのでしょうか? 実母が側室だったとかいう理由でしょうか? 謎に感じます。 何故、徳川宗尹の四男の徳川治済が、宗尹の後を継いで一橋家2代目当主の座についたのでしょうか?

noname#227914
noname#227914
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  • jkpawapuro
  • ベストアンサー率26% (812/3030)
回答No.5

一橋家というのは家格こそは御三家の次ですが、独自の領地や藩組織を持たず幕府から10万石相当の賄いを与えられてるに過ぎません。 一方福井藩は32万石だったかな?会津と並ぶ御家門藩の筆頭ですのでこれは左遷ではありません。 御三卿のいい点など家格の高さと将軍に継嗣が居ない場合の順位が高いだけですので、家重健在でしかも吉宗の覚えめでたかった自慢の家治がいる状況からしたらむしろ栄転といえるかもしれません。 あと御三卿の作られた役割って実質的なところは吉宗が家康血統を自己の血統に塗り替えるためのものです。そう考えると全国の雄藩に御三卿血統を送り込むことこそがそもそもの彼らの役割とも言えます。 穿った見方をすれば、田沼意次が徐々に権勢を持ち始める時期ですので、江戸で元気で政治に口出ししかねない御三卿はうざいので片っ端から諸国に出してしまえって発想もあったかもしれません。まだ田沼意次のせいにするのは早いかなあとは思いますが、似たようなことは幕閣なら思うでしょうから、そんな意図もあったかもしれません。

回答No.4

すいません m(__)m 三番目の回答者です..Web上で調べますと,徳川治済氏の母親は,兄の,徳川重富氏の母親と同じ,細田助伊右衛門義時 ? 氏のようです..身分的には,私が挙げた,細田丹波守時行氏等の,旗本よりも,低いようです..遊歌というのは,おゆかの方のことのようです..失礼しました m(__)m 。

回答No.3

徳川治済氏の長兄は,越前松平家の,福井藩の藩主として出向していますが,越前松平家の福井藩自体も,もともと,徳川将軍家にとっても,縁戚筋の,近しい間柄などの雄藩ですので,徳川家御三卿の一つの,一橋家から,養子に行ったのでしょうが,徳川治済氏の,長兄の母親は,一条家の女性で,いわゆる,公家だと思われますので,普通に考えると,一橋家の正室扱いなどだと思われます..しかし,越前福井藩の藩主として養子に行った長兄が,16歳で早世した為,次の兄(三男か)が,亡くなった,長兄の養子に入り,越前福井藩主となっているようです..この三男の男性の母親は,遊歌と言うらしく,多分,身分的には,あまり高くない女性だったような気がします(遊び女だったかどうかは わかりませんが)..母親の出自が,細田氏とある,徳川治済氏の母親の,おゆかの方という女性よりは,身分が低かった可能性もありますが,とにかく,亡くなった長兄の養子として,三男の方は,越前福井藩の藩主になっています..徳川治済氏の母親の出自が,細田氏ということですが,Web上では,徳川将軍家の,旗本の,勘定奉行に,細田丹波守時行(時以の息子)氏という方も,おられるので,もしかすると,そちらの細田氏関係の方かもしれませんし,とりあえず,順番的に,父親の跡を継いで,一橋家の後継者となったのが,四男の,徳川治済氏だったようです..ちなみに,徳川治済氏の弟の,一橋家五男の男性は,福岡黒田藩の藩主として,出向しています..当時の徳川将軍家の方針などでは,基本的に,徳川宗家を継ぐのは,よっぽどのことがない限り,いわゆる,御三卿には,順番が,回って来なかったようですので,四男の,徳川治済氏が,一橋家の当主になったとしても,おかしくは,なかったのかもしれません..御三卿出身の男性が,当時,徳川将軍家の,将軍職などを継ぐことは,一応,想定外だったことを考えると,徳川治済氏の息子が,徳川将軍家の,将軍職などを継いだのは,かなり,意外な展開だったのかもしれません..

  • ithi
  • ベストアンサー率20% (1960/9577)
回答No.2

vvyojdkt さん、こんにちは。 兄二人(長男と3男)は越前藩主として養子に出されたからです。また兄仙之助(次男)一人は早世したためです。重富は妾腹ですが、重昌は正室の息子ですから嫡子同然でした。仙之助もおそらく、名前から側室の子であったと思います。 一橋宗尹 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%AE%97%E5%B0%B9 松平重富 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%B9%B3%E9%87%8D%E5%AF%8C 松平重昌 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%B9%B3%E9%87%8D%E6%98%8C

  • chie65535
  • ベストアンサー率43% (8522/19371)
回答No.1

>徳川治済の実母が、徳川宗尹の正室だったからでしょうか? 違います。 >「徳川宗尹の長男が養子に出された。」と聞いた事があるのですが、何故、長男が養子に出されたのでしょうか? 松平重昌が松平家に養子に出されたのは、第9代将軍、徳川家重の命令です。将軍には逆らえません。 >実母が側室だったとかいう理由でしょうか? 違います。 >何故、徳川宗尹の四男の徳川治済が、宗尹の後を継いで一橋家2代目当主の座についたのでしょうか? 宗尹が亡くなった時点で「四男の徳川治済しか残ってなかった」からです。 寛延2年(1749年)12月に松平宗矩が亡くなったため、養子だった松平重昌が福井藩当主になります(この時点で、長男の重昌は一橋家を継ぐ事は出来なくなる) 宝暦8年(1758年)3月に松平重昌が16歳で病死したため、実弟の松平重富が松平家の養嗣子(家督を継ぐための養子)となり、松平重富が福井藩当主になります(この時点で、三男の重富は一橋家を継ぐ事は出来なくなる) 二男の仙之助は若くして亡くなっていますので、この時点で、残っている男子は「四男の徳川治済だけ」です。 つまり宝暦8年(1758年)の時点で、治済は、徳川一橋家の嫡男(一橋家の次代の当主予定者)になったのです。 一橋宗尹が亡くなったのは明和元年(1764年)ですから、嫡男(一橋家の次代の当主予定者)である治済が一橋家を継ぐのは当たり前です。 長男の松平重昌は既に死んでいるし、既に福井藩主になっている松平重富に対し「一橋宗尹が亡くなったから一橋家に戻って来い」とは言えないのです。

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