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古文書で橋料とは

Kittynoteの回答

  • Kittynote
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回答No.4

御質問フレーズ2箇所と石高は一致すれど名称に僅少差ありですが、 概ね下記(1)『玉露叢 卷第三十六』「一、所々橋料の事」と 下記(2)『鹽尻 卷之四十九 正德』「五大官橋」と一致しますので、 出所は違うかもしれませんが、元々は同源の可能性が高いように思います。 よって古い方の『玉露叢』を前提にお話を進めさせていただきます。 『玉露叢』は1674(延宝2)年の序&1598-1681(慶長3-天和1)年の編年史とそ の他とで構成された記録で、林鵞峯著との説もあるようですが作者は定かで はありませんが、1674-1681年頃の江戸前期の記述であることが 1つ目のポイントです。 (1)『国史叢書/国史研究会編/国史研究会/大正6.6.28』 〇「玉露叢 卷第三十六」 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/3441753/155 <155-156/230>(293頁12・13行目-294頁1行目) 一、所々橋料の事 五千石 淀橋料 二千石 伏見の京橋料  一萬石 三州岡崎の橋料長さ京間二百八間 三千石 吉田橋料  五千石 江州瀬田大橋長さ九十六間・小橋長さ三十九間 (2)『塩尻:随筆.上/天野信景/帝国書院/明治40.6.30』 「鹽尻 卷之四十九 正德」 ※天野信景、1697年頃から1733年迄執筆。※ http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991406/401 <401/422>(790頁下段20行目-791頁下段2行目) ○五大官橋 山城国淀[橋料秋米五千石]  同國伏見[京橋料米二千石] 江州瀬田[橋料秋米?千石?]  三州矢作[橋料秋米一萬石] 三州吉田[橋料秋米三千石] 此外武州六郷の大橋今はなし…(以下省略)… 「淀橋料」は「淀大橋・小橋・孫橋」のどこまでを含むか曖昧ですが、 5つの橋々は何れも官橋いわゆる「公儀橋」ですから、 これが2つ目のポイントです。 続きまして、上記5つの橋々とは直結しませんが、 下記(3)によれば、享保期に幕府費用で直接維持管理を行っていた江戸の橋 のかなり多くを町(民間)の管理に切替えた事と、幕府が直轄で管理する御入 用橋の大半を一定金額で民間委託したことなど江戸の橋に対する政策に大変 革があり、また老朽化した永代橋は現状のまま民間移譲されたものの、架け 替えが不可避ゆえ、享保6年(1721)から10年間限定で武士を除く通行人から 1人あたり2文づつ徴収したいとする願が奉行所に出されたものの、下付し たときの条件では町方の責任で橋を維持するはずとして、この時の橋銭の徴 収は許可されず、後に架け替え費用の全額を町々に負担させるのは困難と判 断した幕府は享保11年(1726)5月から7年間に限り、武士を除く通行人から 1人あたり2文を取ることを許可、また元文元年(1736)から10年間1文づつ の取立てが認められたなどとあります。 ・公益社団法人土木學會>土木学会学術論文等公開ページ> 土木史研究講演集 https://www.jsce.or.jp/library/open/proc/maglist2/00902/2004/mg01.htm (3)〇「松村博/享保期における江戸の橋の民営化について/24/2004 9-16」 http://library.jsce.or.jp/jsce/open/00902/2004/24-0009.pdf 上記からは、享保年間の江戸中期に至っては大変革があったとは言え、 民間移譲後の橋ですら橋銭(通行料)は限定的に許可されていたに過ぎず、 また、手元の電子辞書の『角川日本史辞典』【橋銭(はしせん)】には、 「…(前略)…近世でも行われ、江戸隅田川の両国橋、新大橋、永代橋などは 18世紀に橋の維持が町人の請負となり、通行人から橋銭が徴収された。」と あって、前記(3)とも概ね一致します。 あと、江戸期に限れば、橋の通行料は、「橋銭」「橋渡銭」「渡銭」表記が 多く散見されますが、管見ゆえか「橋料」は見出せません。 どうやら、徳川政権下での公儀橋の「橋銭(通行料)」は享保年間からの様子、 これが3つ目のポイントです。 1つ目(江戸前期)、2つ目(公儀橋)と3つ目(橋銭は享保年間以降)のポイン トから、少なくとも江戸前期の公儀橋は、創架当初の大名負担とか有力商人 などの献金までは否定しませんが、基本的には幕府の費用負担で架橋・維持 管理・修復が行われていたものと考えられます。 個別具体的な5つの橋々の何れかの情報が得られればベストですが、 残念ながら事は上手く運びません。一般論としてなら下記(4)には、 「近世伏見の橋は、その管理体制から幕府が直接維持管理にあたる公儀橋と、 近隣の町々が管理する町橋に分類される。公儀橋の維持管理は「公儀支出即 ち官費に於て修繕若しくば架替をなす」(京都府紀伊郡役所編・伏見町役場 編:京都府紀伊郡誌・京都府伏見町誌、臨川書店、p.259、1972.12)と、 原則は町奉行が行うことになっていたが、日常の管理は橋掛り町と呼ばれる 橋筋の町々に義務付けられていた。その内容は、橋及び橋詰、そして河岸の 管理・清掃、洪水時の監視、橋破損の通報、小補修、橋付近の捨て子や行倒 れ人の処置など様々なものがあった。」とあります。 ・『土木計画学研究・論文集 Vol.19(2002)』(P331-338) (4)「京都伏見における水辺の近代化に関する研究/田中尚人・川崎雅史」 https://www.jstage.jst.go.jp/article/journalip1984/19/0/19_0_331/_article/-char/ja/ <2/8> 以上から、享保年間以前の江戸前期の公儀橋では、橋銭(通行料)とその積立 は考え辛く、また仮に町役・村入用の内の積立金としても、一箇所の橋の維 持管理費としては維持の程度にもよるとは言え、明らかに金額が多過ぎるよ うに思います。 よって消去法でいけば「架橋料」に落ち着きそうですが、果たして 架橋料には請負などの工賃以外にも木材等材料費(幕府が木材等現物支給し た場合には、その評価額)を含むか否かの問題が残ります。 ただ、5つの橋々何れも石高が千石単位で表記されていますから、 大雑把な数値に過ぎない事は確かなようです。なので下手すれば例えば 下記の如く、五大官橋限定の単なる見立番付の可能性もゼロとは言えません。 ・『大日本国橋見立相撲』 http://www.wul.waseda.ac.jp/kosho/wo06/wo06_3145_57/ 5つの橋々の何れかの架橋料内訳を見出せればと彼方此方あたりましたが、 残念ながら現状WEB上では見出せません。 あと残された方法は、 江戸限定とはいえ橋梁情報が集積された下記(5)(6)等から架橋料内訳を 抽出して、場合によっては江戸前期と中期・後期との貨幣価値の換算なども 含め、推し測る程度しか思い浮かびません。 (5)・『東京市史稿.橋梁篇第一/東京市編/東京市/昭和11.11.30』 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1915626 (6)・『東京市史稿.橋梁篇第二/東京市編/東京市/昭和14.10.31』 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1915642 諸事情により一旦失礼致しますが、次回投稿には少し時間を要しそうです。 以上 ここまでで少しでも疑問解消の糸口に繋がれば幸いです^^

hyoro37
質問者

お礼

NO.5共々有り難うございました。

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