• ベストアンサー

聖ペテロってどんな神様ですか?

聖ペテロってどんな神様ですか?

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
  • kagakusuki
  • ベストアンサー率51% (2610/5101)
回答No.2

 聖ペテロとはキリスト教の聖人で、十二使徒と呼ばれるイエス・キリストの12人の高弟の筆頭である「シモン」(シモン・ペテロ)に対する尊称です。  シモン・ペテロはイエス・キリストから「天国の鍵」を与えられた事により、人類に対する神の御意志を代行する「地上における神の代弁者」と見做される様になった人物で、ローマカトリックの中では、ローマカトリックの法王はそのシモン・ペテロの後継者と見做されています。  キリスト教では神様は天におられるヤハゥェ(エホバ)ただ1柱だけであり、ヤハゥェと一体の存在であると見做されているイエス・キリストを別にすれば、例え聖人と呼ばれる様な人物であっても神様と考える事は間違っています。  聖ペテロはあくまで人間であって、神様ではありません。 【参考URL】  ペトロ - Wikipedia   https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9A%E3%83%88%E3%83%AD

japanway
質問者

お礼

みなさん回答ありがとうございます

全文を見る
すると、全ての回答が全文表示されます。

その他の回答 (1)

  • akiye2
  • ベストアンサー率27% (160/573)
回答No.1

ペテロはキリストの弟子であったとされる新約聖書の人物です。 後の人が聖人としただけで神でも何でもない。 聖人と使うのはローマカトリックとギリシャ正教のみで、 プロテスタントは聖人というのはない。

全文を見る
すると、全ての回答が全文表示されます。

関連するQ&A

  • ペテロとパウロについて

    ペテロとパウロについて A,D 1Cごろ、ペテロやパウロらの使徒がユダヤ教からわかれ、新しい宗教を形成したのはなぜか 前期中間試験にでる論述問題です!知ってる方やペテロならパウロなら知ってるなどどんなことでもかまいません。すぐに教えてください!

  • 「ペテロが岩を叩くような」

    「ペテロが岩を叩くような」という表現を見たのですが、どういう意味なんでしょうか? 「モーゼが岩を叩く」という記述はあるように思うのですが... よろしくお願いします。

  • イエス様とペテロ様

    ペテロ様が弟のヤコブ様と一緒にお父様を置き去りにし仕事を放り出してイエス様について行かれたことをどう思われますか?

  • ペテロという男がサンマをとっていた

    イエスが浜辺にやって来ると、ペテロという男がサンマをとっていたのでしょうか

  • キリスト教徒のペテロについての質問です。

    キリスト教徒のペテロについての質問です。 A、D、1C頃 ペテロやパウロらの使徒がユダヤ教から分かれ、新しい宗派を形成したのは何故か? 上記の問題が前期中間試験の記述問題で出ます。 パウロが改宗した理由はいろいろな所に書かれており、分かりました。 しかしペテロについての資料がなかなか見つからず、困っています。 ペテロもパウロの様に、何かきっかけがあって改宗したのでしょうか? そうなのだとしたら、そのきっかけについて詳しく教えて下さい。 自分でも諦めずに調べたいと思っているので、その事について書かれている良い資料等がありましたら教えてくださると嬉しいです。 よろしくお願いします。

  • ボードレールの詩 《聖ペテロの否認》

     かれは何を言おうとしていたのか? これを問います。  たたき台として:  ◆ 聖ペテロの否認 Le reniement de Saint-Pierre ~~~~  神には天使たちの受けた抗議の電話が届いていないのか。  セラフィームたちは 今や来る日も来る日も汗だくで応対しているではないか。  まさかこのわれわれの咎めの電話が鳴っても 子守唄にちょうどよい  などということはあるまいに。  ひょっとして いやまさか 神はたらふく食って飲んでご満悦だ  というわけはあるまいに。  あのイエスにしたがい人びとは  次から次へと死地に追いやられるわ刑罰を受けるわ。  この人たちのすすり泣く声も 父なる神には持って来いの調べなのか。  それでも一向に動く気配は見当たらぬ。天使たちもよく見ると澄ましたものだ。  たしかに人びとは神を愛していた。そりゃあ勝手に愛したのさ。  それにしてもイエスよ。あんたはあのオリヴの園で  神なる父に懇願していたぢゃないか。  そのあとあんたにははりつけの釘が待っていた。  こんこんと打たれる釘の音もむろん父なる神には心地よい音色であったとは。  あぁ きみはローマ兵らにつばきを吐きかけられていた。  吐きかけられるにまかせていたきみは ばかか。  あたまにかぶせられたいばらのかんむりも  ちっとはとげが刺さったかい? 痛かったかい?  神の子ったって 人の子だろうよ。  やがて腕が血を流してだらりと垂れ下がって来た。  くしゃんとからだが縮こまった。  見ろよ まだ生きていらぁ。汗を吹き出させて生きていらぁ。  だったらみながさげすみの心を向けておまえを見ているのが分かるだろ?  おまえはあの棕櫚の主の日にろばに跨って入城して来た。  その歓迎を受けた日のことがかえってうらやましいか。  国中の棗椰子の枝が道端に並び振られていた。  あの華々しきついこのあいだの日がうらめしいか。  あるいはその前には喜び勇んで おまえは神殿で  物売りたちを咎めていた。鞭まで振り上げて。  ようやく独裁者になったと思ったか。そのことも  悔やみの種か。それがいま磔で槍が突いた脇腹の痛みよ。  そうだろう? 夢のやぶれたキリストなんておいらはおさらばさ。  あんたが逝ってしまうのならおいらはつるぎを振りかざして人をころし  あんたから地獄行きの宣告をいただくほうがましさ。  あのペテロもあんたをあのときは裏切ったではないか。三回も。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ かれは割り合いにしてかなりキリスト者であった。字面に似合わず そうなのではないか? 質問者としてはこう問うています。さしづめ《神の沈黙(――沈黙する神 あるいは 隠れたる神(デウス・アブスコンディトゥス)――)》といった主題でしょうか?  資料:  ▲ 原詩および英訳二編: FleursDuMal.org   《 Le reniement de Saint-Pierre 》    http://fleursdumal.org/poem/189   ただし 一つ目の英訳に文字化けがあります。    ○ naïveté ・・・ x naヤveté    ▼ 日本語訳:お手数ですが 次の論文のpp.33-35を参照してください。   ・松本勤:ボードレール「聖ペテロの否認」について   Le Reniement de saint Pierre de Charles Baudelaire   http://doors.doshisha.ac.jp/webopac/bdyview.do?bodyid=BD00011366&elmid=Body&lfname=kj00000128910.pdf  ☆ 聖書ないし神学にかかわっていますので 文学あるいは言語のカテではなくここで問います。  取り敢えず問い求めをすすめるという出で立ちで立ち上げました。必要なことがらなど出て来ましたら そのつど対処してまいります。分からないところや出来ないことがあった場合には そうお伝えします。  たたき台の自由訳ぶりを上回るいっそう自由ないろんな感想もどしどしお寄せください。

  • 神は信じるものではない、神は感じるものである

      万物の根源、宇宙の法則、アルケーの神は申された。 「ここにいるあなたがた皆に言っておきます。 あなたがたは神を信じようともがいても無駄である。 神を信じようともがいたところで決して神を信じることは出来ないのである。 何故なら神は信じるものではなく、感じるものだからである。 だから神を感じることが出来ないのであれば、なおのこと神を信じることなど出来るはずはない。 あなたがたは神を信じようともがいている限り、神が何かまるで分かっていないのである。 神が何かも分からずその神を信じようとしている。 何かも分からぬ神を信じることが出来るわけがない。 あなたがたは神が何かまるで分かっていないのである。 それが故にあなたがたは神を信じようなどと愚かなことを考えるのである。 神が何であるかまず知りなさい。 ここにいるあなたがた皆にはっきりと言っておきます。 宇宙の法則が神である。 そして万物の根源、宇宙の法則、アルケーを除いて如何なる神も存在しないし、また存在し得ないことを知りなさい。 そうすれば神を信じようともがく必要はなく、神を感じることができるようになるのである。」 アルケーの神はこのように申された。 それでもあなたがたは神を信じようと願いますか。    

  • 神のことばと、そうでないことばの違いは何か?

    聖書に詳しい方への質問です。 一般的に聖書に書かれている記述のみが神のことばと認識されていると思いますが、 自分はこれについて疑問に思っています。なぜならば、ヨハネの福音書の最初にもあるように、ことばは万物の始まりであり、これに基づけば私達が普段使っていることばも神に由来すると言え、ことばは全て神のことばになるとも考えられるからです。 また普通のことばが神のことばとなる転機は、ちょうどキリストを信じるように、信仰による神との聖約によって完成するのではないかと推測しています。ですから傍から見て神のことばと思えないものも、信じる者の信仰によって実質的には神のことばとなるのではないかと。すなわち神のことばと、そうでないことばの違いは信仰だと言えるのです。どうでしょうか? ちなみに自分は、聖書に書かれている御言葉は全て真実と信じる、いわゆる福音主義に立つクリスチャンです。また主の導きにより、現代でも特定の人物に対して神のことばを与える、いわゆる預言があるとも信じています。ですからここで書いていることばも、自分ではなく神の導きによる預言だと信じています。こういう訳で、自分の行っていることは、単に主の考えを反映している以上、第二ペテロの手紙1章20節で記されている、人による聖書預言への私的解釈には該当しないとも思っています。

  • 神が何かも分からず、神に祈ることはできない

      神が何かも分からず、神に祈ることはできないはずである。 神が何かも分からず、その神に願うことは無意味である。 神が何かも分からず、その神を信じることは愚かである。 しかし神が何であるか分かれば、これらのことが全て無意味であることが同時に分かるのである。 神は祈るものではない、神は何かを願うためのものでもない、ましてや神は信じるものではないのである。 何故なら神は宇宙の法則だからである。 有瑠慶此即宇宙法則 そして宇宙の法則は永遠不変だからである。 有瑠慶此即恒常不変 なぜ宇宙の法則は永遠不変なのか。 それは宇宙の法則は完全無欠であり、正しいが故に変わる必要はないからである。 だから神に祈ること、神に願うことは一切無駄である。 有瑠慶非信非拝非願 神は信じるものではなく、感じるものである。 有瑠慶可能感可能解 神に祈っても神に近づくことは出来ない。 唯一つ真理の探求によってのみ神に近づくことが出来るのである。 そして神を感じることが出来るようになるのである。 神が何かも分からず、その神に祈ることは無意味である。 それでもあなたがたは神に祈りますか。  

  • 有る神も無い神も同じである

      ある人の考え。 神は考えるものではないとゆー。 神についての一切の説明は無意味であるとゆー。 神についての一切の例えは無意味であるとゆー。 神についての一切の教えは無意味であるとゆー。 神は一つであるとゆー。 全ての神は同じものであるとゆー。 イエス・キリストもアラーもイワシノアタマも全て等しく同じであるとゆー。 神はあろーがなかろーがこれもまた同じであるとゆー。 有る神も無い神も等しく同じものであるとゆー。 果たして神については有も無もなく皆同じなのか。