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信長と家康と長政について

長政の金ヶ崎での裏切りについてですが、裏切りの理由の一つに信長の家臣のような扱いに不満を抱いていた、とネットでたまに目にするのですが、何かソースでもあるんでしょうか? また、家康についてですが、清洲同盟以降、信長と家康は対等な同盟を結んでいましたが、天正十年の安土訪問の真意は駿河拝領の為で、それは事実上、信長に臣従を誓った、とあるのですが、これについてはどう思いますか? また、臣従を誓っていたなら、なぜ清洲会議に参加しなかったのでしょうか? (信長にだけ臣従を誓い、信忠には臣従を誓っていないから←これはちょっと納得いきません) 最後に、金ヶ崎での長政の裏切りですが、その理由は何だと思いますか?私の知っている範囲では、 (1)朝倉との友誼を重んじた (ハッキリ言ってコレはないと思っています。朝倉浅井同盟の存在すら疑問視されていると聞きます) (2)浅井領が織田領に囲まれる事を恐れた (コレは個人的には正しいのではないかと思っています) (3)家臣扱いされたのが気に食わなかった (4)久政ら重臣に押し切られた (コレもアリかと思います。確か浅井というのは京極を追い出した後の国人衆の集まりのトップだった、というだけで、他の大名家に比べれば当主としての発言力は弱かったと聞きます。ただ、長政納得の上での出兵だったのではないかと個人的には思います) (4)気づいたら信長を倒せる好機だったので、戦国大名としての血が騒ぎ、出兵した。 その他あったら教えて下さい。 また、朝倉征伐と金ヶ崎の退き口の際、若狭の動きはどうだったのか教えて下さい。(幽閉中の武田元明含め) 分かる点だけで構いませんので、ご教授、よろしくお願いします。

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回答No.1

浅井長政は「ミニ信長」と言われる人物で その聡明さや先見性において信長が信ずるに足りると踏んだ人物だからこそ わざわざお市まで嫁がせて姻戚同盟を結んだわけです じゃなきゃ浅井なんかさっさと踏み潰して畿内に侵攻していますよ (2)は無いと思います 信長と長政の同盟は「単なる同盟」ではありません 弟のように可愛がっていた家康との同盟でさえ「お市」は使わなかった 信長が生涯で信用(心を砕いた)した人物は 斉藤道三、浅井長政、明智光秀の三人だけと言われています 仮に織田領が浅井領を囲んでも信長は滅ぼさなかっただろうし むしろ近江一国ぐらい与えたと思いますが? 家康と信長はあくまで同盟者 臣従を誓ったとは言え織田家の家臣となったわけではありません ちなみにのちに秀吉に頭を下げますが このときは「豊臣家の家臣」となっています 織田家の家臣でもない家康が清洲会議に出る資格はあませんがw (織田の家臣だった滝川一益ですら厩橋で敗走して会議に出れなかったのにw)

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