• 締切済み

薩摩藩の門割制度について

私の苗字のルーツを調べるために農村の門の所在地について調べています。門の一覧など薩摩藩の資料がわかるものがあるのでしょうか?どなたか教えてください。

  • 歴史
  • 回答数1
  • ありがとう数1

みんなの回答

  • ithi
  • ベストアンサー率20% (1960/9577)
回答No.1

syouzirou さん、こんにちは。 県立図書館かどこかで鹿児島県史などを閲覧することをお勧めします。一応、私も下記のURLを探しました。参照ください。 門割制度 http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/965603/18 鹿児島の姓 http://wiki.chakuriki.net/index.php/%E3%81%82%E3%82%8A%E3%81%8C%E3%81%A1%E3%81%AA%E5%A7%93/%E9%B9%BF%E5%85%90%E5%B3%B6

syouzirou
質問者

お礼

ithiさん ありがとうございます。 図書館でいろいろ調べてみます。

関連するQ&A

  • 幕末・薩摩藩の小説や資料など教えてください

    こんばんは。 わたしはずっと新選組や会津藩が好きで、薩長が嫌いでしたが、最近西南戦争のことを知って、過去、薩摩を嫌っていた自分が信じられない位に薩摩藩のことが好きになりました。 そこで、戊辰戦争の頃の薩摩藩側の小説を読んでみたいと思うのですが、薩摩藩全体のことが書かれている作品ってあるのでしょうか。 特定の人物が主役になっている作品(西郷隆盛や大久保利通など)の物でも、いろんな薩摩藩士が登場して活躍する物ならぜひ読んでみたいです。 戊辰の薩摩のことが書かれていれば資料集の類といったものでもかまいません。知っておられる方、ぜひお教えください。

  • 薩摩藩 嶋津について

    色々と調べても分からなかったので質問します。 最近、歴史に興味を持ち些細なことかもしれませんが 凄く気になっていることがあります。 それは薩摩の殿様の苗字のことです。 私の認識では『嶋津藩』なのですが色んな場所で 『島津』になっているのは何故なんでしょうか。 山ヘンに鳥が正しいと思っているので何時頃から 本来の『嶋津』から『島津』となり何故なのか教えてください。 お願いします。

  • 藩士から見たら郷士も農民?

    長島尉信は名主で郷士の家、出身の土浦藩士がいますが、名主ということもあって、農民という目で見られたのか分かりませんが、農村出身ということで、馬鹿にする藩士もいたそうです 名主で郷士なら名字帯刀を許されたわけですが、他の藩の藩士も農村の農民出身という馬鹿にした感じで見るかたもいたのでしょうか?

  • 薩摩の琉球王国侵攻について

    薩摩による琉球侵攻についてですが、 ・なぜ薩摩は琉球に侵攻したのか。 ・侵攻による利益,不利益は何か。 がわかりません。ぜひご教授いただければと思います。 そして、 ・現在につながるもの、遺跡....etc.... なども紹介していただけると助かります。 よろしくお願いします。 -------------------------------------------------------------- 最後に、一応・・・・・ 以下、wikiのコピペ 薩摩による琉球侵攻 16世紀後半、豊臣秀吉が明とその進路にある李氏朝鮮を征服しようとし、琉球王国に助勢を命じたが、明の冊封国であったため国王は一旦拒否した。しかし、実際に文禄・慶長の役で日本が朝鮮半島に攻め込んだ時には、琉球は日本軍に食料を提供し、日本軍の兵站の一部を担った。 1609年(琉球暦万暦37年・和暦慶長14年)、薩摩藩の島津氏は3000名の兵を率いて3月4日に薩摩を出発し、3月8日には当時琉球王国の領土だった奄美大島に進軍。3月26日には沖縄本島に上陸し、4月1日には首里城にまで進軍した。島津軍に対して、琉球軍は島津軍より多い4000名の兵士を集めて対抗したが敗れた。4月5日には尚寧王が和睦を申し入れて首里城は開城した。 これ以降、琉球王国は薩摩藩の付庸国となり、薩摩藩への貢納を義務付けられ、江戸上りで江戸幕府に使節を派遣した。その後、明を滅ぼした清にも朝貢を続け、薩摩藩と清への両属という体制をとりながらも、琉球王国は独立国家の体裁を保ち、独自の文化を維持した。琉球王国が支配していた奄美群島は、薩摩藩直轄地となり分離されたが、表面上は琉球王国の領土とされ、中国や朝鮮からの難破船などに対応するため、引き続き王府の役人が派遣されていた。

  • 会津藩について

    会津藩ってよく悲劇だの、義、会津魂や徳川家に最後まで忠誠だっただと会津藩って美化されすぎていませんか? 戊辰戦争での会津戦争って初めは 「会津藩は恭順していたけど、新政府軍から無理やり攻められたから仕方なく戦った」というのを聞いたのでそれを調べもせずに信じてたのですが、いろいろ調べると実際は会津藩側にも問題が ありますよね。朝命に従い軽装して京へ行こうとする慶喜に対して興奮する会津藩、桑名藩、旧幕府軍が薩摩を成敗することを慶喜に求めて、抑えられなくなった慶喜が攻撃を許可して会津藩、桑名藩、旧幕府軍は武装して京へ進軍。新政府軍の薩摩に説得されて薩摩に寝返る藩もいたために、旧幕府側は敗北。 旧幕府に味方した藩や慶喜は朝敵に。ただしすぐに恭順すれば、寛大な処置で済むように告げると桑名藩や旧幕府に味方した藩は恭順、大阪城にいた慶喜も完全恭順を決めて、開戦責任について謝罪、家名を残して欲しい、会津藩や桑名藩含めた家臣を許して欲しいと謝罪。しかし、会津藩だけは自分たちは無罪だと主張。容保は当時、慶喜と一緒に大阪城に逃げていたとはいえ、会津藩の藩主として責任を問われて出頭命令を新政府軍が出すも それに応じず。新政府軍は会津討伐を決定するも、今からでも謝罪すれば、寛大な処置もあり得ると会津藩に求めたものの、会津藩は謝罪拒否の返事を出す。 会津藩は天皇に対して恭順を示すも、新政府軍の権威は認めていませんでしたし、裏では不審な行動ばかりをとっていて、他の藩に嘆願運動を頼んでおきながらも自分たちは戦争のために庄内藩と同盟を結んでいます。最終的には会津藩が新政府軍の占領地を奇襲したことで会津戦争が始まってます。会津藩側にも降伏派はいましたが、会津藩の抗戦派に藩主の命だと嘘を言われ多くが切腹しています。 当時の会津藩には降伏の文字はなかったというのもはっきりわかっています。戊辰戦争研究家も会津藩側の書類には一切謝罪 や恭順の文字がなかったと言っています。 池田屋事件についても志士側の京都の火の海計画である「祇園祭の前の風の強い日を狙って御所に火を放ち・・・」というのも これは今の研究では新選組による陰謀の可能性が高い事が わかっています。 新選組の行動の辻褄が合わないようです。また志士側の 持ち物にもそのような道具はなく、木戸の日記にも 仲間を救出するためとあります。 京都の観光サイトだと京都に長年住んでいる人からしたら 祇園祭の前に強い風が吹く事がありえないことくらいわかるから 無謀な計画。新選組による陰謀だと言っています。 そもそもこの京都の火の海計画って信憑性自体がかなり低いものなんですが、なぜかこれが真実かのように広まっていますよね。新選組は計画を阻止したなんて言われていますが。 2020年に大学講師が新選組が村に分宿「生活に迷惑」 という内容である豪農日記を分析しています。 2013年には会津藩と庄内藩が幕府から防衛のためと言われて譲渡された蝦夷地を担保にしてドイツから軍資金を得ようとしていたのが明らかになっています。北海道新聞にも大きく掲載されました。これって孝明天皇を裏切る行為とも言えますよね。容保は鳥羽の戦が始まった後に、藩主を辞職しているので、容保が関わっているのか、容保が辞めた後に会津藩が勝手にドイツと交渉をしたのかはわかりませんが。脱藩した水戸藩士を使って略奪行為をしたり、戦争のために町民から財産の没収したり、農民に対しては米も奪っています。 容保がいない会津藩は好き勝手やって暴走してるようにも見えます。 あれだけ新政府軍から埋葬を禁止されただのと言われていたのに2016年に会津若松市で戦後の一週間後に政府の命令で埋葬された証拠が出てきています。福島県郡山出身の歴史家の野口さんが言うにはそもそも埋葬が禁止されたとか長い間放置されたなんていう証拠は ないみたいです。小説やエッセーで使われるようになってそれが 広まっちゃったとか。 皆さんはどう思われますか? 別に会津藩自体が嫌いなわけではないです。

  • 海軍の伊地知さんと陸軍の伊地知さん

    日露戦争時 戦艦・三笠の艦長であった、帝国海軍軍人の伊地知 彦次郎 氏と、 乃木大将の参謀長を務められた、帝国陸軍軍人の伊地知 幸介 氏 は、同じ名字で出自も同じ薩摩藩士の家柄でしたが、親戚関係があるのでしょうか? それともただ単に鹿児島県(薩摩藩士)に多い名字なのでしょうか?

  • 苗字の由来

    アンジュルムの上國料萌衣ちゃん。珍しい苗字だと思うんですけどその由来って分かりますか? Wikipediaには「薩摩藩の門割制度を由来とした苗字」と記載がありますけど、もう少し詳しい説明が欲しいです。

  • 幕末の江戸幕府について

    以前より疑問がありましたが、幕末の薩摩、長州、土佐、会津以外の藩は何をしていたかです。 幕末になると上記の藩が多く登場しますが、他藩は何をしていたのでしょうか。例えば、蛤御門の変の時も、長州がどのくらい強かったかしりませんが、なぜ、たった1藩を制圧するのに苦労していたのか。長州征伐も薩摩が参加しなかっただけで、なぜ失敗したのでしょうか。権威は落ちかけていたとはいえ、御三家だけでもかなり力があったかと思います。それ以外にも東北から九州まで沢山藩があったかと思います。どうしてみんなで大軍で攻められなかったのでしょうか。 素人的な発想では、全国から軍勢を集めれば、長州や薩摩が同盟しても勝てそうな気がしますが、なぜそうしなかった(できなかったのでしょうか)また、伊達家も昔から徳川へ敵意を持っていたような気がしますが、彼らも薩摩や長州と同じような行動をとったのでしょうか。などなど疑問が多すぎて書ききれませんが、わかりやすく教えてください。

  • 古写真「新堀町」は本当に芝の薩摩藩邸の建物か?

    『大日本全国名所一覧』にある「新堀町」という題の写真は説明によると芝の焼き討ちにあった薩摩藩邸の北東隅に焼け残った建物とありますが、現在綱坂上の佐土原藩跡にも同じような長屋塀が残されています。同じ角度から撮った写真を見ると同一ではないかと思えてくるのですが、よく古写真の場所の確定が訂正されることがあるので、素人考えで「佐土原藩邸」ではないかとスッキリしません。

  • 江戸時代のお墓のルール

    天領、関東の旗本知行地、関東の藩領ではたとえ農村のお寺であっても 1800年ぐらいまでお墓を建ててはいけない、建てられるようになってからも武士、名主以外 の庶民はお墓に苗字は書いてはダメというルールが存在したらしいです どうして関東はお墓のルールが厳しいのですか? 他の地域では藩によっては、お墓に庶民が苗字を書いてもいいとこもあったみたいです