聖徳太子はただのくそったれ

このQ&Aのポイント
  • 聖徳太子の『十七条憲法』は民主主義の基礎であると言われるが、その内容は疑問がある。
  • 聖徳太子の歌は庶民の和をうんぬんするだけで、実際には権力を握っていたと言える。
  • 聖徳太子は自らの力で敵を倒し、和を尊ぶと言っているが、その背後には無念の歴史がある。
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論文: 聖徳太子は ただのくそったれ

 まづ 憲法とやらを読みます。  ▲ (十七条憲法) ~~~~~~~~~~~  一に曰(い)わく、  (あ) 和(やわらぎ)を以(も)って貴(とうと)しとなし、忤(さから)うこと無きを宗(むね)とせよ。  (い) 人みな党(たむら)あり、また達(さと)れるもの少なし。ここをもって、あるいは君父(くんぷ)に順(したが)わず、また隣里(りんり)に違(たが)う。  (う) しかれども、上(かみ)和(やわら)ぎ下(しも)睦(むつ)びて、事を論(あげつら)うに諧(かな)うときは、すなわち事理おのずから通ず。何事か成らざらん。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  次のように問います。  (1) 最後の一文(う)は いわば民主主義に通じる自由な言論 表現の自由 これを 基礎とすると言っています。まづこれを確認します。明治維新でも 同じく《万機公論》と言いました。    ▼ (五箇条の御誓文)  一 広ク会議ヲ興シ万機公論ニ決スベシ    (2) 次に 同じ最後の一文(う)の中からですが   ▲ 上(かみ)和(やわら)ぎ下(しも)睦(むつ)びて   これについては 眉唾物です。お上つまりお二階さんの論理と目線で ものを言っているといううたがいを拭えません。時代は違いますが われわれは次のような歴史を経て来ています:   ◆ (上田正昭:『日本文化の原点』) ~~~~~~   【直木孝次郎】・・・たとえば七一一(和銅四)年に出された詔(みことのり)に     このころ聞く 諸国の役民 造都に労(つか)れ      奔亡するものなほ多し。     禁ずと雖(いへど)も止まず。   とある。これは・・・労役のために都へ出てきている人民――これが都城建設 道路づくりに使役されるわけですが 生活 労働が苦しいために途中で逃げ出す者が多い。禁止しても止まない。・・・   【上田正昭】 その翌年の正月にも      諸国の役民は 郷(さと)に還へるの日      食糧絶え乏しく 多く道路に飢ふ。     溝壑(こうがく=みぞ)に転びうづまるもの      その類少なからず。   というのが出ていますね。   【直木】 ・・・『続日本紀』つまり 当時の正史に記録されているわけですね。   【上田】 柿本人麻呂も 有名な歌を残していますね。       草枕 旅の宿りに       誰(た)が夫(つま)か        国忘れたる 家待たまくに  (万葉集 巻三・426番)   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~   (3) 先の(2)のうたがいを証拠立てるには 聖徳太子の同じような趣きの歌を見てみれば分かります。   ■ (万葉集 三・415) ~~~~~~~     上宮聖徳太子 竹原の井に出遊(いでま)しし時 龍田山の死〔み(身)まか(罷)〕れる人を悲傷(かなし)びて作りましし御歌一首      家にあらば妹(いも=妻)が手巻かむ      草枕 旅に臥(こや)せるこの旅人あはれ  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   すなわち 人麻呂の歌(426番)では すでに死んだ人に向かって 早く起き上がりなさい ふるさとを思い出し 帰って休みなさいと声をかけています。聖徳ぼんくら太子の歌では ああ かわいそうに・気の毒にとだけ言っています。  (4) たとえば   ▲ (あ) 忤(さから)うこと無きを宗(むね)とせよ。  と言われても 庶民はもともと けんかをしつつも仲間として和をもって暮らしていた。ところへ お二階さんたちが これをパクって 《和を以って》うんぬんと言いだした。  口先だけ庶民のまねをして和をとうとぶのだと言われても けっきょく 人びとよ おれたちには《さからうな》と言っているとしか聞こえません。都合のよいことだけを言っているとしか聞こえません。  (5) 聖徳うすのろ太子は 国を挙げて例の仏教を受容するか否かのとき 崇仏派と排仏派の戦いになり(そう言われています)そこで前者に味方し 後者の守屋ら物部氏を亡きものにすることにたずさわった。そのように敵を倒したあと《和を以ってとうとしと為せ》と言っちゃってもらっちゃってもねぇ。  権力は握った 文句あっか もうおれたちには逆らうなとのたまわっていらっしゃいます。  (6) 無念のうちに波に呑み込まれた人たちも――つまりあるいは お二階からのでっかく酷い津波に呑まれかけたこれまでの歴史上の数多くの人たちとともに―― われは堂々と立派にまともに真面目に地道にふつうによく生きたと いまいちど起き上がって言って欲しい。  (7) しかも・しかも 聖徳へなちょこ太子の場合には そのウタに《旅人》として歌われた・みまかれる人は のちに聖人であったと分かったと伝えられることになります。聖と聖こそ互いによくわかり合えるのだという尊き教えであります。――ちゃんちゃらおかしいわい。  (8) スサノヲ人麻呂の心意気なら 和の精神をめぐって何が大ごとだと見ますか? どこでエラーが出て来ているのでしょう?  

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  • a_hona
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回答No.9

アマアガリストーリーと言うものを質問者さんが想定していることは理解出来ました。その中では、横の争いが何時しか縦の争いになった、と。 要するに、農耕やその他技術といった、文明の増長に従って社会形態も複雑化し、争いの形もその種類を増やしていった、と言うことになるかと思います。 権力層と市民層が、それぞれに何を信条としていたのかは、興味深いところでありますが、社会の変容を物語るとしたら、世界の他の地域ではどうだったのか、ということを検証するのも良いかと思いました。 和をもって尊し、が、横の間であろうが縦の間であろうが、必要なことであろうとは思います。横の間にもやはり争いはあったようですし、「元の和」というのも、想起はされても実在は無かったのかもしれない。 もしくは実在はしていたが、それは口伝に残る程度で歴史には記されない、遠い遠い昔の事だったのかもしれません。 私は、滅んでしまった社会形態というのは、あったと思います。 それが、文明の登場によって滅んだのか、自然と共に生きるという厳しい定めの前に自ら滅んだのか。 あと、アマアガリストーリーなるものの真偽は別にしても、それもなかなかおもしろい話でありました。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ その中では、横の争いが何時しか縦の争いになった、と。  ☆ たしかに《何時しか》なのですが その契機というものをさらにしっかりと探る必要があるでしょうね。  わたしのいまの考えでは 《神のごとく如何なる者の下にも立つまいと堅く誓った人間がいた》をその軸心としたいと思っています。  (つまり 腕力や武力によっては その権力は長続きしないと読んだゆえです)。  (ただし この《くにゆづり》をするという対話型のほかには 西欧の《競争型》とアフリカないし朝鮮の《民衆暴君型》とを想定しています。  →【Q:民主制の中にも帝国主義(覇権思想)があり得る。】   http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa8952285.html      )  あっ すなわち 次の主題です。  ★ 社会の変容を物語るとしたら、世界の他の地域ではどうだったのか、ということを検証するのも良いかと思いました。    ★ 和をもって尊し、が、横の間であろうが縦の間であろうが、必要なことであろうとは思います。  ☆ タテの関係としての和は いくらでもその和を乱すことは起こり得ます。ただし 第一かつ唯一のアマテラス(あるいはむしろ 権威としてのアマテラシテ象徴)が確定してからは その側近(首相でしょうか)の地位をめぐってだけ争いが起きます。  中臣氏すなわち藤原氏が出てその没落のあとは 源頼朝(これも アマテラシテ天皇の子から出たわけですが)以下徳川家康に到るまで首相は交替して来ました。  つまり タテの関係では お二階には和を乱す争いが起きても仕方がないということになっているようです。  ヨコの関係としての和は タテに目をやっても一揆までで あとはいつも諍いのあとは水に流します。  ★ 横の間にもやはり争いはあったようですし、「元の和」というのも、想起はされても実在は無かったのかもしれない。  ☆ たぶん地元という和が いちばんの事例ではないでしょうか。家族や親戚というのは しばしば亀裂が入りますから。    ★ あと、アマアガリストーリーなるものの真偽は別にしても、それもなかなかおもしろい話でありました。  ☆ ありがとうございます。最初に触れましたように さらに精緻なものにして行きたいと思います。史実から離れてはいけませんが 史実の確定というよりも人間の思いとその実行というような観点から どういう振る舞いを類型として成して来たか? これを納得の行くように問い求めて行きたいと考えています。  ★ 私は、滅んでしまった社会形態というのは、あったと思います。 / それが、文明の登場によって滅んだのか、自然と共に生きるという厳しい定めの前に自ら滅んだのか。  ☆ インダス文明ですとか エトルリアやケルトなどにも関心がありますが ほとんど手つかずのままですので 応答の言葉がみつかりません。  宣伝になりますが 【Q:民主制の中にも・・・】は いま開いていますよ。

その他の回答 (9)

  • kurinal
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回答No.10

B様、こんばんは。 >「和ということについても 万機公論に決すべしではないでしょうか。」 「和」を公募、するのですね。

bragelonne
質問者

お礼

 みんなで考えて一つひとつの案件を決めて行くというかたちで。・・・  ご回答をありがとうございます。

  • a_hona
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回答No.8

仮の話ですが、縄文から弥生にかけて、人口が増えて行き、集団を養うための縄張りが狭くなったので、戦争が起こるようになったのかもしれないと思いました。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ふたつあると思います。  環濠集落といったかたちが知られており 要するに竪穴式の住居のまわりには 濠をめぐらし先の尖った杭をいくつも打って囲いとしていた。つまり 外敵の存在があった。つまり たたかいが行なわれた。  副葬品に奢侈や量の多さが見られるのは すでに縄文の時代からだったかと思いますが――どんぐりピット(穴)と言って 狩猟・採集・漁労の生活様式にあっても《貯蓄》が始まっていた ゆえに余剰の糧も生まれて来ていた―― 弥生になるとすでに外から伝えられていた鉄と稲とで 生産力が上がったはずです。  むさぼり・奪い合いは 始まったでしょうね。  ただしまだまだ 人びとは互いに横からの他人のマナザシを放ちまた受け取っていただけであって タテの眼差しつまり上から目線は まだ芽生えていなかったのではないか。  弥生の生活にゆとりが出て 生活の余剰は 剰余の価値となって現われた。この《あまり》が 言わば大きい古墳を築くようになった。巨大古墳は その剰余価値そのものであったかも分かりません。  つまり三世紀になって古墳時代が始まりますがその三世紀の末からの時代は 後世から見れば実質的な初代天皇と呼ばれる崇神ミマキイリヒコイニヱのミコトのときでも まだ 人びとは 横を見れば仲間がいたというような世の中の成り立ちであったと考えられます。(すでに各地へ四道将軍を派遣したと書いてありますが 二階から目薬いやマナザシではなかったと考えます。市民からオホタタネコという言わば神主を見つけ出し社会の共同自治の仕組みの中に取り入れています)。  このように互いに等しい高さの目線で横並びしていた世間であったなら 縄張りをめぐって争ったとしても 互いにその主張を自由にぶつけ合ったのだと思われますし 縄張りなどなくてよいではないかといった思想をも宿していたのではないかとさえ考えられます。  これがひとつで あとは その裏返しです。  すなわち 上からの――つねに上から来る――マナザシという人間どうしの関係が どこからか現われた。これは ちょっと上から目線になるといった偶然の産物ではなく すでにしっかりと固定されたマナザシ関係だと考えられるからです。  かんたんにこの《アマアガリ〔なる目線〕》の物語としては:  要するに 学力優秀かつ品行方正なる人間がいたわけです。この人は ただし目立ちたがり屋であって いつも人から自分が見られているのでないと 死んでしまうというほどでした。  脚光をつねに浴びているためには さらに自分は人間的になろうと努める。ますます人間的になり これ以上は成れないというほど人間的に成ったとき じつは まわりを見渡せば その人間的であることにさほど注意も称賛も人びとは持ち合わせていない。と知る。  人びとは 人間の能力と努力とには 限界があると知っていたし 人間性よりもとうとい何かナゾについても心に思っていたから。  途端に意気消沈した優等生くんは こんどは 何を思ったか おれは《神のごとく如何なる者の下にも立つまい》と堅く誓ったのでした。  これが アマアガリの始まりです。  この優秀なるおれに世の中の経営をまかせたまえと人びとに 根気よく何度も何度も願い倒しました。根負けした人びとは そのアマアガリの徒に 社会というヤシロにも神棚をこしらえてやってそこに住まわせた。  これが 《くにゆづり》です。二階建てとなりました。  そのあとは よほど居心地がよかったのか アマテラスくんは したい放題でした。特産物をふくみ収穫という収穫は 税として徴収するわ 各地の女性は采女(うねめ)として参内させるわ(公務員ですけどね)・・・となったとさ。  アマテラスの位は 672年(壬申)の乱で天武おほしあまが 甥でしたか大友をやぶったところで 確実に一系となった模様です。  その前に すでにあの蘇我氏を倒したのは 天武の兄の天智なかのおおえのみことそして 中臣の鎌足でしたか。中中コンビで 蘇我入鹿の首を刎ねました。《和を以って貴しと為す》必要は お二階さんたちのあいだでは ないんですかねぇ。

  • a_hona
  • ベストアンサー率21% (95/444)
回答No.7

う)に言う「上」とは、政治機構の上部構造の事ではなく、理想の事ではないでしょうか。そして、「下」とは、現実の事と思います。 私流に意訳すれば、和する事を理想とし、人と接するに当たっては親しく振る舞おう。というような事になると思います。 古墳時代には、多分に戦争があって、互いに和する事からは遠かったのではないでしょうか。蘇我と物部が争ったのも、その時には和などなかったのだと思います。 インタムライスムを唱える質問者さんから見れば、統一国家はあるべき存在ではないのかもしれませんが、一つの旗のもとに氏族同士が違わないのであるなら、それは人々が生きる社会形態の一つとして、意味も意義も効果もあるのだと思います。そして、大きな家族のようなものが、国家の理想なのではないかと思う次第です。 8)について。 繰り返しになりますが、統一国家が出来る前は、頻繁に戦争があったのだと思います。ヤマトタケルも、日本全土を旅しながら各地を平らげて、つまり戦争をして勝って来たわけです。そもそも人類史を紐解けば、そこは戦争銀座の一丁目かというくらい、人々は戦争をしてきたという事実があります。 古代に、なにかアルカディアがあったのだと見る事もできますし、そんなものはなかったとは言い切れませんが、あったとしても隠れ里のように、よきスサノヲ村は存在していたのではないでしょうか。何処でエラーが起きたのかと言えば、実は最初からエラーだらけだった、というオチがつくのだと思います。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ 私流に意訳すれば、和する事を理想とし、人と接するに当たっては親しく振る舞おう。というような事になると思います。  ☆ そうだとしたときにも (あ) 忤(さから)うこと無きを宗(むね)とせよと言っていることが絡んで来ます。  上下関係は・あるいはつまり権力・権威・権限の有る無しは 既に成った状態としての体制を乱すなと言っています。  その乱す・乱さないの判定は・つまり《和する事を理想とし、人と接するに当たっては親しく振る舞おう》という原則に悖っていないかどうかを決めるのは だれでしょうか?  そのように考えるときには:  ★ 一つの旗のもとに氏族同士が違わないのであるなら、それは人々が生きる社会形態の一つとして、意味も意義も効果もあるのだと思います。そして、大きな家族のようなものが、国家の理想なのではないかと思う次第です。  ☆ という考え方を共有したとしても その上下関係は 親と子の世代間の関係ではなく 一階と二階との隔たりとして実効支配が成されているものと考えます。  一階から目薬はぜんぶ 租庸調として強制的に召し上げられます。二階からは目薬すら落ちて来ません。  ★ 古墳時代には、〔* つまり縄文時代には いつごろからか 生活の糧に剰余が生じるようになって所有に格差が生まれ 墓の副葬品が人によって違って来た。その結果すでに弥生時代になると むさぼる・うばうという欲望をみづから掻き立てつつ互いに《たたかい》を起こすようになった→〕多分に戦争があって、互いに和する事からは遠かったのではないでしょうか。  ☆ なのですが それはすべて互いに一階どうしと言いますか まだ二階はなく平屋建ての大きな家のもとに闘いを起こしていたものと考えます。  《二階 ないし 社会というやしろにとっての神棚・雲の上》が問題である。《初国知らししすめらみこと》と呼ばれた崇神ミマキイリヒコイニヱのミコトのときには すでにムラオサ(ないし市長)ではあっても 一階にとどまっていたものと考えます。300年ごろの話です。  応神ホムダワケのときに 二階志向主義が始まりました。400年ごろです。  その筋――タラシ系統――から 聖徳ウマヤドのミコらの天皇氏は出ています。(政略結婚が成されていて ミマキイリヒコのイリ系統とも親戚どうしになっていますが)。  ★ そもそも人類史を紐解けば、そこは戦争銀座の一丁目かというくらい、人々は戦争をしてきたという事実があります。  ☆ 俗にブッシュマンと呼ばれる人たちは 戦争を知らないとも言われています。  ★ 何処でエラーが起きたのかと言えば、実は最初からエラーだらけだった、というオチがつくのだと思います。  ☆ 縄文の石器時代には まだ持てる者が出現したという格差はなかったらしい。その後出土する頭蓋骨には 明らかに矢が刺さって出来たという傷跡が見られるようになった頃には 殺し合いのたたかいが起きるようになったと見られます。  そのときにはまだ 何度も言うように一階しかなかった。《二階》という概念の発明をした人がいたのでしょうね。その時からは 二階による支配をめぐって・また支配のために外的にも内的にも戦争を起こすようになった。・・・  

  • kurinal
  • ベストアンサー率10% (128/1195)
回答No.6

こんばんは。 >「権力は握った 文句あっか もうおれたちには逆らうなとのたまわっていらっしゃいます。」 権力側から「和」と言い出されても、説得力が無い、ということですか。 (「欽定憲法」と、・・・)

bragelonne
質問者

お礼

 和ということについても 万機公論に決すべしではないでしょうか。  ご回答をありがとうございます。

回答No.5

あんたの言っていることは臭いところを嗅ぎまわる様な批判だ。 恥じたまえ。 聖徳太子の、国家形成に関する貢献は別にある。 アマテラスさんと言う、哲学不能な神の代わりに。イエスの神に等しい、釈迦の神を導入して、哲学のみならず、国家の理念を明白にした事だ。 このように、人が神を語ることに成功すれば、その人の言葉を根拠に何かとこねくり回しができる。 国家と言うより、社会と言う人と人の共生関係はこのように成立する。 神を語らない、この習慣は、神とは不可知であると言う言い回しと変わらないが、私のパンツ脱げ攻撃は、一部のマニアにとってはイエスさん級だろう。 すなわち神を語れる立場の人間と言うのがいる。 これは、体験と実践において、とことん正直であることで、自身を偽らないことが、他者を欺かないことであるだけだ、そうなれば真実だね。 真理と言えば、真実イコール真理と言うだけで、私の言葉ではジラーチちゃんの保証書付きと言う表現だ。 間違いが無ければいいのだ。

bragelonne
質問者

お礼

 ★ あんたの言っていることは臭いところを嗅ぎまわる様な批判だ。  ☆ 《臭い》のではなく 《どだい成っていない・心が腐敗している・権力志向主義でしかない・権力の亡者であってイカレテしまっている》。  ☆☆ 【Q:世間虚仮 唯仏是真とは 世迷いごとではないか?】~~~~   http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa6791123.html  (1) もしさとりが 出世間というごとく文字どおり この現実世界を超えたところに求められるのであれば それは 世迷いごとではなかろうか?  なぜなら 仏性が この世界の外にあっては何にもならない。  〔以下省略〕   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ご回答をありがとう。

  • Key_A
  • ベストアンサー率9% (55/603)
回答No.4

キチガイが自分を賢人と勘違いして、道ばたで喚いて落書きしているようなもんです。 回答者よ、相手にするなと言うのに・・・。

bragelonne
質問者

お礼

 ぢゃあ ご自分は きちがいではなく 賢人であるとわざわざ言うために投稿したの?  だって こうやって相手にしてるぢゃん。  ご投稿をありがとう。

noname#206613
noname#206613
回答No.3

おまえのかあちゃん 出べそ!←残念ながら 母親は出べそではありませんでした(笑) それと 其処が問題でも無い・・(笑) あなたの無知が問題なだけ・・

bragelonne
質問者

お礼

 ふむ。  たとえば 大化の改新がなかった問題や聖徳太子のでっち上げ説とは この質問は別ですよ。  誰が書いたにせよ 憲法として和が述べられている。これについて 疑問を呈しています。それについてみなさんの見解をたずねるものです。よ。  ご回答をありがとうございます。

  • chie65535
  • ベストアンサー率43% (8516/19359)
回答No.2

で、質問は何ですか? 大半が、当サイトで禁止されている「意見表明行為」で、質問らしい質問が見当たらないのですが。 もしかして、一番最後の >(8) スサノヲ人麻呂の心意気なら 和の精神をめぐって何が大ごとだと見ますか? どこでエラーが出て来ているのでしょう? が質問でしょうか? >聖徳太子は ただのくそったれ 1995年発刊の藤田雅矢の本「糞袋」には 「人間なんぞみな、糞袋よ」と書いてあります。 どんな人間も「糞を垂れるモノ」であって、そういう意味でなら「くそったれ」です。糞を垂れない人間は居ません(って、そういう話じゃないか)

bragelonne
質問者

お礼

 そういう話ぢゃないですよ。  質問が何であるか。分かったみたいであるのに。  ご投稿をありがとうございます。

noname#206613
noname#206613
回答No.1

「聖徳太子は ただのくそったれ」←んっ!? 今迄 知らなかったの!? 哲学って そんなに遅いんだ(笑) 過去の人物は全て 唯のくそったれ・・ですよ・・ だって 世界平和を誰も実現させていない・・・ あなたも 少しは世界平和に役立つ事をしないと 未来で くそったれ呼ばわりされますよ・・

bragelonne
質問者

お礼

 これは 残念ながら・また失礼ながら 人間の思惟ではありませんね。  おまえのかあちゃん 出べそ! と叫んだだけですから。  ご回答をありがとうございます。

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  • 論文: 聖徳太子は ただのくそったれ

     まづ 憲法とやらを読みます。  ▲ (十七条憲法) ~~~~~~~~~~~  一に曰(い)わく、  (あ) 和(やわらぎ)を以(も)って貴(とうと)しとなし、忤(さから)うこと無きを宗(むね)とせよ。  (い) 人みな党(たむら)あり、また達(さと)れるもの少なし。ここをもって、あるいは君父(くんぷ)に順(したが)わず、また隣里(りんり)に違(たが)う。  (う) しかれども、上(かみ)和(やわら)ぎ下(しも)睦(むつ)びて、事を論(あげつら)うに諧(かな)うときは、すなわち事理おのずから通ず。何事か成らざらん。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  次のように問います。  (1) 最後の一文(う)は いわば民主主義に通じる自由な言論 表現の自由 これを 基礎とすると言っています。まづこれを確認します。明治維新でも 同じく《万機公論》と言いました。    ▼ (五箇条の御誓文)  一 広ク会議ヲ興シ万機公論ニ決スベシ    (2) 次に 同じ最後の一文(う)の中からですが   ▲ 上(かみ)和(やわら)ぎ下(しも)睦(むつ)びて   これについては 眉唾物です。お上つまりお二階さんの論理と目線で ものを言っているといううたがいを拭えません。時代は違いますが われわれは次のような歴史を経て来ています:   ◆ (上田正昭:『日本文化の原点』) ~~~~~~   【直木孝次郎】・・・たとえば七一一(和銅四)年に出された詔(みことのり)に     このころ聞く 諸国の役民 造都に労(つか)れ      奔亡するものなほ多し。     禁ずと雖(いへど)も止まず。   とある。これは・・・労役のために都へ出てきている人民――これが都城建設 道路づくりに使役されるわけですが 生活 労働が苦しいために途中で逃げ出す者が多い。禁止しても止まない。・・・   【上田正昭】 その翌年の正月にも      諸国の役民は 郷(さと)に還へるの日      食糧絶え乏しく 多く道路に飢ふ。     溝壑(こうがく=みぞ)に転びうづまるもの      その類少なからず。   というのが出ていますね。   【直木】 ・・・『続日本紀』つまり 当時の正史に記録されているわけですね。   【上田】 柿本人麻呂も 有名な歌を残していますね。       草枕 旅の宿りに       誰(た)が夫(つま)か        国忘れたる 家待たまくに  (万葉集 巻三・426番)   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~   (3) 先の(2)のうたがいを証拠立てるには 聖徳太子の同じような趣きの歌を見てみれば分かります。   ■ (万葉集 三・415) ~~~~~~~     上宮聖徳太子 竹原の井に出遊(いでま)しし時 龍田山の死〔み(身)まか(罷)〕れる人を悲傷(かなし)びて作りましし御歌一首      家にあらば妹(いも=妻)が手巻かむ      草枕 旅に臥(こや)せるこの旅人あはれ  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   すなわち 人麻呂の歌(426番)では すでに死んだ人に向かって 早く起き上がりなさい ふるさとを思い出し 帰って休みなさいと声をかけています。聖徳ぼんくら太子の歌では ああ かわいそうに・気の毒にとだけ言っています。  (4) たとえば   ▲ (あ) 忤(さから)うこと無きを宗(むね)とせよ。  と言われても 庶民はもともと けんかをしつつも仲間として和をもって暮らしていた。ところへ お二階さんたちが これをパクって 《和を以って》うんぬんと言いだした。  口先だけ庶民のまねをして和をとうとぶのだと言われても けっきょく 人びとよ おれたちには《さからうな》と言っているとしか聞こえません。都合のよいことだけを言っているとしか聞こえません。  (5) 聖徳うすのろ太子は 国を挙げて例の仏教を受容するか否かのとき 崇仏派と排仏派の戦いになり(そう言われています)そこで前者に味方し 後者の守屋ら物部氏を亡きものにすることにたずさわった。そのように敵を倒したあと《和を以ってとうとしと為せ》と言っちゃってもらっちゃってもねぇ。  権力は握った 文句あっか もうおれたちには逆らうなとのたまわっていらっしゃいます。  (6) 無念のうちに波に呑み込まれた人たちも――つまりあるいは お二階からのでっかく酷い津波に呑まれかけたこれまでの歴史上の数多くの人たちとともに―― われは堂々と立派にまともに真面目に地道にふつうによく生きたと いまいちど起き上がって言って欲しい。  (7) しかも・しかも 聖徳へなちょこ太子の場合には そのウタに《旅人》として歌われた・みまかれる人は のちに聖人であったと分かったと伝えられることになります。聖と聖こそ互いによくわかり合えるのだという尊き教えであります。――ちゃんちゃらおかしいわい。  (8) スサノヲ人麻呂の心意気なら 和の精神をめぐって何が大ごとだと見ますか? どこでエラーが出て来ているのでしょう?

  • 和を以って貴しと為せと言われなかったなら・・・

     ・・・わたしは 和を乱すことを知らなかった。:(α)  この(α)の命題についてお考えになるところをおしえてください。  参考になるかどうか 聖徳太子についての批判をつづります。  ・論文:聖徳太子は ただのくそったれ  ▲ (十七条憲法) ~~~~~~~~  一に曰(い)わく、和(やわらぎ)を以(も)って貴(とうと)しとなし、忤(さから)うこと無きを宗(むね)とせよ。  人みな党(たむら)あり、また達(さと)れるもの少なし。ここをもって、あるいは君父(くんぷ)に順(したが)わず、また隣里(りんり)に違(たが)う。  しかれども、上(かみ)和(やわら)ぎ下(しも)睦(むつ)びて、事を論(あげつら)うに諧(かな)うときは、すなわち事理おのずから通ず。何事か成らざらん。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  (1) 最後の一文は いわば民主主義に通じる自由な言論 これを 基礎とすると言っています。明治維新でも 同じく《万機公論》と言いました。    ▲ (五箇条の御誓文)  一 広ク会議ヲ興シ万機公論ニ決スベシ    (2) 次に 同じ最後の一文の中からですが   ▲ 上(かみ)和(やわら)ぎ下(しも)睦(むつ)びて   ☆ については 眉唾物です。お上つまりお二階さんの論理と目線で ものを言っているといううたがいを拭えません。時代は違いますが:   ◆ (上田正昭:『日本文化の原点』) ~~~~~~   【直木孝次郎】・・・たとえば七一一(和銅四)年に出された詔(みことのり)に     《このころ聞く 諸国の役民 造都に労れ 奔亡するものなほ多し。禁ずと    雖も止まず》。    とある。これは・・・労役のために都へ出てきている人民――これが都城建設 道路づくりに使役されるわけですが 生活 労働が苦しいために途中で逃げ出す者が多い。禁止しても止まない。・・・   【上田正昭】 その翌年の正月にも      《諸国の役民は 郷(さと)に還へるの日 食糧絶え乏しく 多く道路に飢ふ。    溝壑(こうがく=みぞ)に転びうづまるもの その類少なからず》。   というのが出ていますね。   【直木】 ・・・『続日本紀』つまり 当時の正史に記録されているわけですね。   【上田】 柿本人麻呂も 有名な歌を残していますね。      《草枕旅の宿りに誰(た)が夫(つま)か        国忘れたる 家待たまくに》  (万葉集 三・426)   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~   (3) その(2)のうたがいを証拠立てるには 聖徳太子の同じような趣きの歌を見てみれば分かります。   ▲ (万葉集 三・415) ~~~~~~~     上宮聖徳太子 竹原の井に出遊(いでま)しし時 龍田山の死(みまか)れる人を悲傷(かなし)びて作りましし御歌一首      家にあらば妹(いも=妻)が手巻かむ     草枕 旅に臥(こや)せるこの旅人あはれ  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   ☆ 人麻呂の歌(426番)では すでに死んだ人に向かって 早く起き上がりなさい ふるさとに帰って行きなさいと声をかけていますが 聖徳太子の歌では ああ かわいそうにとだけ言っています。  (4) ▲ 忤(さから)うこと無きを宗(むね)とせよ。  ☆ と言われても 庶民はもともと けんかをしつつも仲間として和をもって暮らしていた。ところへ お二階さんたちが これをパクって 《和を以って》うんぬんと言いだした。まねをして和をとうとぶと言われても けっきょく 人びとよ自分たちには《さからうな》と言っているとしか聞こえません。都合のよいことだけを言っているとしか聞こえません。  (5) 聖徳太子は 国を挙げて例の仏教を受容するか否かのとき 崇仏派と排仏派の戦いになりそこで前者に味方し 後者の物部守屋を亡きものにすることにたずさわった。そのように敵を倒したあと《和を以ってとうとしと為せ》と言っちゃってもらってもねぇ。  権力は握った もうおれたちには逆らうなとのたまわっていらっしゃいます。  (6) 無念のうちに波に呑み込まれた人たちも――つまりあるいは お二階からのでっかく酷い津波に呑まれかけたこれまでの歴史上の数多くの人たちとともに―― われは堂々と立派にまともに真面目に地道にふつうによく生きたと いまいちど起き上がって言って欲しい。  (7) しかも・しかも 聖徳太子の場合には みまかれる人は のちに聖人であったと分かったと伝えられることになります。聖と聖こそ互いによくわかり合えるのだとか。ちゃんちゃらおかしいわい。  (8) 人麻呂スサノヲの心意気なら 先の(α)の命題を飲みませんか?

  • もし和を以って貴しと為せと言われなかったなら・・

     もし和を以って貴しと為せと言われなかったなら・・・  ・・・わたしは 和を乱すことを知らなかった。 :(α)  この(α)の命題についてお考えになるところをおしえてください。  参考になるかどうか 聖徳太子についての批判をつづります。  つるぎを投じることになるひとつの視点です。      *  ・ 論文: 聖徳太子は ただのくそったれ  ▲ (十七条憲法) ~~~~~~~~  一に曰(い)わく、  (あ) 和(やわらぎ)を以(も)って貴(とうと)しとなし、忤(さから)うこと無きを宗(むね)とせよ。  (い) 人みな党(たむら)あり、また達(さと)れるもの少なし。ここをもって、あるいは君父(くんぷ)に順(したが)わず、また隣里(りんり)に違(たが)う。  (う) しかれども、上(かみ)和(やわら)ぎ下(しも)睦(むつ)びて、事を論(あげつら)うに諧(かな)うときは、すなわち事理おのずから通ず。何事か成らざらん。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  (1) 最後の一文(う)は いわば民主主義に通じる自由な言論 これを 基礎とすると言っています。明治維新でも 同じく《万機公論》と言いました。    ▲ (五箇条の御誓文)  一 広ク会議ヲ興シ万機公論ニ決スベシ    (2) 次に 同じ最後の一文(う)の中からですが   ▲ 上(かみ)和(やわら)ぎ下(しも)睦(むつ)びて   これについては 眉唾物です。お上つまりお二階さんの論理と目線で ものを言っているといううたがいを拭えません。時代は違いますが われわれは次のような歴史を経て来ています:   ◆ (上田正昭:『日本文化の原点』) ~~~~~~   【直木孝次郎】・・・たとえば七一一(和銅四)年に出された詔(みことのり)に     《このころ聞く 諸国の役民 造都に労れ     奔亡するものなほ多し。     禁ずと雖も止まず》。    とある。これは・・・労役のために都へ出てきている人民――これが都城建設 道路づくりに使役されるわけですが 生活 労働が苦しいために途中で逃げ出す者が多い。禁止しても止まない。・・・   【上田正昭】 その翌年の正月にも      《諸国の役民は 郷(さと)に還へるの日     食糧絶え乏しく 多く道路に飢ふ。     溝壑(こうがく=みぞ)に転びうづまるもの     その類少なからず》。   というのが出ていますね。   【直木】 ・・・『続日本紀』つまり 当時の正史に記録されているわけですね。   【上田】 柿本人麻呂も 有名な歌を残していますね。      《草枕旅の宿りに誰(た)が夫(つま)か        国忘れたる 家待たまくに》  (万葉集 巻三・426番)   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~   (3) その(2)のうたがいを証拠立てるには 聖徳太子の同じような趣きの歌を見てみれば分かります。   ▲ (万葉集 三・415) ~~~~~~~     上宮聖徳太子 竹原の井に出遊(いでま)しし時 龍田山の死(みまか)れる人を悲傷(かなし)びて作りましし御歌一首      家にあらば妹(いも=妻)が手巻かむ     草枕 旅に臥(こや)せるこの旅人あはれ  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   人麻呂の歌(426番)では すでに死んだ人に向かって 早く起き上がりなさい ふるさとを思い出し 帰って休みなさいと声をかけていますが 聖徳太子の歌では ああ かわいそうにとだけ言っています。  (4) たとえば   ▲ 忤(さから)うこと無きを宗(むね)とせよ。  と言われても 庶民はもともと けんかをしつつも仲間として和をもって暮らしていた。ところへ お二階さんたちが これをパクって 《和を以って》うんぬんと言いだした。  口先だけ庶民のまねをして和をとうとぶのだと言われても けっきょく 人びとよ自分たちには《さからうな》と言っているとしか聞こえません。都合のよいことだけを言っているとしか聞こえません。  (5) 聖徳太子は 国を挙げて例の仏教を受容するか否かのとき 崇仏派と排仏派の戦いになりそこで前者に味方し 後者の物部守屋らを亡きものにすることにたずさわった。そのように敵を倒したあと《和を以ってとうとしと為せ》と言っちゃってもらってもねぇ。  権力は握った 文句あっか もうおれたちには逆らうなとのたまわっていらっしゃいます。  (6) 無念のうちに波に呑み込まれた人たちも――つまりあるいは お二階からのでっかく酷い津波に呑まれかけたこれまでの歴史上の数多くの人たちとともに―― われは堂々と立派にまともに真面目に地道にふつうによく生きたと いまいちど起き上がって言って欲しい。  (7) しかも・しかも 聖徳太子の場合には そのウタに《旅人》として歌われたみまかれる人は のちに聖人であったと分かったと伝えられることになります。聖と聖こそ互いによくわかり合えるのだという尊き教えであります。――ちゃんちゃらおかしいわい。  (8) 人麻呂スサノヲの心意気なら 先の(α)の命題を飲みますか?         *  われらがふるさとを取り戻したいがために つるぎを一振り投じる問いです。  なにが おおごとなのでしょう?  どこが エラーなのでしょう?

  • 聖徳太子について

    カテゴリはここで良いのか、それすらも分かってないのですが、違っていたら「違います」の回答でも構いません。 聖徳太子、十七条の憲法の第1条『和を以て貴しと為し、忤うこと無きを宗と為す』の中の『和』とは何と読むのが一番正しいのでしょうか? 昭和10年に出された改訂では、「やはらか」つまり『やわら』と読んでいますよね? もしくは、少し聞いた話では、当時『和』と言う人がいたとか・・・。 それでも質問は同じです。『和』とは何と読むのでしょう? 実は、クイズみたいなもので調べているのです。 人(女性)の名前で『和』と書いた場合、何と読むのか? 上の文章は自分で調べ、そこまでたどり着きました。関係があるのかないのか、それも分からないのですが・・・。 下の文章は問題を出した知り合いからヒントと言う感じで聞きました。しかし「やわら」とは読まないそうです。 もし、『分かる』と言う方、『こうじゃないか?』と言う方、いらっしゃいましたらよろしくお願いします。

  • 和を以て貴しとなす を英語で?

    「和を以て貴しとなす」という聖徳太子の言葉。 人とのつながりを大切にしましょうという意だと思うのですが、英語でカッコいいフレーズがあるのでしょうか? 教えて下さい。

  • 記紀の中で本名が隠されている者に聖徳太子と蘇我氏が

    10.蘇我馬子は豊浦大臣と呼ばれていたが、「豊浦」とは山口県にあり、神宮皇后が立ち寄った場所。「豊浦」は大和にもあると言う人がいると思うが、「浦」は海岸であり、大和には該当する場所がなく、大和の「豊浦」は辻褄を合わせるためにつけたに過ぎない。 11.持統天皇は「春過ぎて、夏来にけらし白妙の、衣干すちょう天の香具山」と歌い、これが「天女の羽衣を奪う」=「政権を奪う」歌と言われているが、天智天皇の娘であり、天武天皇の妃である鸕野讚良(うののさらら)は常に政権側であり、誰から政権を奪うのか。九州王から奪う以外考えられない。 これらを総合すれば聖徳太子=蘇我入鹿=九州王になりませんか。

  • 冠位十二階

    冠位十二階の色(偉い順番)を決めた人って誰ですか? ・・・・・・聖徳太子って外人に見せびらかすために作った空想上の人物ですよね。

  • 聖徳太子は何故「太子」なの?

     下らない質問ですが、聖徳太子は何故「太子」と呼ばれるのでしょうか?  皇太子でも、皇子でもなく「太子」と呼称される理由が知りたいです。また、他に「太子」と呼称される方はおられるのでしょうか?

  • 『日出処の天子』を読んだことのある方

    聖徳太子に詳しい人や歴史研究家、飛鳥寺にもかなりけちょんけちょんに言われた『日出処の天子』 日本書紀にある『一晩で何里も移動』『一度に何人もの話を聞く』『未来を予見できる』...等 神格化された太子の逸話を随分大胆に物語にしているな、と以前読んだときマンガとして感銘を受けました。 猪の首の話など、実際語られている事を織り込んでいるところも多く見受けられますが、 『いくらなんでもそれはめちゃくちゃ』とおもわれるところ、 逆に『しっかり歴史的背景をつかんでるじゃないか』 と思われる処を幾つかお聞かせ願いますか? ホモと超能力は抜きにして。

  • 聖徳太子が・・

    超能力者だったという観点から描いていた なんとなく少女漫画風な絵のコミックしりませんか?