人間が死んだら神になる?神が死んだら人間になる?

このQ&Aのポイント
  • 人間が死んだら何になるんでしたっけ?
  • ニーチェが「神は死んだ」と宣言して それまでの神は実は人間だったという話を聞きました。
  • 皆さん 神様と人間はどちらが大切でしょうか?マジで。
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人間が死んだら神になる?神が死んだら人間になる?

人間が死んだら何になるんでしたっけ? 仏様になりますかね。確か先祖は神様だから 神様にも成りますよね。 ニーチェが「神は死んだ」と宣言して それまでの神は実は人間だった という話を聞きました。 同じ神でも日本の神様とキリスト教の神では幾分違うでしょうけど 日本人は先祖崇拝を好むようで お墓参りとかまだ行く人も多いですねえ 仏ホっとけの人もいますが。 靖国神社の英霊は余程偉いと思ってる人もいるようですが 現実の人間は労働基準法無視の使われ方や 女性の労働も子供の環境もけして良い状態ではない。鬱病も多い。 一方外国のキリスト教の神様は 中世には厳然たるものでしたが 今では神の教えも蔑ろにされている様な気もします。 逆にヒューマニズムの方が強いように思います。 ヒューマニズムが強すぎて 裁判で訴える賠償額が桁違いなのがアメリカ 自由の国はいいが格差が大きい。それが日本にまで伝染した。 神様と人間はどちらが大切なんだ!と言いたくなるこの現状。 皆さん 神様と人間はどちらが大切でしょうか?マジで。 端的に くれぐれも端的にお願いします。m(_ _)m

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
  • stmim
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回答No.18

人間です。

yuniko99
質問者

お礼

そのとーり そのとーり そのとーり!! 神は人間の為にあるのです 人間が神の犠牲になってはいけません 神よりも人間の方が大切なのです。 どうも大変ありがとうございます。

その他の回答 (18)

  • Key_A
  • ベストアンサー率9% (55/603)
回答No.19

人間の方が重要です。だって、死んだら神になるとか極楽に行けるという奴が自殺した試しが殆どないから。

yuniko99
質問者

お礼

自殺をしたら極楽には行けないそうですよ。自殺して神になれるかどうか知りませんが。 人間のほうが重要ですねえ どうもありがとうございます。

noname#210533
noname#210533
回答No.17

今、時間が無くてろくに推敲できません。 多分、誤字脱字があるし、文章も妙なところが 散見されると思うけど、許してください。 先程の続き。 神について考えるということは、この世の むごたらしい暴力や、貧富の差などの矛盾に どう折り合いをつけるかという問いを自らに 課すことに他なりません。 そこには、自分という命のかけらを、限られた 一生の中で何を求め、何を叶えようと生きるか。 どんな終着点に至ろうとしているのかの、自分を 只の人間の一人、無数の人類の中の点1つに 過ぎない、ということから目をそむけ続けることに 繋がります。 自分はつまらない人間かもしれないが、自分の中に 神への理解と敬虔な信仰がある、と思えるなら、 自分の人生について、自分で全く納得できておらず、 こんな人生、ケッ、と否定してしまう慢性的な不満や その鏡像である、社会の理不尽さへの怨嗟を 自分の霊性とは切り離されたものだと、逃げることが 出来る。 無意味な自分という存在を崇高な永遠に組み込むことで 不満にも劣等感にも理不尽きわまる現実にも、一気に 答えを与えようとしてしまう。 宗教は・・・神に帰依する、というのは思考の停止であり、 統一化された規定の価値観を無条件に受け入れることで あり、それはそのままその価値観の母体の、傀儡になる ことに他なりません。 でも、私は凄まじいまでの地獄にいる人々の気持ちを思うと、 その人生を思うと、この世に神が無ければ彼は絶望しか ないではないか、とも思います。 むごい目にあったものが復習を誓い、理不尽な強者の正義に テロで対抗する。 テロリストと一口に言っても数百万人、世界にいるわけです。 個人的な恨みつらみで過激思想という宗教に染まり、テロを 正当化する思考を移植されてしまった人々が、実は大半では ないかと思いますし、家族を欧米に惨殺されたテロリストが、 今度は仲間を守ったり、差別されている同胞を救うために、と 洗脳されれば、若者なら爆弾抱えて死ぬ気で博物館にも行くし、 死に麻痺してしまえば、幼い幼女に爆薬を巻き付けて群集に まぎれさせて爆死させたりもするようになってしまうでしょう。 それらは全て、自らの姿勢を自らで制御し、自ら決めた航路に したがって目的地へ航行する、恒星間宇宙船ではなく、 自ら理解できていないのに、理解していると思いこまされ 恐るべき「神の正義」に操られ、ロボットと化した人工衛星・・・ もはやメテオ兵器にされたデブリの末路だと言えます。 だから、申し上げたのです。 ここにいるのは、人間だけだ、と。 科学を絶対視するばかりでもないのですが、21世紀の 化学文明が発達した日本で、7世紀の進学論の端緒にも 届かない「神についての私論」を垣間見るたびに、これが そのままイスラム国に傾倒したり、人を殺して見たいと 考える、闇の中にいる人々の思考なのだろう、と思いながら 読んでいます。 意思をもつものだけが、自らの姿勢を自分で制御して、 独自の座標系と航路で目的地を目指せる。 それは、薄っぺらな表現で言えば、自己実現そのものです。 誰もが自分は自分の考えを持っていると錯覚しています。 でも、現実には赤ちゃんが外界の情報刺激を真似しながら 鵜呑みにしていく段階と余り違うことはしていません。 自分の中身が成熟しない限り、自分の中に蓄えたものだけで、 人生行路の海図を描き、船出する意思は持てません。 すると、いつまでも真理を知りたい、と港にさえ行かずに 汽笛を聞きながら水平線に消えていく遠洋航路の船の たなびく煙を小さな窓からため息ついて見続ける人生に なってしまう。 別に、あまねくこの世界を理解する必要などないと 私は思っています。 自分の職業領域の中で、現実に成果を生み出し続ける 人々は、ある意味「真理」そのものの具現化です。 私には、むしろ、そういう人達の方が現人神に見えます。 神は私に問うでも無しに語りかけます。 言葉ではなく、彼らの生き様として。 「お前は何者で、どこにいくんだい?」、と。 なるべく端的にと思ったのですが、結局昨日 書いたよりも随分長くなってしまいました。 同じ空の下に暮らす、名も無い一艘の舟の思考でした。 私? 運河の古い運搬船です。

yuniko99
質問者

お礼

宗教の神は風船の様なものですかね 信者が増えるとぐんぐん膨らむが 中に在るのは信者だけ 外には「〇〇教」と書いたワンパターンの名前が少しずつ膨らんで 何かの切っ掛けで中身がない事を露呈する。オウムとかはそうですねえ。 他の主教もそういう面があるでしょう。 私は神についてそうそう考えたわけではありません だから質問しているわけですが 多くの人が「神」と言い コーランを燃やせば大騒ぎになるこの力 これは何によるものか? 精神的なものだろう 霊とも言われるものだろう、少なくとも彼らには神と呼ばれる共通概念、共通想像存在が在るのだろうと思うわけです。 私にも神はたなびく煙に見えますねえ。近づいてみた事もありますが激しい思い込みがありましたねえ。 人間が死ぬと神になる?神が死ぬと人間になる? という問いでしたが。 太陽や地球を絶対と見たがる人々の凝り固まった夢が神なのでしょうか?? どうも大変ありがとうございます。

noname#210533
noname#210533
回答No.16

こんにちは。 昨日のダメージがまだ残っていますが、 先程他の恋愛相談にコメントを書いて 気持ちを整理してきました。 消えた回答は私の頭からも大部分が飛んでしまい、 エッセンスしか残っていないので、残骸だけしか 書けませんが、こういった内容です。 アーティストでも家業を継いだ人でも、1つことに まい進する人と、「真理」を求めて具体的な行動を 起こせない哲学思考系の人とを宇宙船に例えたのです。 遥かかなたの1つの星を目指して航行する、恒星間宇宙船。 もう1つは、太陽系内を航行する惑星間宇宙船。 ナビゲーションシステムの座標系に根本的な違いがある。 恒星間宇宙船は、自らの姿勢そのものが座標系。 人間で言えば、自分が自分の世界の中心だと考える。 座標系はXYZの三次元系でも球体の宇宙儀系でも 構わない。常に「本船の航路」を考え続けるシステム。 それに対して、惑星間宇宙船は惑星の公転軌道面、 厳密には地球の黄道面を座標平面としての軸座標で 考える。スイングバイを使い、系内の重力場の座標系の 中で、船は相対的に位置を変化させていくブリップに 過ぎない。 恒星間宇宙船は、目的地を目指すことに全力を傾け、 太陽、という「神」の支配をまったく考慮することなく 航法を操る。 しかし、太陽系内を行き来する船は、基本的に太陽を 抜きにしてはナビゲーションできない。 旅客船だろうがデブリ回収船だろうが、すべて「神」なる 太陽と、母なる星「地球」の重力場や飛び交う高速粒子の 影響を考え続けることが航法の大半。 人間が考え出した「神」を信じるか否か、はその人が 自分の「意思」で「目的地を定め、航行する」船なのか、 太陽系内という「神」の重力支配下で運用されるのかに とても似ています。 ある意味、思考的な人種が異なるのだ、とさえ思います。 でも、太陽を絶対視する人々には、他の星系にも無数の 大洋がある、ということを、逆に「信じ」ません。 この世に1つしかないものなど、実は無いのにね。 例えば、私という一人の人間は、二つと無い独立した 絶対的存在ではありません。 言って見れば巨大な波動領域の中に無数に生成と消滅を 繰り返す、波の一時的な相だと考えています。 例えば○○山、と名前が付いていても便宜的に区切りを 設けているだけで、全部地続きであることと同じように。 だから、唯一の、崇高な、絶対の、と表現されたものは、 逆に言えば全て「虚構」だと考えています。 流れない河など無いし、移ろい行かぬ雲などありませんから。 区切りも境目も、全部人間が自分の都合で決めたもの ばかりです。 社会で成功する人、地味でも1つの生き方を揺ぎ無く まっとうできる恒星間宇宙船に比べて、一番困って しまうのは地球の周回軌道上を回り続ける人工衛星です。 これはもう、太陽より更に近傍の地球の重力に完全に 支配されてくるくる回るしかありません。 推進剤を使って低い軌道から高い軌道に遷移することは 出来ても、衛星間宇宙船になるためにさえ、地球の重力件を 脱出する軌道速度を出さなければ飛び立つことも叶わない。 地球の軌道という限られた系の中で、常に全体を見渡し 自分の位置と姿勢を把握し続けなければ存在価値を失います。 市政が安定しないGPS衛星では地上は大惨事の連続です。 具体的な運用をされていないもの、例えば、寿命を終えた 衛星や、軌道投入に失敗し、通信が途絶した衛星などは もはや姿勢を安定させることも出来ずにくるくる回りながら 軌道上をさまよい、互いにぶつかり合って傷つけ合っては 千切れ、剥がれ、粉々なって級数的にデブリを増やして行く。 ご存知の通り、ケスラー・シンドロームは地球を極超音速で 飛び交う無数のデブリに包まれて、宇宙に出ることが出来なく なってしまう。 哲学の森にさまよいこんだり、社会で自分の位置や姿勢を 保つことが出来ずに、軌道投入に失敗したデブリのような 人々は、くるくる回りながら互いに傷つけあったり絡み合ったり しながら、引きこもってしまう様は、まるでデブリの幕に包まれて 宇宙から孤絶した、人間に侵された地球のようです。 先日、デブリにやられてたった一人で軌道上をさまようことになった 女性飛行士の生還を描いた映画がヒットしましたが、青い地球を 眼下に見下ろす真っ黒な快晴の宇宙の中で、グルグル回りながら 通信が途絶し、切望的な状態でさ迷う彼女は、必死で掴むものを 探し、方向を知るために地球や太陽が現れては消える、回転する 宇宙の中で方角を必死でロスとするまいとあえいでいました。 絶対的な神を求め、一切それを否定することなしに祈り続ける 人々の姿は、正しく、自らの姿勢を自らで制御することが出来ずに くるくる回りながら必死で太陽を見失うまいとする彼女そっくりです。 やがて夜の側に入り、太陽を見失う。酸素は残り少なく、相変わらず 通信は途絶。レシーバに聞こえてくるものは懐かしい眼下の地球の 夜景が放つテレビやラジオだけ。 中継衛星が無い状態では、 衛星経由でネットに接続することもスマホも通じない。 貧困にあえぎ、教育も受けられず、奪い奪われ、侵し、犯し、殺し 頃されの人々が置かれている状況は、考えれば考えるほど、 デブリと化した無力な飛行士の・・・というより、デブリそのものに 思えてきます。 叱られそうだけどね。 私は人の姿をした神、というものを勿論、夢想の産物・・・というよりも 地獄の底であえぐ人々が必死で生きるために心の目で追い求めた 太陽のイメージなのだと考えています。 それは、存在証明を画策することさえ出来ない、言葉の上にしか 存在しないものだと考えています。 毎日喰われる為に育てられ、幼いうちから屠殺され、ミンチや ソーセージにさせられる、牛や馬や豚の神はいるか?、否。 生きとし生けるもの全て、というなら、べん毛虫や細菌の神はいるか?否。 宗教は、科学を否定します。 神を否定することに繋がるからです。 存在証明さえ出来ないものを、科学はその俎上に載せませんから。 だが、化学文明も経済社会も凄まじい発展を遂げ、それを理解し 運用の一部になれるものとなれないものに二極分化が進んでいます。 先頭のグループから、二番手から、やがて団子になっているいくつかの グループから脱落して、はるか後方をトボトボ走るランナーは、もはや 走る意味を完走にしか見出せません。 そして、迂闊にも走ることそのものだけでなく、ランナーとしての自分の 存在自体を疑い始めた彼は、もはやランナーでさえなくなる。 やがてのろい走りは歩みになり、ついにはコースを離れて 棄権するでしょう。 人生にも実に似た航路がいくつも見受けられます。 自然法則しか存在しない宇宙で、だだの物質が集まり、渦を作り、 とてつもない重力場が生まれ、光が生まれ、原子が生まれ、 物質が生まれ・・・星が生まれてやがて生命が誕生し、無数の 繁栄と絶滅を繰り返しながら、これほどまでに進化した、それが 無為な偶然だ、とは勿論私も思いません。 ただ、その途方も無い原理や仕組みや、複雑精緻な、そして 永遠ともいえる時空を事実上支配しているシステムがあることは おぼろげながら論理的帰結として感じます。 でも、それを神と呼ぶには余りにも近視眼的で、人間的な、余りに 人間的な、ピンホールでしかないと思うのです。 全ての生命を育み、遍く全てを支配するものが、人間などという ちっぽけな、宇宙の歴史の中での、一生物相に過ぎない存在に、 全ての統括者としての金印など与えると考える方が思考停止の ロボットだ、と思えるのです。 神は人間に見えないが存在する、のではありません。 それはただのポエムです。 電波は、目に見えないけれども今この場を飛び交っている。 これは誰もが確かめられる事実です。 楽しい思考実験なのですが、もしもオン・オフを行うLSIの中の 電子素子を蛇口に、流れる信号電流を水に置き換えたら。 途方も無く演算に時間がかかる水コンピュータだって出来ます。 人間やクルマが、様々な情報を運ぶ信号の波形で、 それを縦横に通す道路や航路を回路だと考えれば、そして ビルや組織などが情報を蓄積したり演算処理したりする デバイスチップだと考えれば、誰も窺い知らぬけれども 「都市は思考している」ともいえます。 ネットで言えば、地球は思考している、となるでしょう。 同じ働きをするものを、他の媒体に移し変えることは、 技術的な問題を別にすれば不可能ではありません。 トポロジカルに変換が出来る。 と、いうことは、コンピュータのソフトやデータが、今では 様々なクラウド上のサーバーに分散して置かれている ことを考えれば、具体的な固定されたハードディスクと 不可分な存在では無くなってきています。 人間の脳は、もっともっと複雑ではあるけれど、ハードと してもソフトとしても、何も無かったところから過去を再現 するプロセスの中で発生し、生育します。 種として、のみならず、個体としても、です。 何が言いたいかというと、生まれも育ちも社会と歴史、と いうこと。 DNAという歴史と、社会生活という環境を摂取し、呼吸し、 体内に再現しながら生命個体は成長する。 その時点で、その個体のルーツになっている無数のソースが その個体の外側に存在している、ということになります。 これは否定出来ない、いわば「真理」に近いものだ。 もう4000字近いけど、あと数行必要なので、この後追加で書きます。

yuniko99
質問者

お礼

う~~ん 長い。読み終わったら前半以上は忘れている また見なくては分からない 他の恒星をを目指す宇宙船と太陽系内での力学や恩恵に与ろうとする宇宙船と それすら出来ない人工衛星。そして女性宇宙飛行士の喩えは良いアイデアでしたねえ。 よく分かりました。 しかし私はもう年で病人ですからどこが神のことで人のことかも分かりづらいのはあります >考えれば考えるほど、デブリと化した無力な飛行士の・・・というより、デブリそのものに思えてきます。 というのも頷けますねえ。 >いわば「真理」に近いものだ。  真理に貫かれている厳然たる現実 でしょうか? >はるか後方をトボトボ走るランナーは、もはや走る意味を完走にしか見出せません。 これは限界集落の長生きするお年寄りでしょうか? 読むのが大変だったので 書くのは程々にして続きを読みます。 飽くまでも端的に^^ どうも大変ありがとうございます。

yuniko99
質問者

補足

良い事書いてありますが 長すぎますねえ 僕が十分読めてないかもしれません。・・・・・

  • kurinal
  • ベストアンサー率10% (128/1195)
回答No.15

こんばんは。 >「ヒューマニズムが強すぎて 裁判で訴える賠償額が桁違いなのがアメリカ 自由の国はいいが格差が大きい。それが日本にまで伝染した。 神様と人間はどちらが大切なんだ!と言いたくなるこの現状。 皆さん 神様と人間はどちらが大切でしょうか?マジで。 端的に くれぐれも端的にお願いします。m(_ _)m」 ・・・「信教の自由」には、限界があります!!。

yuniko99
質問者

お礼

こんばんは クリナルさん。ご機嫌はいかがですか? 「信教の自由にも限度というものがある!!」と怒っておられるのか 「信教の自由にも限界がありますよ 要らん事言うな!!」と怒ってあるのか よく分かりませんが 起こってなければいいのですが・・・m(_ _)m すみません。 どうもありがとうございます。

noname#210533
noname#210533
回答No.14

明日もう一度回答を書きます。 あなたは別な質問をされていますが、 そちらに書いた3500文字がシステムエラーで 全部吹っ飛んでしまいました。 頭真っ白、今日はもう店仕舞いです。 あーあ。

yuniko99
質問者

お礼

それは残念 貴方はなかなか良い事を書くので感心しています。 3500文字とは 痛かったですねえ コピーしてたら ねえ・・・ ちょっと多すぎたのかな? また書いてくださいね 今度は短めでいいじゃないですか 要点を 端的に^^ どうもありがとうございます。

  • a_hona
  • ベストアンサー率21% (95/444)
回答No.13

質問者のような考えを素朴唯物論と言います。自らの思考を自分の体験した事柄に委ねて、結論を導こうとする姿勢です。しかしながらそれだけでは、他の人の様々な考えを許容するキャパシティは生まれてきません。他にも多くの創造的な考えが世には存在するのです。 他の人の考えも理解できるが、私はこう考える、というスタンスが無いと、凝り固まった思考によって行き詰まります。

yuniko99
質問者

お礼

不勉強で申し訳ないです 思い込みが激しいもので。 学びて思わざれば即ち暗く、思いて学ばざれば即ち危うし。 また教えてください どうおありがとうございます。

  • titelist1
  • ベストアンサー率25% (712/2750)
回答No.12

毎日のように神棚と仏壇に手を合わせておれば、そのような疑問は生まれません。疑問を感じるのは心のよりどころがないからです。自分が神仏を信仰せずして、神仏になれるはずがありません。

yuniko99
質問者

お礼

成る程 有り難いお智であります。 自分が神仏をしない人は神仏にはなれないわけですね では神仏を信仰している人は神にもなり仏にもなるのでしょうか? 日本の神の話ですよね どちらか片方でもいいのでしょうか? 死んでから神仏になる人 神になる人 仏になる人 何にもならない人 と別れるのでしょうか? 何もならない人は?地獄にでも落ちるのでしょうか? 無神論じゃは救いがたいと こう仰るわけですね どうもありがとうございます。

noname#205946
noname#205946
回答No.11

んっ!? 「精神は永続する?・・・・何処に? あの世に? 宇宙のどこかに? 自然の中に? 千の風になって?? 宇宙の精神が神で 人の脳(小宇宙)の性質が人間?」   ↑ これに回答したまでですよ・・・見えないものも この世にはあるし それを見る為には 必要なものが要ると言う事を「微生物と顕微鏡」で表しただけです・・ 霊は そもそも 電気エネルギーなので 通常では見えません・・だから 仏教等では後光を挿絵にしたり キリスト教に於いても キリストを光輝かせて表してるのです・・

yuniko99
質問者

お礼

>霊は そもそも 電気エネルギーなので 本当でしょうか? 電気エネルギーと光エネルギーはどう違うのでしょうか? キリストを輝かせているのは 電球なのでしょうか?? それとも稲妻?稲光でしょうか? 見えないものは精神?精神も見えませんが酸素もメタンも見えません 爆発したら見えるかも? う~~む どうもありがとうございます。

noname#210533
noname#210533
回答No.10

では、端的に。 この世には人間しかいない。

yuniko99
質問者

お礼

神は存在しないと こう仰るわけですね。 無神論 一つの立場だと思います。 しかしでは キリスト教徒やイスラム教徒があのように神を信仰し 日頃の行いにも意識し 協会などに集って賛美する その様な力は何なのでしょうか?精神的に働いてるそのような力を何だと思いますか? どうもありがとうございます。

  • Key_A
  • ベストアンサー率9% (55/603)
回答No.9

宗教には、いちばん尊ぶべきものがある。 神道系はそれが生命とは異なる神であり、仏教系は生命に内包する仏性なのです。 「神」は歴史上、統治ツールとして、手段として使われてきた。この時点で 論理破綻していると言えます。因みに、裁判とか何の関係もないですからw

yuniko99
質問者

お礼

>神道系はそれが生命とは異なる神であり、仏教系は生命に内包する仏性なのです それでは精神はどちらでしょうか? 僕は生命とは異なるものと考えます。 もちろん生命の影響は受けますが 本質的には生命と精神は別ものです。 神が政治ツールに使われたかもしれませんが、お金が労働の対価であるように 人々の信仰としての神も在ったのではないでしょうか? どうもありがとうございます。

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    私は神などいないと思っています。 理由としましては (1)神が居るのであれば、理不尽に奪われる命が多すぎる (2)死すべき人間が多い が主な理由です。 もし存在を信じられていたとしても 人の命を弄ぶ神が崇拝されえる意味が理解できません。 なのでキリスト教や仏教など信仰する人にとって 神とはどのような存在なのでしょうか。 また上記のような不条理はどのように理解しているんでしょうか。

  • どんな《神は死んだ》のか?

     どんな《神は死んだ》のか?  主題は ふたつです。  神とは何か?――あるいはつまり 神とは何でないか?  ニーチェのたましいをやすらかな眠りにみちびくことばをかけるとしたら それは何か?  まづ 三島憲一のニーチェ論の一端を引きます。あとで 具体的に問います。  ▲(三島憲一:ニーチェが戦ったもの) ~~~~~  ニーチェが『喜ばしき知識』の中で《神の死》を宣告した話はよく知られている。    寒くなってきてはいないか?    これからはますます夜に 夜が深くなっていくのではないか?    昼前から行燈を灯す必要はないのか?    神を埋葬する墓掘人たちの音がまだなにも聞こえないというのか?    神が腐る臭いがまだしてこないのか?    ――神々といえども腐るのだ。    神は死んだ!    死んでしまい 蘇ることはない!    しかも 我々が殺したのだ!    殺しの中の殺しをしたの我々は いかにして自分たちを慰めたらいいのだろうか?    これまで世界が持っていた最も聖なるもの 最も強いもの その神が我々のナイフによって血を流して死んだのだ。     (『喜ばしき知識』125番)  大方の思想史では このいささかパセティックで安っぽいレトリックに溢れた文章によって ニーチェはプラトニズムとキリスト教がその根拠となっていたヨーロッパの道徳の自己崩壊を確認したということになっている。形而上学の完成と解体が告げられている とされている。  しかし 考えてみれば 変な話である。すでに一八世紀の啓蒙主義以降 知識人は 家庭のつきあいを別にすれば キリスト教の神は信じていなかったはずである。プラトンのイデアとなればなおさらで 大学の哲学科の訓古注釈の営みの外で そんなものを信じている銀行家や工場主や労働者や農民や そしてなによりも将校たちが多数いたとは到底考えられない。なぜ キリスト教の神の死を ニーチェはいまさらのごとく触れ回ったのだろうか。  実際には・・・ニーチェはいわば 自己の議論の正当化のために 当時において標準化されていたヨーロッパの思想の歴史を逆転して 新たに構築しただけであって 実際に闘っていたのは一九世紀の自分の周囲の生活形式(あるいは文化)であり それへの抵抗の中で このようなキャッチフレーズを生み出したのである。  《我々が殺したのだ》ということは 神を生かしておくも 殺しておくもこちら側 つまり我々の思うまま 我々のさじ加減一つということである。すでに神は我々によって構築されていたことが含みとしてある。つまり 神を構築してきた当の我々が葬られるべき存在なのである。ニーチェが闘った相手は 神の語をむやみに重視する一九世紀の生活形式であり 文化なのであった。  ひとことで言えば この生活形式の中核は ナポレオン戦争の終結とともに だがさらには一八四八年革命以降 特に顕著になったヨーロッパの再キリスト教化 そしてそれとタイアップした市民階級の再封建化といわれる現象である。ニーチェはその知的生涯においてそれと闘う中で 彼の《破綻の美学》を生み出したのだ。  ・・・  再キリスト教化自身が ニーチェには神の死を意味していたのである。  (三島憲一:『ニーチェ以後――思想史の呪縛を越えて』 2011 第五章 破壊的理性の美学――素描の試み   pp.149-151 )  ~~~~~~~~~~~~~~~~  一九世紀の《再キリスト教化》について三島は きちんと例証していると思います。  そこでそのことに深入りはせずに 全体としてこの三島の議論に 必要な注釈をつけたり あるいはちょっと違うのではないかという批判を加えたり 言うべきことがありましたら まづそれらをおしえてください。  と言っておいて あとは 神とは何か? を問います。  三島も触れていますが 《われわれが構築した神をナイフで殺した》のなら それは《観念の神》であって・あたまの中の想念の中に描かれた思いや考えであって 劣ったものであったり時代遅れになったりしたら ナイフで切り殺されても当たり前です。ただの想像の産物を相手に闘った。またそういうたぐいの文章である。  つまり そんな《ただの観念の構築と抹殺といったお遊び》のことを どうしてその熱情を燃やして闘ったりしたのか? それは どこから見ても《神》ではなかったというのに。  いったいニーチェとは何だったのか?  レクイエムを書いてやってください。

  • 何と言う《神は死んだ》のか?

     主題は ふたつです。  神とは何か?――あるいはつまり 神とは何でないか?  ニーチェのたましいをやすらかな眠りにみちびくことばをかけるとしたら それは何か?  まづ 三島憲一のニーチェ論の一端を引きます。あとで 具体的に問います。  ▲(三島憲一:ニーチェが戦ったもの) ~~~~~  ニーチェが『喜ばしき知識』の中で《神の死》を宣告した話はよく知られている。    寒くなってきてはいないか?    これからはますます夜に 夜が深くなっていくのではないか?    昼前から行燈を灯す必要はないのか?    神を埋葬する墓掘人たちの音がまだなにも聞こえないというのか?    神が腐る臭いがまだしてこないのか?    ――神々といえども腐るのだ。    神は死んだ!    死んでしまい 蘇ることはない!    しかも 我々が殺したのだ!    殺しの中の殺しをした我々は いかにして自分たちを慰めたらいいのだろうか?    これまで世界が持っていた最も聖なるもの 最も強いもの その神が我々のナイフによって血を流して死んだのだ。     (『喜ばしき知識』125番)  大方の思想史では このいささかパセティックで安っぽいレトリックに溢れた文章によって ニーチェはプラトニズムとキリスト教がその根拠となっていたヨーロッパの道徳の自己崩壊を確認したということになっている。形而上学の完成と解体が告げられている とされている。  しかし 考えてみれば 変な話である。すでに一八世紀の啓蒙主義以降 知識人は 家庭のつきあいを別にすれば キリスト教の神は信じていなかったはずである。プラトンのイデアとなればなおさらで 大学の哲学科の訓古注釈の営みの外で そんなものを信じている銀行家や工場主や労働者や農民や そしてなによりも将校たちが多数いたとは到底考えられない。なぜ キリスト教の神の死を ニーチェはいまさらのごとく触れ回ったのだろうか。  実際には・・・ニーチェはいわば 自己の議論の正当化のために 当時において標準化されていたヨーロッパの思想の歴史を逆転して 新たに構築しただけであって 実際に闘っていたのは一九世紀の自分の周囲の生活形式(あるいは文化)であり それへの抵抗の中で このようなキャッチフレーズを生み出したのである。  《我々が殺したのだ》ということは 神を生かしておくも 殺しておくもこちら側 つまり我々の思うまま 我々のさじ加減一つということである。すでに神は我々によって構築されていたことが含みとしてある。つまり 神を構築してきた当の我々が葬られるべき存在なのである。ニーチェが闘った相手は 神の語をむやみに重視する一九世紀の生活形式であり 文化なのであった。  ひとことで言えば この生活形式の中核は ナポレオン戦争の終結とともに だがさらには一八四八年革命以降 特に顕著になったヨーロッパの再キリスト教化 そしてそれとタイアップした市民階級の再封建化といわれる現象である。ニーチェはその知的生涯においてそれと闘う中で 彼の《破綻の美学》を生み出したのだ。  ・・・  再キリスト教化自身が ニーチェには神の死を意味していたのである。  (三島憲一:『ニーチェ以後――思想史の呪縛を越えて』 2011 第五章 破壊的理性の美学――素描の試み   pp.149-151 )  ~~~~~~~~~~~~~~~~  一九世紀の《再キリスト教化》について三島は きちんと例証していると思いますが 割愛します。  そこでそのことに深入りはせずに 全体としてこの三島の議論に 必要な注釈をつけたり あるいはちょっと違うのではないかという批判を加えたり 言うべきことがありましたら まづそれらをおしえてください。  と言っておいて あとは 神とは何か? を問います。  三島も触れていますが 《われわれが構築した神をナイフで殺した》のなら それは《観念の神》であって・あたまの中の想念の中に描かれた思いや考えであって 劣ったものであったり時代遅れになったりしたら ナイフで切り殺されても当たり前です。ただの想像の産物を相手に闘った。またそういうたぐいの文章である。  つまり そんな《ただの観念の構築と抹殺といったお遊び》のことを どうしてその熱情を燃やして闘ったりしたのか? それは どこから見ても《神》ではなかったというのに。  いったいニーチェとは何だったのか?  レクイエムを書いてやってください。

  • 死んだ人間を神に格上げする、靖国の思想

    死んだ人を仏と言いますが、仏は神様ではないし、一神教では到底、死んだ人間を神にはしません。 靖国では戦士した軍人軍属を軍神として祀っていますが、死んだ人間を柱という神の単位で数えるなど、死んだ人間を神とする思想は、神道の思想なのでしょうか。靖国独自の思想ですか。戦前は天皇が神様だったので、死んでも神として祀られることは無かったと思いますが。多神教ゆえですか。

  • 神の本当の目的

    僕は、エホバの証人と聖書を勉強している学生です。 先日、神が人間を作った目的について考えていたのですが、聖書には人間を喜ばせることが目的だと書いてあります。 しかし、どうも僕は「神が自分への崇拝を求めて」人間をつくったのではないかと思うのです。 そして、聖書もキリストも悪魔も、「自分への愛情を源とする濃い崇拝行為」を望んで用意した壮大な「ストーリー」なのではないかと思うのです。 僕の聖書研究司会者は、「矛盾点がある」というのですが、それがどこか分かりません。だれか教えてください。