• 締切済み

無我と縁起

倫理の質問です。 無我と縁起の考え方が身の回りの出来事や自らのあり方にどう影響していると思いますか?

noname#202586
noname#202586

みんなの回答

回答No.1

 私利私欲的な作為のない心境によるきっかけの与え合いは、困難に満ちた世の中で「善処とそれに対する善意」という社会における前傾の流れの起点として、そこかしこでくさびになっているのではないかと思います。

関連するQ&A

  • 無我についてご意見ください。

    中村元の本を読み終えたところです。 からは良い学者だ。 それはともかく。 釈迦は社会に対して自己を説明しようとして、あなたが考えている通りの私ではない。 すなわち社会から認識された自己は当人にとって本物の自己ではない。 私はあくまで私なのだ。 私の心は「無」言わば空にありその心情に達し私を知るには同じく心を空にする必要がある。 君達の考える私はいないと言う意味で無我であり、私の心は無を信じる事にあると言う意味で無我である。 こんな心情を無我と説明したのではないか。 釈迦曰く、「私の無の謎を知るには自らを滅却しいっぺん死んでみる事だ」そんな余計な信仰を伝道したとも言える。 それはともかく それならば かつての質問、無の悟りは信仰心を表し大乗はあやまりである↓ http://okwave.jp/qa/q7755513.html これなんかで説明した無の信仰の一部であり、 有無の分別 彼我の分別 この手の事柄に随伴する心情では無かったのか。 釈迦に関して私からの大きな批判は、彼は仏陀の信仰を知れと、自らの信仰を押しつけた事だ。 そうで無く、誰もが自らの信仰を知ればよい。 これが私の考えなんだが、その点にもご意見ください。 主題は無我についてなのでそれについて主にご回答を期待しています。 一言いえば、自らの信仰を知ることに、助けてくださいとか、救ってくださいは、無いだろう。 無だ。 テメーで何とかしろ。 この大乗に対する批判に関してもご意見募集です。 私から一つ言えば、社会性を人間が生きるための行いとして認めれば、それは善であり、助け合いは肯定できるだろうが、信仰の連帯に踏み込むことはその社会性に含まれるかどうかには、見解は色々あるだろう。

  • 無我はもしかしてくだらないことか

    あらかじめお断りしておく。 私は君達哲学者を、廃人で人間以前のクズだと考えていて、質問はそんな廃人に対する「猿回し形式思索法」だと判断して組み立てている。 無駄な抵抗をしたくもなるだろうが、それならそれでよい。 ともかく、わきまえた上で回答してくれたまえ。 前回はコレ↓ 無我について教えてください http://okwave.jp/qa/q7642694.html 参考としてコレ↓ ゴルゴムの総帥は歴史上実在した人物である http://okwave.jp/qa/q7370565.html もしかしたらお釈迦様は私と違って、世界の全てが苦しみであると言う娑婆世界観を方便や例え話でなくて、自らが本当に信じ込んでいて、「そんな苦痛の世界に私はいない」だからこそ私は無我にある、すなわちこの世ならざる幸福を私は味わっており、それは心が涅槃にあると言う事だ。 釈迦は、このような倒錯した心情であったにすぎないのではないか? 君達はゴルゴムの下僕なので娑婆世界観を信じるかもしれないが、私は遠く心を涅槃(あの世のようなところ)に置かなくても世界の全てに幸福を観る。 弥勒菩薩の観想として世界の全てに幸福を観ている。 もはや娑婆ではないので、君達はそんな幸福の世界にいて自らを救ってしかるべきなのだ。 誰かから、救われる事は無いぞ。 自らを救うのだ。 すなわち世界に開眼し、「孤独」これを釈迦は我と観じたのだろう。 そこから脱却する事こそ悟りと表現されたり、解脱と表現されたりする事柄だ。 釈迦の墓守をするなら、苦しみの中から、死の輪廻を経て幸福を現世に見いだすだろう。 これは生きながらに死ぬと言う事で君達がいま現在実践している事だ。 君達は生きようとせず、屍をさらしてさまよっておる。 それを何とかするにはゴルゴムと共に滅びる事で、自らの滅却だ。 観念上で一発、死んでみる事は、要するに死を理解することだが、これは精神を枯らし滅却することだ。 君達は過酷な修行ののちに悟りを開いた釈迦と同じく、ファイト一発、一回死んでみる必要がある。 そう言う事を語り継いできたではないか。 言っとくが処刑されたイエスにすがりついても全く同じ事をする必要があるよ。 蛇足だが「見る」と言う言葉を「観る」に置き換えて論じているね。 観音様とは華やかな歌姫で常に私のかたわらのおる。 観音様とは仏でなく神だな。 宣伝するがポケモンのメロエッタちゃんが古臭い観音像でなく現代の歌姫だ。 関連商品をおもちゃとして安く買えるから買ってくれ。

  • 仏教:「空」と「諸法無我」の違いを教えて下さい。

    気になって眠れません・・・ 般若心経で説かれている「空」 法華経で説かれている三法,四法印の内の「諸法無我」 両者に違いはあるのでしょうか? それとも同じものなのでしょうか? まだ法華経以外の経を学んでおりませんし 法華経自体も学んで日が浅い私の勝手な安易な解釈ですが 空・・・・・・この世は一つである 諸法無我・・・この世のものは繋がっている(関係し合っている) 両者は逆説の関係ではありますが同じでいいのです・・・・・ね? 経は違えどもともと同一人物にによって説かれたものですから 同じであって当たり前だと思うのですが どちらも真理であり真理で無いですよね? まず悟り真理というのを言語化でしている時点で 「空」も「諸法無我」も悟りから得た真理を人々に伝えるために言語化した表現、「方便」なのでしょうか? 結局は自ら考え自ら納得できるかが問題なのでしょうが・・・

  • 因果と縁起の違いについて教えていただけますか

    ある本を読んで、因果と縁起について書かれていました。 仏教用語からきているのと思いますが、 因果は、Aの現象により(因)、Bの結果が必然として起こる。という考え方、つまり、Aがおこれば必然的にBの結果が生じる ということでした。 これは理解しました。 しかし、縁起が理解できません。 「縁起』とは何かに『縁』って『起』きることである」 と説明がありますが、これはどういうことでしょうか? さらに、 「存在も出来事も縁起です。自分以外のいろいろなものとの関係のつなぎ目です。選択は人生における大切な縁を生み出す行為です。」 とありますが、これは 「その都度ベストな選択をしていれば、大切な縁が起こる」ということで その現象を縁起というということでしょうか? Aが起これば 必ずBの結果になる が因果で、 Aが起これば、偶然的な要素(縁)が作用して、Bになる確率が高まる、それが縁起ということでしょうか? どなたか教えていただけますでしょうか。

  • 縁起の悪い食べ物を教えて下さい。

    縁起の悪い食べ物について調べています。 しかし調べてみても意外と縁起の良い食べ物の情報しか出てきません…。 例えば「死」に通ずるからこの食べ物はお祝いの席では食べられない、縁起の悪い切り方、呼び方など、何かひとつでもご存知でしたらお教え下さい! 前回も質問させて頂いたのですがもう少しばかり皆さんの知恵をお借りしたく再投稿致しました。よろしくお願いします!m(_ _)m

  • 釈迦の無我の悟りは不完全であり幻想だ。

    ひとり言のような作文だよ。 文章の推敲のための助けとして回答してくれても良いし哲学可能ならその方がいい。 社会性が、すなわち人の行いが、善の資質を備える事の表れだと言う前提から始めるよ。 文明とは農耕の事なんだそうな。 農耕とはすなわち、自らが生きるために他の生命を育む事である。 このように自らが生きるために、他者をも生かすことにつながっているのが、人間同士の共生として社会生活だ。 生かすから生かされるのが利他であり、生きるから生かすのが利己だ。 見解は人の主観によってさまざまな解釈があるが、所詮同じ事だ。 人を生かす事とは、人に親切にしたりして良くしてあげる事であり、生きる事がすなわちそのような行いである以上、それは善性の発露だ。 屍をさらしてさまよう人は生きているとは分類しない。 そうでなくて、人が生きていて、今後も生きようとするなら、善性に基づいて他者と共に生きようとするのが必然である。 ここで、生きている事は偽りなく善であり、その善のみで生きるのが、悪を知らない私のような生き仏さんだ。 禅宗などの無我の理想的解釈によると、真理とは主観内からは推し量られない事になっているので、無我になる事でそれが可能だとしている。 その例え話上の無我論で論理的に、偏見を捨てれば世界が見渡せると言う事になっている。 私はその真理に、真理の立場では悪は存在しないとか何とか言って一時期流行したがそれはともかく、重要なのは、そのような真理の見地は実際には無我の正反対で確固とした我が確立した「天上天下唯我独尊」であって開ける見地だ。 我は存在する事が動かし難い。 無我の伝承上の理想論そのままであるからこそ、そこには「我」そのものである幸福を実感する私がいる。 そんな私の弥勒菩薩ブリはともかく、釈迦はその説話で悪をたびたび批判している。 当時の無我論でも逆説的表現とは言えそれを実感可能な境地であったならば、真理に悪は存在しないため、釈迦は悪を見なかったはずだ。 したがって非常に胡散臭い。 さらに生きる事が善性の発露である人間の社会生活は、全てが幸福であり、釈迦の言った全てが苦の世界観は偽りだ。 そうすると、無我論は何だったのか、私には明白な解釈が出来ないので考えあぐねています。 くだらない錯誤である事はおおむね間違いないのですが、猿にでも判る明白な解釈をしないと商売になりません。 ですので、サル踊りしてください。 私は自説を商売にするつもりがあって、猿でも悟れる無の境地を一冊の本にでもしようかと本気で考えています。

  • 縁起のいい手

    タイトルどおりです。 今度、お世話になった麻雀好きの方に 麻雀の牌を並んだちょっとしたものをプレゼントします。 そこで質問です。 お世話になった方なのでこれからの門出を祝って 縁起のいい手のものを並べてプレゼントしたいのですが 縁起のいい手を教えてください。 マージャンをやったことないので そもそも縁起のいい手があるか知らないのですが、 こんな時、どんな手をプレゼントすると喜ばれますか?

  • 無の悟りとは方便であり、お釈迦様の無我は偽りである。

    無の悟りとは方便であり、お釈迦様の無我は偽りである。 無の悟りとは無いものは無いと明白にする、有無に照らした分別の身を指します。(持論) そこで無我について考えてみました。 煩悩を考察する例え話です。 たとえばテレビでフェラーリを見てかっこいいから欲しくなった。 冷静であればお金が無いからやっぱりやーめた。 このようになります。 ところがどうしても欲しいと、中古品の旧車で安いのは無いか、、いっそのことミニカーでも買ってみようか。 このようにくよくよします。 そのようなくよくよがなく、「そんなもんありゃしねー」とすっぱりと切るのが無です。 この場合の無とは、「我には無い」と言う意味です。 でも世の中にはフェラーリと言う車が流通しそれに乗る御金持もいます。 我には無い、されど世にはあるです。 無我に照らせばフェラーリはあるです。 我に照らせばフェラーリは無いです。 ならば無我に照らし、さらには無しとする「無」はあるのでしょうか。 世の中をあまねく照らせば全てはあるです。 無は信仰のみにしか無い。 ところがあまねく照らすアマテラスさんはほほ笑みかけます。 「私があなたを知らないわけがない」と。 そうすると想像の産物、想像の世界とは、人間にとっては無と言いうる側面がかつてあった。 しかし神に照らせば全てはある。 ならば無とは偽りであり、無の悟りとは神への反逆である。 お釈迦様は自らの信仰を他者に伝え仏教の始祖となりましたが、その信仰の内容とは無神論そのものであり、信仰の根ざす事柄は無への信仰である。 私は無我とは偽りであると主張します。 それでも無我を主張する仏教の教えについてご教授ください。

  • これは縁起がいい!

    今日夜中にPCをやっている時、ふと液晶時計を見たら 「3月3日 3:33」 だったので、パチンコ好きの私は「うわ~こりゃ縁起がいいわ~!」となんだか変な勝利感と幸福感を味わうことができました。 (こんなことで幸せになれるなんて、なんて安上がり) こんな時、結婚前なら「今日は絶対パチンコ行け!ってことなんだわ!」と根拠のない自信に満ち溢れた顔で主人を誘って行っていた(怖くて一人では行けない)のですが、 かわいい乳児&幼児がいる今は当分おあずけ… なのでかわりにこの気持ちをこちらにぶつけることにいたしました。 …ではなくて、これではただの日記になるので、皆さんのこういった 「おっ!これは縁起がいい!」 と思った体験を聞きたく、質問しました。 みなさんそれぞれに何を「縁起がいい」とするかも全然違う基準があったりすると思うので、とても興味深いです。 ちなみに私が今までで一番「こりゃ~縁起がいい!」と思ったことは、 若くして【授かった婚】(あえてこう呼ぶ;)をすることになり、年が離れた彼(現・夫)を初めて親に紹介し結婚の承諾をもらいにいく、という大事な日… 高速道路の車中から、大きな虹を見たのです。 そしてその端が高速道路の真ん中まで続いており、私達は虹のアーチをくぐりぬけることが出来たのです! なんだかこの結婚を天から祝福されたような… (大げさ)そんな気持ちになって、その感動に様々な不安やつまらない迷いなんかは吹き飛んでしまいました。 そしてその日はバッチリうまくいき、突然のことであったにも関わらず何の障害もなく結婚することも叶って、今に至る…というわけです。 「思い込み」とかは禁句です(笑) みなさんの色んな『こりゃ~!…』、お待ちしております。

  • 仏教の「縁起」は何によって起こるのですか?

    学生時代、仏教を勉強していたものです。 確か当時、縁起によって全ての事象が起こると学んだような気がします。 私はこの観念が好きで、社会人になってもそのように物事を見るよう心がけてます。 しかし、ふと最近、疑問が湧きました。 縁起によって事象が起こるのはわかったけど、そもそも「縁起」自体は何によって起こるのだろう。 そんな疑問が浮かびました。 要素と要素の間に関係を生み出す力とは一体何なのだろうと。 何の力によって要素同士は「縁起」という結びつきに至るのでしょうか。 そこにも何か法則があるのでしょうか。 もしかしたら学校で教えてくれたのに私が理解してなかっただけかも知れない。 また、もしかしたら、初期仏教ではブッダはそれに言及していないのかも知れない。 もしかしたら、それを理解するというのは悟った人にしか不可能なことなのかも知れない。 もしかしたら、後に大乗仏教や上座部仏教で語られてるのかも知れない。 と、いろいろ考えてみましたが、やはり真相が知りたくて質問させて頂きました。 何とぞよろしくお願いいたします。