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落窪物語の一節の敬語につきまして

kimosabeの回答

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  • kimosabe
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回答No.3

a日本古典文学大系(岩波書店)、b校注古典叢書(明治書院)、c日本古典文学全集(小学館)で本文を確認しました。この部分に関しては、   三,四の君、裳着せたてまつりたまはむとて、かしづきそしたまふ。 で間違いありません(表記の違いはありますが)。   三,四の君、裳着せたてまつりたまはむ は「とて」の上ですから会話文(もしくは心内文)と考えがちですが、おそらく地の文でしょう。「とて」の意味は、下記URLの古語辞典の2「動機・目的」が近いだろうと思います。問題の部分は、   三の君、四の君には、裳を着せ申し上げなさろうということで、 とでも訳せるところ。尊敬の補助動詞「たまは」は、作者から動作主体「中納言」に対する敬意です。 ちなみにa、bは、   三、四の君、裳着せたてまつりたまはむ を「 」でくくっていませんが、cは「 」でくくっています(この全集は現代語訳付きですが、「たまは」は訳出していません)。もちろん私はくくらない派です。

参考URL:
http://kobun.weblio.jp/content/%E3%81%A8%E3%81%A6
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質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 なるほど・・納得いたしました! 3種類も文献を確認してくださって、心より感謝いたします。 また質問させていただくことがあるかもしれませんが、 よろしくお願いします。

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  • 外国語はタメ口?

    日本語には敬語があり命令やタメ口以外はすべて 相手との上下関係を意識した尊敬語、謙譲語になります。 尊敬語、謙譲語という言葉が硬ければ やわらかい言い方ときつい言い方と考えて頂いても結構です。 (「行ってください」「行って」「行け」とか) でも外国語はそういう言葉がほとんど無いに等しいので 言われた時の感情がどうなのか興味があります。 英語でもexcuse me、pleaseはありますが 店と客の間とかかなり意識的に付け加える必要があるケースであり 付け加えなければ一気に「タメ口」になってしまうのでしょうか。 例えばCOME ONが日本語の「こっちへ来てください」と解釈するのか「こっち来い」と解釈するのかでずいぶん感覚は違ってきますけど どうなんでしょう。学校の授業では英語の訳が「です。ます」口調なのでその辺の感覚が判らずどうしても「こっち来い」と解釈してしまいます。 日本人が海外で暮らしている時、知らない人や 会社の先輩後輩、年上年下で目下(現地の人)から「タメ口」を使われるわけで、 使われた人の立場からはぞんざいな感じで不愉快にならないのでしょうか? だんだん慣れるのでしょうか? 下からはいちいち敬語を使わなくてもすむので楽かもしれませんが。 じゃあ、日本人同士で会社の上司部下が現地語で話す時はどんな気持ち? (1対1では日本語でしょうが現地の人が混じっていたケースです) 海外で現地の人といろいろ会話していた方の感想をお聞かせください。