• 締切済み

甲州武田滅亡の原因

武田信玄の代で武田家最盛期を迎えますが、信玄死後たった10年で滅亡してしまいました。その最大の原因は信玄の晩年の外交政策にあると思うのですが・・如何ですか? 信玄は織田・徳川に喧嘩を吹っかけて、ほとんど成果を上げぬまま無責任に病死してしまいます。遺言も「越後と和睦して3年喪を秘し決して動くな。」と見当違いです。3年の間に事が決してしまった事は史実ですね。晩年の信玄は耄碌していたのか、若しくは信長の実力を過小評価していたのでしょうか?

  • 歴史
  • 回答数10
  • ありがとう数17

みんなの回答

  • 1paku
  • ベストアンサー率21% (344/1575)
回答No.10

3年、喪を秘し動くな。似たような遺言を守ったのが、西武鉄道グループの堤義明。10年間動くなの遺言を守って、その間に社内の結束を固め、それからプロ野球進出を軸に表舞台で一気に有名になりました。 3年間で家中をまとめ、力を蓄えてから天下取りのつもりの遺言だったでしょうが、勝頼さん、はやばやと動きすぎました。  動かなかった上杉家が、関ケ原の戦いの時まで、大きな勢力のまま生き残ってますから、武田家も3年間動かなかったら、上杉同様、大きな勢力のまま生き残ってた可能性大です。

回答No.9

幾つか挙げられていない問題を指摘しておきましょう。 非常に不思議なのです。 1)新田次郎先生が指摘した様に、勝頼は「ご親戚衆」に足を引っぱられ、穴山梅雪の様にはっきり裏切った大バカも居た、徳川家康と間違えられて明智光秀の部下に首を取られたが、光秀はこの役立たずと言って蹴飛ばしたらしい。なお穴山の愚れつは置いといて、既に出たお答にこの事は指摘されている。 2)真田の非常に優れた忍びはどこへ行っていたのだろう、真田は勝頼にまだ命を捨てるには早過ぎると いさめたが、勝頼は簡単に自裁してしまった、良家の坊やはすぐ絶望したがる。真田は盟主が死んだから 自らの領地を固めた。 だが非常に変なのは、最初に挙げた真田の忍びだ、非常に優秀だった、 武田の騎馬軍団と織田の鉄砲隊が対峙した時、既に突撃してはいけない事を見抜いていたはずだ。 既に一千年前からの中国の戦史には、三段に構えたら強力な弩兵が居ると記されてきた、 弩兵は「撃つ」「弩を引く(時には三人掛かりで引く)」「矢をつがえる」の三段で休み無く撃ち続けた。 弩兵が直接攻撃にさらされぬ様、一応弩兵の前に防御をするが、弩兵の邪魔だから人間は居ない、せいぜい 逆茂木だ。 真田の忍びは織田の鉄砲隊が「戦史」通り「見え見え」の鉄砲陣を敷いた事を見たはずだ、鉄砲も弩とほとんど変わらない、三人引きの弩は青銅と皮を重ねた鎧など「撃ち抜く」ほど強力だった。 そこへ強力な防御も無しに突入したら初めから死屍累累は当たり前だった。 池波正太郎先生の真田太平記を読んでいないので、その時真田はどうしていたのかそれが知りたい。

noname#209756
noname#209756
回答No.8

武田信玄の時代に金山をほりつくしたとか。 勝頼もタスク志向なリーダーでお城の建設や鉄砲など調達してます。 やるきも満々で、戦争などもしてますね。 不利な状態で家督をついだものの北条と上杉との外交の失敗や織田信長の謀略での離反などやはり人間関係がよくなかったのでは。

  • 0fool0
  • ベストアンサー率18% (134/738)
回答No.7

No.2です。 中央集権制の話が幾つか出て来ていますから、当時の状況の補足をしたいと思います。 現実に中央集権制を実現したのは織豊政権だけで、他の勢力はみな、合議制です。 其れは先祖代々の譜代の家臣が居り、彼等は領国経営をしていましたので、独自の兵力も当然に持っていたからです。 信長の場合は家中の統率の段階で、譜代の家臣の意見を重視せずに勢力を統一しました。 其の為に、軍団の行動は極端なトップダウン方式による、「神速」とも呼べる軍事行動が可能になりました。 秀吉は其れを引き継ぎ、かつそもそも譜代の家臣は一人も居ません。 武田家では信虎が家臣団の反発を招き、追放されております。 甲斐は平地とは違い、実際に見てみれば良く判りますが山間の土地が多く、また分断されている為に生活圏が飛び飛びになっており、其々に代々の豪族が住んでいました。 また平地の様に土地の境界が接している訳ではないですから、戦に勝っても田畑の境界線を動かすと言う事は出来ません。 ですので豪族の其の土地での影響力を削ぐというのが難しく、また其れ故に独立独歩の気概も高く、纏めるのが困難な集団でした。 加えて武田家も甲府盆地で一大勢力ではありますが、逆に言うと、やはり回りとは隔絶した土地柄ですので、武田家だけでの一大勢力化は難しかったのです。 家臣団の統率がままならない状態で、北条との同盟も無くなり、上杉は頼りにならず、金の産出量も下がり、東西に敵勢力を抱えている為に高天神城の後詰めも出来ず、ますます豪族の心が離れていった・・・ 確かに軍事的には兎も角、外交的・戦略的には、勝頼は優秀とは言えないのは事実だと思いますが、そもそも信玄が此処まで大きくしたのが驚異的でしょう。 そして諸豪族の力を削がずに抱えざるを得なかった為に、空中分解という面が強いかと思います。

回答No.6

そもそも、武田信玄そのものが過大評価の固まりでしょう。 信虎が親族や、豪族の力を削ぎ、権力を武田家に集中させようと中央集権化を試みたが、逆に配下の親族や豪族たちに担ぎ上げられた若き晴信が、信虎を追放。 以後、合議制で運営し武田本家の武力が低いまま晴信が亡くなり勝頼へ。 勝頼、時代遅れの武田家の中央集権化に乗り出すも反発をくらう。 1582年。 最後の決戦を挑むことすらできず、親族や豪族が離反、空中分解し天目山にて勝頼自害。 全ては、担ぎ上げられて信虎を追放した信玄の短慮、自身の死を予感しながら後継者を定めない無策ぶりと、どうして、こんな無能が名将と祭り上げられているのか謎です。

  • titelist1
  • ベストアンサー率25% (712/2750)
回答No.5

不思議に思うことがあります。織田は優れていたので武田に勝つのですが、最後に天下を取るのが武田家臣団を吸収して、武田によく似た徳川なのです。武田が時代遅れなら徳川も時代遅れなのです。 足利の封建制を織田の変革勢力が倒し、それを明智の封建制が倒し、それを豊臣の変革勢力が倒し、徳川の封建制が倒す。結局は足利幕府が徳川幕府になっただけ。結局はこの安土桃山時代はなんだったのだろうかと思うのです。歴史の必然性では理解できないのです。

  • eroero4649
  • ベストアンサー率31% (10494/33001)
回答No.4

外交政策がどうこうより、武田家というシステムそのものが時代に合わなくなっていたのだと思います。 私が子供の頃は武田二十四将は、「優秀な家臣団が信玄を支えた」と美談調でしたが、近年の研究では「合議制で家臣団の発言力が強く、家臣団の同意がなければ信玄ひとりでは政策決定もできなかった」といわれています。 織田家では超ワンマン経営者の信長の決定ひとつで迅速な意思決定が行われますが、武田家では家臣団の合意がないと意思決定ができない。意思決定の遅さが優劣を分けるのはビジネス界と同じですね。近年の日本企業が世界の流れから立ち遅れるケースが目立つのが、この意思決定の遅さゆえといわれています。 >信玄は織田・徳川に喧嘩を吹っかけて、ほとんど成果を上げぬまま 甲斐・信濃に展開する武田家は、どこに進出しても有力な勢力とぶつかるという運命にあります。 当初は北上する戦略を取っていましたが、ご存じ上杉謙信が立ちはだかり北上戦略は頓挫します。上杉謙信というたら野戦の鬼ですから、さすがの信玄をしても正面からの決戦は挑めません。いくら武田兵が強くても、謙信はチート過ぎますのでね。 それで一時期は関東地方に活路を求めますが、実は当時の関東地方ってのはド田舎で湿地ばかりで田んぼにならない。「こっちも将来性はないなあ」と信玄公も思ったんじゃないですかね。 そうなると残るは西か南になりますが、信濃から美濃に行くには大軍が通れるルートではありませんからもう残るルートは現実的に南しか残っていないとなります。 ところが武田家には今川家シンパが多くて軍事的侵略が難しい。かといって歴史ある名家である今川家を傘下に取り込むのも不可能。結局跡取り息子である義信を文字通りに斬ってまで南下政策に舵を切りますが、そこまでの手順を踏まないといけなかったというのが信玄公のつらいところだったでしょうね。 また、人的資源が少ない甲斐・信濃では兵農分離なんてやりたくてもなかなかやれないし、既得権益集団である家臣団もそんなドラスティックな改革は望まない。結果として武田軍団は「プロフェッショナルで強兵だけど長期間の活動はできない」となりますので、兵団の動員力という点で織田・徳川連合軍に劣るのは否めなかったでしょう。 しかしその信長とて四方に敵を抱えている状態でしたから、いわゆる西上作戦といわれる元亀3年の戦役における信玄公の戦略は白眉だったと思います。戦略としては素晴らしかった。 ただ、それぞれの反信長勢力は「反信長」という点では一致したものの、それぞれに思惑があって勝手に行動したので信長を手詰まりにまで追い込むことはできませんでしたね。 ただ、もし信玄亡き後北上戦略をとったら・・・野戦の鬼謙信公に酷い目に遭わされたことになったと思いますよ。当時の武田軍と上杉軍の動員兵力はほぼ互角。兵力が互角なら謙信公に勝てる軍団はどこにもねえっす。 あと当時は北条家から上杉家に養子(景虎)が送られたりして北条家と上杉家が雪解けムードでしたから、どっちにケンカを売っても両方が敵に回る可能性が極めて大きかったので北上・東方戦略はどちらも不可能だと思います。 また、武田家の内情については私は詳しくないですが、研究者によると当時の家中は北条派や上杉派などのいろんな派閥があってその内部調整だけでも相当大変だったみたいですよ。

  • titelist1
  • ベストアンサー率25% (712/2750)
回答No.3

言っておられることは俗に言う通説で、大河ドラマにもそのように描かれています。しかし、少し違っていると思います。 信玄が家臣団が望まない勝頼を跡継ぎにする原因を作り、その境遇で必至に奮戦した勝頼だが、信長の力量が勝頼より勝っていたので滅ぼされたと思います。信長は甲州征伐で天下布武を確信し、後世に残る暴君に変貌したのです。 少し詳しく説明すると、 信玄は元々天下を取る気はなかったと思われる。その気でいたら上杉謙信に何度も戦いを仕掛けていないはずです。信長からの息子の嫁を取るなどの懐柔策を受け入れているのです。信長が一向宗を攻めあぐみ、反織田包囲網が形成されての上洛要請で重い腰を上げて京都に進軍した。徳川家康の桶狭間を真似た奇襲攻撃である三方ヶ原の合戦を軽くあしらい進軍するが謎の急死により撤退してしまう。若い時に正妻にうつされた結核の悪化が死因とされている。その時にでなりやっと家督を勝頼に譲り、死を3年間伏せろとの遺言するも数日内に織田に知れることになる。後に戦国大名はこの信玄の失敗を知り、家督を早めに正摘に譲るようになった。信玄は父から廃嫡されそうになり、父を追放して家督を握ったのでそれができなかったのだろう。 諏訪四郎勝頼は元々正嫡ではなく、正嫡の義信を信玄が幽閉し獄中死させたので正摘になった。勝頼の母は諏訪頼重の娘で信玄が諏訪氏を滅ぼした時に側室にした。家臣団は諏訪の娘を側室にすることを反対したと伝えられる。勝頼は家臣団には祝福されることなく生まれてきたのです。武田と名乗らす諏訪四郎勝頼と名乗っていたのです。 後を継いだ勝頼は織田・徳川を攻めて多くの出城を奪い、信玄時代よりも領土を拡大している。この時には信長は浅井・朝倉との戦いと一向宗との戦いで手一杯だったのです。勝頼は堅城の長篠城の攻略に手こずり織田・徳川軍との長篠の合戦に引きずり込まれるのです。家臣団は合戦に反対するが勝頼は突撃命令を出して大敗するのです。信長の巧妙な作戦が勝利をもたらしたのです。 これに勝利すると信長の甲州征伐が始まるのです。勝頼は高遠城を攻められた時にそれを見捨てたことで家臣団の信頼を失うのです。防備を固めるために新府城を作らせるが、その出費の多さに家臣団は織田に寝返ってゆくのです。最後は親戚の穴山信君の寝返りを受け未完成の新府城に火を放ち逃亡しようとすのが、助ける味方はおらず滝川一益の追っ手に観念して自害した。 家臣団の合議制で支えられ、カリスマ性のない勝頼が率いる武田軍と権力集中され軍略の天才の信長か率いる織田軍とでは戦い方が違っていた。

  • 0fool0
  • ベストアンサー率18% (134/738)
回答No.2

武田滅亡の原因は、単純な理由に帰結する事は難しいと思いますが、私なりの考えでは、家督継承問題が大きかっただろうと推察します。 実は武田勝頼は、本来「諏訪四郎勝頼」であって、諏訪家の総領でした。 其れが後継者の断絶で武田家の総領に滑り込んだのですが、諏訪家の家臣団と武田家の家臣団での軋轢が此処で生じてしまいました。 また勝頼には武田家の通字の「信」が使われておらず、「頼」は諏訪家の通字である事も、興味を引きます。 最近の研究では勝頼の実像は、大分に有能だった可能性も指摘されています。 実際に領国は勝頼の時代に最大版図になりますので、領国経営其の物が下手だったとも言い切れません。 また合議制から中央集権制への政治形態の移行が、家臣団の反発を招いた可能性も指摘されております。

回答No.1

ん?? 武田滅亡の原因は勝頼ですが… ちなみに「越後と和睦」とは言ってません 「難儀国難事象有時景虎助力懇願」という遺言です つまり「勝頼がどうも立ちゆかなくなったら上杉謙信を頼れ」と言っているだけで越後と和睦しろとは遺言していません それに3年死を秘して と言うのは3年かけて国内を固めろを言う意味です しかし勝頼はその意味を理解していませんでした 仮に言うとおり信玄の晩年の無謀さが滅亡の原因だとしても勝頼が有能なら十分立て直せましたよ? 現に勝頼は信玄を凌ぐ領土を得ています 譜代の意見を聞かず自分の独断で内政・外交を断行した勝頼に愛想をつかした家臣が 離れていった内部崩壊が滅亡の原因です 実際 信長はそんなに恐ろしい武将でも無い 現にシンゲン謙信を恐れていたのは信長の方です だからこそ真っ先に信長の方から和睦しましたし

関連するQ&A

  • もし武田信玄が長生きしたら・・・

    武田信玄に関してお聞きしたい事があります。 私は数多くいる戦国武将で武田信玄が一番好きです。 ただ52歳で亡くなっており、短命でした。 京都に軍勢を進める最中に亡くなったのですが もし信玄がもっと長生きして、三方ヶ原で徳川家康を 打ち破った後、織田信長と戦さになったとしたら どちらが勝ったでしょうか? 織田信長を討ち滅ぼし、武田の世の中になった可能性はありますか? また武田信玄の一番優れている所はなんでしょうか? それから武田信玄と言えども、かなり悪い事もした様です。 皆殺し、人質を売ったり等… これは事実なのでしょうか? 皆さんの予想をお聞かせ下さい。

  • 武田信玄の外交方針についてお聞きします。

    武田信玄の外交方針についてお聞きします。 信玄は、駿河侵攻に際し、今川家、北条家との三国同盟を破り、両家とも交戦しています。 氏康の死後、北条家とは再び同盟を結んでいます。 ここで疑問なのですが、信玄は西上するに際して、本願寺や浅井家、朝倉家等とは同盟を 結んでいますが、北方の上杉謙信とは敵対したままです。強大な上杉家と敵対したまま 織田家、徳川家との決戦を迎えるというのは厳しい気がするのです。 越中の一向宗徒を扇動して、上杉を越後から容易に動けなくしたと聞いたこともあるのですが、 信玄ほどの戦略家なら、後方の憂いを絶ってから西上しそうな気がするのですが。 信玄は、上杉家と敵対したままでも織田家、徳川家を破る自信があったのでしょうか?

  • 武田信玄 西上作戦(もしものコーナー)

    武田信玄が上洛の目的で、西上作戦を開始します。 三河 徳川家康をなぎ倒し、 美濃辺りで 織田信長と対峙するであろうと。 しかし 持病の悪化、もしくは狙撃で、世を去りました。 もし 西進し、織田軍団とどんな戦いをしたのでしょうか。 自分の考えでは 織田 対 武田    決戦場所は まず美濃かな。 戦況は 武田軍は無理に動かず。織田軍は 仕掛けながら徐々に後進して行く。これの繰り返しで、美濃を通過させる。      ここで再起不能状態を装っていた 徳川軍や、織田軍が美濃を奪回。 最終決戦は 京と美濃の間ですかね。 ここでは 武田軍を挟み撃ち状態をしてあるし、兵の数も、地の利もある織田軍が圧倒的に有利です。 しかし 全ては信玄の計略だった。 そうです、完全な信長包囲網が出来上がっていた。信玄の切り崩しや、長期戦などで、武田の勝ち。  皆さんの 武田信玄 西上作戦を お聞かせ下さい。  

  • 江戸時代に武田家の重臣だった家はひどい目にあったか

    江戸時代に、武田信玄の武田家に仕えていた人達の家は、ひどい目にあわされたのでしょうか? 江戸幕府にとって、徳川家康というのは神様です。 その徳川家康が最も恨みを抱いていたのは、武田信玄の武田家だと思います。 なぜなら、武田信玄の武田家は、徳川家康が今川家の人質だった時代は、徳川家康を一切助けませんでした。 また、徳川家康は、武田信玄に三方ヶ原の戦いで、家臣を多く殺され、自身もひどい目にあわされ、家臣の前で大恥をかかされました。 更に、武田信玄の息子の勝頼の時代、徳川家康は、武田家とのもめごとのせいで、嫡男の信康を切腹させなければならなくなりました。 武田家は、徳川家康と領地を接していて、武田家と徳川家康の間には、いつも争いが絶えませんでした。 武田家は、家康が今川家の人質だった時代には、一切家康を助けませんでした。 この様に考えると、江戸幕府にとっての神様である徳川家康が最も恨みを抱いていた相手は、武田信玄の武田家だったと思います。 毛利家や島津家が、徳川家康と敵になったのは、少なくとも、豊臣秀吉が死んだ後、さらに言えば、前田利家が死んだ後です。 徳川家康は、織田信長のように最初から、天下統一をもくろんでいませんでした。 だから、豊臣秀吉と前田利家が死んで、徳川家康が天下取りを本気で狙いに行くまでは、毛利や島津が家康と敵対することはあり得ないと思います。 一方、武田は家康と初めから敵対関係にありました。 その、江戸幕府の神様・徳川家康と初めから敵対関係にあり、家康が最も恨んでいた武田家の、その重臣とか、仕えていた上のほうの家は、江戸時代に、江戸幕府にひどい目にあわされたような気がするのですが、 どうでしょうか? どうかを教えてください。

  • なぜ武田勝頼は歴史小説で悪く書かれるのか?

    武田勝頼は歴史小説で悪く書かれることが多いです。武田信玄と比べれば劣りますが、一般の大名としては通用する人物だったのではないかと自分では思っています。 歴史小説ではこんなことがかかれていました。 織田家から嫁いできた妻とのセックスで愛撫が強すぎて妻は死んでしまった。とか、 領国に重税を課して、民が早く徳川や織田領になってほしいとの怨嗟の声でみちたとか そんなことがかいてありました。 また、末期には家臣の離反が激しかったともかいてありました。 ここまで悪く書かれる武田勝頼の原因は何でしょうか?武田勝頼自信が、棟梁にはふさわしくない人物だったのでしょうか?教えてください。お願いします。

  • 武田勝頼が御館の乱で、

    景勝を支援(というよりは景虎・景勝を和睦させた)したことを支持する方がいますが、皆さんはどう思いますか? 僕にはどう考えても景勝に味方したことは武田にとって失敗だったとしか思えない。 結局これが原因で北条を敵に回すことになったのだから。 この時は中立とか言ってる場合じゃなかったと思います。 景虎を積極的に援助するべきだったと思います。 そうすれば北条も武田と対立しようとは思わないだろうし。 どう考えても景虎に味方するべきだったと思います。 そうすると北条と武田の同盟関係は織田と徳川の同盟関係みたいになってしまうかもしれない。 けれど、北条を敵に回すよりはずっといいと思う。

  • 武田信玄があと5年生きていたら歴史はどうなっていたでしょうか。

    武田信玄があと5年生きていたら歴史はどうなっていたでしょうか。 徳川家康は三方原の戦いでなくなっていたのではないでしょうか。 信玄が天下統一をできたとは思えませんが、戦で信長には負けなかったと思っています。皆さんどう思われますか?

  • 織田信長は柔術の使い手?

    織田信長、武田信玄、上杉謙信、徳川家康は柔術の使い手ですか?

  • 戦国大名の大友氏はその後どうなったか

     甲斐武田氏は滅亡しましたし、織田、徳川両氏は周知のとおりですが豊後の大友氏がその後どうなったかを知りたいのです。

  • 【戦国時代】戦国時代に徳川家康、豊臣秀吉、織田信長

    【戦国時代】戦国時代に徳川家康、豊臣秀吉、織田信長以外で1番強かった武将を教えて下さい。 あと自分のの中で日本一強かったと思っている武田信玄の武田家はなぜ滅びたのでしょうか?