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秀吉の「信長」化は事実か?

大河ドラマを見ていると、秀吉の信長化が見て取れます。生かして使うやり方から、逆らう者は皆殺しにする残虐さ、国内統一にとどまらず世界征服に走る領土拡大主義、など。信長への心酔と跡を継ごうとする姿勢が、彼をそうさせたのでしょうか? そのように描いていると思いますが、どの程度までが史実でしょうか。(発言や行動の細かいところまで含めて) 権力の座が人を変えるとだけの一般化は、いきすぎではないでしょうか。もし信長が温厚な人柄だったら、秀吉もそれを学んでそうしたと思われるからです。

  • gesui3
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  • 歴史
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回答No.5

そもそも信長像自体が秀吉によって創られたものです。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BF%A1%E9%95%B7%E5%85%AC%E8%A8%98 信長公記は秀吉が書かせた物。 自分は偉大な信長の後継者で、ライバル家康は大した事ないという内容です。 最近の検証でおかしなところが沢山出てきています。 ならば、真実は信長は小物で秀吉の傀儡。家康は強大だったとも考えられます。 http://okwave.jp/qa/q8596335.html 晩年の信長の非道ぶりですが、その時すでに秀吉の傀儡だったとしたら、全て秀吉の非道であり、信長という隠れ蓑が無くなって、馬脚を出したにすぎません。 信長像は義経と同じく、判官贔屓とロマンで作られています。 海外出兵は、自国のガス抜きという狙いもあります。 上杉謙信も戦に明け暮れたのは、攻撃は最大の防御。 攻めないと攻められる、平和だと内紛が起きる。 越後統一さえままならない現状を、外に敵を作って国内の団結をはかったのです。 朝鮮出兵は九州の内乱に睨みをきかせる効果もあったでしょう。

gesui3
質問者

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へえー、驚きました。 意外な歴史観を知りました。これからもいろんな見解を見聞きしていきたいと思います。 ありがとうございました。

その他の回答 (5)

  • koiprin
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回答No.6

秀吉は信長化ではなく、歴史のご多分に漏れず藤原化しています。 まず、信長の逆らう者は皆殺しというのは、よくある誤解です。 信長は、合理的に政策を展開していましたので、武士に対する処遇は、どの戦国大名とも代わりがなく、使える人材は許す(松永久秀など)ことは良くしています。 虐殺に受け止められているのは、今でいうと戦闘員とわからない集団への政策です。 特に日本では今は当たり前になって、誰も指摘しない政教分離の実現。いまだにキリスト教の影響の強い欧米から見れば、はるかにやりやすい政治体制ですが、これを実現するために政治に介入する寺社を徹底的につぶしたのが信長です。そのため、寺社側が政治への不介入を約束した後は、布教を認めています。 今と違って当時の寺社は僧兵(弁慶的な)と呼ばれる集団がいて、天皇への強訴という手段やいまのやくざと同様に周辺の荘園などからみかじめを取っていた権力者です。 寺社と信長との権力闘争に、寺社側は信者を投入するという非情な手段に出ていた結果、一向宗への虐殺が起こりました。 秀吉は、そういった政策的な方向性は特に見当たりません。基本的には信長の敷いた政策の焼き直しをしています。ただそれは信長化というよりは、敷かれたレールを進んだだけでしょうね。政権の体制としては公家化です。特に公家の一員として下賜された豊臣姓に感激したようで、朝廷を強化し、その権威の中に関白として自分を置いています。智仁親王を猶子として親王宣下をさせていて、外戚の地位も狙っていました。 こういった旧体制を打破する政策やスタンスをとっていたのが信長なので、どちらかというと旧体制に戻そうとしているのが秀吉です。 朝鮮出兵に関しては、秀吉が武士の棟梁というスタンスであれば、成功していたでしょう。 当時の日本の鉄砲の数は、世界全体の3分の2を占めていたと言われています。 また、戦争をし続けた集団ですから、当然強いですね。ただ、秀吉の公家化は、ほかの武士層から歓迎されるはずもなく、求心力に欠けたための失敗でしょうね。 ただ、理念がないので朝鮮半島を取れても、その後はどうだったでしょうか? この時代、日本を一つの国としてまとめようとした大名は、信長以外には、まず見当たりません。戦国大名と呼ばれる人たちは、ゲームの世界と違い、自分の縄張り争いだけに腐心していました。信長の行動は目から鱗だったでしょうね。大名家ですらそうですから庶民出の秀吉にそいった統一国家の理念などもなく。晩年はトップになって、わがままになっただけではないかと思います。 ただ信長が温厚な人物であれば、そもそも信長の織田家は斎藤道三か、今川義元に、下手すると織田信友に討たれていたでしょう。

gesui3
質問者

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公家かですか。平家を思い出しました。頼朝は固くこれを拒んでいましたね。 ご回答をありがとうございました。

回答No.4

そもそも信長は残虐なのか?っていう問題がある。 逆らう者は皆殺しにする残虐さとおっしゃられていますが、逆らう者も許しているのが信長です。 信長の家臣を見ると、信長に背いたり出奔したりしておきながら重要な地位についている家臣がたくさんいます。もし、残虐ならばこれらを活かして登用するでしょうか? >国内統一にとどまらず世界征服に走る領土拡大主義、など。 日本国内を統一した場合、経済、軍事双方にどのような影響が起きるかを考えると、朝鮮出兵の理由が分かると思います。 日本国内を統一し実質的に鎌倉幕府崩壊以後の数百年に及ぶ戦乱に終止符を打ちました。 当時の日本の経済は戦争を中心に回していたわけです。 その戦争がなくなるとどうなるか、そこにあるのは未曾有の大不況と兵士余りです。 そこで考えたのが、日本国外に出兵し、潜在的敵勢力の兵力と経済力をすりつぶし、日本国内の戦争需要を喚起するという政策です。こうして朝鮮へ出兵、唐入りを行います。 おそらくですが、誰が戦国時代を終わらせても海外への出兵は行ったと思います。 どこの国もそうですが、内乱が数百年も続いたあと強力な政体が統一を果たしたら、その力は必ず外部へと向かうのは歴史の必然といっても良いと思います。

gesui3
質問者

お礼

「誰が戦国時代を終わらせても海外への出兵は行ったと思います。」 家康が反対していたと思います。もし彼が天下統一を先にしていたら、彼も海外派兵をしたでしょうか。したというのが回答者様の予想ですね。

  • 0fool0
  • ベストアンサー率18% (134/738)
回答No.3

まぁ、多分に想像も入っていますが・・・ 信長は若い時分から、苛烈な処断をした訳では無いです。 弟の信行も、一度許している事が伝わっています。 古今東西を問わず、勢力が拡大するに従い、判断が変わるのが常でしょう。 小勢力の場合は回り全てが敵なのですから「敵の敵は味方」であって、回りが全て恭順者になれば、逆らうものが「謀反者」でしょう。 争いを収める為の存在であった時は「味方」だったのが、争いが無くなった後で新たな火種を生み出しそうであれば、「厄介者」ですね。 信長化と言うよりは、権勢を極めた者が陥る「疑心暗鬼」の話だと思います。

gesui3
質問者

お礼

「弟の信行も、一度許している事が伝わっています。」そうらしいですね。 「争いを収める為の存在であった時は「味方」だったのが、争いが無くなった後で新たな火種を生み出しそうであれば、「厄介者」ですね。」家康もそうだったと何かで読みました。 上り詰めたものの変貌でしょうか。 ご回答をありがとうございました。

  • titelist1
  • ベストアンサー率25% (712/2750)
回答No.2

秀吉は信長の意向を忠実に実行した部下ですから、信長に学ぶことは多かったと思います。朝鮮出兵は歴史の必然性です。日本は国内が武力統一されると過去3回も朝鮮出兵をしています。飛鳥時代と桃山時代と明治時代です。バテレン追放も当時のイエズス会の活動を見ると当然の行為です。甥の秀次の死も秀頼のためですが、秀次も関白を自ら辞退する配慮が必要であったと思います。弟の大和大納言豊臣秀長が秀吉よりも早く死んだことが残念です。

gesui3
質問者

お礼

ご回答をありがとうございます。 しかし、「秀吉は信長の意向を忠実に実行した部下ですから、信長に学ぶことは多かったと思います。」と「朝鮮出兵は歴史の必然性です。日本は国内が武力統一されると過去3回も朝鮮出兵をしています。飛鳥時代と桃山時代と明治時代です。」との間には論理の食い違いがあります。 前者を原因とするなら、個人レベルの問題です。 後者が原因なら、誰であろうと全国統一後は対外膨張主義に走らなくては筋が通りません。弟の大和大納言豊臣秀長が生きていても止まらなかったことでしょう。 回答者様はどちらの説をとられますか?

回答No.1

大河ドラマは脚色されてますよ?(笑) 要するに脚本家のさじ加減 おそらく作者の秀吉像でしょう 秀吉が人たらしから虐殺者に変わったのは 秀頼の誕生です カレにすべてを託したいと言う思いから 秀頼に害が及びそうなものを徹底的に排除するようになっただけの事(但し家康の野心だけは見抜けませんでしたが) ただ 世界征服の野心はあったかも知れません 信長は大安宅船を作って世界に乗り出そうとしていましたが 秀吉は信長に「御館様が天下を統一したら この藤吉郎は明に攻め入りとうございます」と言ってます 信長は笑って一蹴したそうですが 秀吉は本気だったみたいですね 朝鮮出兵だって狙いは天竺(インド)に攻め入る事でした

gesui3
質問者

お礼

信長が世界に目を向けていたことを今回の大河ドラマで初めて知りました。それで、私の頭の中では秀吉の明征伐と結びつき、家康が不思議がる程の彼ら二人の異質さが納得できたのでした。 尊敬する人物が夢半ばで逝くと、部下はその痴夢の後を盲目的に追い求めようとするのですよね。柄でもないことまでもー。 ご回答をありがとうございました。

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