• ベストアンサー

支那事変中の装備増強

日本陸軍が、大陸で常設師団、特設師団が多く戦場にいた時に、30代師団と第一次独立混成旅団が内地で編成されました。 この時に装備は、完璧にそろえられたのでしょうか? それだけの、生産能力があったのでしょうか? どんな兵器が、装備されたのでしょうか? 同時期に、関東軍の国境守備隊も配置されたのにです。 国境守備隊の装備兵器も、教えて下さい。 2年前の特設師団出征時には、一昔前の旧式兵器を倉庫から引っ張り出して、頭数だけ揃えた様な状態だったのに・・・。日露戦争時代兵器まで動員しているのにです。 戦史叢書シリーズは読みました。 防衛研究所行きは、お断り。 詳しい方、お願い致します。

  • 歴史
  • 回答数2
  • ありがとう数2

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
回答No.2

 30番台師団と独立混成旅団臨時編成のころというと、1939年(昭和14)当時、武漢作戦がひと段落して束の間の平安を迎えたころを指しますが、これにともない、治安師団、独立混成旅団、兵站部隊派遣という動きの反面、師団、軍直部隊の復員も実施されました。したがって、すべてが外に出て行ったわけではありませんでした。  先の臨時編成部隊の編成においてはなるべく、編成を担任する留守部隊が重複しないよう配慮がされていて同年1月の独立混成旅団九個と2月の師団六個のうち両方を編成したのは久留米師管だけでした。  兵員に関しては、100番台特設師団が主に予備役召集によって動員したのに対して、徴集兵、召集兵混合とし現地にて教育を並行するものとしたのが特徴でした。喫緊の課題は下級将校の充当で、このため同年4月には予備役将校を育成する学校が設立されています。また、予備役将校の服務延長と待遇改善を図るために特別志願制度を設けました。  兵器に関しては、まず小銃や機関銃は明治、大正時代の兵器でしたから特別に不足するということはありませんでした。ただし、弾薬の補給は常に不足気味で制約の中で戦われたようです。  ついで火砲に関しても、日露戦争終結後から大正軍縮までは平時であっても軍備拡張してきましたから砲のストックはありましたし、そもそも師団砲兵の殆どが輓馬に依っており、師団砲兵の主力火砲は、三八式野砲とその改良型、九五式野砲、九一式十糎榴弾砲(フランスが前大戦で使っていた砲の改良型)、四年式十五糎榴弾砲(ごく一部)で、独立野戦砲兵部隊が機械化されて、新式砲を装備していくにつれて、お下がりを充当されたのが実情でした。つまり師団砲兵は旧式兵器に依存していたわけですが、それでも生産数は不足し師団砲兵が目標とした四個大隊(十二個中隊)48門装備の大半は実現を見ませんでした。また、弾薬の補給は常に課題で日本国内だけでは賄えず、中国、満洲にても弾薬製造を行っていましたし、日本砲兵が一発必中射撃に拘ったのも弾幕射撃の余裕がなかった現れでした。  馬匹に関しては、早くから国内全土に亘る軍馬補充、軍馬防疫の組織を作っていましたが、例えば特設乙師団には馬匹約5500頭が充当されていたように、師団の多くは輓馬、駄馬に依存していましたから国内馬では足らず、中国大陸の駄馬も活用することで賄いました。  車輛は、軍直属兵站部隊として自動車連隊、兵站自動車隊などが大量に編成されましたが、これも新車製造では間に合わず民間からの徴発に頼ることになりました。  関東軍の国境守備隊に装備に関しては、戦史叢書の『関東軍』に詳細が載っているはずですが、各地区隊の規模が異なるにともない、砲兵も一個中隊から五個中隊までにおよび、三八式野砲、十糎榴弾砲、中迫撃砲、十糎加農砲、十五糎加農砲、二十四糎加農砲、三十糎加農砲など多種多様でしたが一般に旧式火砲を装備していました。  資料:『ルソンの砲弾 第八師団玉砕戦記』河合武郎 光人社 1999      『日本砲兵史』 陸上自衛隊富士学校特科会 原書房 1980      

mm058114
質問者

お礼

丁寧な、ご説明ありがとうございます。 質問を出した後『第百一師団長日誌』を読み直しました。 常設師団のひとつ前の『お古』を特設師団に配備していった事も教えていただいたので理解できました。 私の予想通りでした。 しかし、連隊砲として、日露戦争の31式速射山砲を装備していたのが、驚きです。 弾薬装備も常設師団の1/3! 1937年の特設師団は全部、そうだった様です。 これで38年の臨時(15、17、21、22、23)が、どうだったのか? 間に合ったのか? 39年の30代が装備出来たのかが、いくら増産が進んだとは言え、 1コ師団あたりのの装備数は年々増加していっているし、まだ疑問です。  『日本砲兵史』 も読みました。 どれぐらいの欠数、お古があったのか書かれていない様に思います。 お時間ありましたら、この当たりを、更に具体的に教えていただけたら嬉しいです。 多分、お時間取らせてしまったでしょう。 本当に詳しい説明、ありがとうございました。

その他の回答 (1)

回答No.1

 臨時軍事費特別会計は1937年9月から始まりました。  太平洋戦争が始まる1941年12月まで、臨時軍事費の総額は256億円(現在の価格で約20兆円)のぼりましたが、このうち日中戦争に使われたのは3割に過ぎず、残りは陸軍は対ソ連、海軍は対アメリカとの戦争に備えて軍備拡張に使われたという研究があります。  だから日米開戦時には軍事力がもっとも充実していたといえるでしょう。緒戦で圧倒すれば、この戦争に勝てるだろうというのが軍部の読みでした。

mm058114
質問者

お礼

ありがとうございます… 予算は分かっています。 生産能力と、具体的装備品の質問です。 もう一度、お願い致します。

関連するQ&A

  • 第48師団、第71師団

    前回同じ質問の言葉の抜けているところを直し、再度、同じタイトルで質問させていただきます。 今度は、第48師団、第71師団についてです 今まで色々質問しました。 お答え下さった方、本当にありがとうございました。 30代師団は、先のお答えより、昭和14年に、28~41師団と計画されていた事がわかりました。 また、特設師団の常設化には、ご批判いただきましたが、新たな文章を発見しました。 復員しなかった特設師団(13、18、104、110、116)の常設化、戦闘師団化の文章を発見しました。 (だから、第18師団は上陸作戦師団に指定されたのですね) 同じく、昭和14年後半に、関東軍後方部隊として、5コ師団が計画された。 これらは、永久的な常設師団で、内地に留守部隊を持たない。 そして21~25の予定であったが、15、17、21~23に改められた。 関東軍には、第23師団が直接配備され、 15、17、21、22師団は、実践訓練を予て、中国戦線に投入された。 しかし、中国戦線の予想外の苦戦の為、関東軍には戻れなくなった。 以上を、発見しました。 ノモンハン事件の第23師団も、編制して日も浅く、後方警備師団であるので、苦戦も肯けました。 さて、そこで本題質問です。 何故、台湾混成旅団を師団昇格の時に、48の数字が選ばれたのでしょうか? また、こん春駐屯隊を師団昇格の時に、71の数字が選ばれたのでしょうか? 数字の問題です。 戦史叢書は読みました。 アジ歴も調べました。 防衛研究所行きは、お断り。 よろしくお願いします。

  • 特設師団

    日中戦争が始まり、昭和12年6コ(13、18、101、108、109、114)、昭和13年4コ(104、106、110、116)の合計10コの特設師団が動員されました。 その内、昭和13、14年に5コ(101、106、108、109、114)は復員しまいたが、5コ(13、18、104、110、116)は、復員せずに日米開戦を迎えます。 何故、この5コ(13、18、104、110、116)は、復員されなかったのでしょうか? 復員の時期を逃してしまったのでしょうか? 特に、人口希薄師管ではなかったからでしょうか? 13、18師団は、前半動員だが、若番なので、最初から常設化の意向だったのでしょうか? 104、110、116師団は、後半の動員で、時局対応の編成改正、装備の向上をされて動員されていた事は、資料から分かっていますが、それが存置された意味なのでしょうか? 104、110、116師団は、昭和17年の第71師団編成後、その後の連番に名称変更の計画もあった様に、戦史叢書からは読み取れますが、関係あるでしょうか? 戦史資料室へ行けは、お断り。 よろしくお願い致します。

  • 太平洋戦争時、南方軍の独立守備隊について

    太平洋戦争で、第一段作戦終了後、進行した師団(G、2、5、38、48等)を現地復員し、内地よりの補充を加えて、第10~18の独立守備隊が、編成されました(第10のみ新編) (1)配置された地域は分かっているのですが、正確に所属独立守備大隊が、どうしても分かりません。 推定は出来ますが、事実が分かりません(特に12、15、16、18) (2)また、独立守備隊に所属せず、独立守備大隊単独で配置された物もある事は、分かっています(40、41、42)これら以外にもあったのでしょうか? (3)これらの独立守備隊は、後に独立混成旅団、そして師団に編成されて行く事は、分かっていますが、その過程で、第18独立守備隊が、後に第94師団に改変されて行く事は分かっています。その過程で、独立歩兵大隊の番号が分かりません。 (4)これら独立守備隊の補充担任が、第10のみ、3D、16Dなのは分かっていますが、第11~18分かりません。 以上、私の調べた結果です。 これらの分かる方、教えて下さい。また、特筆する戦歴等があれば、教えて下さい。 戦史資料室へ行けは、お断り。 よろしくお願い致します。

  • 日本陸軍第11師団(第55師団)

    四国の第11師団(第55師団)は、軍備更改計画では、師団司令部、特科部隊の衛戍地は善通寺です。 歩兵第12連隊も善通寺です。 日清戦争時の歩兵第10旅団、歩兵第12連隊は、丸亀が編成地、衛戍地です。 日露戦争時では、第11師団までも、丸亀、善通寺とする資料が混在し、歩兵第10旅団、歩兵第12連隊も混在します。 昭和になっても、丸亀には連隊区司令部、練兵場が所在した資料があります。 ちなみに、ウィキでは、歩兵第12連隊が、明治44年に丸亀に移駐となっています。 昭和7年の国防大辞典の常備団隊配備表によると、歩兵第12連隊が丸亀。 歩兵第10旅団、特科部隊が善通寺となっています。 太平洋戦争開戦時の第55師団では、第55歩兵団、歩兵第112連隊の衛戍地が、丸亀、善通寺とする資料が混在します。 この四国師団の流れの本当のところは、どうなのでしょうか? アジア太平洋~を見ても、イマイチ見つかりません。 戦史叢書にも見つかりません。 教えて下さい。 よろしくお願いします。 戦史資料室へ行けは、お断り。

  • 日本陸軍30代師団

    日本陸軍30代師団 日本陸軍30代師団について、素朴な疑問です。 師団番号は、何故32からなのでしょうか? また、所属歩兵連隊番号は、何故、他の30代師団と同様時期に編制されず、210からなのでしょうか? 201~209連隊は、どこいっちゃったのでしょうか? また、何故、編成されなかったのでしょうか? 201~209の欠番連隊は、師団3コ分だから、同様な編制、装備で3コ師団の編成予定があったのでしょうか? また、201~209連隊で師団編成予定があったなら、師団番号は何の予定だったのでしょうか? 更に、編成地は、どこが担当だったのでしょうか? 教えて下さい。 戦史叢書は読みました。 防衛研究所行けは、お断り。

  • 再び30代師団関連

    第28~30師団を第201~209歩兵連隊で、関東軍向けに編成計画であったが、ノモンハン事件のゴタゴタ軍備再改変で、計画が消えてしまい、欠番になった事は理解しました。 (1)もしノモンハンが無く、無事に30代師団(28~30)が追加で3コ編成された場合、在来師団3単位化で発生する、約5コ師団は、何番に命名される予定だったのでしょうか? (2)第48師団は師団番号が飛んでいますが、現行の様に独立歩兵団の師団化の続き番号と考えると、既に30代師団で41番を使ってしまっているので、第61独立歩兵団の番号が失くなってしまう。 また、独立歩兵団を61から命名しているのなら、師団化の時に60代師団に命名するのが、スンナリ考えられると思います。40代は、本当は、何に使う予定だったのでしょうか? (3)こん春駐屯隊の師団化は、本当に時局戦備で、関東軍16コ師団化の為に、思いつきの様に行われ、本来計画にはなかったのでしょうか? 教えて下さい。 よろしくお願い致します。 戦史叢書は全部読みました。 アジ歴でも検索しました。 別冊歴史読本戦史シリーズは全部持ってます。 防衛研究所へ行けは、お断りです。

  • 趣味の日本陸軍~

    趣味の日本陸軍~ 私は暗い趣味ですが、日本陸軍を調査、研究しています。 さて、その中で図書館等行きましたが、どうしても分からない事があります。 それは、日米開戦時の部隊の特定部隊の編成等の詳細情報です。 [独立混成第2連隊]→支那派遣軍に所属、上海警備を行なっていた。 [独立混成第4連隊]→南方軍に所属、独立混成第21旅団に配属され仏印からボルネオ攻略する。              その後、同地警備守備の為、独立守備歩兵40、41大隊の基幹部隊となる。              そして更に、独立混成第56旅団の基幹部隊となる。 両連隊は昭和16年9月に編成の大陸指が出た。以上は分かっているいます。 『知りたい事は~両連隊の編成地、補充担任、所属歩兵砲兵等の編制隊等の内容、人員装備、独立混成第2連隊のその後の改編等の内容、日時・・・。』 とてもくだらない事ですが、同じ趣味の方教えて下さい。宜しくお願いします。

  • 後備歩兵連隊

    日露戦争の後備歩兵連隊について調べています。 全部で57流の軍旗が授与され、日露戦争後全て皇居に返納されました。 その後、演習に一部が再親授されて、また返納されました。 その後、陸軍の特設師団を編成する計画になり、、後備連隊旗は用済みとなり、皇居の櫓倉庫に保管されました。 終戦時、皇居の倉庫に保管されていたのは、この後備57流と、再発見されてダブった乃木の2流目の第14連隊旗、再動員されなかった第103連隊旗の計59流。 これらは、終戦時、侍従武官により、こっそり奉焼された。 確定している事は・・・ ・後備歩兵連隊は、第1次~第3次に別れて編成された。 ・第2次の番号は49~60で、兵役法変更により捻出された後備兵で編成され最初から3コ大隊編成だが、各編成地、補充担任が分らない。 ・第1次の野戦軍に配属された、後備歩兵連隊は、編成、補充担任は分かっている。 ・しかし、韓国守備軍や、遼東守備軍に配属された独立配備の後備歩兵連隊は、資料が見当たらず、番号すら分らない。 ・中には、最初から4コ後備連隊を編成し、3コを後備歩兵第旅団として、大陸に送り、4コ目は独立して要塞守備に配属された師管もある。 ・後備第3連隊は、編成されなかったのでは無く、後備歩兵第1旅団に所属しなかったが、横須賀要塞に配属された。 ・各師管区は3コ連隊しか編成しなかったのでは無く、4コ目の連隊を第1次か第3次として編成しているらしい。 ・旭川師団は、後備歩兵第25連隊を編成している。 ・中には、連隊とは名ばかりで1コ大隊の物も存在した。 以上が分かっています。 一部は、明治天皇記から、宮中の軍旗授与式の日付、後備歩兵連隊名を調べました。 質問は、 (1)第1次~第3次の後備歩兵連隊の編成状況、編成地、 (どの後備歩兵連隊が編成され、独立して要塞守備、韓国守備軍、遼東守備軍に配属されたか?) あまり知られていない、独立して配属された、後備歩兵連隊について。 (2)そして、第2次後備歩兵連隊の編成地。 教えて下さい。 戦史叢書読みました。 明治天皇記読みました。 防衛研究所行きは、お断り。・

  • 日本陸軍、日露戦争時の後備歩兵連隊 教えて下さい

    太平洋戦争終戦時、皇居には返納された57流の歩兵連隊の軍旗が、あったと 言われています。 その中には後備歩兵連隊旗も含まれます。 後備歩兵連隊旗は、日露戦争が終結後、そのナンバーの歩兵連隊司令部に一緒に 保管されていた。 演習に一部が再出動したりしたが、演習終了後また返納保管された。 その後は、増強計画(平時25コ師団、戦時50コ師団計画)で、特設師団を編成 する方法に変わり、後備連隊旗は用済みとなり、皇居返納。 皇居の櫓倉庫に保管された。 57流うち後備歩兵以外の物としては、 乃木大将の少佐時代に、紛失によりダブって再親授されてしまった歩兵第13連 隊旗。 動員された特設第101師団復員後に、再編成されなかった歩兵第103連隊旗。 南海第1守備隊に改編された歩兵第122連隊旗。 歩兵第88連隊に改編された独立歩兵第1連隊旗 引き算すると、歩兵連隊旗は53流。 (その他としては、搜索連隊、機動歩兵連隊に改編されたり、廃止されて、返納 された騎兵連隊旗もあった) これら全ては、終戦時に侍従武官によりこっそり奉焼された。 調べて分かっていること事は・・・ ・後備歩兵連隊は、第1次~第3次に別れて編成された。 ・第1次は、各連隊番号を継承し、2コ大隊編成。 ・第2次の連隊番号は49~60で、兵役法変更により捻出された高齢後備兵中心で 編成された。 第2次は、最初から3コ大隊編成で、各編成地は各師管各1コ、例外は、旭川師 管は0、東京師管2コであった。 ・第1次の内、野戦軍に配属され、兵力不足で第一線に立たされた後備歩兵連隊 は、戦史から、編成、補充担任は分かっている。 ・しかし、韓国守備軍や、遼東守備軍に配属された独立配備の後備歩兵連隊は、 資料が見当たらず、戦歴、番号すら分らない物が多い。 ・各師管で、合わせて3コ後備歩兵連隊しか編成されなかった、とする資料もあ るが、別の資料を精査した結果、 最初から4コ後備歩兵連隊を編成し、2、3コ連隊を後備歩兵第〇旅団として大 陸に送り 1、2コ後備歩兵連隊は、独立して要地、要塞守備に配置された師管もある。 (東京師管の後備第2、3連隊は、動員計画通り、後備第1旅団に組み込まれず 、東京湾要塞に 配置された) (熊本師管の後備第45連隊は、対馬警備にあたった。その後大陸に進出してい る) (小倉師管の後備第46連隊は、長崎、佐世保要塞に配置された。) (小倉師管の後備第24連隊は、下関要塞配置) ・各師管区は当初から3コ連隊しか編成しなかった師管もあるが、第3次兵備で 、あとから4コ目の連隊を編成している師管もあるらしい ・連隊とは、名ばかりで、1ヶ大隊の連隊も存在するらしい。 ・戦争前動員計画で、後備歩兵は、独立大隊の編成計画の資料はあるが、連隊編 成計画のものはない。 この後備歩兵独立大隊の動員計画が、修正されて後備歩兵連隊の編成になった様 だ。 連隊旗を持たせて、団結心を高めたのであろうか? ・旭川師管は、後備歩兵第25連隊を編成している。 それは、師管内の4コ連隊区で、それぞれ精一杯編成した1コ大隊、計4コの内 の 3コを集成して、第3次兵備として連隊を編成して大陸に送っている。 (残り1コ大隊は分散して、暴動のあった室蘭、その他要地警備にあたった様だ ) ・近衛は、近衛後備第4連隊を編成し、独立して大陸の兵站警備にあたっている 。近衛後備第3は、資料が見当たらない。もしかしたら禁闕守護? (後備近衛1コ中隊が、伊勢神宮警備を、現役の歩兵第33連隊と交代したとす る資料がある) ・奉天会戦後に、後備歩兵旅団は、一部を除き後備混成旅団に改編されている。 ・旅順要塞戦で大量の兵員を失い、全ての後備兵を動員しても、自己師管では本 体師団の定員すら確保できず、陸軍省に師管を越えての下士官兵の補充を求めて いた第9師管と、第11師管の新編成は、かなり難しいと考えられる。 以上が分かっています。 57から4引いた残り53流の連隊旗から逆算すると、1コ以上の後備歩兵連隊が 、常備歩兵連隊数より多く編成されていることと推定される。 そのナンバーは不明。 質問は、 (1)第3次の後備歩兵連隊の編成状況、編成地。 (2)どのナンバーの後備歩兵連隊が編成され、 独立して要地要塞守備、韓国守備軍、遼東守備軍のどこに配置されたか? その任務、戦歴について。 (3)常備歩兵連隊より多く編成したと推定される、後備歩兵連隊のナンバーと編 成地。 (もしかしたら、後備歩兵ではないかも?その後の世代の常設、特設かも) 以上、何でも良いです。 教えて下さい。 戦史叢書読みました。 明治天皇記読みました。 アジ歴も探しました。 防衛研究所行きは、ご勘弁。 何でも良いです。 思い当たること、よろしくお願いします。

  • 『昭和陸軍の独立歩兵団』

    昭和15年頃から、常設師団の満洲永駐化と、師団3単位化に伴い、 50代師団と独立歩兵団が新設されました。 その内、第61~67の独立歩兵団は、 師団3単位化の余剰施設(甲府、佐倉、東京赤坂、札幌、豊橋、福知山、鯖江、奈良、篠山、松山、松江、福山、大分、小倉、) 大正軍縮から保管管理していた施設(高田、村松、佐賀) 他兵種等の空施設(騎兵第4旅団の盛岡の2つ)、 その他新設の施設(溝の口、郡山、加古川)を使い編成されました。 同時に、 東京麻布の第3連隊の跡地は、近衛歩兵第5連隊が新設され。 青森第5連隊の跡地は、電信第4連隊が新設されました。 札幌第25連隊は、上敷香に移駐(跡地は新編成の歩兵第125連隊新設に)。 そして、これら独立歩兵団の設置で、従来の師管の概念が崩れ、 更に上級司令部として軍管区が設置された。 50代師団と、独立歩兵団は、 予備役兵その他の短期急速訓練を繰返し実施する目的とした編成内容とされ、 平時2コ大隊編成で、動員の際に3コ大隊となる様になっていた。 以上は、分かっています。 (1)独立歩兵団の各歩兵連隊の徴募は、どの様にされたのでしょうか? 単純にその地域の旧連隊区より徴募されたのでしょうか? それとも、師管区、軍管区? (2)どの様な基準で、郷土師団と独立歩兵団に振り分けたのでしょうか? (3)また気になるのは、第65歩兵団を動員した第65旅団は、旅団長の奈良中将のセリフに 『第65旅団は老兵』とあります。 独立歩兵団=老兵だったのでしょうか? 所属の第141連隊(福山)は、資料により昭和16年8月に予備役を動員して編成されています。 (予備役100%なのか?現役比率は分かりません) 同じく第142連隊(松江)は、同日編成されていますが、現役予備役の編成方法は不明です。 第122連隊(松山)は、昭和15年8月の早い時期に編成されています。 開戦直前に兵を入れ替えたのでしょうか? どういう動員計画だったのでしょうか? どんな事での良いです。 教えて下さい。 戦史叢書読みました。 アジ歴も探しました。 防衛研究所行きは、ご勘弁。 どんな事でも良いです。 よろしくお願いします。