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特設師団

日中戦争が始まり、昭和12年6コ(13、18、101、108、109、114)、昭和13年4コ(104、106、110、116)の合計10コの特設師団が動員されました。 その内、昭和13、14年に5コ(101、106、108、109、114)は復員しまいたが、5コ(13、18、104、110、116)は、復員せずに日米開戦を迎えます。 何故、この5コ(13、18、104、110、116)は、復員されなかったのでしょうか? 復員の時期を逃してしまったのでしょうか? 特に、人口希薄師管ではなかったからでしょうか? 13、18師団は、前半動員だが、若番なので、最初から常設化の意向だったのでしょうか? 104、110、116師団は、後半の動員で、時局対応の編成改正、装備の向上をされて動員されていた事は、資料から分かっていますが、それが存置された意味なのでしょうか? 104、110、116師団は、昭和17年の第71師団編成後、その後の連番に名称変更の計画もあった様に、戦史叢書からは読み取れますが、関係あるでしょうか? 戦史資料室へ行けは、お断り。 よろしくお願い致します。

  • 歴史
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みんなの回答

回答No.3

>常設化とは~15、17、21、22、23師団と同様の通称警備師団と言う意味です。  用語というのは面倒なもので、乙編制とか丙編制あるいは丁編制、警備師団、治安師団など書籍内での使い方が引用され広まるとさらにややこしくなってきます。あんまり込み入ったことまで書かないようなるべく簡単に、と心掛けていますが、  10番20番台師団と100番台師団は、前者が軍備計画に基づく新設であるのに対して後者はあくまで臨時動員によるもので、予備役の召集兵が主体であったことなど様々な違いがありました。武漢作戦が一段落し中国軍の戦意が衰えていたなら、復員部隊も増えていたでしょう。しかし、あくまで中国軍は退きながらも隙があれば反撃を繰り返したために、復員可能な特設師団(100番台)と常設師団をまず復員させるようにしたのでしょう。10番20番台師団は、乙編制ではありましたが、山砲あるいは野砲兵連隊を有し、一般中隊も170名編制という甲師団に準じたものでしたから、30番台師団(これらは治安警備師団)が到着したのちも)便利に使われてしまった、と言えるかもしれません。 > 昭和14年臨時編成の乙師団も、最初は仮称300代師団として計画されていましたね  仮称と番号配当とはちょっと違うようです。ちなみに満洲では「臨時混成第600旅団」とか「臨時独立歩兵第901大隊」とか、まさに仮称的な部隊名がありました。  

mm058114
質問者

お礼

ありがとうございました。

  • ssssan
  • ベストアンサー率18% (132/730)
回答No.2

特設師団初耳何ですが特設って意味分からないんですがー 旅団編成とか支団とかなら分かりマスが例ーミッドウェー島攻略の第七師団 一木支隊が運命のミッドウェー海戦で惨敗して急きょそのまま南洋装備してないのに 餓島へ作戦変更で突っこんで玉砕等は分かりますが特設師団は聞いた事無いですねー。 もしかして海軍が南洋の島に飛行場とか作るのに特別に急ごしらえの師団かなー 特設師団は、設備の設が使われてるし海軍工兵師団か何かじゃないですか―。

mm058114
質問者

お礼

興味をもってくださって、ありがとうございました。

mm058114
質問者

補足

毎年度の動員計画に、特設師団の編成が計画されていました。

回答No.1

>何故、この5コ(13、18、104、110、116)は、復員されなかったのでしょうか?  復員となる理由がなかった、ということでしょう。 >復員の時期を逃してしまったのでしょうか?  特設師団などの復員は、武漢および広東作戦終了後に持久態勢に移行するため乙編制師団(第32~41師団)や独立混成旅団が臨時編成されて整理交代することで行われました。  第13師団のばあいは、武漢作戦後も漢口北辺地域の襄東および宜昌作戦に従事し、第11軍の中核部隊として戦い続けたため復員できなかったと考えられます。第18師団も広東作戦後も南支の沿岸作戦に従事しつづけたため。第104師団は殆ど広東地区の治安粛正作戦に従事した特異な戦歴の部隊でしたが、これに代わる部隊が編成されなかったということでしょう。 >特に、人口希薄師管ではなかったからでしょうか?  支那事変中に特設師団と常設師団ともに中国大陸で戦っていたのは、金沢・姫路・宇都宮・京都・熊本の五師管で、常設師団の中で損害が多いため特設師団の動員ができなかったのが名古屋・広島・善通寺師管でした。  個人の解釈ですが、さきの在支部隊整理にあたって、第109師団・第9師団、第110師団・第10師団、第114師団・第14師団、第106師団が復員となっているのは徴集および補充の関係があったと推測されます。ただし常設師団はすぐに満洲派遣となっていますが。  なお、昭和14年臨時編成の乙師団のケースでも他の師団が2月の軍令で編成されたのに対して第38師団(名古屋)・第39師団(広島)・第40師団(善通寺)は同年6月末の軍令によっています。  したがって、徴集・補充人口に関して何らかの考慮があったと推測されます。  ただし、この時期には多数の各種部隊の臨時動員(編成)及び復員(復帰)が実施されていましたから、断定するものではありません。 >13、18師団は、前半動員だが、若番なので、最初から常設化の意向だったのでしょうか?  常設師団というのは、常備団隊の師団を指します。 >昭和17年の第71師団編成後、その後の連番に名称変更の計画もあった様に、戦史叢書からは読み取れますが、関係あるでしょうか?  師団の番号については、動員計画中の配当表に基づいてなされており、途中で師団の番号が変更になるということは考えられません。  資料:『戦史叢書 支那事変陸軍作戦(2)』 防衛庁戦史室 朝雲新聞社 76年       『支那事変太平洋戦争間動員概史』 不二出版 88年     

mm058114
質問者

お礼

警備師団5コとは、関東軍後方配備用の師団です。 師団番号の変更は、在支師団を対ソ振り向けの過程で計画されたものだった事、思い出しました。 結論は、残りの特設師団は、計画はあったが、復員できなくなってしまったのが、理由という事ですね。 乙師団の第2次編成に、名古屋、広島、善通寺が含まれているのは、気が付いていました。 このご意見で、自分の考えに自信がつきました。 言葉足らずの質問で、申し訳ありませんでした。 色々ありがとうございました。

mm058114
質問者

補足

特設師団の動員ができなかった~知っています。善通寺師管の山砲連隊だけ動員されましたね。 個人の解釈~同感ですね。嬉しいですね。 常設化とは~15、17、21、22、23師団と同様の通称警備師団と言う意味です。 師団の番号の変更については、戦史叢書の大本営陸軍部にそれらしい記載があります(何巻だかはメモ紛失してしまいましたが…) 昭和14年臨時編成の乙師団も、最初は仮称300代師団として計画されていましたね。 つまり、13、18、104、110、116師団は、作戦中であったり、代わる部隊が存在しなかったり、中国軍の逆襲があり、ズルズルと復員が先延ばしになってしまって、対米戦に突入していまった。って事ですかね?! 104師団なんかは、補充担任を名古屋に変更して存在し続けますしね。

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