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桶狭間合戦でなぜ今川義元は信長に敗れたのですか?

shirouudaの回答

  • shirouuda
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回答No.9

梁田政綱の件 信長の近臣(弓衆)の太田牛一は、若い頃から信長について調べたことを書きためていて、これを老後に編集したのが「信長公記」。この公記には梁田氏の件は書かれていません。それどころか、「信長が義元の位置を知らないで発した発言」が書かれています。「あの疲れた部隊を攻撃しろ」と信長は命令しました。もし、信長が義元の位置を知っていたなら、「あの後ろに義元がいる」と命令して、作戦目的を明確にし、味方の士気を上げているはずです。 この太田牛一を「愚直でおもしろみが無い。」と批評した小瀬甫庵が、おもしろおかしく信長公記を書き換えたのが「信長記」(まぎらわしいので甫庵信長記と呼ばれる)。 この梁田の件は桶狭間の戦いの後、50年以上経って初めて甫庵信長記に書かれました。おもしろおかしく書き換えた本にです。 そして、同時代人の大久保彦左衛門に甫庵信長記は「偽り多し」と評されています。 ☆現代の研究では、 信長公記・・・・単独で論拠となり得る、余裕で一級史料。 三河物語・・・・彦左衛門の主観が多いが、一応一級史料。 甫庵信長記・・・・小説 という扱いであります。

mkfdh
質問者

お礼

回答ありがとうございました。なるほど、分かりました。

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