疎外から人象化へ―世界の展望

このQ&Aのポイント
  • 疎外とは、自分の手元から離れてしまって自分の自由にならない状態のことであり、エネルギー部門を他者に譲渡・手放すことを指す。
  • 物象化とは、資本や経営者、従業員、消費者などが資本の利益追求のために行動することであり、人間が資本の支配下に置かれる状態を表す。
  • 理象化とは、人間の精神や理性を重視し、自己の心を女王とする思想であり、個々人が愚直に生きることを提唱する。
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疎外―→物象化―→理象化(?)―→人象化?

 世界を展望してください。  §1. 疎外  (1) 自家発電をせずに ほかから電気を買うのなら エネルギー部門を自分の手元において運営利用しない。その点で エネルギー部門を手放している。譲渡している。あるいは 外化している。  この外化・譲渡・手放しが 疎外である。  (2) 疎外の結果は――運営管理を他人にまかせているのだから―― たとえばその品質や安全性についてはこれも 他人まかせである。つまり自分の手元から離れてしまっていて 自分の自由にならないという意味での疎外でもある。  §2. 物象化  (3) たとえばこの発電事業についてみても 《資本》は 自己の価値を増殖しようとして すでに自己運動をおこなっていく。最小の費用で最大の利益を実現しようとする自己増殖を再生産していく自己運動である。  (4) 法人という主体(?)も その経営を任された人間も その会社に雇用される人たちも あるいは消費者ないし顧客である人たちも さらにあるいはその会社の地域住民も この愛すべき《資本》さまのお通りのために――つまりそのモノとしての運動ないし現象のために―― その存在と意志とをささげるというまでに到れば それは 《人間の〔行為の〕物象化》である。  (5) 行為が 資本の自己運動に従い さらにはわがたましいをもその世界の帝王に服従しささげるに到れば 物象化とは 《お金の世の中》を言う。人間は ムッシュー・キャピタルの前にひれ伏す。いや というよりも この王のこころ(?)をわがこころとして 一人ひとりは 王の分身となる。  §3. 理象化(?)  (6) この疎外と物象化の世の中がいやだからと言うので 人間存在にかんして《こころ あるいは 精神と理性》 これを取り出し取り立て 女王とする。クイーン・リーズンあるいは マダム・エスプリ のもとにささやかに生きるという。これが 理象化なる思想なり。  (7) キング・コギトの王国と言うのと あまり違わない。かも知れない。違いは それでも 色濃い。理性を打ち出すというよりは ハート・こころを重んじるところだ。  (8) ひょっとすると この理象化の動きには 例の独我論が一役を買っているかも知れない。もしそうだとすれば それは あまりたたかうということをしない。コミュニケーションが この世の中において人間どうしのあいだで 成り立つとは思っていない。発信はするが受信はごめんだという半鎖国政策である。  《科学的認識の世界に こころなる女王のもとに ささやかに生きる》と言う。     *  ご教示ください。内臓や脳細胞の布置や それらの吟味検査とともに。  さらにその診断および処方箋のあと 歴史と社会の全体にわたる処方箋までをも。  質問者には基本的には 一人ひとりの目覚めという見通しがあるのみです。この目覚めが どこかひとつに片寄ってはいけないというかたちでの。  《人象化》のルネサンスは 成りましょうか?

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noname#194996
noname#194996
回答No.3

こんにちは、ブラジュロン様、ご無沙汰です。 例によって自分なりの勝手な解釈によって難解なブラ様の世界に些細な挑戦を。 資本の自己運動はたしかに現在する世界経済の俯瞰図としてはおおむね間違いではないと思います。 でも、その中で泳ぎまわる現役のマネーソルジャーたちは、それなりに自分を取り巻く巨大な構造社会に自分だけの生き方を、自身の力に応じたささやかなレジスタンスを試みているのだろうと思いますよ。黒田総裁は総裁なりに、地方銀行の支店長代理は彼の采配の及ぶ範囲で、町工場の経営者たちしかり、それなりの現状変更を自己満足の動機もあって試みているだろうと私は考えています。 考えても見てください。経済は人間が自力で作り上げてきた世界です。それに当の人間がいまさらどうにもならないとさじを投げるのはあきらかに間違っていると思います。世界経済は粗暴な片目の巨人ではありますが、人間が居なくなったらあっという間に消えるべき存在です。 さて、その前提で §3.以下をいうことになるのですが、人間界のカネから無縁であろうとするのは、自身の心に忠実に生きるという人生の生き方は、もちろん人それぞれであり、あれがいいこれが悪いといえるものではないと、私は思います。理性はどのような修羅場でも相手が居る限り必要であり、逆に心は邪魔になる場合が往々にしてある、と思います。一人ひとりで自己満足の目覚めの世界に住む場合を除いて。 >《人象化》のルネサンスは 成りましょうか? はい、ご健闘をお祈りいたします。 見当違いなら失礼いたします。

bragelonne
質問者

お礼

 ★ 考えても見てください。経済は人間が自力で作り上げてきた世界です。それに当の人間がいまさらどうにもならないとさじを投げるのはあきらかに間違っていると思います。世界経済は粗暴な片目の巨人ではありますが、人間が居なくなったらあっという間に消えるべき存在です。   ☆ 考えてみています。俯瞰の図式が過ぎたかも知れません。(もっとも いつもわたしは 挑戦的な表現で 質問をしているようです)。  こまあす88さん こんにちは。ご回答をありがとうございます。  そうですね。  ★ 黒田総裁は総裁なりに、地方銀行の支店長代理は彼の采配の及ぶ範囲で、町工場の経営者たちしかり、それなりの現状変更を自己満足の動機もあって試みているだろうと私は考えています。  ☆ この光景と言いますか実態と言いますかは 含みとして思っていたと思っているんですが――つまりは 他律的な行動を余儀なくされても それをも甘んじて人びとは引き受けているという受け留めにおいてですが―― そのような立ち場なり観点なりからの認識をも しっかりと述べておくべきでしたでしょうか。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  さて、その前提で §3.以下をいうことになるのですが、人間界のカネから無縁であろうとするのは、自身の心に忠実に生きるという人生の生き方は、もちろん人それぞれであり、あれがいいこれが悪いといえるものではないと、私は思います。  理性はどのような修羅場でも相手が居る限り必要であり、逆に心は邪魔になる場合が往々にしてある、と思います。一人ひとりで自己満足の目覚めの世界に住む場合を除いて。  >《人象化》のルネサンスは 成りましょうか?  はい、ご健闘をお祈りいたします。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ここで質問の焦点としては まさに:  ★ 理性はどのような修羅場でも相手が居る限り必要であり、逆に心は邪魔になる場合が往々にしてある、と思います。一人ひとりで自己満足の目覚めの世界に住む場合を除いて。  ☆ にあったわけです。世界を《理象》として捉え 科学の眼でその認識を広め深める。その世界認識をもってすれば 《こころ》は宇宙大に広がり深まり すでに一体となる。とか そうでないとか。  ショウジキに申せば 例のゴータマ・シッダッタの世界になお現代人が沈潜するのも この――決して明確な宇宙観ではなく むしろその漠然としたあいまいさこそが 心地よいと言うかのような――世界認識である。つまり きわめてあいまいな《理象化》としての人生観であるように思われます。  ★ 一人ひとりで自己満足の目覚めの世界に住む場合を除いて。  ☆ この・口がわるいですが蛸壺を避けることが出来るなら それだけで大きな成果であると思っているほどです。  自己満足でもよいですから ひらかれたその目覚めの世界の住人でいて欲しい。ならば すでに《人象化》の生活世界に足で立っていると思うからです。  じつは 次のくだりも大事ですね。   ★ 人間界のカネから無縁であろうとするのは、自身の心に忠実に生きるという人生の生き方は、もちろん人それぞれであり、あれがいいこれが悪いといえるものではないと、私は思います。  ☆ おそらく けっきょくグローバル化がほとんど成ったいまの状態にあっては そこに生きる現代人は みな互いに良い意味でもわるい意味でも すでに同じ穴のムジナであるのだと考えます。  それなりにみなが――自由は自由であるというひとつの公理がありますからこれにもとづき――それぞれ よかれと思って生活しているのだと思います。  ★ その(* =資本の自己運動の)中で泳ぎまわる現役のマネーソルジャーたちは、それなりに自分を取り巻く巨大な構造社会に自分だけの生き方を、自身の力に応じたささやかなレジスタンスを試みているのだろうと思いますよ。  ☆ という・ふつうに共有できる共生感のもとに まづは世界認識をいたさなければならない。この《人象世界》の中に もしそれが認識として有益なものならばその《理象》をも採り入れていなければならない。  ふうーーぅ。何とか問い求めの進行係の役目を果たし得たでしょうか。  

その他の回答 (8)

回答No.9

「少しでも安くて好いものを」という消費者の意識改革が必要になると思うんですよ。 安いから、海外から食料などを輸入し、消費する。 しかし、輸入するには、飛行機や船などの燃料が必要な上に、その燃料を使うことによって、二酸化炭素が排出される。 環境破壊や資源の枯渇などのツケ、負債を後世の人々に回している、押し付けている。 現在の大量生産、大量消費、大量輸送という世界的な経済システムは、こうした後世の人たちへの多大なツケ回しの上で成立している。 科学や技術が今以上に進歩すれば、後々の人がきっとこの問題を解決してくれるであろうと漠然と期待する、 あるいは、 「今さえよければよい。後は野となれ、山となれ」といった刹那的な生き方をしているのではなかろうか・・・。 生産・供給の側だけではなく、消費者自身もです。 ですから、企業側・生産者側のモラルに頼るのではなく、 まず、消費者自身の意識が変わらないといけない、変えなくてはいけない、 と思うのですよ。 食料品一つ買うにしても、 一時期話題になった、 《フードマイレージ》や《仮想水・ヴァーチャルウォーター》 といったものを常に意識し、考慮して、 消費活動に当たらないといけない。 こうした消費者の意識変革が必要なのでは、と考えたりしています。 フード・マイレージ http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%BC%E3%83%89%E3%83%9E%E3%82%A4%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%82%B8 仮想水 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%AE%E6%83%B3%E6%B0%B4 企業・供給側も、消費者が買ってくれなければ、その商品を売ったりしませんし・・・。 と同時に、 消費者も積極的に企業側に働きかけないといけない。 エコ商品だから買うという消極的な、受身の態度ではなく、 「われわれは○○なものを欲しているのだ」 と、製品の企画、開発、製造まで口を出すような、その段階から、積極的に参画する、そしてそれを積極的に購入、使用、消費するというような、 真のクレーマーにならないといけないのではと。 ここでいう《クレーマー》は、企業側に理不尽な文句をつける、難癖や因縁をつけるという意味ではなく、 真っ当なことを主張する・claimするという意味での《クレーマー》ですけれども。 まっ、理想論ですけれども。 そもそも、わたしは、いたずらな経済・生産や市場グローバリズムに反対ですし・・・。 かと言って、 何から何まで自国一国でまかなえ。目指せ、自給自足型国民経済システム!! なんて無茶ことは言いませんが、 不要不急の他国の珍材(たとえば、高額な海外のブランド物とか、高くて珍しい食材とか)を欲するような行為は如何なものか、 とは常日頃思っています。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ◇ 「少しでも安くて好いものを」という消費者の意識改革が必要になると思うんですよ。  ☆ これは 思い切った考えですね。  ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~~~  「今さえよければよい。後は野となれ、山となれ」といった刹那的な生き方をしているのではなかろうか・・・。  生産・供給の側だけではなく、消費者自身もです。  ですから、企業側・生産者側のモラルに頼るのではなく、  まず、消費者自身の意識が変わらないといけない、変えなくてはいけない、  と思うのですよ。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ これは 大きな問題らしいですよ。  つまり 投資ではなく投機とは何だというときの説明では いつも 《主婦がこちらのスーパーよりあちらのスーパーのほうが安いわよ》と言って 安いほうにおもむくという行動とちっとも変らないというような。  量の違いは質の違いになるから ちょっとそれは違うというようにも思えますが 資本主義的経済行動は すこぶる合理的であるということにもなるようです。  最初の大胆なご提案についても つながっているようですが 燃料を大量に使えば二酸化炭素が出てしまうといった費用を含めての合理的な行動が 考え出されて来るでしょうか。  いまは 燃料を使って二酸化炭素を出すとしてもそれを押さえる・あるいは浄化するといった方向にあるでしょうか。  フード・マイレージの思想には 批判もあるようですね。  ▲ (ヰキぺ:フード・マイレージ) ~~~~~~  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%BC%E3%83%89%E3%83%9E%E3%82%A4%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%82%B8  フード・マイレージ (food mileage) は、  「食料の ( = food) 輸送距離 ( = mileage) 」という意味であり、  食料の輸送量と輸送距離を定量的に把握することを目的とした指標ないし考え方である。  食糧の輸送に伴い排出される二酸化炭素が、地球環境に与える負荷に着目したものである。  § 2 概要  基本的には「食料品は地産地消(生産地と消費地が近いこと)が望ましい」という考え方に基づく。  § 5 批判  フードマイレージの主張には、批判がある。  たとえば、イギリスでトマトのハウス栽培をするよりは、スペインでトマトを露地栽培した方が、エネルギー消費は少なくて済む。  国内でトラックによって運ぶよりも、海外から船で運ぶ方が、エネルギー消費が少ないこともある。  国内で機械生産するより、海外で人力生産する方が、エネルギー消費が少ないこともある。  その意味で、輸送距離ばかりに着目するのは妥当ではない。  このような批判はたくさんあり、Wikipedia 英語版に詳しく記述されている。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~    ☆ 仮想水は 水の危機が言われるようになったことですよね。  ▲ (ヰキぺ:仮想水) ~~~~~~~~~~~~   (かそうすい、virtual water)とは、   農産物・畜産物の生産に要した水の量を、農産物・畜産物の輸出入に伴って売買されていると捉えたものである(工業製品についても論じられるが、少量である)。ヴァーチャル・ウォーターともいう。  世界的に水不足が深刻な問題となる中で、潜在的な問題をはらんでいるものとして仮想水の移動の不均衡が指摘されるようになってきた。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~~~  消費者も積極的に企業側に働きかけないといけない。  エコ商品だから買うという消極的な、受身の態度ではなく、  「われわれは○○なものを欲しているのだ」  と、製品の企画、開発、製造まで口を出すような、その段階から、積極的に参画する、そしてそれを積極的に購入、使用、消費するというような、  真のクレーマーにならないといけないのではと。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ これは 労働者の取締り役会への参加につぐ・消費者や地域住民の参加といった方向性でしょうか。  株主でも何でもないながら 運命共同体のようなものだという考えから 参加する。究極の社外取締役。  会社の数字を見てそれを考慮しつつ きちんとした主張を述べて行くことがのぞまれるでしょうね。とりあえずは 地域住民でもある従業員からの参加が現実性があるかも分かりません。  そう言えば 趣旨説明欄に《一人ひとりの目覚め》という方法しか思い当たらないと書きましたが 例のインタムライズムは あるにはありました。  ムラ(市町村)とその市民が――しかも国内国外のほかのムラムラとその市民とともに―― 各企業と連携しあって行く。全地球パートナーシップを目指す?   これは お二階さんの処遇をどうするかのあとかも知れません。  いづれにしましても 素人市民の声をあつめて行くのが ひとつの道であるように思われました。

回答No.8

江戸時代の日本に存在したような、利用できるうちは徹底的に使うといった循環型の経済・社会システムをつくる必要があるのかもしれませんね。 さらに、江戸時代の人は貧しかったから、「困ったときはお互いさま」といった互助・共助といった仕組みや意識もあった。「そうしないと、生きていけない」という社会・経済的な制約や要請から起こったものなのでしょうが、 便利になった、物質的に豊かになったからといって、こうした価値感まで捨て去る必要はないじゃないですか。 たとえば、 着物(和服)の布地が痛み始めたら、その布をほどき、赤ちゃんのおむつに使う。おむつにもつかえなくなったら、雑巾に。雑巾にも使えなくなったら、油トリ紙の代わりに使う。そして、その布を燃料代わりにして燃やす。燃え残った灰は肥料に、といった風に、自然からの恵みを徹底的に理容し尽す。ゴミにならないようにする、 といった知恵が必要になる。 企業側も、こうした再利用を前提とした製品を開発・生産する必要がある。 たしかに、コストや手間はかかるのですが、外部経済を考慮に入れると、こちらの方が実は安上がりのはずなんですよ。 江戸時代の日本人は、人間の屎尿さえも肥料として利用した。 嘘か本当か分かりませんが、 江戸時代の長屋の家賃は「ウンコ」だったという人もいます。 長屋の住人はウンコをし、大家さんは、そのウンコを肥料として農民に売った。そのウンコから得られる売却益で長屋の経営や運営が行われた。長屋の住人、店子からの家賃収入で成り立っていたわけではないらしい・・・。 であるから、長屋の住民は、家賃は払えずとも、いいウンコをするという責務・義務を負っていた、とかいなかったとか。 ───人間の屎尿には等級があり、その等級によって、価格が決まっていた。であるから、長屋の住人は、いいウンコをする必要があった(笑い)─── 寄生虫などの権威、東京医科歯科大学の名誉教授・藤田鉱一郎は、そういうことを言っておりました。 江戸を中心とする関東平野というのは、関東ローム層という火山灰土で、本来、農業には適さない痩せた土地であった。 この土壌改良に江戸で大量に生産される人間のウンチが肥料として使われ、現在のような肥沃な土地になった、という話です。 ☆企業がやらないなら 共同自治において政治権力が規則を取り決める必要がある。 ◇これも江戸時代の話なのですが、江戸の大商人というのは、経済活動で稼いだお金を社会に還元していたそうですよ。つまり、(大)企業は、本来の経済活動の他に、地域貢献の義務を負っていた。住民の福祉の向上に努めていた。 企業は金儲けだけをすればいいのか、利潤追求だけをすればいいのか? 企業は、商品などの供給・流通という形のみで社会貢献をすればいいのか? そして、納税という形で社会に貢献すればいいのか? という今日的な問題解決のヒントの一つがここにあるのかもしれませんね。 ☆☆ 自然環境の開発は どこでも昔からやっていると言えないこともない。 ◇自然環境の開発(悪く言えば、自然破壊!!)は、人間という生物の存在にとって必要悪ですよ。人間以外の生物(植物を含めて)も、己れの生存に適するように、周辺の環境を利用します、自然破壊を行っています。その微妙なバランスの上で、生態系を含む自然は成り立っています。 ですが、人間はやりすぎ、度を超しすぎ。 使いやすさ、住み心地のよさ、便利さ、効率性をを多少の犠牲にしても、生態系を極力破壊しないような自然開発を行わないといけない。 何も街中をコンクリートなどで固める必要はないでしょう。 「ここは人間様のテリトリーだから、自然は入ってくるな」というようなことはする必要はない、と思うのですよ。 人間に敵対する自然という《西洋的な自然観》、そして、自然からの一方的な搾取の図式からの脱却が必要だと思います。 搾取の構造は、人間のみにあたらない、自然からの搾取も考えに入れないといけない。 と同時に、 自然から離れた人間存在、これも疎外化の一因になっているのでは、ないでしょうか。 ギリシア的なコスモス観はよくない。 これは、自然に対立するポリス内での調和・コスモスに過ぎないので。 《人象化》には、「自然と相争いながらも、ともに生きる」という知恵と決意が必要なのでは。 などとエラそうなことをほざいてみました(ポリポリ)。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ◇ 江戸時代の日本に存在したような、利用できるうちは徹底的に使うといった循環型の経済・社会システムをつくる必要があるのかもしれませんね。  ☆ 《循環型》ですね。利用し終えたあとの廃棄物が 自然環境に帰って行き またふたたび利用できるようになるとか。  ◇ 「困ったときはお互いさま」といった互助・共助といった仕組みや意識  ☆ これを推し進めようとしているのですが このことは 意外とむつかしい。  《助け合い》と言いますか 《人命よりも反日》でことわられる場合などは特殊だとしても ひとを助けるというのは ようく考えてみれば 助けられるほうは 何とも言えない戸惑いがあると思います。  それは 昔むかしでは モノの交換が始まるまえの《贈与》という行為の問題であったらしい。  要するに 与えられた側は ありがたく思いつつも 《負い目を負う》ことにもなる。ありがたく思うと同時に ひとが生きる上でその実存にとって一体なんであるのかと考えさせられる贈り物が 天から降ってくる。となりのムラの長が 思いついたのだろうけれど 何とまぁ 晴天の霹靂が来たことになる。  つまり これは 《お返し》という行為になって現われる。  そちらの市民で選挙者たちは 生涯あるいはそれ以上に子の代まで ともかくどんな悪いことをしたと見られても お返しをする義理堅いところがあったぢゃないですか。  ◇ 「そうしないと、生きていけない」という社会・経済的な制約や要請から起こったもの  ☆ であるといった条件が ひとつです。  あるいは 助ける側は あくまで自分の利益になることとして・もしくは自分の勝手な押しつけがましい行為ですがとあやまって おこなう必要がある。のではないでしょうか。  ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~  たとえば、  着物(和服)の布地が痛み始めたら、その布をほどき、赤ちゃんのおむつに使う。おむつにもつかえなくなったら、雑巾に。雑巾にも使えなくなったら、油トリ紙の代わりに使う。そして、その布を燃料代わりにして燃やす。燃え残った灰は肥料に、といった風に、自然からの恵みを徹底的に理容し尽す。ゴミにならないようにする、  といった知恵が必要になる。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ こうして 大量生産=消費のシステムを方向変換して行こうということですね。  エネルギー・交通・情報通信などの公共の分野をどうするか? と相まって考えて行くのでしょうね。  ◇ 企業側も、こうした再利用を前提とした製品を開発・生産する必要がある。 / たしかに、コストや手間はかかるのですが、外部経済を考慮に入れると、こちらの方が実は安上がりのはずなんですよ。  ☆ と。  ◇ ・・・この土壌改良に江戸で大量に生産される人間のウンチが肥料として使われ、現在のような肥沃な土地になった、という話です。  ☆ そうですか。そういった壮大な歴史的な展望も 出されて来るといいですね。  ◇ 企業の社会貢献・地域への寄与  ☆ これは 世界経済におけるたとえばコストの競争があるので 存続があやうくなったら元も子もないからには なかなか優先させることもむつかしい。当面は。  ◇ 自然環境の開発(悪く言えば、自然破壊!!)・・・ですが、人間はやりすぎ、度を超しすぎ。  ☆ たぶん この《度を越した行動形式》をも あたらしい大きな・人間の存在論や世界観の内に採り入れて行かねばならない。その《人びとを束ね寄せる〈ヨセ〉なる超歴史知性》をわれわれは 生け捕りにせねばなるまい。お二階さんのいまの情況のまま 居心地のよい状態において その思想を生け捕りにせねばならない。  ことばが 権力をほろぼしうるか? そんな思想があらわれるだろうか?  よろめいたからどうするというのではなく また つまづかせることもなく 生け捕りにできるか?    ◇ 人間に敵対する自然という《西洋的な自然観》、そして、自然からの一方的な搾取の図式からの脱却が必要だと思います。  ☆ あとは どうやって? になるかと考えます。哲学の徒にとって哲学の徒であることの冥利につきる課題でしょう。  ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~  ギリシア的なコスモス観はよくない。  これは、自然に対立するポリス内での調和・コスモスに過ぎないので。  《人象化》には、「自然と相争いながらも、ともに生きる」という知恵と決意が必要なのでは。  ~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ これをめぐって 次の質問にひと言を書きました。  ○ 【Q:西洋哲学のパクリ】   http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa8543520.html  その回答No.13です。よかったらどうぞ。  科学はパクルことが割り合いやさしいけれど 自然と共生するという人間の境地は パクリ得るか? です。  今後の方向は たぶん ふるい言葉で言えば パラダイム・チェインジといったことなのでしょうか。

回答No.7

数年前、TVで見たんですが、 オガララ帯水層の地下水を大量に汲み上げ、本来、農業に適さない地域で灌漑農業を行っている大規模農業を行っているアメリカのお百姓さん、farmer(?)の「なくなるまで使いきってやる。それまで徹底的に稼いでやる。後のことは俺の知ったことじゃない」的な発言を耳にして、驚いてしまいました。 《コモンズの悲劇》を地で行っている。 あれは、もはや、農業ではなく、農産物の工業生産化に違いない。 自然に対する感謝や畏敬の念が欠如している!! コモンズの悲劇 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B3%E3%83%A2%E3%83%B3%E3%82%BA%E3%81%AE%E6%82%B2%E5%8A%87

bragelonne
質問者

お礼

 つづいてのご回答です。  ▲ (ヰキぺ:コモンズの悲劇) ~~~~~~~~~~~  § 1 概要  ・・・  実際にコモンズの悲劇が起こるのは、その共有地がオープンアクセスの場合に限られる。  行政政策として、希少資源の獲得など正の外部性(外部経済)の場合は、有償で利害関係者に所有権或いは独占権を与えて管理させる事によって、コモンズの悲劇を防ぐ事が出来る。  例えば、電波利用について、政府が電波使用料の徴収と引き換えに、特定事業者に電波帯域の独占使用を認めさせることである。  タクシーなどの運輸事業者に対する免許制度も、不当廉売による市場崩壊防止のための政策である。  いっぽう大気汚染や水質汚濁、土壌汚染など負の外部性(外部不経済)の場合には、大気汚染防止法などの取締法規による規制的手法や、二酸化炭素の排出取引など市場原理を活用する手法(外部不経済の内部化)が用いられる。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ と書いてはいますね。  ○ あとは野と成れ山と成れ  これも 思想のひとつなのでしょうか。《わたしたちのあとは もういっぺん ノアの大洪水が起きたって 知ったことではありませんわ》と言える思想のようです。  つまり 哲学としては この《思想の問題》として扱うこともありなのではないか?  つまり 気のくるった発言と行動がいま荒れくるっていますが どうもこの《思想》をも《内部経済》の中に取りこんで 対話をすすめなくてはならない。  コモンズのハッピーエンドに持って行かねばならない。  《理象化》は だめ。つまり 足を地につけた世界観の内に 科学の捉えた理象をも取りこんで 議論ができるようにしたい。  みなさんの人類史の展望をさらにつのります。と思うのですが。

回答No.6

大量生産、大量消費の近・現代の産業・経済システムは、自然環境や生態系の破壊というコストがその収支の中に入っていないということですよ。 自然の回復能力や浄化能力の範囲内でおさまっている間は、こうした経済システムは有効であったのかもしれませんが、 二酸化炭素の温暖化などによって、人類は近い将来これまでの負債の支払いを一気に迫られます。 中国で問題になっているPM2.5などは、序の口ですよ。 化石燃料といった地下資源の奪い合いではなく、綺麗で安全な水や耕作可能な土地を巡る、血で血を洗うような争いが起きるかもしれません。 現在、農産物の輸出国であるアメリカは、オガララ帯水層の水が干上がってきて、エラいことになっています。自然が数百万年の長い年月をかけて溜め込んできた水を、ここ百年ほどで使い切る勢い。 オガララ帯水層 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%82%AC%E3%83%A9%E3%83%A9%E5%B8%AF%E6%B0%B4%E5%B1%A4 水の世紀 水不足がやってくる http://park10.wakwak.com/~ooki/t/mizu.html お隣の中国は、黄河の水が干上がる断流という問題が起き、華北地方での農業生産に深刻な悪影響を与えています。さらに、これが中国の乾燥化、砂漠化に拍車をかけ、農地の荒廃に拍車をかけています。工業化、経済発展による、土壌汚染の問題も深刻ですし、中国には、安全な土地、土壌はもはや存在しないなんていう研究者もいるくらいです。 黄河断流の原因と対策 http://www-basin.nies.go.jp/project/lugec/Survey99/Report99Survey.htm 大量の化学肥料、農薬と灌漑用水の使用によってもたらされた《緑の革命》という農業の生産システムにも様々な弊害が起きています。特に深刻なのが、農地の塩害化、《塩類集積》と呼ばれる現象です。 塩類集積 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A1%A9%E9%A1%9E%E9%9B%86%E7%A9%8D 環境負荷や環境コストを無視し、まったく考えてこなかった経済システムは、破綻しかかっていますよ。 大量生産・大量消費というビジネスモデルをそろそろ改めないといけないんじゃないですか。 自然は管理できる、コントロールできる、なんてヨーロッパ的な考え、人間本位の思い上がった自然観を捨て去る時期が来てるんじゃないですかね。 そういう気がします。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  《外部経済》っていうことですよね。  少ない費用で多くの利益を上げるというとき 外部環境の利用については 道路やゴミ処理のほかは考えていない。  でも ゴミ処理が費用に入るのなら 外部経済についての費用収益の原則をあてはめればよい。  企業がやらないなら 共同自治において政治権力が規則を取り決める必要がある。    とまぁ 従来のやり方にもとづけば こうなるとは思います。あとは 政治なり企業なりがやるかやらないかだけだというかたち。・・・  一方的に話をすすめますが:  ◇ 人類は近い将来これまでの負債の支払いを一気に迫られます。  ☆ というとき 負債を引き受けるというのは 人象すなわち人間のふつうの意志行為であると考えます。    自由意志――他律による不自由にも甘んじて引き受ける主体的な大きい自由――の範囲内である。といった議論が 必要ではないか? こういう観点から 問うていると言えば問うています。  外部経済のもんだいも 人間という経済主体の自由な活動にまかせているのなら 想定内であると考えるのが とりあえずの――消極的ななのですが――捉え方ではないか。  おそらくその上で 積極的な思想が出て来るかも知れない。あたらしい世界観があらわれるかも知れない。  正と負に分け マイナス経済を《ののしる》のは 人間の自由意志の敗北宣言にしかならない。  《ののしる》こともなく 突っ走っている場合はなお 問題でしょうが。  ◇ 自然は管理できる、コントロールできる、なんてヨーロッパ的な考え、人間本位の思い上がった自然観を捨て去る時期が来てるんじゃないですかね。  ☆ たぶんそのことと そして《外部経済に目もくれず 目の前の利益を得ようとして走る》こととは 微妙に違うようにも思います。  ○ (万葉集 十九・4260-4261) ~~~~~~~  4260 大伴御行、天平勝宝4年2月2日,古歌,伝誦,天武朝,大君讃美  [題詞]壬申年之乱平定以後歌二首  皇者  神尓之座者  赤駒之  腹婆布田為乎  京師跡奈之都  大君は 神にしませば 赤駒の 腹這ふ田居を 都と成しつ   4261  題詞 (壬申年之乱平定以後歌二首)  大王者 神尓之座者 水鳥乃 須太久水奴麻乎 皇都常成通 [作者<未>詳]  大君は 神にしませば 水鳥の すだく水沼を 都と成しつ  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 自然環境の開発は どこでも昔からやっていると言えないこともない。    弁護人がいないとと思って その一方的な側からのお応えです。

回答No.5

わたしは、 産業革命以降の産業の進展に伴い、 個人(労働者)が、 かつての職人のように生産手段を自ら有さなくなり、もしくは、有せなくなり、 機械の一部のごとき存在や機械の延長線上の存在に堕したところから、 疎外化が始まったと思うのですよ。 労働や、その労働によって作り出されるものは、かつての職人さんの労働や労働によって作り出されるもののような、全人格的なものではなくなってしまった。 経営者を含む、99パーセント以上の労働者や勤労者は、代替可能な部品的な存在に過ぎませんし、また製品などについても、自分が携わっているのは、そのごく一部分に過ぎません。これと同時に、労働や勤労に対する喜びや誇りも失われてしまった。 ひたすら効率を求めるマスプロダクションや分業化の弊害といってもいいのかも知れませんね。 本来、われわれの暮らしをよくするためものであった市場というシステムによって、 知らず知らずのうちに物象化してしまったのかもしれないですね。 処方箋は、今の産業システムを捨てる、あるいは抜本的に作りかえるか以外にないじゃないですか。 地球環境が現在の人間の活動の及ぼす環境負荷に耐えきれなくなり、 意外にはやく、現在の経済活動のシステムを変えざるを得なくなるのかもしれませんね~。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ◇ 労働や、その労働によって作り出されるものは、かつての職人さんの労働や労働によって作り出されるもののような、全人格的なものではなくなってしまった。  ☆ ええ。それで いまではたとえば 生産者から流通から消費まで・あるいは廃棄の段階までの全過程についてのトレーサビリティーが問われるようになったようです。疎外の克服なのでしょうね。《全人格的な経済活動の取戻し》でしょうか。  ◇ 処方箋は、今の産業システムを捨てる、あるいは抜本的に作りかえるか以外にないじゃないですか。  ☆ えっ。それは ご無体な。  大量生産は 安価な製品を実現し 大衆消費社会をかたちづくり そこに特に貴重だと考えられるいわゆる中間層をつくりました。市民社会をになう中核の存在であるかとも考えられます。この歯車化した工業社会や産業システムをつうじて とうといことに 形成して来ました。  世界の各地でフロンティアがおよそ無くなるまで まだこの単一製品の大量生産=廉価な製品の大量消費の社会は まだなお いくらかはつづくでしょう。商品の飽和状態に到って どうするのがよいか。たしかに抜本的にシステムを作りかえることにもなるのでしょうが。  ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~  地球環境が現在の人間の活動の及ぼす環境負荷に耐えきれなくなり、  意外にはやく、現在の経済活動のシステムを変えざるを得なくなるのかもしれませんね~。  ~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ それにしても 空の消えた北京は 動きませんねぇ。と応じつつ。

  • Tefu_Tefu
  • ベストアンサー率27% (87/322)
回答No.4

こんばんは >残念ながら 分かりかねています。 でしょうね 閃いただけですから 聞き流していいですよ(^-^) >情況が しっくりとしたかたちでは 把握できかねています。 人間の主観としての認識は 2:6:2の法則(パレートの法則)にしか認識できないのではないかという前提です 人間が社会生活を営む場合 何かを共同で行うならば自分の自由意志では2割しか出来なく 残りの8割は他の人が行うと認識するのだと考えました そして 2割がさぼる行動は自由意志の裏返しで 自分がさぼる場合もあると考えるという認識です このことが 共同体の中での団体の行動として行われているのではないかということです 共同体の中の2割のさぼりを補おうという主観による認識が 無理な行動に繋がりストレスや失敗となると考えました >そこで 解決策として2割のさぼりの1割を 自分の行動の認識とすれば3割となり 自由意志に於いて 自分が3割の行動ができれば解決できるのだと云うことです そして それにより 他者の行動も7割として認識できて 「認識によるあやまちは」無くなるのだと思います だから 3:7の法則が人間の認識において最高の幸福をもたらすのではないかということです >7:3の法則の基である【78対22の法則】(ユダヤの法則) であるとするならば 33:67が最適なのでしょうけれど 人間の認識は10進法といういい加減なものなので3:7の法則が成り立つと思いました >独自の世界をつくり  う~ん 人間は共同体の中で生活しています 貨幣を造り商品の物流により生活を始めました 特に 資本主義はユダヤ人による貨幣制度です 十分に独自の世界だと思います >お釈迦様ならば 2:6:2の法則だったでしょうね そして 2割の自由意志における2割の認識のあやまちによる行動の解決方として「縁起」=「無常」を説いた 結果として独我論=犀(さい)の角のごとくただ独り歩めだった 独自の世界である資本主義は 独我論もユダヤ化した方がいいのでは?3:7の法則での認識です これには あやまちの行動は起こりません

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~  人間が社会生活を営む場合 何かを共同で行うならば自分の自由意志では2割しか出来なく 残りの8割は他の人が行うと認識するのだと考えました  そして 2割がさぼる行動は自由意志の裏返しで 自分がさぼる場合もあると考えるという認識です  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ なるほどと言ってよいのかどうか。  つまり いづれにしてもですね。資本主義社会であってもなくても そして資本主義ならなおいちじるしいかたちにおいて ひとはむしろその自由意志において おのれの欲するところとは違っていても相手や社会全体の関係や仕組みから来る要請にしたがっている。   というとき   ★ 何かを共同で行うならば自分の自由意志では2割しか出来なく 残りの8割は他の人が行う  ☆ という分析的認識とは 同じかどうか。  たぶん違うのではないか。すなわち 社会のすでに出来上がっている人間関係やそこでおこなわれた行為関係〔の構造的な錯綜〕から来る要請に従うことを余儀なくされる。十割がた そのような他律にしたがう。しかも それに甘んじてその不自由な行為をも主体は 引き受ける。――こういう分析になるかと考えます。  この  ★ 2:6:2の法則(パレートの法則)  ☆ というのでしょうか これは どうも《協働の作業を遂行するにあたって 自分の担当する部分は どれほどで 担当してはいるが それは他からの要請に従う部分もあるそのときそれは どの程度なのか》といった問題ですよね。  資本主義は ほとんど地球の面の全部を覆っていると思いますよ。

  • Tefu_Tefu
  • ベストアンサー率27% (87/322)
回答No.2

こんばんは これは主観と客観の問題ではないかと考えます >主観では 2:6:2の法則(パレートの法則)かもしれません 10人がいると2人が一生懸命働き 2人がさぼるという法則です >客観では 3:7の法則(アメリカの経済学者シュルツは「会社の売上の7割は、その会社の製品の 3割で達成している」という法則)かもしれません 必要な主力の売れ筋3割の商品は 残り7割の多様な商品があることで得られるということです それが 人間の幸福感をもたらす 運営管理を人に任せる独我論が どれ程 人間の自由意志としての幸福に繋がるのかを考えてみると >主観では8割を他人に任せて2割を自分で為せばよいのかと思います ただ2割のさぼりには気を付けなければいけません >客観では7割の多様な物が 3割の物の存在を引き立てるということです このことから 8割を他人に任せて2割を自分で為すのは 2割のさぼりと云うマイナス要因のために間違いであり 実際は7割を他人に任せ 3割を自分で為せば 人間の自由意志としての幸福は最大になるのかと思います この主観と客観の認識の誤差がストレスや失敗に繋がるのかもしれません この差異を補うのは 経験しかないのかもしれません 補足として7:3の法則の基である【78対22の法則】(ユダヤの法則)についての検証も必要かもしれません

bragelonne
質問者

お礼

 てふ_てふさん こんにちは。残念ながら 分かりかねています。  まづは ご回答をありがとうございます。  ひとつに 誰もがほかの人を使って仕事をまかせるという立ち場にはいません。このこと一つにしても 情況が しっくりとしたかたちでは 把握できかねています。  会社のどの商品が売れて利益を出し しかもその好成績は あまり売れないほかの商品があることもむしろ手伝っているのだということですが そのことを 将来の世界展望にどのように捉えて考えればよいのでしょうか。    ★ 実際は7割を他人に任せ 3割を自分で為せば 人間の自由意志としての幸福は最大になるのかと思います  ☆ そういうことをする人もしくは場合というのは そんなに多くはないと思いますが。  つまり 《幸福》を問題にするのなら 生活というものは 本人ひとりが自分でどう仕事をしどういう家庭を築くかなどのあり方を言うのであって 《他人にまかせるどうのこうの》ということは 問い求めるべき主題と違って来ている。こう思えるのですが。  世界はどうなるか? の問題と そしてそういう問い求めの際に 妙に理性ないし理論ないし心を取り立てそれ独自の世界をつくり その主張によって 一方ではあたかもこの世の中を乗り切るのだと言いつつけっきょくは逃げており 他方では妙に――《心をとうとぶ》ことによって――人を惹きつけ これでよいとうぞぶいている・このような《理象化》を どう料理すればよいか? を問うています。

  • kurinal
  • ベストアンサー率10% (128/1195)
回答No.1

こんにちは。 >「理性を打ち出すというよりは ハート・こころを重んじるところだ。」 「合理性」ということでは、この世には「一人分」というのが、あるんではないかと 思ったりします。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  《理象化》と見ているのですが 必ずしも理性の世界であるよりは むしろ《ハート・こころの推し出し》であるようにも見られます。  ところで  ★ 「合理性」ということでは、この世には「一人分」というのが、あるんではないかと / 思ったりします。  ☆ の《一人分》って何ですか? 分かりませんが 《ひとり》としての存在については それが開かれていないと 問題ではないでしょうか。

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     それが ターミナルであるのに。  つまり起点であり終点であり基地になり港になりしばしば他者に対して連絡船であり仲介所であり分岐点でもあるそのハタラキの泉を。  人間存在は 具体的な存在たる一人ひとりの《わたし》にあって やがて自己が自己に到来するという《固有の時》がおとづれる。  《なるほど存在とは こういうことだったのかとおのれが人間であることをさとり確認するとき》がおとづれる。  つまり 存在が存在でありわたしがわたしである自己還帰に到り 世界における自己の位置づけを確認し おのれが人間として生まれて来たことの自己了解を得る。  ただし この自己到来・自己還帰・自己了解は 自己が自己であるというコトのみであって そこに何かの理念や思想が伴なわれることはない。むしろ あたかも思考を超えて理念をも超えたところで その固有の時はおとづれる。  わが《固有のとき》とは 自己が自己に到来するときである。    自己到来というのは 世間と自分が和解しているという意味である。  じっさいにそういう心の状態にあることだ。  しかも 自分自身とも和解している。  おれは こうなのだ。これが おれなのだ。こうであって おれはおれなのだという境地。  そうして わたしが世界と和解し世界にしかるべく位置しているなら 何をやっても悔いが無い。    これは 何ものにも代えがたくとうとい。  はずである。    きみは この《とき》を見たか?  

  • 悪事を行った人は、いつか罰が当たると思いますか?

    銀座での強姦事件、新潟では中学生が似た事件、、、風体だけは人間のようなクズどもが起こす悲惨な事件・・・。しかし、日本の法律はそんなやつらに優しすぎる。耳を引きちぎる、目をつぶす、、、とまぁ、ハンムラビ法典みたいなことを言うのは極論でしょうが、それぐらいの罰を与えてやら無いと、被害者が浮かばれません。しかし、こういうのを「現実」というのでしょうか。仮に服役があったとしても、殺人でもない限り、しばらくすれば、のうのうとした顔をして社会にこんなクズたちが出てきます。私は納得いきません。それぐらいでは、罰が足らないと思う。この社会はなんとなく理不尽です。「正直者がバカを見る」という言葉に、最近うなずかざるを得ない状況が増えてきました。 でも、期待できるのは死後の世界。死後の世界だけは、「正直者がバカを見る」-そんな理不尽な世の中ではないですよね? 前述の輩は、いつかこういった場所(死後の世界)で、しかるべき裁きを受けますよね? 皆さんのご意見をお待ちします。