• 締切済み

仏教

ぶっだは確か亡くなる直前に、自灯明法灯明って言い残しましたよね。 私が教えた真理と己を拠り所にして生きよと。 3つ質問があります。 1.法(=真理)とはどれのことを言っているのですか。 縁起と三法印と十二因縁の三つであってますか。 2.自分を拠り所とせよとのことですがこの場合の「自分」とはなんですか。 無我を説いているのに自分を拠り所にせよとはいったいなんなのですか。 基督教的な"自分"とは違うものなのはなんとなく直感ですがわかります。 人間の物差しに従うのではなく法に従って生きる「自分」のことを言ってるのですかこれは。 3.十二因縁が意味不明です。 ウィキペは苦が生まれて終わるまでの道筋と書いてますが抽象的すぎて意味不明です。 わかりやすく要約してください。 ここ最近ずっと考えていますがわけわかめです。

みんなの回答

  • 3355Teach
  • ベストアンサー率11% (12/101)
回答No.2

1 この「法」は縁生の事法であるダルマのことではなく、その基底にある縁起の理法であるダルミンのことです。 2 この「己」は、釈迦の説いた法を体得した出家修行者のことです。

  • OYAZ1962
  • ベストアンサー率21% (15/69)
回答No.1

仏教学者ではないので(2)の質問に限定させて頂きます。 無我というのは自分が無いという状態ではないのだと思います。言うならば我執のない自己ですか。 自灯明法灯明については、舟の例えで納得した事があります。 川の傍で暮らしていても、川を渡りたいと思わなければ舟は必要ない。川を渡りたいと思っても舟の使い方が分からなければ使えない。そして、川を渡れたならばもう舟は要らない。これが発心であり僧であり仏法である、と言う説話です。 仏教にも沢山の流派がありますが、禅宗に近い解釈でいくとこんな感じになると思います。 仏教(特に禅宗)は、「釈迦に会っては釈迦を殺し」などと言っちゃうぐらいなので、神の庇護を前提とする宗教では理解できないかも知れません。

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  • ブッダ vs フロイト (つづき)

     諸法無我の説によれば トラウマは    ( a ) 《永続しない。    すべて空観のもとに縁起として起こる仮りの現象であり     それ自体の本性(自性)は無い》  と見ることになると思われます。  つまり    ( b ) 心的外傷は 現象として起きても 屁の河童である。  と見ることになる。  これで よろしいでしょうか?  もし たたき台としてなら    ( c ) トラウマは 存在しない。現象として起きても 直る。  この命題を掲げますが これらの事態について納得のゆく説明をおしえてください。いろんな観点からのお考えをお寄せください。  ( d ) ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~~  仏教的にいえば  「心的外傷は現象として起きても、心的外傷は本質的に無我、空である」  とは言えますが、「屁の河童である」とは言えません。  なぜなら、仏教の「無我」、「空」は存在の否定を意味しておらず、  物質的、精神的現象の存在性を認めているからであり、  因縁で生じたさまざまな現象が我々の肉体、精神へ及ぼす影響力を認めているからです。  ( e ) ◇ ~~~~~~~~~~~~  (おそらく、仏教では、瞑想や思索により心的外傷の原因を徹底的に分析し、  その実有性を否定して、心的外傷を克服するという手法をとるのでしょう、たぶん)  ( f ) ☆ ~~~~~~~~~~~  トラウマという現象が われわれの身と心に及ぼす影響を具体的にきちんと分析し検証するという作業が望まれる。――と考えられます。ここは ブディズムの真骨頂であるのではないでしょうか。  ( g ) ☆ ~~~~~~~~~~~  これは 基本的な伝統の哲学だと思われますので さらにそこへ精神医学を積極的にそしておそらく批判的に摂り入れて あたらしい医療哲学を形成して行けばよいと思われます。  そうでなければ 仏教はもう終わったかと言われても仕方がないのではないでしょうか。  ~~~~~~~~~~~~~~~~    ☆ ご見解を継いでください。あるいは初めにもどってご批判ください。  参考資料:  ▲(ヰキぺ:無我) ~~~~~~~~~~~   http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%84%A1%E6%88%91  §1.1 原始仏教  『スッタニパータ』などの最初期の韻文経典では、無我はさかんに説かれる。それらによれば、「無我」は我執の否定を意味し、そのように、あらゆるものが我ではない(諸法無我(パーリ語:sabbe-dhammaa-anattaa सब्बे धम्मा अनत्ता)と観察し、これを智慧(prajNa)によって理解すると、清浄(しょうじょう)で平安な涅槃の理想に到達できるとする。   ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~    この無我は「アートマン(我)」がないという意味で、    「あらゆる現象にはアートマン(実体)がない」、    「現象はさまざまな原因や条件で成立しているのであって、現象そのものに恒常不変のアートマンが存在するわけではない」    という意味です。   ☆ 木に竹を継ぐ言い方になりますが これは《あらゆる現象には実体なるアートマンが無い》ゆえに 《〈我執〉という現象も 変わり得ない実体にもとづくものではない》と解しておきます。   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  § 1.3 大乗仏教  ・・・無自性を鮮明にし、空であることを徹底した。その論究の根拠は、従来の阿含経に説かれる縁起説であり、ゴータマ・ブッダ本来の仏教を取り戻すものであった。  このような「縁起―無自性―空」の理論は、存在や対象や機能などのいっさい、またことばそのものにも言及して、無我説からより発展した空の思想が完成した。  龍樹以降の大乗仏教は、インド・チベット・中国・日本その他のいたるところですべてこの影響下にあり、空の思想によって完結した無我説をその中心に据えている。  ● (ヰキぺ:心的外傷) ~~~~~~~   http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BF%83%E7%9A%84%E5%A4%96%E5%82%B7  § 心的外傷(しんてきがいしょう)とは、  外的内的要因による衝撃的な肉体的、精神的ショックを受けた事で、長い間心の傷となってしまうことを指す。  外傷体験 (traumatic experience) ともいう。  これが精神に異常な状態を引き起こすとPTSDとなる。  § 概念  典型的な心的外傷の原因は、幼児虐待や児童虐待を含む虐待、強姦、戦争、犯罪や事故、いじめ、暴力、アカハラ、パワハラ、セクハラを含む悲惨な出来事、実の親によるDV、大規模な自然災害などである。  重度の心的外傷(トラウマ)によりPTSDなどの精神疾患が生じた場合は、精神療法(心理療法)や薬物療法などの治療が有効である。  ~~~~~~~~~~~~~  

  • 仏教 イスラム教、根本的にどう違のでしょうか?

    以下の教えは、「般若心経の本」:Books Esoteria 発行人大沢広彰 によります。 「般若心経 深波羅蜜多(パーラミラー)とは 布施 持戒 忍辱 精進 禅定 智慧」  布施―惜しまず施す .持戒―身を正しく保つ 忍辱―どんなことにも耐えること 精進―常に努力し前進する 禅定―どんなときでも心を乱さぬこと 智慧―物事を正しく認識すること 「仏教の 世界観 一切皆苦」 パーラミター=六波羅蜜多 「パーラミターを会得し 極限で 涅槃に入る人はいる?」 般若=智慧 「般若心経 悟りを否定し 無明から生まれ 無明に死すと」 「無無明とは、人生は濁流に流れる 藻屑?」 「ただ 施しがあることを 望むのみ」 「ギャーテー ギャーテー ハーラーギャーテイ ハーラーソーギャーテー ボジソワカ」 「行きましょう、行きましょう、彼岸の岸に さあ皆で努力して 行きましょう と」 「他者救済の智慧の実践を完成させる と」  「不説過戒―他人の過ちを説くなかれ と」 「不妄語戒―嘘をつくな と」  「輪廻断ち切りれば パーラミター 涅槃なり?」 般若心経 「仏説魔訶 般若波羅密多心経」 「魔訶」:偉大なる 「観自在菩薩」:この世のすべてを知る観世音(アヴァローキャーテーシュヴァラ)=救いを求めるあらゆる人の声を聞き分け、すべてを心の目で見透かして、救済の手をさしのべる存在である。) 「行深般若波羅密多時」:「深」は6番目の智恵を含めて6つの項目すべて、「行」実践すれば少しずつ、悟りの世界 に近づく と <「照見五蘊皆空」:[五つの集合=精神的作用+物質的現象]:月光が地上をくまなく照らすように空であることがはっきり見ることができると 「肉体を含むすべての物質(色蘊)、感受作用 (受蘊)、表象作用 (想蘊)、意志作用(行蘊)、認識作用(識蘊)の五つしか、人間には見つからなかった と。」 「度一切苦厄」:観世音はどんな苦難も例外なく取り除いた 「舎利子」とは、シャーリープトラで智恵第一と称賛されていた人で位の位置づけは、釈尊>観自在菩薩>舎利子」 「釈尊は霊鷲山で瞑想に入っており、パーラミター(六波羅蜜多)を全宇宙に偏在する超越的な場で実践し悟りを開いた観自在菩薩を通じて、釈尊の瞑想が、地上にいるシャリープトラに、広大無辺の響きをもって電磁波のように発せられた と」 「色不異空、空即異色」:あらゆる事物は母なる無の空間、あらゆる事物にその実体はない、母なる無の空間は、あらゆる事物と一体である」 「色即是空、空即是色」:すべては空である。あらゆる事物は、この流転の場の現象である。空がすべてである。流転の場をはなれて現象するものはない」 三法印とは    「緒法無我」+「諸行無常」+「涅槃寂静」---仏教思想の根幹     「緒法無我」:位置により性質が変わってくる。ゼロの位置が1の位か10の位かまたは100の位かで数が変わる。諸法:我々が知覚し認識するすべての事物、それらは決して関連なくして存在できない。おかれた位置によって、内容を変えるだけ。碁石の石が、その碁盤の位置によって、強くもなり弱くもなるように。   我欲が良いとか悪いとか言われるが、それがなければ生きる意欲が無くなってしまう。しかし固執しすぎるといけない。中道でなければならない。 「諸行無常」:すべては変化するという客観的な事実をいう 「受想行識、亦復如是」:目に見えるもの、心に浮かぶこと、やろうと意志すること、自分はこうだと認識していること、それらの自我の全体は、これもまた空である。    五蘊皆空を繰り返している。五蘊とは、色、受、想、行、識       色(肉体)ーーーー(心)受ー感受作用ー楽しい、苦しい、痛い                     想ー表象作用ー好きだ、愛しい、憎いや空想                     行ー意志ーある方向に心が働いていること                     識ー認識作用ー知識、五感を通じてものごとを認識すること    ひとはそれぞれの気質や生育歴を通じて、ある一定方向に人格を形成していく。これはそれぞれの世界観、価値観によって形成される。大切なことはその世界観、価値観に矛盾を生じさせずに、一つの人格を形成すること ここまでで仏教とは、人間の人格を高く評価している点に特徴があると考えます。 一方イスラム教とは、人格を認めているのでしょうか。 イスラム教では、来世と現世をはっきりと分離し、来世では裁判があり、地獄行きと極楽行きに分離されると言われています。 そしてモハメッドー予言者の命令は絶対であることを強要されます。 このような状態では、個人の人格は認められるのでしょうか? ウサーマビンラディンは、予言者に対してはどのようなスタンスで自分を認識されていたのでしょうか?

  • それでは ブッダのさとりとは何だったのか

     以前に次の質問を立てたとき おそわったことがあります。それについて問います。    【Q:《我れ》はある?ない? どちらですか(仏教)】     http://oshiete1.goo.ne.jp/qa3454478.html  わたしがおそわった内容の出だしは こうなると述べました。  ☆☆ (ブッディスム=常識論)~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ゴータマ・シッダルタなる人が 真理についての見方として 空観=縁起説に到達し 目覚めた(ブッダとなった)。  空の覚りは 世界を 四方サンガ(縁起共生体)と名づけて捉え 関係性(相依相即性)のもとに見る。この空の覚りは世界をつらぬいており ブッダはそのことを見通している。  みづからの存在が社会的に孤独であってその意味で独立していると捉えているが それでいて他者の存在と孤独関係をもかたちづくりその社会的な関係性としても存在するわれわれ人間――このような人は 空の覚りとともに 大悲の実践を はからずしておこなう。  慈悲は この世のあらゆる対立を超えているので その空観のもとに 人は互いにみな対等であると見えているからには 人それぞれの持ち前の能力や特徴を発揮することができるように ほんの少し他人に対しても 声をかけたりするのだ。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ すなわち ブッディスムとは 常識のことであり その判断力を言うと知りました。  そのようにおしえてくれた人は ただしそのほかに輪廻転生説もしくは不死永生説に立つというようでした。こちらの問題(課題)などがあるので ふたたび問います。  【Q1:《ブッディスム=常識論》にご見解をしめしてください。  ここで 無我とは この空観=縁起説に立つことだというものです。これを焦点にするかたちでおしえを乞います。】  【Q2: 次の議論においては さとりを妨げる無明とは 《根本的な生存欲》だとブッダは発見したと言います。では 生きるちからをそのままに現わしていくためには 《さとりを得ようという意欲をあきらめればよい》のだろうか?】  次です。この議論についても 最初にかかげた質問でおそわったものです。   ○ 宮元啓一:苦楽中道----ゴータマ・ブッダは何を発見したか   http://homepage1.nifty.com/manikana/m.p/articles/kuraku.html  ☆ さとりを得ようとするはからいから自由になれば 常識なる判断力としてのさとりに到る――こういうことなのでしょうか?

  • なぜ、どの宗教も多くの宗派に分裂したの?

    キリスト教、仏教、イスラム教などの巨大宗教は、無数の宗派に分裂していますね。 そのどれもが、自分たちが一番正しいやり方と信じていると思います。 そこで、感じるのですが、開祖が教えを始めた時には、当然、真理はたったひとつしか無かったはずなのに、時間が経つにつれて、どうしてこんなに無数の宗派に分裂するようになったのか、分りやすくお教え下さい。 たとえば、日本国憲法のように、それぞれの経典の文面が意味不明だとか、まるで反対のようにも解釈できる、といった理由でそうなったんでしょうか? もし、開祖の考え方はこれだ、と何らかの方法で立証できれば、原点に戻ってどの宗教もたったひとつの宗派にまとまるでしょうか? たとえは変ですが、もし100ある宗派の内、開祖の考えと同じである宗派が一つあるとすれば、残る99の宗派は、開祖を冒涜した事になるのでしょうか?  たとえば、開祖の名をかたって、信者を誤った道へ導いたという理由で? もしそうなら、どの宗派の信者も、真に開祖の教えに基づいているという確率は1%しかない、という結論になってしまうのですが ・・・ また、開祖の教えは、数学の定理と同じで、真理はひとつしかなく、それ以外は間違い、という考え方で良いでしょうか? 私自身、特定の宗教の信者ではないのですが、宗教というものをどう考えたらいいか、自分の考えをまとめたいと思いますので、宜しくお願いします。

  • 《因果の道理》は 道理ではない。

     つぎのヰキぺの記事にかんする限り それは 何も言ったことにはならない。これを問います。  ▲ (ヰキぺ:因果の道理) ~~~~~~~~~~~~~   http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%A0%E6%9E%9C%E3%81%AE%E9%81%93%E7%90%86  § まえがき  (あ) 因果の道理は仏教の根本的な教理である。「因果律」・「因果論」とも言われ、釈迦が発見した「大宇宙の真理」とされる。日本をはじめ東洋諸国では倫理や道徳の根拠にもなっている。  § 概説  (い) 釈迦は、原因だけでは結果は生じないとし、直接的要因(因)と間接的要因(縁)の両方がそろった(因縁和合)ときに結果はもたらされるとする(因縁果)。  (う) そこで、縁起と呼ぶ法によってすべての事象が生じており、「結果」も「原因」も、そのまま別の縁となって、現実はすべての事象が相依相関して成立しているとする。  (え) 釈迦が悟った上記のような内容を縁起という。その教えを学問上「縁起説」と呼ぶこともある。  (お) 仏教において因果は次のように説かれる。   善因善果…善を行うことが新たな善を促す   悪因悪果…悪を行うことが新たな悪を促す   善因楽果…善を行うことが自分にとって望ましい結果を招く   悪因苦果…悪を行うことが自分にとって望ましくない結果を招く  (か) 例えば最初は嫌々ながら行なっていた人助けでも、何度か繰り返すうちにそれが習慣となったり、それが褒められることで自ら進んで行うようになる。  (き) 逆に最初は躊躇していた犯罪が一度成功すると、また罪を犯すことに抵抗を感じなくなったり、一度嘘をつくとその嘘を隠すために更なる嘘を重ねる様になる。  (く) これが「善因善果」「悪因悪果」の具体例であり、両者は原因と結果の性質が同じであるため、《同類〈因〉・等流〈果〉〔なる因と果との関係〕》と呼ぶ。  (け) 一方、善いことを行えばそのことで満足感・達成感が得られるのに対して、悪いことを行うと良心の呵責や罪が露見することへの恐怖が起こる。 これが「善因楽果」「悪因苦果」の具体例である。   (こ) 「善因善果」「悪因悪果」とは異なり、この場合の結果は一概に善か悪かを判断できない。  (さ) 例えば、善い事を行った自分を誇って他人を軽蔑したり、一度の善行に満足して善行を止めることがあれば、それは善行が悪い結果を招いたことになる。  (し) 逆に悪を行った事による心の苦しみが、その人を反省・更生へと導くならば、それは悪行が良い結果を招いたことになる。  (す) 両者は原因と結果の性質が異なるため、《異熟因・異熟果》と呼ぶ。  (せ) 「善因善果・悪因悪果」について“善いことをすれば良いことが起こり、悪いことをすれば悪いことが起こる”と解説される場合があるが、これは「善因善果・悪因悪果」と「善因楽果・悪因苦果」の混同を招きかねない不正確な説明である。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ これで記事の全部です。  (そ) この記事内容についてはすでに 出典を明らかにすべきだとか 中立的な観点が必要だとかのクレームがついているようです。  (た) ですが いまはそのような疑問点をもわたしたちが洗い出すかたちで問い求めて行きたいと考えます。  (ち) 出典の問題をのぞけば かんたんな形ながら (お)から(せ)までの説明は ふつうに中立的な内容ではないかと考えるのですが どうでしょう?  (つ) 一つ目の問いは こうです。    善悪が主観的なものであるからには 楽果も苦果もみな同じく主観的であって《のぞましいか否か》で定義するなら それらはやはり善か悪かで捉えても構わないのではないか? すなわちおおきくは 楽果⇒善果 苦果⇒悪果と見てよいのではないか?  (て) しかもいま――因縁の縁すなわち間接的な原因は措いておきますが―― 原因にしても結果にしても いづれもそのワタシにとって 善もあれば悪もあるということでないわけがない。(どちらでもない無記の場合もありましょうが それは当然のこととしてこれも特には触れません)。    * 因縁の縁をいま問わないのは それもけっきょく因と同じように 善をも悪をもふくむのがつねであると見られるからです。その議論は 以下に追ってすすめて行きます。    (と) つまりは 任意の一時点をとってそのとき ワタシの状態は過去の《善と悪とをふくむ原因》の結果として 《善悪の入り混じった》ものとしてみちびかれている。しかもその状態〔から繰り出す行為〕は 未来への《善と悪とをふくむ》原因となって 《善悪の入り混じった》結果をうむ。――このことは あたりまえであるはずです。  (な) ならば そのような・どの時点でもつねに《善と悪とをふくむ》原因かつ結果としての状態にあるワタシについて その行為の軌跡の中から 一本の線としての《同類因・等流果》(く)やあるいは《異熟因・異熟果》(す)を ただいづれか一方だけの取り出して これこそが因果関係であるぞと言ったところで 何の意味をも成さない。せいぜいが気休めである。  (に) つまりブディズムの説くと言われる《因果の道理》は けっして道理などではない。こう帰結されますまいか。どこが 《大宇宙の真理》でしょう。どこが《さとり》なのでしょう。かえってものごとの見方を 一面的な狭いものとしていはすまいか。  (ぬ) なんでこんな子どもだましのような《理論》が 永くつづいて来たのでしょう。日本人はここまでばかなのでしょうか。  (ね) ただし・もっとも 成功したひとたちは その原因を みなさんのおかげですと言って 因縁の縁のほうを重んじた見方で表現してはいます。そのあたりについても 考えるところがありましたら 回答の書き込みをどうぞ。    (の) (つまり 日本人は現実の実践では 好ましい世界観にもとづいていると思われるのに  ブディズムの理論だけは 成っていない。こういうことでしょうか)。  (は) (ブディズムよ 恥を知れというところでしょうか)。  (しかも そのブディズムに対して・またゴータマ何たらという人間に対して へーこらへーこら ありがたやありがたやと おもねっている〔ように見える〕。日本人のこの状態は どうしたものなのでしょう)。  (ひ) ゴータマは ペテン師であり 屁の河童なりと どうして言わないのでしょう。