科学と歴史の真実について考えてみた

このQ&Aのポイント
  • 目で確認できないことを信じるかどうかの問題について考える
  • 事実の記述には真と偽があり、客観的に判定できる必要がある
  • 歴史的な資料や経験を根拠にして真実を確信することができるのか疑問に思う
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しょうもない質問なのですが教えてくださいww

ぼくの友達に、自分の目で確認していないことは全て信じることができない、と言う人がいます だから、科学者たちはこれが事実だと言うけど、あんなのはほとんど嘘だ 教科書も数学や科学も真実なんてない、といった具合です 例えば、第2次世界大戦は本当にあったかどうか分からない、と言ったことについて、じゃあネットや図書館にあるような歴史的資料はなぜ存在するのかを聞くと、捏造された可能性は否定できないと言うのです たぶん厨二病と思いますが、他のことも同じように考えているので情報の処理の仕方がへんだなーと思います 文献によると、 <事実の記述>とは、然るべき実験や調査によって真偽(それが事実であるか否か)を客観的に判定できるもの[※]。とあります ということは、<事実の記述>には2種類あって1.<真の事実の記述>と2.<偽の事実の記述>があるわけですよね 1.は真偽を客観的に確認できる記述で、それを調査した結果本当である という場合 2.は真偽を客観的に確認できる記述で、それを調査した結果本当ではなかった という場合 ここまであってますか? 客観的であるということは、人によって違ってはいけないわけですね では、戦争時代に生きていて戦争を体験した方に戦争はありましたかと聞くと、あったと言いますし実際に経験しているのだから、その人にとっては疑いもなく<真の事実の記述>だ、と言えるわけです しかし彼の主張で言えば、過去のことは目で確認できないから<真の事実の記述>ではないとなるので、人によって違ってしまうわけです これはどういうことなのでしょうか もし昔の人が全員悪巧みの仲間になって、○○があったのは事実だと言ったら、未来の人を騙せると思います 実際、そういうことってあるのではないですか?従軍慰安婦の強制があったとかなかったとか言ってますね 見たことない人はどうやってそれが<真の事実の記述>であるのかを確認すればいいのでしょうか? 僕に従軍慰安婦は強制だったのかどうかを聞かれても分かりませんよ 歴史的な資料を誰がいつ書いたかを調べて、それを根拠として述べられた結論は<真の事実の記述>である、と言って間違いないでしょうか。 なんか自分でも意味分からなくなってきたので誰かまとめてくださるとうれしいですw [※]理科系の作文技術 p104 - 木下是雄著

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noname#227653
noname#227653
回答No.8

確かに、あることがらが100%(厳密な意味での100%ですよ)真実であるということはできません。私(またはあなた)の身のまわりのすべてのものごとが実は神様が私(またはあなた)に見せている幻影なのかもしれないのですから。 あなたの友達は「自分の目で見ていないものは信じない」と言っているそうですが、本当は自分の目で見ているものだって真実かどうか100%の保証はないのです。 ただ、この考えは「何の役に立たない」考えです(そういう空想をする分には面白いですけどね)。 もしかしたらすべては幻影かもしれないけれど、私たちの身のまわりにはいろいろなものがあり、できごとがあり、そこに物理的な法則や歴史の流れがあるように見えるので、それをとりあえず「あるだろう」ということにして物理や歴史やその他あれこれを人は研究し、勉強するわけですし、もちろんこのことは日常生活でも同様です。すべては幻影かもしれないけれど「幻影かもしれないから信じない」では、もしかしたら幻影かもしれないけれどでも存在しているように見えるこの世界について何も知ることはできなくなってしまいますし、どんな発見も研究も考察も「それは幻影かもしれないんだから信じません」で片づけてしまったらすべてはそこで終わりになってしまいますよね。 ところで私たちが何かについて知りたい、学びたいと思ったときに、そのすべてを自分の目で見るわけにはいかないので、ほとんどの場合他者が書いたものを読むことになりますが、これも自分の目で見ているものと同じで100%正しいという保証はありません。確かに第二次世界大戦はなかったのかもしれないし、「アポロ11号で人類が月に行ったのは嘘だ」という噂もあります。 ただ、自分の目で見たものが真実ではない可能性もあるけれどだからといってそれを「幻影だ」と決めつけるわけにはいかないのと同様に、何かに書いてあることが真実でない可能性があるからといってそれを「ほとんど嘘だ」と決めつけるわけにもいかないでしょう。 もちろんだからといって書いてあることがすべて真実であるなんて考えるわけにもいきません。いい加減なことを書く人だってたくさんいます。 とすると私たちにとってできることは「裏を取る」ことしかないでしょう。ひとつの文章だけでなく多くの文章を読み、多くの人の研究に触れ、そこで矛盾がないならそのことが真実である可能性が高まりますし、多くの人が共謀して嘘をついている可能性は逆に低くなっていきます。はじめに書いたように100%真実であるということは絶対にできませんが、「どうやら第二次世界大戦はあると考えていいらしいぞ」ということになります。 また、ある文章の著者の他の文章を読むことで、その人が信頼に足る人かどうかを判断するという手もあります。その人について他の人が書いた文章を読むのも有効かもしれません。 もちろん、多くの人が真実の可能性が高いと思っていたことが実は間違っていた、ということだってあります。私が子供の頃は歴史の教科書に「足利尊氏」として馬上の武将の絵が載っていましたが、現在はあれは別の人物の肖像画だということになっているようです。歴史を研究している人たちがみんな間違っていたということになりますね。それでも、多くの人が認めていることがらは真実である可能性が高いということになりますし、みんなが嘘をついている可能性は低くなります。10人が共謀して嘘をつく可能性はかなりありますが、100万人が嘘をつく可能性は非常に低いからです。100万人が共謀しなければならない嘘というのは非常に大規模な嘘ということになりますが、そんなことをして誰が得をするのか、そんなことをして割があうのか、100万人が嘘をつきとおしてひとつも証拠を残さないなんてことができるのか、と考えればその可能性が低くなるのは当然でしょう。だからそういう意味でも「アポロ11号の月面着陸は嘘だ」という噂の信憑性は極めて低いものになります。 というわけで、何かを知る、学ぶ、ということは、それが真実である可能性を上げていく、ということであって、100%真実であるという結論を出すことではありません。繰り返しますがそれは絶対に不可能なのです。ただ、そこで「本当かどうかわからないから信じない」という方向に考えを持っていってしまうのはあまりいいことではないと思います。また、これも繰り返しになりますが「目で見たものが真実だ」という考えも正しいものではありません(これが正しければ幻覚や幻聴も真実になってしまいますよね)。第二次大戦を体験したから真実、していないから真実ではない、というわけではなく、どちらにしても100%の真実というものはないので、自分の目で見るにせよ他の人の書いたものを読むにせよ、いろいろな角度からものごとを調べてそれが真実である可能性を上げていく、というのが私たちにできる唯一のことなのです。 余談ですが、「振り込め詐欺」(今は呼び名が変わったかもしれませんが)の被害にあいやすい人の特徴のひとつとして「自分の見たものしか信じないと考えている」というのが挙がっていたのを読んだことがあります。もちろんこれだって真実かどうかわかりませんけどね。

gotou522
質問者

お礼

>身のまわりのすべてのものごとが幻影なのかもしれない 実際に見ていても幻影である可能性は否定できないということですか 認識できないレベルの話なのでよく分からないですね 今これ書き込んでるのはなんなのですか >どうやら第二次世界大戦はあると考えていいらしいぞ 実際に戦争を見て体験した人が、戦争はあったと考えていいらしいぞ、と言うと思いますか!? またそこでも見たものは100%厳密に事実であるとは言えないというのがくるのでしょうか 100%の真実を出すのは不可能というのが意味が分かりません ぼくが今生きているのは絶対事実でしょう?だってそうでしょう?ww 裁判所は、それらしい答えを出すところということですか へー >被害にあいやすい人の特徴のひとつとして「自分の見たものしか信じないと考えている」というのが挙がっていた 実は他の質問サイトでも同じこと言ってる回答がありました

その他の回答 (8)

  • CC_T
  • ベストアンサー率47% (1038/2201)
回答No.9

哲学カテの方がいいかもね。 ご友人は、自分が誰の子供か信じる事ができませんね。自分が生まれた瞬間を見ているはずがないですから。また、自分の手元のお金が日本銀行が発行したモノであるという事なんかも信じられそうにないですね。造幣局の印刷機から出てきたところを奪うわけにはいきませんし、偽造だって不可能ではないのですから。 それから、「この世に無い物」について、それが無いということも信じられそうにない。たとえば幽霊やサンタクロースなど「居ない」ことを自分で確かめる事は実際不可能です。ほんと難儀な性格(笑) シュレーディンガーさんと話が合うかもしれませんね。 要は事実と公称される事柄について、真偽の妥当性を自分がどのように評価するかということ。ご友人はその評価基準を「自分が実際に確かめたこと」と決めているわけでしょう。学会や有識者と言われる人達が示す判断、公式団体やギネスなど権威筋の認定では満足できない。要するに誰も信じていやしないって事です。 もっとも、歴史については「真実」ではない事実の記載、つまり嘘が多いので信じられないのは仕方ないとは言えます。勝者の歴史と敗者の歴史には食い違いがあるもの。それから、30年前と比べただけでも某銅像にまでなっている人も実は別人らしいとか、お札にまで描かれた肖像画が本人かどうかも議論が続いていたりと、真実が分かっていない事ってのは枚挙にいとまがありません。 インターネットだって同じです。 様々な情報が内包されているがその内容には「ゆらぎ」があり、同じ事柄を指す情報が一焦点に収束していない。だから1つの情報の真偽を判断するためには自分で追確認するか、盲信するしか自分が納得する術はないのです。 もちろん、正解(真の解)がそもそも存在しないものだってある。 ちなみに、 > 教科書も数学や科学も真実なんてない 数学と物理は他の教科に比べて「真実」が多く含まれている分野と言えます。なぜなら体験的な手法を使って証明されてきたものであり、誰がやっても答えは一焦点に収束するために追認も容易という内容が大半だからです。

  • TANUHACHI
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回答No.7

>歴史的な資料を誰がいつ書いたかを調べて、それを根拠として述べられた結論は<真の事実の記述>である、と言って間違いないでしょうか。  答はノーです。その史料が誰によって、そして何時書かれたかだけを検討しても、それが対象となる歴史事象全てを説明することにはなりません。  「どの様に書いてあるか」が問題でありそして同時に「なぜその様に書いたのか、書かざるを得なかったのか」を物的証拠ならびに状況証拠から推論していかねば意味などありませんから。  卑近な事例でいえば、原発事故の問題で国会による調査報告書の記述内容と東電による調査報告書ではどの様に違いが生じ、それをどの様に判断するかも別れます。当然の様に後者は「不都合な真実」を隠し通そうとしますから、資料として信頼度には多大な疑問符を付けることとなります。  歴史学でも同じです。僕らは「公式史料」などの記述は端から信用もしていません。それに目を通すのは「その行間に隠された書き手の意図」を知るための背景探しとしては使いもしますが。  また同時に「戦争記憶に関する聞き書き」も一定の距離を保った接し方をすることも大原則です。殊更に自らの過去を美化する傾向がこの国には蔓延してもいますから注意も必要です。

  • TANUHACHI
  • ベストアンサー率31% (791/2549)
回答No.6

 おもしろい意見をいただき、ありがとうございました。  >当たり前でしょ 自分も人間なんですから根拠のないことに影響されるなんていくらでもあるでしょ 教科書もいろいろ指摘があってそれを言われれば説明できてないし、変更されることもありますよね  少なくとも戦後歴史学の恩沢を享受する僕らは「歴史を矮小化すること」に加担など微塵もしていないことが誇りでもある。むしろ従来の見解を検証もないままに或いは重箱の隅をつつく様にして「教科書記述」を矮小化させてきたのは文部省と検定調査官の側で「これは書くな!」との姿勢から現在の「これを書け!」として、より露骨な形で歴史学への干渉を行ってきてもいます。  事例を挙げましょう。大阪府堺市にある巨大な前方後円墳がかつての教科書では「仁徳天皇陵」とされていたのが現在では「大仙陵古墳」に変わってもいます。また以前では「源頼朝像」とされていた神護寺にある人物像の説明も現在では「伝 源頼朝像」と変化しています。それもこれも歴史学の新たな成果に基づくものであって、従来の見解に疑義が生じ、それを反映してのことでしかありません。けれども検定の主体側はそうした「新たな成果」を中々認めようともしなかったとの経緯もあります。  新たな証拠が出てきたなら、その証拠に基づき従前の見解を全て見直すことは、学問に携わる者全てに共通する最低限のモラルでもある。    そして「文献によれば云々」とのくだりを読んでも、<事実の記述>とは、然るべき実験や調査によって真偽(それが事実であるか否か)を客観的に判定できるもの[※]。とあります  と引用するが、それが直ちに、「ということは、<事実の記述>には2種類あって1.<真の事実の記述>と2.<偽の事実の記述>があるわけですよね」とはなりえない。なぜかわかりますか?  そも木下是雄さんは「事実の記述」とそれに対する「評価」が別問題であることを前提として説明もしています(同著を参照のこと)。  物理学者である木下さんですから、論理に矛盾や飛躍もありません。木下さんと貴方が使っている「客観性」との言葉の間には雲泥ほどの違いがあることも既に明らかで、木下さんは定義しているが、貴方は定義してもいない。そこに根本的な違いがあります。また同時にそれ自体が木下さんの見解でもあることで、既に木下さんの評価が入っているとの部分を踏まえねばなりません。  少なくとも「客観性」との言葉の内容を貴方自身が知っておく必要はあります。

  • TANUHACHI
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回答No.5

「史料の持つ信憑性」にも疑義を示していらっしゃいますが、僕ら歴史学に携わる者からすれば基本中の基本の問題です。  一つの歴史的事象に関して調べるならば、最低限二つ以上の史料にあたって記述があるかどうか、そして記述内容に関する評価を下す作業を一般的に「史料批判」と呼びます。  具体的な実例を挙げましょう。鎌倉時代の史書の一つに『愚管抄』と呼ばれる慈円による記録が残されています。これだけを読んでも鎌倉時代の実情を理解する事は困難で、ほぼ同時代の記録として九条兼実による『玉葉』もあり、一方で鎌倉幕府の公式記録である『吾妻鏡』もあります。けれどもそれぞれだけを読んでも、そこからうかがい知る事のできる事象は「歴史の一側面を記している」こと以外は何も意味がありません。吾妻鏡はともすれば幕府に都合の良いことだけを書き、愚管抄も慈円の歴史観に基づく記述、そして玉葉も公家の立場から記した鎌倉時代の姿でしかありません。  では僕らが「どの様にしてその時代の事実」を知りうるかといえば、それは自らが立てたテーマに沿って、そして史料を適切に読むとの基礎作業を行った上で、自らの研究視角に基づいて実証過程を踏まえて「一つの仮説」を検証する以外にはありもしません。  よく「正しい」や「本当の」そして質問文にある「真の」といった言葉を使うには、余程注意もせねばなりません。一見問題もないようにみえる「こうした言葉」こそ実際には抽象的でしかない。  理系の学問分野が「実験」や「過去に示された定説」を踏まえたといっても、その定説が絶対的であるとの保証は何処にもないのです。その実例がガリレオやヴェーゲナーであり、社会科学でも過去のスミスやマルクスそしてヴェーバーなどが提示したモデルも「現時点では一応の仮説」であって、将来的にはそれが正当であるかそうではないかを判断する材料が見つかるかもしれず、その時に改めて再検討されるとの意味を持っています。端的にいえば「全ては相対的である」この一言に尽きる。  「歴史の真偽」を判ずる材料の一つとして「史料」があります。教科書にしばしば登場する例のアレです。  一つだけ心掛けていただきたいこととして「なぜその史料が現在まで残されているのか」との理由を求める姿勢だけは必要とのことを指摘させていただきます。  その史料がなければ、何がどの様に変わったのかを知るための手掛かりにもなりません。もしそのご友人が「自分の目で見たもの以外は信用できない」というのであれば、それは全ての事象を信用できないとの極論にもつながり、それは独断的な理解しか生み出すこともできないとの結論になります。  なぜ一つの事象に対し「真実」と「事実」との二種類の言葉があるのか。歴史学で云うならば、前者は「歴史叙述」後者は「歴史事象」と言い換える事もできます。  一つの歴史事象を歴史過程の中から引っ張り出し、その事象が持つ多面的な構造を一つ一つ丹念に調べていきその結果を歴史過程の中に戻していくことを「歴史像の構築」と呼び、そうした作業は研究者個人個人の問題意識や目的意識に規定されもし、従って一つの事象に対する様々な解釈(見解)も成り立ちます。そうした様々な見解を別な研究者の視点から見て疑義がある場合に「議論や論争」が初めて生じもします。それはあくまでも「学問的成果を踏まえて」しか成り立たない性質のものであり、俗説とは明らかに性質を異にもします。  「情報の処理の仕方」との問題よりも、その問題のとらえ方から考え直した方が良かろうかとも存じます。先達の遺した様々な「物の見方」を勉強することが必要ですね。それを踏まえた上で「自らの見解を立てること」を勉強しましょう。  過去の先達が共通して遺している言葉は「これは『取り敢えず』の結論であり、真実などではない」との言葉です。真実を知った人物は古今東西のどこにもいません。そしてこの連なる峰々が残した言葉が「一つの事象を理解するための共通要素」の上に成り立っていることも確かです。

gotou522
質問者

補足

当たり前でしょ 自分も人間なんですから根拠のないことに影響されるなんていくらでもあるでしょ 教科書もいろいろ指摘があってそれを言われれば説明できてないし、変更されることもありますよね

noname#189913
noname#189913
回答No.4

もし彼が自分の目で確認できないことは全て嘘だというのなら、彼の存在自体も嘘 だということになりはしませんか。 自分が生まれてきた時のことを彼は覚えてでもいるのでしょうか? もっと言うと、彼が現在在るのはご先祖様がいたからなのですが、彼の言い分です と自分の目で見てはいないわけですから、彼らのことも否定しなくてはいけなくな りますね。唯物論の限界がここにあります。

gotou522
質問者

お礼

しょうもないでしょう 言ってみます

  • fxq11011
  • ベストアンサー率11% (379/3170)
回答No.3

空想の範囲ですが、4次元なんてはやったころの考えでは。 今の自分とはまったく上がった人生を歩んでいる自分が別の次元(別の空間に)いるのでは・・・。 完全否定はできていないと思います。

gotou522
質問者

補足

空想の範囲とか、4次元なんてはやった って曖昧な文章ですね 意味が分からないです

回答No.2

見えていることを信じてはいけない。上っ面に、見えていることが一番危ない。内部の構成要素を吟味しなければ真実は見えない。一昔前に流行した「構造主義」に近い感性、または、感覚とか概念を無視してはいけない。

gotou522
質問者

補足

何を質問しているか分かりますか? >上っ面に、見えていることが一番危ない 根拠は?

  • denbee
  • ベストアンサー率28% (192/671)
回答No.1

哲学では大昔から考えられてきたテーマですね。 「自分が見ていない時に、天空の月は存在しているのか?」 というようなことは昔から真摯に議論されています。

gotou522
質問者

お礼

結局その議論はどうなったんですか? 何か文献があるなら教えてください

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