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日本教は 自由な対話をゆるすか? なら話し合いを!

 ○  神(宇宙なる非経験の場:マクロコスモス)および信仰(わが心なる非思考の庭:ミクロコスモス)ならびに〔信仰の偽造物たる〕宗教にかんする一般理論    第五章 多神教は その一まとめとして一神教である  補論 § 5-d  日本教は 自由な対話をゆるすか? なら話し合いを!  (序) 用語の設定  社会形態は いやしくも国家と称するようになるならば 市民たちの第一階とそして公民圏としての第二階とから成ると考えられ この一階と二階との社会力学的な関係のあり方によって 市民一般の生活のありさまや生活態度としての思想やが かなりの程度において規定される。こう考えます。   市民圏= 第一階: S 圏: 市民 S   公民圏= 第二階: A 圏: 公民 A   これら互いの力学関係: A ‐ S 連関制・・・(α)  こういう用語で説明して行きます。  (1) 国ゆづり型としての A‐S 連関制  (1-1) 日本における国家は 《国ゆづり》型であるゆえ 市民 S らは おとなしい。もともとおとなしく けんかをするほどに仲良しであった。  その中から出た公民 A らは 特に優秀であったゆえ 人びとは社会というヤシロにも特別な神棚をこしらえてやりもっぱらその空中庭園に住まわせた。この第二階となる神棚にまつりあげたことになる。  優秀であるうえに品行方正で申し分のないほど人間的な人間たちであったが ただひとつ玉にきずなのは つねに人びとから注目を浴びていなければ落ち着かない。お山の大将型であったことだ。  市民らは かれらに根負けして それならと言うので神棚をわざわざこしらえて そこを棲み処とさせた。人権を限定するような檻に住まわせたとも言えるのだけれど これが のちのち或る意味でわざわいともなった。  (1-2) 市民 S らの中には この第二階への出世志向が流行り病いのごとく起こり(=アマアガリ・シンドローム) ひとつには とうとう A 者公民たちにこびへつらうようになり ひとつには ゆすり・たかりをはたらき甘い汁を吸おうとするようになる者が出た。  このお二階さん志向――そして別様に言えば お上意識; つまりは アマテラス予備軍症候群――が絡んでくると 仲間どうしのあいだでも いざこざが絶えなくなる。  簡単に言ってこういうわけで 市民 S 者のあいだには まっすぐな心持ちにもとづく行動と どこか歪んだところのある振る舞いとそれら両面が見られることになる。  (2) A と S とが《競争型》なるその連関制  (2-1) つまり西欧の市民 S は そして公民 A も 誰もがおのれの中にお二階さん志向(または アマアガリ欲望)を持つ。すなわちひとりの個人がその内面においてあたかも《 A = S 》としての市民 S であり この市民 S が同じく《 A = S 》としての公民 A と成るという傾向を有する。こう推し測られる。  (2-2) すなわちこの競争型とは   (ω) 欧米型(または遊牧民型): A ( A=S ) ∽ S ( A=S ) 連関制  である。相似形の記号( ∽ )の意味は つねに転覆(回転=レヲ゛リューション)が起こり得るということを表わす。  言いかえるとその社会では 第一階においてすでに 《人は人に対して狼なり。( Homo homini lupus. )/ 万人の万人に対するたたかい( bellum omni contra omnes. )》という市民(《 A = S 》なる市民 S )どうしの意識の流れが関係し合っている。  そのような個人としての・ワタシとしての意識が互いに日常においてすらも対立しがちである。そしてそのいわゆる弁証法的展開が ふつうに見通されているのではないか?  (3) (α)および(ω) 両者の比較対照   日本市民が このアマアガリ志向に対して《くにゆづり》をしたと言う時 それは非戦論であり そうだとすれば それに対して欧米市民は 主戦論に立つものと考えられる。  土地に縄を張って ここはおれのものだと宣言したとき 言葉たくみににしろ力づくでにしろ その土地を獲ってしまえば 自分のものになると考える傾向なのだろうか。  日本市民は これこれはおれのものだと主張するときに どういうかたちにしろ争うことは 人間の弱さから来ると考え それならと言って 非戦論を採った。いちどゆづったら その神棚に挙げてしまったのだから おいそれとは返せとは言えない。言わない。おとなしい。ただ それだけのことだと考えられる。  ただしそのアマアガリ・シンドローム(末は博士か大臣かの出世症候群)の感染具合いに応じて 波風の立つこともある。  (4) さらに三つ目の A - S 連関制  これは 《アフリカ的段階》と呼ばれるもので ひとことで説明するなら 市民らに絶対主権があるようなかたちである。   (κ) アフリカ型:S (=じつは A ) ∽ A 連関制  ◆ (『アフリカ的段階について』 ヘーゲルを解剖学した世界観?) ~~~   http://y-bat.txt-nifty.com/doyo/2009/01/post-8de9.html  マルクスはインド・ヨーロッパ語圏の外にアジア的共同体を見出したが、吉本〔隆明〕はそのアジア的段階より前の段階としてアフリカを見出している。  ( a ) そこには殺生与奪権を独占し自由に行使できる王(* A )がいる。  ( b ) しかし、民衆(* ――《〈じつは A 〉なる S 》――)は豊穣と生活の保障と引き換えに王(* 権力)を認知しているのであって、不作や疫病があれば王は民に殺されてしまう。  ( c ) 生命の等価交換(という原始的なシステム)の上に成り立っていた頃の世界がそこにはある。  ( d ) 民衆(個人 S とその共同性)と王(権力と象徴= amaterasity アマテラシテ)は等価なのだ。  ~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ このアフリカ型(κ)は 民衆暴君型である。日本は対話型(α) 西欧は競争型(ω)であろうか。    *     *     *  Q1: 対話型なら もっと話し合いをすすめることが出来るはずではないか?   Q2: 口を開けば 権力者の悪口である。(ときには 権力の代弁者もいる)。ぼろくそに言うのもいいが 中身がどうなのか?   Q3: それとも 例のアマアガリ・シンドロームが それほど酷くわれわれのこころを腐らせていようか。仲間どうし・同等の相手どうしとして 対等に自由に話し合える間柄であったはずが 何かと顔を合わせば 互いの悪口である。足の引っ張り合いが絶えないというのは やはり アマテラス志向・お上意識なるアマアガリ症候群にひどく手足を縛られてしまっていようか。いや 洗脳状態か。  Q4: スサノヲ( S )市民の心意気は いったいどこへ行ってしまったのか。 欧米型の革命志向はそのかけらも――たぶんさいわいなことに――見られないとすれば ひょっとしてアフリカ型の破れかぶれ症候群が 隠然と深く静かに潜行しているのか。  Q5: まさか そんなことはないと信じるけれど とにもかくにも ひとびとは もはや互いに話し合いが出来なくなっているのか?  Q6: それとも もとから――《対話型》は 理念の上だけであって―― 隠微なけんかと互いを不幸のどん底へ落としやり合うという生活が消えることはなかったのか?  Q7: あるいは 上の歴史および社会にかんする分析が おかしいか。

みんなの回答

  • kurinal
  • ベストアンサー率10% (128/1195)
回答No.2

>「情報交換のときに 互いに分からないところについて尋ねたり あるいは違うではないかと批判しあったりして さらに互いの見解を理解するように成る。これを目指します。  或る程度確実な内容であっても 質問する場合があります。これは 常識と違っているという理由で 考えてみれば容易に常識がマチガイであると分かることであっても それが明示的になることを目指して・また確認のためにとしてでも 問うことをおこなってもいます。」 何かの規格ですか(笑)

bragelonne
質問者

お礼

 ★ ディベート  ☆ ではないという意味です。

  • kurinal
  • ベストアンサー率10% (128/1195)
回答No.1

こんばんは。 もっと「ディベート」を、ということでしょうか。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  この質問のばあいは そのまま趣旨説明欄に問いとして表わしています。よ。  ★ 「ディベート」  ☆ という言葉でどういう中身を当てておられるのか知りませんが 質問は 情報交換が基本的な中身であると理解しています。  情報交換のときに 互いに分からないところについて尋ねたり あるいは違うではないかと批判しあったりして さらに互いの見解を理解するように成る。これを目指します。  或る程度確実な内容であっても 質問する場合があります。これは 常識と違っているという理由で 考えてみれば容易に常識がマチガイであると分かることであっても それが明示的になることを目指して・また確認のためにとしてでも 問うことをおこなってもいます。

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     § 1 まづ社会形態の類型をとらえます  市民社会(《わたくし》の S 圏=一階)と公民圏(《おほやけ》なるお二階 A 圏)との二階建てから成る国家という社会形態について 次のみっつの種類に分けてみた。  (α) A圏とS圏との自由対話型:日本社会    (κ) 《民衆( S圏 )は自由暴君》型:アフリカ型社会  (ω) S圏内もA圏内も両圏相互としても 自由競争型:西欧社会    おおざっぱな分類です。《果たして民主主義でよいのか》のたぐいの質問とそのやり取りがつづいていますので それにちなんで何とか問題をほぐしたい。  これまでの大統領が任期を終えたあとには ことごとくと言ってよいほど石持て追われるかの様相を呈しているところを捉えて その大韓民国という社会は (κ)のアフリカ型ではないか?  中華人民共和国は 人民の国とうたっている割りには おほやけなるA圏のもっぱらの公民が暴君としてのさばっている。やはりアフリカ型か?  とは言うものの 現代にあっては おほやけなるA圏の人たちも 《わたくし》なる一人の市民としてそして人間として みんな自由でありその自由が互いにひとしく平等であるとうたった考え方は それとして普及しています。タテマエは 民主制です。  民主制のもとにあっても 日本型も西欧型も 対外的な帝国主義の動きは過去となりつつあるとしても 対内的な覇権主義が――じつはそれは過去の動きであったものであると同時に 現在にも残っているし―― はたらいている。という問題を取り上げたい。  § 2 民主制にひそむ覇権思想としてのアマアガリ・シンドロームについて  まづ (α)日本型と(ω)西欧型とにかんたんに捉えた説明をあたえて行きます。  (α) 対話型の社会形態は 国ゆづり型である。  (α-1) 日本における国家は 《国ゆづり》型であるゆえ 市民 S らは おとなしい。もともとおとなしく けんかをするほどに仲良しであった。  どのようにクニユヅリが成ったか?  S(スサノヲ)市民の中から出た公民 A (アマテラス)らは 特に優秀であったゆえ 人びとは社会というヤシロにも特別な神棚をこしらえてやりもっぱらその空中庭園に住まわせた。この第二階となる神棚にまつりあげた。  優秀であるうえに品行方正で申し分のないほど人間的な人間たちであったが ただひとつ玉にきずなのは つねに人びとから注目を浴びていなければ落ち着かない。お山の大将型であったことだ。  市民らは かれらに根負けして それならと言うので神棚をわざわざこしらえて そこを棲み処とさせた。人権を限定し制約するような檻に住まわせたとも言える。これが のちのち或る意味でわざわいともなった。  (α-2) 市民 S らの中には この第二階への出世志向が流行り病いのごとく起こり(=アマアガリ・シンドローム) ひとつには とうとう A 者公民たちにこびへつらうようになり ひとつには ゆすり・たかりをはたらき甘い汁を吸おうとするようになる者が出た。  このお二階さん志向――そして別様に言えば お上意識; つまりは アマテラス予備軍症候群なる心理――が絡んでくると スサノヲ市民どうしのあいだでも いざこざが絶えなくなる。  簡単に言ってこういうわけで 市民 S 者のあいだには まっすぐな心持ちにもとづく行動と どこか歪んだところのある振る舞いとそれら両面が見られることになる。  すなわちこれらよき基礎とあしき部分とをふくんだところの《 S - A 》の対話型である。  そして 端的に言って アマアガリ・シンドロームは 覇権思想である。もっぱら《上から目線》によって成り立っている。  (ω) A と S とが《競争型》なるその《 A - S 》連関制  (ω-1) つまり西欧の市民 S は そして公民 A も 誰もがおのれの中にお二階さん志向(または アマアガリ欲望)を持つ。すなわちひとりの個人がその内面においてあたかも《 A(おほやけ) = S(わたくし) 》としての市民 S であり この市民 S が同じく《 A = S 》としての公民 A と成るという傾向を有する。こう推し測られる。  国ゆづりというよりは 国盗り・天下取り型になる。  (ω-2) すなわちこの競争型とは   (ω) 欧米型(または遊牧民型): A ( A=S ) ∽ S ( A=S ) 連関制  である。相似形の記号( ∽ )の意味は つねに転覆(回転=レヲ゛リューション)が起こり得るということを表わす。  言いかえるとその社会では 第一階においてすでに 《人は人に対して狼なり。( Homo homini lupus. )/ 万人の万人に対するたたかい( bellum omni contra omnes. )》という市民(《 A = S 》なる市民 S )どうしの社会的な意識の流れが関係し合っている。  そのような個人としての・ワタシとしての意識が互いに日常においてすらも対立しがちである。そしてそのいわゆる弁証法的展開が ふつうに見通されているようでもある。  § 3  (α)および(ω) 両者を比較対照します   日本市民が このアマアガリ志向に対して《くにゆづり》をしたと言う時 それは非戦論であり そうだとすれば それに対して欧米市民は 主戦論に立つものと考えられる。  土地に縄を張って ここはおれのものだと宣言したとき 言葉たくみににしろ力づくでにしろ その土地を獲ってしまえば 自分のものになると考える傾向ではないだろうか。《法律》は その既成事実を保守するためにつくられる傾向があるのだろうか?  日本市民は――その昔 オホクニヌシとその息子のひとりは―― これこれはおれのものだと主張するときに どういうかたちにしろ争うことは 人間の弱さから来ると考え それならと言って 非戦論を採った。いちどゆづったら 相手を神棚に挙げてしまったのだから おいそれとは国の共同自治の権限を返せとは言えない。言わない。おとなしい。そして ただそれだけのことだと考えられる。  ただしそのアマアガリ・シンドローム(末は博士か大臣かの出世症候群が覇権思想となったヰルス)の感染具合いに応じて 波風の立つこともある。《主戦論》が優位に立つ場合もある。欧米主導のグローバル化に感染したゆえなのかどうか。  § 4  さらに別の A - S 連関制 とはどういう現実か  これは 《アフリカ的段階》と呼ばれるもので ひとことで説明するなら 市民 S らに絶対主権があるようなかたちである。   (κ) アフリカ型:《 S (=じつは 絶対的 A ) ∽ A 》連関制  ◆ (『アフリカ的段階について』 ヘーゲルを解剖学した世界観?) ~~~   http://y-bat.txt-nifty.com/doyo/2009/01/post-8de9.html  マルクスはインド・ヨーロッパ語圏の外にアジア的共同体を見出したが、吉本〔隆明〕はそのアジア的段階より前の段階としてアフリカを見出している。  ( a ) そこには殺生与奪権を独占し自由に行使できる王(* A )がいる。  ( b ) しかし、民衆(* ――《〈じつは A 〉なる S 》――)は豊穣と生活の保障と引き換えに王(* 権力)を認知しているのであって、不作や疫病があれば王は民に殺されてしまう。  ( c ) 生命の等価交換(という原始的なシステム)の上に成り立っていた頃の世界がそこにはある。  ( d ) 民衆(個人 S とその共同性)と王(権力と象徴= amaterasity アマテラシテ)は等価なのだ。  ~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ このアフリカ型(κ)は 特に( b )の特徴にかんがみて 民衆暴君型である。  対話型(α)と見た日本社会の《伝統》は そして 自由競争型(ω)と捉えた西欧社会とともに この民衆暴君型(κ)と見られるような社会と国家の動きに対して どのように対処して行くのがよいであろうか。  いったい何が問題なのか? 何が悲しくて何を問題としているのか?  お考えをお寄せください。

  • 《アフリカ的段階》について おしえてください。

    《アフリカ的段階》について おしえてください。    ◆ (『アフリカ的段階について』 ヘーゲルを解剖学した世界観?) ~~~~   http://y-bat.txt-nifty.com/doyo/2009/01/post-8de9.html  マルクスはインド・ヨーロッパ語圏の外にアジア的共同体を見出したが、吉本〔隆明〕はそのアジア的段階より前の段階としてアフリカを見出している。  (α) そこには殺生与奪権を独占し自由に行使できる王がいる。  (β) しかし、民衆は豊穣と生活の保障と引き換えに王(権力)を認知しているのであって、不作や疫病があれば王は民に殺されてしまう。  (γ) 生命の等価交換(という原始的なシステム)の上に成り立っていた頃の世界がそこにはある。  (δ) 民衆(個人と共同性)と王(権力と象徴)は等価なのだ。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ そもそもの――吉本による――定義からおしえてもらわねばならないのですが 次のように問いたいと思いますので よろしくお願い致します。  (1) 我が国の《公地公民制≒天皇家による家産国家制》と どう同じでどう違うか?   cf. 【Q:《公地公民制》とは 民主制への道程か?】     http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa5967888.html  (2) すなわちもし 公地公民制が遠く民主制への道程であったとしたら 案外その《公:おほやけ》という考え方においては    (δ): 民衆(個人と共同性)と王(権力と象徴)は等価なのだ。  と同じ内容を志向しているようにも思われるが どうか?  (3) すなわち アフリカ的段階では 明らかに歴史を先取りしてすでに暴君のごとき民衆を想定しているように見える。   (β) しかし、民衆は豊穣と生活の保障と引き換えに王(権力)を認知しているのであって、不作や疫病があれば王は民に殺されてしまう。  と。だとすれば 日本の古代国家は アフリカ型にくらべれば 《対話型》である。  対話型をえらんだ結果 われわれ市民は なめられてしまったか。何もかもを巻き上げられっぱなしであった。  ちなみに 中国ではむしろかなりアフリカ型の《暴君型》に近い。    ■ (孟子:尽心章句) ~~~~~~~~    人民がもっとも重要で 土地の神と穀物の神である社稷はこれに次ぎ 君主はもっとも軽い。    だから衆民の人望を得ると天子になり 天子のお気に入ると諸侯になり 諸侯のお気に入ると太夫になる。    諸侯が社稷つまり国家を危機に陥れると 退位させられる。肥え太った獣を犠牲とし 清浄なお供えをささげ決まった時期に祭祀しているのに 干害・水害がおこったならば 社稷の神自体を新しい神に変える。    (尽心章句 下 貝塚茂樹訳)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 吉本隆明は わたしは途中から嫌になって読まなくなっていますので 横着なかたちではありますが おしえてください。

  • 村上隆のフィギュアは 天皇へのオマージュか?

     それとも パロディなのか?  それは 例の16億円で売れた・《自己満足》の象徴のようなフィギュア作品を言います。  次が そのたたき台です。歴史的な背景の説明をともなったフィギュアの心の解明です。お聞きください。     *  フィギュアをめぐる萌えと燃え。  そこには負け組と勝ち組と規定したかたちに現われた階級闘争があるかないか?  たしかに 現代の日本社会としての固有のあるいはそれとして特殊な事情や情況はあるだろうが 問題はやはり通史的に捉えた日本人の社会そして特には 国家の誕生からその展開過程を焦点とする歴史 にその答えを解く鍵があるだろうね。  展開過程と言っても じつは 何にもない。誕生のあとそこで成立したその国家の仕組みが 内部での組み替えは起きたとしても――征夷大将軍や市民資本家が 実権を握るお上になったとしても―― まったくと言っていいほど その体制は変わっていない。  この社会の成り立ちとしては    スサノヲ( S )市民‐アマテラス( A )公民   この連関制である。これは 二階建て構造を有する。そして A 圏における権力と権威の分離をも考慮に入れるなら こうである。   市民社会圏( S )‐〈政府公民圏 ・ アマテラシテ(象徴)〉( A )     * アマテラシテ( amatérasité; amaterasity; Amaterasität ):     アマテラス( amaterasu )公民ないし天皇の抽象名詞化。  アマテラス圏のアマテラス政府は じつはすでにスサノヲ市民政府である。主権者スサノヲによって権力が構成されている。ただし 国家として成り立った《 A - S 連関制》じたいは いささかも変わっていない。  そして アマテラス圏なるお二階さんが スサノヲ市民らによって形成されているにもかかわらず 一般的なクウキないし社会通念としては 相変わらずその第二階なるあたまで立っているかのごとく 逆立ちした連関制である。  けっきょくことは――問題は―― アマテラス圏における象徴アマテラシテを どうするかにある。  そもそも――神話としての伝承によるとは言え―― スサノヲ市民らが もともと平屋建ての社会にあって生活しており そこから第二階をこしらえて アマテラス族をそこに住まわせたのは そのように《くにゆづり》をしたことからだったからである。  どうしてもアマテラス族が――かれらは それはそれは品行方正・学力優秀だったからのようだが―― この世の中を 自分たちにまかせて欲しいと頼みに頼んで拝みに拝んで それにとうとう根負けしたスサノヲらは 社会にも やしろを作ってそこにかれらをまつりあげた。これが くにゆづりだったことに起因する。    スサノヲらにしてみれば あまりにも駄々をこねるゆえに しばらくは特別の場所をあたえたという程度に過ぎなかったかも知れない。ところが 一たん第二階ないしあたかも 雲の上のスーパー・ヤシロなる神棚に腰を据えたが早いか あとは そのまれにみる能力をほしいままに使い切るまでに使いこなすほどに 国家経営にはげんだことになる。権力と権威との分離がなされたあとも このお二階さんとしてのまとまりは びくともしなかった。  結論である。  要するに 駄々をこねる子供から早く人びとと自由に対等に話し合いができるおとなに成って欲しい。千五百年経ったが どれだけ経ってもまだまだ待っているんだぞというメッセージを送り続けていることになる。これが フィギュアのねらいだという読みである。  その思いを大枠として――その解決がなされなけれ人間存在の話としては何ごとも始まらないほどの枠組みとして―― あとはその時代時代のなかでさまざまに文化的・経済的な進展に応じて そのメッセージの具体的な中身が変遷して来ている。反抗と言っても せいぜいが 一揆ていどである。  つまりは現代としては フィギュアもオタクも萌えも――そして 燃えは A-S 連関制におけるむしろ A 圏の側からの応答としてのごとくであるようなのだが―― このメッセージをそれとして体現していると考えられる。  むすび:  アマテラス圏は 社会のどう考えても主役であるしかないスサノヲ圏のスサノヲ市民らに その大政を奉還すべきである。はやくおとなにならねばならない。  権力をただちにスサノヲ圏に返すと 国際関係において チカラの均衡がくづれるおそれがあるとするなら その安全保障のことをも考慮しつつ 大政奉還していけばよい。  おまけ:  だから フィギュアに自分の時間を割く人びとは いわゆる階級関係における権力闘争をしようとしているのではない。日本においては それは 筋がちがう。  逆立してしまった連関制なる二階建ての成り立ちを 風通しのよい・おとなの話し合いができる自由な仕組みに作り直そうと言うのみ。  だから けっきょく自己満足でしかない世界において自己満足でしかない手段によって 心の内なる心の奥の心にうったえている。もともと くにゆづりをしたからには 返せとか下りて来いとか なかなか直接には言いづらい。まして 引きずりおろそうとは していない。心への呼びかけにおさまる。

  • 世界のどんでん返しは われらが日本から

     (あ)  昔むかしの話から始めます。  感性と理性を交えた或る知性が 或る日或るとき こころのいと高きところに純粋存在なるまぼろしを見ました。  イリ(世界への入りをおこなう)人は このマボロシをそのままナゾとして心にしまっておいた。  ヨセ(世界を束ね寄せる)人は マボロシに取り憑いた。その輝く光に身も心もつき従うとの誓いを立てた。  やがて修行の甲斐あって いよいよその《いと高き者》に似てきたとき――きわめて人間的な人間になったとき―― 周りを見てみれば このマボロシには誰も 関心がない。  ヨセ人は ここであきらめなかった。    このマボロシによって人びとを感化し     世の中を束ね寄せる。    そうしてみせる。    そうすれば 《いと高き存在》の光は あまねく行きわたり    世はますます常世(とこよ)の国として栄えるであろう。  と踏んだ。  (い)  このヨセ人なるアマテラス種族が 社会のあり方として平屋建てを嫌い その上に第二階を築きたいと言って スサノヲ市民らに冀ったとき スサノヲらはとうとうその根競べに負けて  《くにゆづり》をした。  イリ知性なるスサノヲ市民の村々におこなわれる《まつり》は 第二階によって束ねられ おまけに税を取られ全体としてその統治が《まつりごと》としておこなわれるようになった。  かくて 《アマテラス公民 ‐ スサノヲ市民》なる連関制の完成である。  《くにのいへ》と言う。家というからには 二階建てである。  二階のアマテラスなるアタマで立つなら その連関制は 逆立ちしている。  (う)  《ひかり もしくは まぼろし》と現実の大地とのあいだに隔たりがあるとすれば 人びとの発言(自己表現)にもつねに 本音と建前が出て来る。  あるいはさらに 二枚舌の問題が必然的に現われる。――そうでなくてもふつうのイリ人においても ウソでない心とウソの心との相克の問題が ごく一般的に ある。  (え)  広くマ(間・間合い)が 人びとそれぞれにおけるそういった心的および社会的な齟齬を容れた《関係ないし連関》のあり方として成り立って来ている。  すなわち むろん この問題が問題なのだ。ここでは     《 A (アマテラス公民)‐ S (スサノヲ市民)》逆立連関制  としてのマである。  第一階とお二階さんとのマの具合いであり 間合いの取り方でありそこに起こるマ‐チガヒとその正し方の問題です。  おそらく一階のマツリと二階からとりおこなうマツリゴトとが逆立ちしているのではないか? そこから マチガヒがつねに起こり得るのではないか? トヨス? モリトモ?  (お)  細かくは たしかに第一階においてスサノヲ市民どうしの間でも 仲間と仲間のあいだにマチガヒが生じるであろうし お二階さんどうしの間でも 同じような問題が起こるものと考えられます。  問題は そもそもは 《 S (主権)- A (従属)》の連関だったものが A 圏主導の《 A - S 》連関として逆立ちしているというところにあると見ます。  つまりは ヨセ人なるすぐれたアマテラス族の初めの人びとにおいて いくら光り輝くイデアを見たと言っても その《いと高きところ》なる理念の扱いにおいてすでに初めに逆立ちしてしまっていたのではないか。  イリ人は このイデアをとおして――《をとおして》――マツリをおこないカミにささげものをした。イデアは 何ものかを指し示すための指=シルシである。  ヨセ人は 指を・指そのものを見ている。このイデアじたいにカミを見た。あるいはさらにみづからがカミとなった。  こう見る限りで ヨセ人のヨセ知性は イリ人のイリ知性に対する反措定であると捉えます。テーゼは アンチテーゼに社会のイニシアティヴをゆづった。  つまりそれが アマテラス普遍語の恣意的な用法としてのアマテラス語お二階方言という言語類型でしょう。それは 普遍語として無謬性の神話に包まれているのですが その指先を見ようとしないとなれば 必然的にと言っていいと思われるごとく二枚舌現象が生じる。あやまつは 人のつねではあるのですが。・・・モリトモは どっちが方言なのか?  そう言いたいのですが これに対するイリ人=スサノヲ市民の打ち出す反措定は すでに有る或る反措定に対する反措定ですから 綜合であり 人間のふつうの存在の肯定であると考えてよいのではないでしょうか?   (か)  マチガヒからのマの回復。つまり 市民主権・住民自治の実現としての――二階から一階への――大政奉還。  これまでの歴史において アマテラス語方言が社会を覆っていたとしても つまりそれが《不当にも》社会において有力であったとしても 人びとはこれを どういうわけか 難なくこなして来ていた。    時代が変わり社会のあり方が変わり もう《こなす》ことがむしろ出来なくなった。こなす・こなさないの問題よりも アマテラス方言の誤謬が ただ街を歩くだけでそこら中に見えて来てしまった。また経 済的にも立ち行かない情況を背負っている状態となった。  アマテラス公務員の無謬性なる神話がくづれた。  マの問題。この A - S 連関というマの逆立ちをただすことがいまの課題であるのではないか?  じつは 広く大きく 国家のアウフヘーベンとして世界史的な課題であるのではないか? 国家ゆえに領土問題と戦争がある。ムスリムの中の一部に国家に対抗するような暴走が起きて来た。・・・うんぬん。うんぬん。  添削をどうぞ。

  •  《自然に帰れ》!?

     《自然に帰れ》!?  とルウソは言ったとか言わなかったとか。自然に帰るあるいは人間的自然を取り戻す これは 必要で大事なことでしょうか?  《人間》の社会におけるすがたを次のように捉えて その《自然》の問題を考えます。  1. われわれ人間は 社会を成して共生するらしいが そもそもどういう存在であって どういう存在の関係をむすび かつその関係の錯綜して過程する総合としてどのようなあり方になっているのか?   2. 社会人を スサノヲ市民およびアマテラス公民に分けます。しかも この市民( S )と公民( A )のそれぞれ要素は ひとりの人間に――当然でしょう―― そなわると捉えます。  3. このような概念装置を持って マルクスを読みます。  ▲ ( K.マルクス:ユダヤ人問題によせて) ~~~~~~~~~~   結局のところ   ( S ) 市民社会の成員としての人間(* つまり生活者市民スサノヲ)が 本来の人間とみなされ   ( A ) 公民 citoyen (* 人格の全体でもっぱら公共の仕事に就くアマテラス公民)    とは区別された  ( S ) 人間 homme とみなされる。  なぜなら   ( A ) 政治的人間(* アマテラスのそういう側面)がただ抽象された人為的につくられた人間にすぎず 比喩的な精神的人格としての人間であるのに対し   ( S ) 市民社会の成員としての人間(* スサノヲ)は 感性的な 個体的な もっとも身近なあり方における人間だからである。  【 S‐A 連関】 《現実の人間》は  ( S )  利己的な個人の姿(* もしくは 感性を自由気ままに発揮しあやまちうるスサノヲ人間語)においてはじめて認められ   【 A‐S 連関】 《真の人間》は  ( A )  抽象的な公民の姿(* もしくは アマテラス人格語ないし学術概念語)においてはじめて認められるのである。                   (城塚登訳)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ここで S:スサノヲと A:アマテラスとの連関のあり方は 次のふたつの形態があり得ます。   《 S‐A 》連関のかたち=《現実の人間》:      あやまちうるスサノヲ人間語を基礎としてその土壌の中から――     あたかもその泥の中から―― アマテラス規範語を磨き上げ そこ     に花咲かせる人間のすがた。   《 A‐S 》連関のかたち=《真の人間》:      簡単に言えば 理性ないしコギトがすべての意志行為を引っ張る     かたちのアマテラス人格語かつアマテラス学問語にもとづく人間の     すがた。この人間は 《あやまたない》と言われるようになる。      つまり無謬性・不可侵の神話を帯びる。  ☆ たぶん《 〈 S‐A 〉連関のかたち》=《現実の人間》の描像のほうが のぞましいと思うのですが それには 《スサノヲ的自然》を取り戻す必要があると考えられます。どうすればよいでしょう? あるいはすでに回復していましょうか?

  • 《人間を国家的に》から《国家を人間的に》へ

     1. われわれのしゃべる日常の言葉は あやまちうるスサノヲ人間語です。    2. そこから普遍的な要素を抽出し 抽象的になったかたちではあるが あやまたない内容を表わそうとするのが アマテラス科学語です。  3. 抽象した要素としての言葉は 概念となりますが この概念を用いてさらに価値判断すると アマテラス人格語として――ということは 倫理学として・また倫理規範として――捉えられて来ます。  4. スサノヲ市民たる人間が これら科学語および人格語たるアマテラス普遍語を使いこなすようになること。これが 《人間化》だと考えられます。    5. さてこの人間の人間化をめぐっては 社会として・その形態としては 《国家にあってこそ初めて成し遂げられる》といった見解が出されています。  6. それは A (アマテラス)語をもっぱら駆使することが出来るアマテラス公民を 言わば社会の第二階に住まわせてそこから いまの S (スサノヲ)語にアマテラス語を採り入れるという人間化を政策的にも実現させようとするいとなみであるようです。  7. そこでは スサノヲ市民のアマテラス公民化 または 《 S 語 ‐ A 語》のしかるべき有効な二層構造化 これを果たそうとする人間の志向性であるように考えられます。  8. 《ひとは国家において人間である。自由である》のだとか。  9. けれども 現代の課題は――昔からの志向性をさらに伸ばして行くかたちとしての歴史的な課題は―― この国家の人間化 ではないでしょうか?  10. お二階のアマテラス公民をして その人間存在としていかに土臭きスサノヲ人間語を回復させるか?  ではないだろうか。  11. なぜなら アマテラス普遍語は いかに社会秩序を保つという統治のためとは言え お二階さんたちは その《我が家》であるアマテラストゥーム( das Amaterasutum )の名誉や面子を重んじるあまり 《あやまちの無さ》だけを強く声高く言い張るようになっているのではないか? あやまちをまぬかれる人間はいないのに。  12. 人間は しょせん スサノヲシャフト( die Susanowoschaft )なる大地の住民である。なぜここからアマアガリして 抽象性の世界に閉じ籠るのか?  13. 二階建て構造のかたちは のこったとしても実質的に 国家をそして A 圏公民をしてスサノヲ人間語の回復を得さしめること。《国家を人間的に》 ではないか。  14. それとも 究極のアマアガリとしての《アマテラス公民からさらに抽象化をおこなった象徴たるアマテラシテ( das Amaterasität; amatérasité; amaterasity )をになう人》のすがた これが 《人間化》のあり方であると言えましょうか どうでしょうか?

  • 村上隆のフィギュアは 天皇へのオマージュか?

     それとも パロディなのか?  それは 例の16億円で売れた・《自己満足》の象徴のようなフィギュア作品を言います。  次が そのたたき台です。歴史的な背景の説明を添えた・フィギュアの心の解明です。     *  フィギュアをめぐる萌えと燃え。  そこには負け組と勝ち組と規定したかたちに現われた階級闘争があるかないか?  たしかに 現代の日本社会としての固有のあるいはそれとして特殊な事情や情況はあるだろうが 問題はやはり通史的に捉えた日本人の社会そして特には 国家の誕生からその展開過程を焦点とする歴史 にその答えを解く鍵があるだろうね。  展開過程と言っても じつは 何にもない。誕生のあとそこで成立したその国家の仕組みが 内部での組み替えは起きたとしても――征夷大将軍や市民資本家が 実権を握るお上になったとしても―― まったくと言っていいほど その体制は変わっていない。  この社会の成り立ちとしては    スサノヲ( S )市民‐アマテラス( A )公民   この連関制である。これは 二階建て構造を有する。そして A 圏における権力と権威の分離をも考慮に入れるなら こうである。   市民社会圏( S )‐〈政府公民圏 ・ アマテラシテ(象徴)〉( A )     * アマテラシテ( amatérasité; amaterasity; Amaterasität ):     アマテラス( amaterasu )公民ないし天皇の抽象名詞化。  アマテラス圏のアマテラス政府は じつはすでにスサノヲ市民政府である。主権者スサノヲによって権力が構成されている。ただし 国家として成り立った《 A - S 連関制》じたいは いささかも変わっていない。  そして アマテラス圏なるお二階さんが スサノヲ市民らによって形成されているにもかかわらず 一般的なクウキないし社会通念としては 相変わらずその第二階なるあたまで立っているかのごとく 逆立ちした連関制である。  けっきょくことは――問題は―― アマテラス圏における象徴アマテラシテを どうするかにある。  そもそも――神話としての伝承によるとは言え―― スサノヲ市民らが もともと平屋建ての社会にあって生活しており そこから第二階をこしらえて アマテラス族をそこに住まわせたのは そのように《くにゆづり》をしたことからだったからである。  どうしてもアマテラス族が――かれらは それはそれは品行方正・学力優秀だったからのようだが―― この世の中を 自分たちにまかせて欲しいと頼みに頼んで拝みに拝んで それにとうとう根負けしたスサノヲらは 社会にも やしろを作ってそこにかれらをまつりあげた。これが くにゆづりだったことに起因する。    スサノヲらにしてみれば あまりにも駄々をこねるゆえに しばらくは特別の場所をあたえたという程度に過ぎなかったかも知れない。ところが 一たん第二階ないしあたかも 雲の上のスーパー・ヤシロなる神棚に腰を据えたが早いか あとは そのまれにみる能力をほしいままに使い切るまでに使いこなすほどに 国家経営にはげんだことになる。権力と権威との分離がなされたあとも このお二階さんとしてのまとまりは びくともしなかった。  結論である。  要するに 駄々をこねる子供から早く人びとと自由に対等に話し合いができるおとなに成って欲しい。千五百年経ったが どれだけ経ってもまだまだ待っているんだぞというメッセージを送り続けていることになる。これが フィギュアのねらいだという読みである。  その思いを大枠として――その解決がなされなけれ人間存在の話としては何ごとも始まらないほどの枠組みとして―― あとはその時代時代のなかでさまざまに文化的・経済的な進展に応じて そのメッセージの具体的な中身が変遷して来ている。反抗と言っても せいぜいが 一揆ていどである。  つまりは現代としては フィギュアもオタクも萌えも――そして 燃えは A-S 連関制におけるむしろ A 圏の側からの応答としてのごとくであるようなのだが―― このメッセージをそれとして体現していると考えられる。  むすび:  アマテラス圏は 社会のどう考えても主役であるしかないスサノヲ圏のスサノヲ市民らに その大政を奉還すべきである。はやくおとなにならねばならない。  権力をただちにスサノヲ圏に返すと 国際関係において チカラの均衡がくづれるおそれがあるとするなら その安全保障のことをも考慮しつつ 大政奉還していけばよい。  おまけ:  だから フィギュアに自分の時間を割く人びとは いわゆる階級関係における権力闘争をしようとしているのではない。日本においては それは 筋がちがう。  逆立してしまった連関制なる二階建ての成り立ちを 風通しのよい・おとなの話し合いができる自由な仕組みに作り直そうと言うのみ。  だから けっきょく自己満足でしかない世界において自己満足でしかない手段によって 心の内なる心の奥の心にうったえている。もともと くにゆづりをしたからには 返せとか下りて来いとか なかなか直接には言いづらい。まして 引きずりおろそうとは していない。心への呼びかけにおさまる。    *  天皇が存在することによって ほかの人びとはすべて平等であって そのぶん社会の風通しがよいから 皇室(その制度)はたとえ自己満足であったとしても(*1) 存続している。それゆえ オマージュをささげている。というのか?  それとも このようなそれぞれの立ち場でのそれぞれの自己満足は起きていると思われるが これではやはり風通しはわるいのだ いつまで経ってもよくならないのではないかというパロディなのか?    *1 《皇室(その制度)はたとえ自己満足であったとしても》:これ    は ほかのすべての人びとが平等であると言っても ひとり(ひと    つの家系)は 特別な存在とされている。したがって その設定が    特別視の根拠や理由などについて 社会的な虚構を構成すると    いうような意味において 民族にとっての自己満足でたといあった    としても の意です。 

  • 国家のアウフヘーベンを!――いまでしょ。 

     1. 感性と理性を伴なった或る知性が 或る日或るとき こころのいと高きところに純粋存在なるまぼろしを見た。  2. イリなる歴史知性すなわち 《世界〔内存在〕への入りをおこなう知性人》 この種の人は このまぼろしをそのままなぞとして心にしまっておいた。  3. ヨセなる超歴史知性すなわち 《世界を押しなべてその知性によって束ね寄せるスーパー知性人≫ この種の人は まぼろしに取り憑いた。  3-1. その輝く光に身も心もつき従うとの誓いを立てた。いよいよ その《いと高き者》に似て来たとき――きわめて人間的な人間になったとき――周りを見てみれば このまぼろしには誰も 関心がない。それは 程度問題なのだと澄ました顔をしている。  3-2. ヨセ人は ここであきらめなかった。このまぼろしによって人びとを感化し 世の中を束ね寄せる。そうしてみせる。そうすれば《いと高き存在》の光は あまねく行きわたり世はますます常世(とこよ)の国として栄えるであろう。と踏んだ。  4. このアマテラス種族でもあるヨセなる超歴史知性が 世の中のあり方として平屋建てを嫌い その上に第二階を築きたいと言って スサノヲ市民らに冀ったときスサノヲらはとうとう根競べに負けて 《くにゆづり》をした。  4-1. ふつうのイリ歴史知性のスサノヲ市民らがムラムラでおこなう《まつり》は ことごとく第二階によって束ねられ おまけに税を取られ 全体としてその統治が《まつりごと》としておこなわれるようになった。  4-2. かくて 《アマテラス公民‐スサノヲ市民》連関制の完成である。くにのいへと言う。家というからには 構造があり 二階建てである。    5. 《ひかり あるいは まぼろし》は どうなったか?  5-1. 《ひかり ないし まぼろし》と現実とのあいだに隔たりがあるとすれば 人びとの発言にも・つまりそれぞれの自己表現である誰の発言にも 本音と建前とがある。  5-2. あるいはさらに 二枚舌の問題がある。人びとのあいだで利害の一致がむつかしいとすればその限りで 必然的に現われがちである。――そうでなくてもふつうのイリ人においても ウソでない心とウソの心との相克の問題が ごく一般的に ある。  5-3. それは 広くマ(間・間合い)の問題である。人びとのあいだのそういった心的および社会的な《関係ないし連関》のあり方を問題としうる。ここでは 《 A (アマテラス)‐ S (スサノヲ)》連関制としてのマである。  6. さて 大政奉還――国家のアウフヘーベン――のもんだい。  6-1. 大政奉還の問題は    《 A (アマテラス公民)‐ S (スサノヲ市民)》なる連関制  としてのマのあり方を問う。  6-2. 第一階とお二階さんとのマの具合いであり 間合いの取り方であり そこに起こるマチガヒをめぐるその正し方 こういった問題である。  6-3. 端的に言ってこのマの問題は おそらく一階のマツリと二階からとりおこなうマツリゴトとが逆立ちしている ということではないか? そしてそこから マチガヒがつねに起こり得るのではないか?  6-4. 細かくは たしかに第一階においてスサノヲ市民どうしの間でも 仲間と仲間のあいだにマチガヒが生じるであろうし お二階さんどうしの間でも 同じような問題が起こるものと考えられる。けれども問題は そもそもは    《 S (大政主権)- A (従属)》の連関  だったものが A圏主導の《 A主導 - S 従属》連関として逆立ちしているというところにあるのではないか。  6-5. つまりは すぐれたアマテラス族の初めの人びとにおいて いくら光り輝くイデアを見たと言っても その《いと高きところ》なる理念の扱いにおいてすでに初めに逆立ちしてしまっていたのではないか。  品行方正なるその人格は むしろただ理念に合わせただけのものではないか?  6-6. イリ人は このイデアをとおして――《をとおして》――マツリをおこないカミにささげものをした。ヨセ人は このイデアじたいにカミを見た。あるいはさらにみづからがカミとなった。  6-7. こう見る限りで ヨセ人のヨセ知性は イリ人のイリ知性に対する反措定であると捉えられる。超歴史知性として ふつうの歴史知性の上をアマガケル振る舞いに出た。お二階へのアマアガリをおこなった。  6-8. つまりそれが アマテラス普遍語(つまり科学語および人格語)であるが これは実際には アマテラス語方言とよぶべき言語類型である。神聖にして侵すべからずという無謬性の神話に包まれている。クウキである。つまりそのクウキとしての神話につつまれなければ チカラを発揮しえないからである。  6-9. つまりはその無謬性の神話から必然的に現われると言っていいところのダブル・スタンダード現象である。  6-10. ゆえに普遍語をよそおうところのアマテラス語方言であるに過ぎないと言いたい。訛っていなくても 舌が二枚 使い分けられている。アマテラス科学語は資料等において部分的にしか表に出さない。アマテラス人格語は ウラとオモテとを使い分ける。  6-11. これに対するイリ人=スサノヲ市民の打ち出す反措定は 無謬性を帯びさせようとするアマテラス神話なる反措定に対するための反措定であるから 肯定的な綜合であり 人間のふつうの存在(知性)の復権(ルネサンス)であると考えてよいのではないか?   6-12. これが 逆立ちする《 A (アマテラス)主導‐ S (スサノヲ)従属》連関制としてのマチガヒからのマの回復であり つまりは ムラムラの主権の実現としての大政奉還である。  7. これまでの歴史において アマテラス語方言が社会を覆っていたとしても つまりそれが《不当にも》社会において有力であったとしても 人びとはこれを どういうわけか 難なくこなして来ていた。のかも知れない。  7-1. 時代が変わり社会のあり方が変わり もう《こなす》ことがむしろ出来なくなった。こなす・こなさないの問題よりも アマテラス語方言の誤謬が ただ街を歩くだけでそこら中に見えて来てしまった。ウラで何をやっているか分からないばかりである。そして 経済・財政的にも立ち行かなくなった。  7-2. アマテラス公民の無謬性なる神話がくづれた。D.トランプ現象?  7-3. この A - S 連関というマの逆立ちをただすことがいまの課題であるのではないか?  7-4.  A - S 連関は 社会形態として国家のことであるのだから 現代においてこの逆立ちの逆立ちは じつは国家の止揚として世界史的な課題であるのではないか?  7-5. 国家ゆえに領土問題と戦争と経済戦争があるのだ。――かな?