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自由は危険でしょうか?

皆さんは自由という言葉や意味をどのように考えますか? 自由はとても魅力的だといえますが、反面危険を含んでいるともいえます。 日本では年配者ほど自由というものをあまりよく考えない傾向があります。 以前、テレビのニュースで早稲田大学の学園祭をレポートしていました。奇抜な格好をした学生がカメラに向かって「自由は治安を乱さない」と叫んでいました。 自由には責任が伴うともいわれます。 人々が勝手なことをやれば社会が乱れるのは当然です。 反面自由が束縛されれば人生の楽しみが阻害されます。 ケースバイケースだとは思いますが。

みんなの回答

回答No.9

自由というのは 「自分の行動は自分で決める」 という程度の意味です。 自分が決めた行動であるから、その結果として起きたことに 責任が生じるのは当然。 それが、すばらしいと思うか、危険と思うかは相対的な問題です。 仮に 100%の自由があったとします。 法律も道徳もなにもあなたを束縛しない。 あなたが誰かを殺しても、法律で罰されることもありません。 その代わり、殺された人の遺族や友人から恨まれることは 充分考えられます。仕返しに殺されるかもしれません。 警察もいません。自分や自分の家族などで守るしかありません。 理由なしに殺されることだってありえます。 こんな、自由な世界がすばらしいと思うか危険と思うか? こんな世界はまっぴらだと思う人たちが共同体を作って ルールを決めたりしてきたのでは無いかとおもいます。 結局はどの当たりを落とし所とするかの問題ですよね。

gouzig
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 まったくその通りですね。

gouzig
質問者

補足

ご回答いただいた皆さんにお礼を申し上げます。 また勉強になりました。

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noname#194660
noname#194660
回答No.8

アメリカは一旦、銃を持つ自由を認めた為、護身、銃で生計を立てている人がいる等の理由から、規制することが難しくなっています。 一定の秩序の基に、自由がある国家が理想なのではないでしょうか。

gouzig
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 おっしゃる通りですね。

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  • love_pet2
  • ベストアンサー率21% (176/826)
回答No.7

無秩序と自由は別のものです。よく考えましょう。

gouzig
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 その通りです。よく考えてますよ。

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  • phantom1
  • ベストアンサー率24% (184/748)
回答No.6

自由とは多様性を認める事。多様性を認める事は、選択肢の豊富さを担保する事です。 選択肢が豊富であれば、間違った選択に思考が収斂される事を抑止できます。 自由でない社会とは結局、何者か(多くは権力者)が、選択肢を『選別』して民衆に提示する社会です。選別する者が完全無欠の神でない限り、選別されて提示される選択肢の全てが誤りになる可能性は無くなりません。 自由とは、ただ人々の楽しみを充足させるためにある概念ではありません。質問者が想像する以上に高次元な、社会の安全装置なのです。 自由である事の危険性を問題視するよりも、自由でない事で生じる危険性を問題視する方が、健全な社会感覚であると言えるでしょう。 無法と自由は同一の概念ではありません。「自由は治安を乱さない」と叫んだ早稲田大学の学生も、法を犯しているわけではないので、批判されるべき対象ではないでしょう。秩序と自由は両立します。ただし、バランス感覚は常に磨いていかなければ、無法な社会になるか、逆ならば警察国家と呼ばれる社会になってしまいます。日本国民全員には、この点での賢明さが問われていると言えるでしょうが、今現在の我が国を見るに、無法国家となる危険性よりも、警察国家になる危険性が高いと、私は思います。 過去を省みれば、我々は一度失敗しています。失敗を活かせないのは恥です。

gouzig
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 phantom1さんの書かれていることはその通りだと思います。 ただ、「自由とは・・・質問者が想像する以上に高次元な社会の安全装置なのです」は余計かと思います。私も66年生きてきており、多分phantom1さんが想像するより多くのことを理解したうえで質問しているのです。

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  • key00001
  • ベストアンサー率34% (2878/8340)
回答No.5

> 皆さんは自由という言葉や意味をどのように考えますか? たとえば我が国で保証されている自由は、我々日本人の先達が、必死に勝ち取った「権利」の一つですよ。 最近は、この「権利」を履き違えている輩が多いとは感じます。 生活保護は、憲法で保証されている「生存権」に由来する権利ですが、この権利を享受する前提だか表裏の関係で、「勤労の義務」が存在します。 言うまでも無く、「(働きたくても)働けない人」は、生存権と言う権利を行使すれば良いです。 しかし「働かない人」や「働きたくない人」までが、この権利行使をすれば、いずれその権利は国家権力によって剥奪されてしまいます。 実際にも、不当に権利を行使する人が増加している結果、財政を圧迫し、「生活保護の見直し」などが叫ばれており、近い将来、少なくとも現行の権利は縮小することになるでしょう。 「権利がある」とか「自由である」とは、「永久に保証された権利では無い」のです。 その権利や自由を維持するためには、努力が必要と言うことです。 自由であり続けるために努力すれば、「自由は治安を乱さない」でしょう。 しかし「自由である」と言う立場にあぐらをかいて、自由を謳歌するだけであれば、自由は「治安の敵」とか「国家の敵」にもなりかねません。 また違う観点で言えば、地球上に人類が誕生して以来、「完全な自由」など存在した事例は存在しませんね。 原始人でさえ、弱肉強食などの「自然の摂理」の制約を受けてますので。 現代人は、社会が高度化したおかげで、弱者でさえ生存権を手に入れたりしていますが、その反面、法律などのルールに拘束されています。 すなわち実際には、「ルールの中での自由」に過ぎませんし、正確に言えば「ルール内の自由は、治安を乱さない」ですね。 ただし、ルール自体は基本的には平等(又は公平)です。 ルールに不平や不満を持つ人間は、「不自由」と感じるでしょうし、ルールが自由を妨げる方向に改定されれば、やはり不自由と感じますが、それでもルールに精通し、ルール内で自由を謳歌出来る人にとっては、さほど不自由なものではありません。 「ルールに触れてでも、カネ儲けしたい!」などと思えば、ものスゴく不自由ですけど、「どんな事情があっても、絶対にルール内で儲ける!」と考えれば、その中では限りなく「自由」だし、そう言う中でこそ、「何が自由の妨げになっているか?」が見えるものです。 リベラリストを標榜する様な人こそ「不自由」であり、法律や更にその内側で自分を律する様なモラリストの方が、遥かに自由であって、そう言う人が、真にリベラルな考え方だと思います。 言い換えますと、自由とは「自己決定権」ですけど、自己中では無いのです。 上述した通り、自然界でも摂理に支配されており、サルの群れでさえ「規律」がある様に、人間社会でも「他者との共存」は摂理なんでしょう。 自己決定の中に、自然に「他人との共存」などを内包していれば自由です。 しかし「自分さえ良ければ良い」みたいな自己中心的な自由は、必ず他人と衝突や軋轢を生じたり、他人からの制約などを受けることになりますので、不自由なのですよ。

gouzig
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 key00001さんの書かれた内容に一字一句異論はございません。全くその通りですね。 途中に懐かしい「リベラル」という言葉がありました。そこに書かれた「真にリベラルな考え方」は私も長年そう思ってきました。

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  • rokometto
  • ベストアンサー率14% (853/5988)
回答No.4

私は高校の時校長が言ってた言葉がずっと頭に残っていますね。 「自由とは好き勝手やっていいということではない、自由とは自分の言動の結果の責任を全てとる前提で認められるものであり、その覚悟や能力がなければ不自由に妥協するしかない。」 定時制で大学みたいに自分で単位を選んでとっていく学校だったのですよ。 服装も自由だったのでこんなことを言ってました。

gouzig
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 いい高校、いい校長先生ですね。 「教育ここにあり」といえると思います。

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noname#235638
noname#235638
回答No.3

難しいことは、分かりませんが、 自由は束縛です。 自由という体裁のいい言葉の意味を利用して、 実は束縛されている。 逆に、束縛された中での自由のが、心地良いと考えます。 やっぱり守られますから・・・

gouzig
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 「束縛された中での自由」とは社会規範がきちっとしているということでしょうか。それであれば理解できます。

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  • KoalaGold
  • ベストアンサー率20% (2539/12476)
回答No.2

他人の権利と自由を侵さない上での自由ですよね。 行列の横入りは本人の自由ではないってことです。そういう意味で規則、秩序、道徳心が必要です。 どこでゲップしても自由、外ならどこでも喫煙自由、そう思う人が隣に喘息患者がいても自由を束縛されたくないと権利だけ主張すると世の中が寒くなります。 好きな人を追い回して家まで着いてくるのは自由、メールを送りつけるのも自由、しかし相手の気持ちをわかろうとしなければ、恐怖を与えているだけかも。 社会の中の自分、自分と社会、この距離感をうまくコントロールできて、本当の自由じゃないでしょうか。 年配者の嫌いな自由は、自由の基準がすでに違うからです。親に楯突く自由、老親を看取らない自由、職業につかないで親の財産を食いつぶす自由なんてのもあります。

gouzig
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 KoalaGoldさんの書かれた内容はその通りですね。 最近は「好きな人を追い回して家まで着いてくるのは自由」との勘違いが多いですね。これは親の教育の責任だと思います。 「自分の気持ちに正直になれ」はいいのですが、他人の気持ちにも配慮しなければなりませんね。 ストーカー事件を見ると家庭教育の大切さをしみじみ感じます。

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  • 150715
  • ベストアンサー率19% (841/4396)
回答No.1

>皆さんは自由という言葉や意味をどのように考えますか? おっしゃる通り、自由と責任はセットであるものと考えています。 物事にも限度があるように、「自由にしていい、自由でいろ」と言われようとも、100%何をしてもいいとはなりません。

gouzig
質問者

お礼

早速の回答ありがとうございました。 サイトから150715さんの回答の一部を削除したとの連絡がありました。 私はその内容は見てないのですが、ルール違反にならない範囲で回答の続きを聞きたいと思います。

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     《第三項排除――犠牲を作り出す――の理論》があります。  自分たちの集まりの中から 《異質〔と見なした​者〕を排除する》といううごめきについてです。  今村仁司が理論づけました。『排除の構造――力の一般​経済序説』(1992)です。    この理論とそして その中でイエス・キリストがその排除された第三項であるという見方 これらについて問います。    § 1 まづ人には《承認欲望》があると言います。  人は 存在としてまたその人びととの関係として 社会​的である。しかも主観は 独立した歴史知性であるゆえ ​自由な関係を希求する。しかもその自由の実現を 特に社​会集団としては まちがって追い求める傾向があると。  簡単に言うならば 集団の中の一人だけを例外つまり除​け者にして あとは互いにひとしく自由や平等をたのしむ​といった傾向であり むろん間違った道筋であるというも​のです。  一人ひとりは独立した主観であっても基本的に人間は ​社会関係的な存在であるからには 互いによる承認を喜ば​しいものとして受け取る。人からみとめてもらえれば う​れしい。そのときややもすると この承認を 自分から ​追い求めて行く傾向を持つ。たとえ一定の一人の人を除け​者にしてでも。・・・  § 2 承認欲望が 模倣欲望をうながす。  この承認欲望が衝動のごとくにさえおのれの身にはたら​くと 《みんなと同じでありたい願望》=《模倣欲望》を​持つ。みんなと同じであれば 安心するという習性。つま​り 承認されていると思うことがたやすくなる。  そしておそらく この模倣が世の中全般に行き届いた段​階でも その一様性つまりは《全員による同じ歌の大合唱​》という情況だけではまだ 相互の承認が完成したとは見​なさない。こういう気難しい一面もあると言う。  § 3 模倣欲望は 承認欲望が満たされていちど安心したの​もつかのま なおまだ不安が潜んでいるようなのだ。  そこで これなら安心しうるという一定の判定基準を持​とうとする。  この誰れにとっても見やすい共通の基準とな​るものが 《第三項》である。具体的には 《のけ者》と​言えば早い。  除け者を除け者とする同じひとつの態度を共有するなら もう何が来ても安心だということであるらしい。  § 4 第三項とは みんなから隅へ追いやられるものである​。  追いやられ仲間ではなくなるという意味で 第三項と称​される。  このときその〔小単位としての〕社会は 《一》対《他​の皆》という構図をつくる。《一》となった第三項は た​しかに《除け者》として扱われる。  つまりは第三項を皆で排除する構造が出来て初めて 人​としての互いの承認が実現するというわけだと言います。そうしてこそ​ 人びとは安心して 安定した《仲良し》状態となり 《秩​序》を楽しむと言うのだそうです。  このような傾向を人類は 悲しいかな 残念なことに持​っているのだと。  § 5 もっとも そもそもにおいて《自由》を前提していた​ように その自由への変身を人びとが成しうるとも説いて​います。  それは 第三項やあるいは《異者》の 受容をとおして​ わたしたちは獲得することができるとも言います。  また 模倣欲望を実行している最終の過程で その互いに互いを模倣するという《流行や ファッション》​の現象においてもその反面にはつねに起こると思われるように それつまり 《みんな​と違いたい願望》が これもじつは同時に はたらいてく​れるとよいし はたらくだろうと考えられてもいます。  非模倣ないし反模倣つまり みんなと違っていたいとい​う欲望 そしてそれと並んで 《異者》を受け容れるとい​う行為 これらによって 自由への変身を人びとは勝ち取​れる道はのこされると。  § 6 排除された第三項は 歴史的にキリスト・イエスであ​るとも言い あるいは 資本主義社会における貨幣のこと​であるとも論じていました。  第三項は それがいわば見事な排除であった場合には ​排除し切ったあとで ぎゃくにそれを人びとは《聖化》す​ると言います。  人びとからは呪われて去ったと見なされたその除け者を​ 今度は排除の成功のあとにはぎゃくに偉大な生け贄と見なし それに聖性を付与する。  それに​よって なお人びとは 安心するというその仕組みなのだと​。  つまり 十字架上に去って行った者を 絶対の聖者として こんどは一転して崇めるようになるのだと。  したがってつまり今度は 除け者の第三項を《聖なる第三項》として み​なであがめる。  このことを通して あらためて集団ないし​社会における秩序と安寧をたしかなものにするのだと。人びとは安心するということらしい。  たとえば菅原道真は 聡明で真面目な人間だったらしくしかもワケもなく左遷されたらしく  その死後には 天神様として生前における《のけ者の第三項》扱いが《聖なる神》としてまつられるというからくりであるらしい。    § 7 言いかえると イエス・キリストの事例に見られるような《​聖なる除け者(第三項)》といった扱いは これも まち​がいであると考えられるのに かなり有力なかたちで続けられる。  なぜならそこでは 死後に一たん評価がひるがえって《聖なる者》と見なされるようになったあとでは この《聖化》――つまりは そういう通念ないしクウキ――に対してもし否定するような動きがあったなら今度は​ あたかもすでに条件反射のごとくに 反動のチカラがは​たらくということらしい。  前からもうしろからも オモテからもウラからも 《第三項排除》の歴史は 完璧を期してつづけられる。  反動のチカラは 出る​杭を打つとなって現われる。つまりその――今度は 聖化されたイエスを悪く言うかたちで――新たに現われた異端分子を やはり第三項​と見なしてその排除にかかる。  異端分子が 人びとの《心の――じつはただうわべにおける心理的な――安心と安定のみなもと》としていだかれたキリストなる観念の共同に ただ否定的なだけではなく 真っ向から敵対するかたちとなり ひとつの勢力さえ形成してきたときには 当然のごとくそれを 単に除け者とする手段では間​に合わなくなれば 明らかに迫害や戦争にまでも発展させる。​ときに社会はこぞって容易に その戦争に飛びつくことができる。  § 8 《自由への変身》は 異者の受容によるか?  ひとりの偉大な《聖なる者》をいただくひとまとまりの社会​ これも じつは そのまま間違いである。  その《聖なる者》をいただくか否かで区分した規定じたいがすでに 除け者をみづから作ろうとしている。ただちに排除しようとして 異端分子の起きることを待ち構えている。  だから他方で《ひとと違っていたい》という欲望においては 外の異者を受け容れよと言うのであるが おそらくそれ​は――その今村理論に逆らってでも―― まだコトの本質には​迫っていないように思われる。(異者の受容そのことが わるいわけではない)。  内外の区別ということ自体が そしてそもそも《偉大な​る聖なる第三項》をいただくという方式じたいが どこま​でも除け者を作り出そうとする模倣および承認の欲望のな​せるわざである。世に言う《宗教》なるものの何たる自己欺瞞 !  § 9 どこまでも《話し合い》によるしかない。  模倣は 反模倣の動きがあるように 安心感のよりどこ​ろではない。承認されたいという欲望は おそらく強いの​であって 人間にとっては 或る種の仕方で根源的なものであるかも分か​らない。  ならば とことん互いに話し合うことではないだろうか​?  話し合いによるしか道はないのではないか?  仲間意識の感覚 あるいは それの判定の基準は あく​まで一人ひとりのこころにある。ここでは 《主観》が主​役である。あてにならないおのおのの主観が それでも 主役である。  ならば互いに だめでも話し合う。それでも話し合う。​いやでも話し合う。(ただし 待ったなしの障害があると​きには 別である。相手の状態が 話し合いに耐えない様​子であるなら しばらくは無理である)。気長に話し合う​。もっと話し合う。まだまだ話し合う。もういやというほ​ど話し合う。  自由なご批判をあおぎます。

  • ローマ教会の欺瞞は 信者の共犯。人類の連帯責任。

     組織宗教への批難です。  ○ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  イエスは 神の子キリストとして 自由勝手にハリツケになったのであるが――なぜなら おまえらのためにおれが自分の命に代えてその原罪をあがなってやる ありがたく思えなどと言うわけがない―― これをいけにえにされたのだと捉えて わざわざ後からその犠牲となったイエスを聖なるものとした。  これは 理論ないし思想としては ただのルサンチマンを煽る馬鹿げたものであり その欺瞞をただしいものとして押しつけるのは 或る種の犯罪行為である。そのオシツケに屈する人びとのよわさは やはり共犯である。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  この命題を問います。  《第三項排除――つまり第三項として犠牲を作り出すという内容――の理論》があります。  自分たちの集まりや社会の中から 《異質〔と見なした​者〕を排除する》といううごめきについてです。  今村仁司が理論づけました。『排除の構造――力の一般​経済序説』(1992)です。    この理論にもとづき イエス・キリストがその排除された第三項であるという見方 これを提出して問いの趣旨を説明します。    § 1 まづ人には《承認欲望》があると言う  人は 存在として人びととの関係において 社会​的である。  しかも主観は 独立した歴史知性であるゆえ ​自由な関係を希求する。  しかもその自由の実現を 特に社​会集団としては まちがって追い求める傾向もあると言う。  簡単に言うならば 集団の中の一人だけを例外つまり除​け者にして あとは互いにひとしく自由や平等をたのしむ​といった傾向であり むろんこれは 間違った道筋であるというも​のです。  一人ひとりは独立した主観であっても基本的に人間は ​社会関係的な存在であるからには 互いによる承認を喜ば​しいものとして受け取る。人からみとめてもらえれば う​れしい。そのときややもすると この承認を 自分から ​追い求めて行く傾向を持つ。たとえ誰か特定の一人の人をワルモノや除け​者にしてでも。・・・  § 2 承認欲望が 模倣欲望をうながす。  この承認欲望が衝動のごとくにさえおのれの身にはたら​くと 《みんなと同じでありたい願望》=《模倣欲望》を​持つ。みんなと同じであれば 安心するという習性。つま​り 承認されていると思うことがたやすくなる。  そしておそらく この模倣が世の中全般に行き届いた段​階でも その一様性つまりは《全員による同じ歌の大合唱​》という情況だけではまだ 相互の承認が完成したとは見​なさない。こういう気難しい一面もあると言う。  § 3 模倣欲望は 承認欲望が満たされていちど安心したの​もつかのま なおまだ不安が潜んでいるようなのだ。  そこで これなら安心だという一定の判定基準を持​とうとする。  この誰れにとっても見やすい共通の基準とな​るものが 《第三項》である。具体的には 《のけ者》と​言えば早い。  除け者を除け者とする同じひとつの態度を共有するなら もう何が来ても安心だということであるらしい。  § 4 第三項とは みんなから隅へ追いやられるものである​。  追いやられ仲間ではなくなるという意味で 第三項と称​される。  このときその〔小単位としての〕社会は 《一》対《他​の皆》という構図をつくる。《一》となった第三項は た​しかに《除け者》として扱われる。  つまりは第三項を皆で排除する構造が出来て初めて 人​としての互いの承認が実現するというわけだと言います。そうしてこそ​ 人びとは安心して 安定した《仲良し》状態となり 《秩​序》を楽しむと言うのだそうな。  このような傾向をじんるいは 悲しいかな 残念なことに持​っているのだと。  § 5 もっとも そもそもにおいて《自由》を前提していた​ように その自由への変身を人びとが成しうるとも説いて​います。  それは 第三項やあるいは《異者》の 受容をとおして​ わたしたちは獲得することができるとも言います。  また 模倣欲望を実行している最終の過程で その互いに互いを模倣するという《流行や ファッション》​の現象においてもその反面にはつねに起こると思われるように それつまり 《みんな​と違いたい願望》が これもじつは同時に はたらいてく​れるとよいし はたらくだろうと考えられてもいます。  非模倣ないし反模倣つまり みんなと違っていたいとい​う欲望 そしてそれと並んで 《異者》を受け容れるとい​う行為 これらによって 自由への変身を人びとは勝ち取​れる。その道はのこされている。  § 6 排除された第三項は 歴史的にキリスト・イエスであ​るとも言い あるいは 資本主義社会における貨幣のこと​であるとも論じていました。  第三項は それがいわば見事な排除であった場合には ​排除し切ったあとで ぎゃくにそれを人びとは《聖化》す​ると言います。  人びとからは呪われて去ったと見なされたその除け者を​ 今度は排除の成功のあとにはぎゃくに偉大な生け贄と見なし それに聖性を付与する。  それに​よって なお人びとは 安心するというその仕組みなのだと​。  つまり 十字架上に去って行った者を 絶対の聖者として こんどは一転して崇めるようになるのだと。  したがってつまり今度は 除け者の第三項を《聖なる第三項》として み​なであがめる。  このことを通して あらためて集団ないし​社会における秩序と安寧をたしかなものにするのだと。これで人びとは安心するということらしい。  たとえば菅原道真は 聡明で真面目な人間だったらしくしかもワケもなく左遷されたらしく  その死後には 天神様として生前における《のけ者の第三項》扱いが《聖なる神》としてまつられるという扱いに変わったという。そんなカラクリであるらしい。    § 7 言いかえると イエス・キリストの事例に見られるような《​聖なる除け者(第三項)》といった扱いは これも まち​がいであると考えられるのに かなり有力なかたちでその歴史が続く。  なぜならそこでは 死後にひるがえって評価を《聖なる者》と見なすようになったあとでは この《聖化》――つまりは そういう通念ないしクウキ――に対してもし否定するような動きがあったなら今度は​ あたかもすでに条件反射のごとくに 反動のチカラがは​たらくということらしい。  前からもうしろからも オモテからもウラからも 《第三項排除》の歴史は 完璧を期してつづけられる。  反動のチカラは 出る​杭を打つとなって現われる。つまりその――今度は 聖化されたイエスを悪く言うかたちで――新たに現われた異端分子を やはり第三項​と見なしてその排除にかかる。  異端分子が 人びとの《心の――じつはただうわべにおける心理的な――安心と安定のみなもと》としていだかれたキリストなる観念の共同に ただ否定的なだけではなく 真っ向から敵対するかたちとなり ひとつの勢力さえ形成してきたときには 当然のごとくそれを 単に除け者とする手段では間​に合わなくなれば 明らかに迫害や戦争にまでも発展させる。  ​ときに社会はこぞって容易に その戦争に飛びつくことがありうる。そのよわさは 共犯を構成する。  § 8 《自由への変身》は 異者の受容によるか?  ひとりの偉大な《聖なる者》をいただくひとまとまりの社会​ これも じつは そのまま間違いである。  その《聖なる者》をいただくか否かで区分した規定じたいがすでに 除け者をみづから作ろうとしている。ただちに排除しようとして 異端分子の起きることを待ち構えている。  だから他方で《ひとと違っていたい》という欲望においては 外の異者を受け容れよと言うのであるが おそらくそれ​は――その今村理論に逆らってでも―― まだコトの本質には​迫っていないように思われる。(異者の受容そのことが わるいわけではない)。  内外の区別ということ自体が そしてそもそも《偉大な​る聖なる第三項》をいただくという方式じたいが どこま​でも除け者を作り出そうとする模倣および承認の欲望のな​せるわざである。世に言う《宗教》なるものの為す何たる自己欺瞞 !  § 9 どこまでも《話し合い》によるしかない。  模倣は 反模倣の動きがあるように 安心感のよりどこ​ろではない。承認されたいという欲望は かなり強いらしく 人間にとっては 或る種の仕方で根源的なものであるかにさえ見える。  ならば とことん互いに話し合うことではないだろうか​?  話し合いによるしか道はないのではないか?  仲間意識の感覚 あるいは それの判定の基準は あく​まで一人ひとりのこころにある。ここでは 《主観》が主​役である。あてにならないおのおのの主観が それでも 主役である。  ならば互いに だめでも話し合う。それでも話し合う。​いやでも話し合う。(ただし 待ったなしの障害があると​きには 別である。相手の状態が 話し合いに耐えない様​子であるなら しばらくは無理である)。気長に話し合う​。もっと話し合う。まだまだ話し合う。もういやというほ​ど話し合う。  まづは ローマ教会の欺瞞について始めるのが 有効で有益ではないだろうか。

  • ローマ教会の欺瞞

     ○ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  イエスは 神の子キリストとして 自由勝手にハリツケになったのであるが――なぜなら おまえらのためにおれが自分の命に代えてその原罪をあがなってやる ありがたく思えなどと言うわけがない―― これをいけにえにされたのだと捉えて わざわざ後からその犠牲となったイエスを聖なるものとした。  これは 理論ないし思想としては ただのルサンチマンを煽る馬鹿げたものであり その欺瞞をただしいものとして押しつけるのは 或る種の犯罪行為である。そのオシツケに屈する人びとのよわさは やはり共犯である。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  この命題を問います。  《第三項排除――つまり第三項として犠牲を作り出すという内容――の理論》があります。  自分たちの集まりや社会の中から 《異質〔と見なした​者〕を排除する》といううごめきについてです。  今村仁司が理論づけました。『排除の構造――力の一般​経済序説』(1992)です。    この理論にもとづき イエス・キリストがその排除された第三項であるという見方 これを提出して問いの趣旨を説明します。    § 1 まづ人には《承認欲望》があると言う  人は 存在として人びととの関係において 社会​的である。  しかも主観は 独立した歴史知性であるゆえ ​自由な関係を希求する。  しかもその自由の実現を 特に社​会集団としては まちがって追い求める傾向もあると言う。  簡単に言うならば 集団の中の一人だけを例外つまり除​け者にして あとは互いにひとしく自由や平等をたのしむ​といった傾向であり むろん間違った道筋であるというも​のです。  一人ひとりは独立した主観であっても基本的に人間は ​社会関係的な存在であるからには 互いによる承認を喜ば​しいものとして受け取る。人からみとめてもらえれば う​れしい。そのときややもすると この承認を 自分から ​追い求めて行く傾向を持つ。たとえ誰か特定の一人の人をワルモノや除け​者にしてでも。・・・  § 2 承認欲望が 模倣欲望をうながす。  この承認欲望が衝動のごとくにさえおのれの身にはたら​くと 《みんなと同じでありたい願望》=《模倣欲望》を​持つ。みんなと同じであれば 安心するという習性。つま​り 承認されていると思うことがたやすくなる。  そしておそらく この模倣が世の中全般に行き届いた段​階でも その一様性つまりは《全員による同じ歌の大合唱​》という情況だけではまだ 相互の承認が完成したとは見​なさない。こういう気難しい一面もあると言う。  § 3 模倣欲望は 承認欲望が満たされていちど安心したの​もつかのま なおまだ不安が潜んでいるようなのだ。  そこで これなら安心だという一定の判定基準を持​とうとする。  この誰れにとっても見やすい共通の基準とな​るものが 《第三項》である。具体的には 《のけ者》と​言えば早い。  除け者を除け者とする同じひとつの態度を共有するなら もう何が来ても安心だということであるらしい。  § 4 第三項とは みんなから隅へ追いやられるものである​。  追いやられ仲間ではなくなるという意味で 第三項と称​される。  このときその〔小単位としての〕社会は 《一》対《他​の皆》という構図をつくる。《一》となった第三項は た​しかに《除け者》として扱われる。  つまりは第三項を皆で排除する構造が出来て初めて 人​としての互いの承認が実現するというわけだと言います。そうしてこそ​ 人びとは安心して 安定した《仲良し》状態となり 《秩​序》を楽しむと言うそうな。  このような傾向をじんるいは 悲しいかな 残念なことに持​っているのだと。  § 5 もっとも そもそもにおいて《自由》を前提していた​ように その自由への変身を人びとが成しうるとも説いて​います。  それは 第三項やあるいは《異者》の 受容をとおして​ わたしたちは獲得することができるとも言います。  また 模倣欲望を実行している最終の過程で その互いに互いを模倣するという《流行や ファッション》​の現象においてもその反面にはつねに起こると思われるように それつまり 《みんな​と違いたい願望》が これもじつは同時に はたらいてく​れるとよいし はたらくだろうと考えられてもいます。  非模倣ないし反模倣つまり みんなと違っていたいとい​う欲望 そしてそれと並んで 《異者》を受け容れるとい​う行為 これらによって 自由への変身を人びとは勝ち取​れる。その道はのこされている。  § 6 排除された第三項は 歴史的にキリスト・イエスであ​るとも言い あるいは 資本主義社会における貨幣のこと​であるとも論じていました。  第三項は それがいわば見事な排除であった場合には ​排除し切ったあとで ぎゃくにそれを人びとは《聖化》す​ると言います。  人びとからは呪われて去ったと見なされたその除け者を​ 今度は排除の成功のあとにはぎゃくに偉大な生け贄と見なし それに聖性を付与する。  それに​よって なお人びとは 安心するというその仕組みなのだと​。  つまり 十字架上に去って行った者を 絶対の聖者として こんどは一転して崇めるようになるのだと。  したがってつまり今度は 除け者の第三項を《聖なる第三項》として み​なであがめる。  このことを通して あらためて集団ないし​社会における秩序と安寧をたしかなものにするのだと。これで人びとは安心するということらしい。  たとえば菅原道真は 聡明で真面目な人間だったらしくしかもワケもなく左遷されたらしく  その死後には 天神様として生前における《のけ者の第三項》扱いが《聖なる神》としてまつられるという扱いに変わったという。そんなカラクリであるらしい。    § 7 言いかえると イエス・キリストの事例に見られるような《​聖なる除け者(第三項)》といった扱いは これも まち​がいであると考えられるのに かなり有力なかたちでその歴史が続く。  なぜならそこでは 死後にひるがえって評価を《聖なる者》と見なすようになったあとでは この《聖化》――つまりは そういう通念ないしクウキ――に対してもし否定するような動きがあったなら今度は​ あたかもすでに条件反射のごとくに 反動のチカラがは​たらくということらしい。  前からもうしろからも オモテからもウラからも 《第三項排除》の歴史は 完璧を期してつづけられる。  反動のチカラは 出る​杭を打つとなって現われる。つまりその――今度は 聖化されたイエスを悪く言うかたちで――新たに現われた異端分子を やはり第三項​と見なしてその排除にかかる。  異端分子が 人びとの《心の――じつはただうわべにおける心理的な――安心と安定のみなもと》としていだかれたキリストなる観念の共同に ただ否定的なだけではなく 真っ向から敵対するかたちとなり ひとつの勢力さえ形成してきたときには 当然のごとくそれを 単に除け者とする手段では間​に合わなくなれば 明らかに迫害や戦争にまでも発展させる。  ​ときに社会はこぞって容易に その戦争に飛びつくことがありうる。そのよわさは 共犯を構成する。  § 8 《自由への変身》は 異者の受容によるか?  ひとりの偉大な《聖なる者》をいただくひとまとまりの社会​ これも じつは そのまま間違いである。  その《聖なる者》をいただくか否かで区分した規定じたいがすでに 除け者をみづから作ろうとしている。ただちに排除しようとして 異端分子の起きることを待ち構えている。  だから他方で《ひとと違っていたい》という欲望においては 外の異者を受け容れよと言うのであるが おそらくそれ​は――その今村理論に逆らってでも―― まだコトの本質には​迫っていないように思われる。(異者の受容そのことが わるいわけではない)。  内外の区別ということ自体が そしてそもそも《偉大な​る聖なる第三項》をいただくという方式じたいが どこま​でも除け者を作り出そうとする模倣および承認の欲望のな​せるわざである。世に言う《宗教》なるものの為す何たる自己欺瞞 !  § 9 どこまでも《話し合い》によるしかない。  模倣は 反模倣の動きがあるように 安心感のよりどこ​ろではない。承認されたいという欲望は かなり強いらしく 人間にとっては 或る種の仕方で根源的なものであるかにさえ見える。  ならば とことん互いに話し合うことではないだろうか​?  話し合いによるしか道はないのではないか?  仲間意識の感覚 あるいは それの判定の基準は あく​まで一人ひとりのこころにある。ここでは 《主観》が主​役である。あてにならないおのおのの主観が それでも 主役である。  ならば互いに だめでも話し合う。それでも話し合う。​いやでも話し合う。(ただし 待ったなしの障害があると​きには 別である。相手の状態が 話し合いに耐えない様​子であるなら しばらくは無理である)。気長に話し合う​。もっと話し合う。まだまだ話し合う。もういやというほ​ど話し合う。  まづは ローマ教会の欺瞞について始めるのが 有効で有益ではないだろうか。

  • ローマ教会の低俗性

     組織宗教への批難をつづけます。  ○ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  イエスは 神の子キリストとして 自由勝手にハリツケになったのであるが――なぜなら おまえらのためにおれが自分の命に代えてその原罪をあがなってやる ありがたく思えなどと言うわけがない―― これをいけにえにされたのだと捉えて わざわざ後からその犠牲となったイエスを聖なるものとした。  これは 理論ないし思想としては ただのルサンチマンを煽る馬鹿げたものであり その欺瞞をただしいものとして押しつけるのは 或る種の犯罪行為である。そのオシツケに屈する人びとのよわさは やはり共犯である。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  この命題を問います。  《第三項排除――つまり第三項として犠牲を作り出すという内容――の理論》があります。  自分たちの集まりや社会の中から 《異質〔と見なした​者〕を排除する》といううごめきについてです。  今村仁司が理論づけました。『排除の構造――力の一般​経済序説』(1992)です。    この理論にもとづき イエス・キリストがその排除された第三項であるという見方 これを提出して問いの趣旨を説明します。    § 1 まづ人には《承認欲望》があると言う  人は 存在として人びととの関係において 社会​的である。  しかも主観は 独立した歴史知性であるゆえ ​自由な関係を希求する。  しかもその自由の実現を 特に社​会集団としては まちがって追い求める傾向もあると言う。  簡単に言うならば 集団の中の一人だけを例外つまり除​け者にして あとは互いにひとしく自由や平等をたのしむ​といった傾向であり むろんこれは 間違った道筋であるというも​のです。  一人ひとりは独立した主観であっても基本的に人間は ​社会関係的な存在であるからには 互いによる承認を喜ば​しいものとして受け取る。人からみとめてもらえれば う​れしい。そのときややもすると この承認を 自分から ​追い求めて行く傾向を持つ。たとえ誰か特定の一人の人をワルモノや除け​者にしてでも。・・・  § 2 承認欲望が 模倣欲望をうながす。  この承認欲望が衝動のごとくにさえおのれの身にはたら​くと 《みんなと同じでありたい願望》=《模倣欲望》を​持つ。みんなと同じであれば 安心するという習性。つま​り 承認されていると思うことがたやすくなる。  そしておそらく この模倣が世の中全般に行き届いた段​階でも その一様性つまりは《全員による同じ歌の大合唱​》という情況だけではまだ 相互の承認が完成したとは見​なさない。こういう気難しい一面もあると言う。  § 3 模倣欲望は 承認欲望が満たされていちど安心したの​もつかのま なおまだ不安が潜んでいるようなのだ。  そこで これなら安心だという一定の判定基準を持​とうとする。  この誰れにとっても見やすい共通の基準とな​るものが 《第三項》である。具体的には 《のけ者》と​言えば早い。  除け者を除け者とする同じひとつの態度を共有するなら もう何が来ても安心だということであるらしい。  § 4 第三項とは みんなから隅へ追いやられるものである​。  追いやられ仲間ではなくなるという意味で 第三項と称​される。  このときその〔小単位としての〕社会は 《一》対《他​の皆》という構図をつくる。《一》となった第三項は た​しかに《除け者》として扱われる。  つまりは第三項を皆で排除する構造が出来て初めて 人​としての互いの承認が実現するというわけだと言います。そうしてこそ​ 人びとは安心して 安定した《仲良し》状態となり 《秩​序》を楽しむと言うのだそうな。  このような傾向をじんるいは 悲しいかな 残念なことに持​っているのだと。  § 5 もっとも そもそもにおいて《自由》を前提していた​ように その自由への変身を人びとが成しうるとも説いて​います。  それは 第三項やあるいは《異者》の 受容をとおして​ わたしたちは獲得することができるとも言います。  また 模倣欲望を実行している最終の過程で その互いに互いを模倣するという《流行や ファッション》​の現象においてもその反面にはつねに起こると思われるように それつまり 《みんな​と違いたい願望》が これもじつは同時に はたらいてく​れるとよいし はたらくだろうと考えられてもいます。  非模倣ないし反模倣つまり みんなと違っていたいとい​う欲望 そしてそれと並んで 《異者》を受け容れるとい​う行為 これらによって 自由への変身を人びとは勝ち取​れる。その道はのこされている。  § 6 排除された第三項は 歴史的にキリスト・イエスであ​るとも言い あるいは 資本主義社会における貨幣のこと​であるとも論じていました。  第三項は それがいわば見事な排除であった場合には ​排除し切ったあとで ぎゃくにそれを人びとは《聖化》す​ると言います。  人びとからは呪われて去ったと見なされたその除け者を​ 今度は排除の成功のあとにはぎゃくに偉大な生け贄と見なし それに聖性を付与する。  それに​よって なお人びとは 安心するというその仕組みなのだと​。  つまり 十字架上に去って行った者を 絶対の聖者として こんどは一転して崇めるようになるのだと。  したがってつまり今度は 除け者の第三項を《聖なる第三項》として み​なであがめる。  このことを通して あらためて集団ないし​社会における秩序と安寧をたしかなものにするのだと。これで人びとは安心するということらしい。  たとえば菅原道真は 聡明で真面目な人間だったらしくしかもワケもなく左遷されたらしく  その死後には 天神様として生前における《のけ者の第三項》扱いが《聖なる神》としてまつられるという扱いに変わったという。そんなカラクリであるらしい。    § 7 言いかえると イエス・キリストの事例に見られるような《​聖なる除け者(第三項)》といった扱いは これも まち​がいであると考えられるのに かなり有力なかたちでその歴史が続く。  なぜならそこでは 死後にひるがえって評価を《聖なる者》と見なすようになったあとでは この《聖化》――つまりは そういう通念ないしクウキ――に対してもし否定するような動きがあったなら今度は​ あたかもすでに条件反射のごとくに 反動のチカラがは​たらくということらしい。  前からもうしろからも オモテからもウラからも 《第三項排除》の歴史は 完璧を期してつづけられる。  反動のチカラは 出る​杭を打つとなって現われる。つまりその――今度は 聖化されたイエスを悪く言うかたちで――新たに現われた異端分子を やはり第三項​と見なしてその排除にかかる。  異端分子が 人びとの《心の――じつはただうわべにおける心理的な――安心と安定のみなもと》としていだかれたキリストなる観念の共同に ただ否定的なだけではなく 真っ向から敵対するかたちとなり ひとつの勢力さえ形成してきたときには 当然のごとくそれを 単に除け者とする手段では間​に合わなくなれば 明らかに迫害や戦争にまでも発展させる。  ​ときに社会はこぞって容易に その戦争に飛びつくことがありうる。そのよわさは 共犯を構成する。  § 8 《自由への変身》は 異者の受容によるか?  ひとりの偉大な《聖なる者》をいただくひとまとまりの社会​ これも じつは そのまま間違いである。  その《聖なる者》をいただくか否かで区分した規定じたいがすでに 除け者をみづから作ろうとしている。ただちに排除しようとして 異端分子の起きることを待ち構えている。  だから他方で《ひとと違っていたい》という欲望においては 外の異者を受け容れよと言うのであるが おそらくそれ​は――その今村理論に逆らってでも―― まだコトの本質には​迫っていないように思われる。(異者の受容そのことが わるいわけではない)。  内外の区別ということ自体が そしてそもそも《偉大な​る聖なる第三項》をいただくという方式じたいが どこま​でも除け者を作り出そうとする模倣および承認の欲望のな​せるわざである。世に言う《宗教》なるものの為す何たる自己欺瞞 !  § 9 どこまでも《話し合い》によるしかない。  模倣は 反模倣の動きがあるように 安心感のよりどこ​ろではない。承認されたいという欲望は かなり強いらしく 人間にとっては 或る種の仕方で根源的なものであるかにさえ見える。  ならば とことん互いに話し合うことではないだろうか​?  話し合いによるしか道はないのではないか?  仲間意識の感覚 あるいは それの判定の基準は あく​まで一人ひとりのこころにある。ここでは 《主観》が主​役である。あてにならないおのおのの主観が それでも 主役である。  ならば互いに だめでも話し合う。それでも話し合う。​いやでも話し合う。(ただし 待ったなしの障害があると​きには 別である。相手の状態が 話し合いに耐えない様​子であるなら しばらくは無理である)。気長に話し合う​。もっと話し合う。まだまだ話し合う。もういやというほ​ど話し合う。  まづは ローマ教会の欺瞞について始めるのが 有効で有益ではないだろうか。