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国旗「日の丸」が一般民衆に周知されたのは。

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回答No.7

再々度、追加投稿失礼致しますm(_"_)m 焦点の絞れない=纏まりのない断片情報の垂れ流しの連続投稿に、 苦虫を噛み潰していらっしゃるかもしれませんが、 おぼろ気ながら私なりに輪郭が見えてきたように思います^^ >例えば明治政府は、積極的に「日の丸」を国民に周知徹底したのですか。 少なくとも明治前期は積極的とまでは言えず、 一部の府県(ただし、当時は中央政府の地方出先機関の位置付け)からの「伺」に対し、 一般人には祝祭日など限定的に「日の丸」使用を差許=許可する「達」を出した程度。 また、No.6投稿のとおり開港場県庁の掲揚も5年余りで廃止と消極的。 明治中期に至り大日本帝国憲法の発布(明治22<1889>年2月11日)、施行(同23<'90>年11月29日)と 国家体制が確立される最中、相前後して第二次小学校令(同23<'90>年10月7日勅令第215号、 地方の学校設置義務規定=義務教育化)、 第1回帝国議会開催直前の同23<'90>年10月30日 教育勅語発布、検定教科書「修身」の流れとなるものの、 No.5投稿のとおり「文部省令第四號(明治24<'91>年6月17日)/小學校祝日大祭日儀式規程」中、「御(真)影最敬礼・萬歳奉祝」「唱歌」は有れど「日の丸」記載無し。 明治後期になって、No.4投稿のとおり「明治37年<'1904>4月からの教科書国定制度導入以後は、 教科に関わらず日章旗の項目が顕著な様子が伺えます」が、 これも教科書の中・後半部の記述にとどまったりもします。(※後述、例外もありますが) 教科書内で明らかな変化=積極性が伺われるのは、日の丸の旗から始まる 第二期(明治43<'1910>年~)国定教科書『尋常小学読本』(「ハタタコ」読本) <5/8> からかも知れません。 http://libdspace.biwako.shiga-u.ac.jp/dspace/bitstream/10441/393/4/%E8%BF%91%E4%BB%A3%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E6%95%99%E7%A7%91%E6%9B%B8%E3%81%AE%E6%AD%A9%E3%81%BF%E3%80%80%E5%9B%BD%E8%AA%9E.pdf あとは、No.6投稿の「大正13年の次官会議の答申によって内務大臣官房より各県知事宛に 祝日大祭日の国旗掲揚の通牒」に伴う「官公庁の国旗掲揚」までは、どうやら確かだとしても、 『「君が代起立条例」について/神原敬夫』氏の見解 「明治期に、校門に国旗を掲げた学校もあったが、官公庁が国旗を掲げないので、 全国的にはほとんど掲げなかったと想像できる。」との想像部分は、 No.4投稿の『尋常小学修身書.第2学年用/文部省編/熊谷久栄堂[ほか]/明37.1』の 「祝祭日には、學校にても、家家にても、皆この日の丸の旗を立つ。」の記述と相反するため、 再検討を要します。 なお、〇『新聞集成明治編年史. 第七卷 /新聞集成明治編年史編纂会 編/林泉社/1940.9』 明治二十二年二月(皇紀2549/西暦1889) ・<137/302>(219頁) 4段目 〔二・八、讀賣〕國旗が品切れ http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920380/137 などからは、政府よりも一般人側の積極性が伺えます。 >明治時代、小学校で「日の丸」を教えていましたか。 No.4投稿で「明治20年代は日章旗にはあまり触れられず、 明治30年代に入ると一部には日章旗の項目が有る反面、触れられないものも多数」とカキコミ、 また前記のとおり、教育勅語発布、検定教科書「修身」の流れとなるものの、 「文部省令第四號(明治24<'91>年6月17日)/小學校祝日大祭日儀式規程」中、 「御(真)影最敬礼・萬歳奉祝」「唱歌」は有れど「日の丸」記載無しとしましたが、 改めて近代デジタルライブラリーにてキーワード「修身」→「1890~1899」の433件の一部を 確認しましたところ、修身限定で限られた範囲に過ぎませんので断定は出来ませんが、 また見落としの可能性も残りますが、明治28年9月の下記修身訓では本文項目には無いものの 巻頭で日の丸・旭日旗が描かれています。 〇『尋常修身訓. 巻1/文学社編輯所編/文学社/明28.9』 http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/757286/3 明治30年代になりますと、No.4投稿既出分など以外にも、 〇『教授細目/静岡県田方郡第二区小学校長会 編/静岡県田方郡第二区小学校長会/明31.9』 http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/810014/11 ・ 脩身科(1~54頁) 〇第一學年第三小期 <11/137>(15頁下段)第五週 大祭祝日ノ心得…「一 大祭祝日ニハ國旗ヲ軒ニ掲クヘキコト」の記述が見出せ、 また下記では巻頭本文で「日の丸のはた」が図柄とともに記述されています。 〇『新編修身教典:尋常小學校用.巻3/普及舎編輯所編/普及舎/1900(※明治33).12』 http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1874146/3 検定教科書時代ゆえ、一つで全ては語れませんが、遅くとも明治30年代には 修身の本文内で「日の丸」項目が設けられる傾向にあったとともに、 既出『尋常小学修身書.第2学年用/文部省編/熊谷久栄堂[ほか]/明37.1』のとおり 学校でも「日の丸」掲揚の傾向にあったことが推認出来ます。 >国旗「日の丸」が一般民衆に周知されたのは。 No.4投稿のとおり都市部では東京府下など早いところで明治6年前後、 また皇室の行幸、行啓などにともなう各地での催事などを通して、 ・『明治天皇行幸年表/明治天皇聖蹟保存会編/大行堂/昭和8』 http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1121017/8 地方部でも遅くとも明治10年代には相当程度には周知されていたものと考えられます。 ただし、当時の行幸・行啓での一般人側の対応は敬礼と定めれていましたから、 「日の丸」の掲揚・飾付は有り得ても、兵士の送別などと違い手持ちの小旗などは 考えられません。 あと残された問題は僻地・寒村… 地縁団体の村組の情報伝達とか、明治10年後半から地域毎、全国的に発足したとされる 「徴兵慰労会(※名称は多様)」とかを掘り下げれば、 義務教育化以前の「日の丸」周知状況がより分かるかもしれませんが、 これ以上手を広げても収拾がつかなくなるかもしれません(><) (何しろ私は研究者ではなく、ただのド素人ですから^^) よって誠に勝手ながら以下は学校関連にとどめたいと思います。 教科書から少し離れて、学校行事で真っ先に思いつくのは運動会ですが、 …僻地・寒村とまでは言えず、また尋常高等小学校の例ですが…下記によれば ・「近代日本農村の初等教育事情:広島県賀茂郡下黒瀬村の事例/梶井一暁」 『鳴門教育大学研究紀要.教育科学編18/2003-03-07』(13-29頁) http://ci.nii.ac.jp/naid/110000954623 <10~/17> 参考資料 下黒瀬尋常高等小学校沿革 の「学校レベル」欄(※表右側)には、 「明治22<1889>2.11/憲法発布大典奉祝」「明治22<1889>11.3/皇太子宣下式奉祝」 「明治27<1894>3.9/天皇成婚25周年奉祝」などの皇室関連行事も行われ、 また、「国・県・郡・その他レベル」欄(※左側)には、 「明治26<1893>1.10/小学校祝日・大祭日参拝者心得」と児童・生徒以外の参拝も想定、 限られた断片情報とは言え、東京など都市部だけでなく、 地方部でも「憲法発布大典奉祝」等が学校で挙行されていた事実が浮かびます。 児童・生徒以外の参加者構成の問題が残りますが、仮に不参加でも口コミで情報は得られかと。肝心の「日の丸」は?と問われれば、さすがに明治20年代に至れば、 学校関係者等であれば、明治5・6年頃からの都市部の状況は認識していたと思われます結果、 通常の祝祭日の掲揚の有無は別にしても、 催事それも皇室関連となれば「日の丸」掲揚・飾付はあった考える方が自然です。 (都合の良すぎる解釈でしょうか?) 上記のように(都合良く)考えれば、単発的とはいえ何度も挙行されたであろう学校での催事、 また徐々に増加に向かったであろう通常の祝祭日の学校での「日の丸」掲揚を思えば、 教科書掲載の有無、就学率などとは関係なく、 地域住民であれば直接・間接の見聞には、さほど時間は要しなかったと思われますので、 たとえ僻地・寒村の情報弱者でも、遅くとも明治23年の義務教育化以降の数年内には 「日の丸」を認知し得たのではないかと考えます。 断片情報の垂れ流し量のわりには、何とも中味の薄い回答となりましたので、 ツッコミどころ満載ですが^^)現状で纏めるならこれが精一杯です(><) 以上 少しでも疑問解消の糸口に繋がれば幸いです^^

kouki-koureisya
質問者

お礼

丁寧に纏めて下さってありがとうございます。 助かりました。 疑問1.例えば明治政府は、積極的に「日の丸」を国民に周知徹底したのですか。 よく解りました。 >『「君が代起立条例」について/神原敬夫』氏の見解 >「明治期に、校門に国旗を掲げた学校もあったが、官公庁が国旗を掲げないので、 >全国的にはほとんど掲げなかったと想像できる。」との想像部分は、 >No.4投稿の『尋常小学修身書.第2学年用/文部省編/熊谷久栄堂[ほか]/明37.1』の「祝祭日には、學校にても、家家にても、皆この日の丸の旗を立つ。」の記述と相反するため、再検討を要します。 再検討を要するという個所についてですが、 本文は、「天長節紀元節等の祝祭日には、學校にても、家家にても、皆この日の丸の旗を立つ。」となっており、祝祭日だけ掲揚し、平日には降ろしていると解釈できます。 これでいいのではないでしょうか。 国旗・日の丸は、大切に扱うものですから、毎日揚げていると変色し、傷みますから。 わが家でも明治生まれの父が居たころは、朝飾り、日没とともに仕舞っていました。 この20年ほどは、近所で国旗を揚げている家はないですね。 次に、下記の「日の丸記載無し」についてですが >明治中期に至り大日本帝国憲法の発布(明治22<1889>年2月11日)、施行(同23<'90>年11月29日)と国家体制が確立される最中、相前後して第二次小学校令(同23<'90>年10月7日 >勅令第215号、地方の学校設置義務規定=義務教育化)、 第1回帝国議会開催直前の同23<'90>年10月30日教育勅語発布、検定教科書「修身」の流れとなるものの、 >No.5投稿のとおり「文部省令第四號(明治24<'91>年6月17日)/小學校祝祝日大祭日儀式規程」中、「御(真)影最敬礼・萬歳奉祝」「唱歌」は有れど「日の丸」記載無し。 これは「儀式次第」についての規定ですから、「日の丸に敬礼」という儀式がなくても「御(真)影最敬礼・萬歳奉祝」で十分であると、決めたのでしょう。 御真影と国旗とでは、御真影が上位になると思います。 それに、国旗は、原則論で言えば屋外に掲揚または立てるものでしょう。 この省令には式場内部の設営についての指示はありませんから「日の丸記載無し」でも違和感はありません。 私は、「福井県史」をよく参考にしていますが、学校儀式について書かれています。 福井県史 通史編5 近現代一  第二章 日清・日露戦争と県民 第三節 明治後期の教育・社会 一 国家主義教育の推進 学校儀式の変容 http://www.archives.pref.fukui.jp/fukui/07/kenshi/T5/T5-2-01-03-01-02.htm 学校における天皇礼拝儀式の開始は、直接には、二十三年ころからの「御真影」(天皇の肖像写真)の下付と「教育勅語」の発布を契機とするが、こうした儀式が普及する背景として、十年代の学校儀式の様相をみておこう。  十年代の開校式・卒業式などの学校儀式は、『福井新聞』でみるかぎり、また、すでに他県の事例で指摘されているとおり、一定の様式をもっていた(山本信良・今野敏彦『近代教育の天皇制イデオロギー』)。たとえば、丹生郡下氏家村の知新小学校の開校式の会場配置は、玄関に「御国旗二旒」「式場には御真影を懸け、神酒神饌を供し奉り、中央に大案を居え、上に紅氈を敷き、横に白布を垂れ、一瓶の叢花」がおかれた。郡長・郡書記・県会議員・戸長・父兄らが参観し、式後には祝宴が開かれていた(明16・10・17)。ここでは式場に「御真影」が掲げられていたが、これは、当時さまざまなかたちで流布していた天皇の肖像画と考えられる。 疑問2.明治時代、小学校で「日の丸」を教えていましたか。 よく解りました。 疑問3.国旗「日の丸」が一般民衆に周知されたのは。 都市部では早くから、地方ではそれよりも遅れて、そして地域によって“周知”に差があると予測していました。 >都市部では東京府下など早いところで明治6年前後、 >また皇室の行幸、行啓などにともなう各地での催事などを通して、地方部でも遅くとも明治10年代には相当程度には周知されていたものと考えられます。 この結果(まとめ)で私は十分です。 明治政府は、天皇と日の丸をセットで浸透させていったのですね。 >あと残された問題は僻地・寒村… >地縁団体の村組の情報伝達とか、明治10年後半から地域毎、全国的に発足したとされる >「徴兵慰労会(※名称は多様)」とかを掘り下げれば、義務教育化以前の「日の丸」周知状況がより分かるかもしれませんが、これ以上手を広げても収拾がつかなくなるかもしれません。 確かにそうですね。 都会の様子はかなり分かりますが、僻地・寒村のことは資料も少ないでしょう。 勝手な言い分ですが、調べる過程に意義があると思います。 断片的であっても新聞記事は面白いです。 記事から想像すれば結構楽しいです。 お陰さまで多くの新事実を知ることができました。感謝申し上げます。

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