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国旗「日の丸」が一般民衆に周知されたのは。

dayoneの回答

  • dayone
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回答No.5

追加投稿、失礼致しますm(_"_)m 「明治五(1872)年九月十二日~明治22(1889)年2月11日」の間の調査に着手しました^^ 下記『新聞集成明治編年史.第二卷』(※明治6年1月~9年6月)の、 明治六年十一月〔一一・二、東京日日〕記事、同〔一一・…、新聞雜誌一六二〕記事などから、 明治六年時点では、少なくとも東京府下では概ね周知されていたと言えそうですが、 一方、明治七年二月〔二・九、郵便報知〕記事では、 筑摩縣の僻地寒村に至っては周知されていなかったように記述されています。 ただ、ここで一つの疑問が生じるのですが、 明治九年三月〔三・二三、東京曙〕「布告の速達配布」記事は東京府下の事ではありますが、 布告を知らなかった云々と、 隣組が組織されるのは戦意体制下の1940年とは言え、 江戸期の五人組とまでは言わないまでも、地域毎のいわゆる「組」組織は明治期になっても ある程度は機能していたのではないかと思うのですが… 出入りの激しい町場ならば隣近所は誰か知らないは有り得ても、 逆に僻地寒村などでは従来の村組のネットワークは機能していたのではないかと… 私の個人的な疑問はさておきまして、僻地寒村の周知に関しましては、 新聞記事からだけでは限界があります。 やはり官公庁、学校関連が近道かも知れませんね^^ たとえば、『法令全書.明治5年/内閣官報局/明22.1』 http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/787952/282 <282/768>(450・451頁) 明治五壬申年三月 太政官(無號) 〇三月二十八日(達) 自今開港場縣庁ヘ國旗ヲ可揭事 但祝日ハ大旗平日ハ中旗ヲ可用事 などは直ぐに見つかるのですが、後が続きません。 「明治二十七年(1894)には、官庁が祝祭日に国旗を掲揚することを次官会議で決定し、 学校でもこれに倣うことになった。」とのWEB情報も散見されますが、 現時点では裏付けがとれておりません。 また、「わが国の国旗・国歌の歴史的意義とその法的位置づけ/大西斎」 http://ir.library.osaka-u.ac.jp/dspace/bitstream/11094/10124/1/25-6_n.pdf 2 わが国の国旗・国歌の歴史と意義/(3)学校での国旗・国歌に関する教育の経緯 <5/15>部分を読んでみましたが、ハッキリしません。 ・『官報 第二千三百八十八號/明治二十四年六月十七日』 「文部省令第四號/小學校祝日大祭日儀式規程」 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2945650/1 でも日章旗との関連付けはありません。 またまた課題を残したままで申し訳ありませんが、 少しでも疑問解消の糸口に繋がれば幸い^^ 余談:某独り言コーナーの超難問と比べれば、 こちらの方が楽なので逃避してきました^^ あちらは賢者の方の御登場・再登場に期待したいと思いますm(_"_)m 以下参考URL 〇『新聞集成明治編年史.第一卷/新聞集成明治編年史編纂会編/林泉社/1936.10』 明治五年九月(皇紀2532/西暦1872) ・<275/295>(489頁) 〔九・…、郵便報知一八附〕 2・3段目画像 日章旗点在 http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920323/275 ・<276/295>(490頁) ※上記の続き 2・3段目画像 不鮮明も左側日章旗らしき旗横列 http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920323/276 〇『新聞集成明治編年史.第二卷/新聞集成明治編年史編纂会編/林泉社/1940.11』 (※明治6年1月~9年6月) 明治六年二月(皇紀2533/西暦1873) ・<34/317>(18頁) 5段目 〔二・…、新聞心得草六〕  http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920332/34 國籏揭揚を奬勵せよ 洋行歸朝人の雜話○歐米諸洲にては、國家の大禮日或は海外珍客の馳走等に諸人各門戸に 其國旗章を揭げて之を祝するなり。吾國にも當一月廿九日神武天皇御卽位日には、 市井稀れに日の丸の旗を戸口に揭げたり、後は市中一般同様に旗章を揭げて祝し奉る様、 各戸長より説諭ありたきことなり。 明治六年六月 ・<36/317>(48頁) 5段目 〔六・一三、郵便報知〕 http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920332/49 日の丸の濫用嚴禁 お祭の軒提燈にも日の丸使用は不可 番外第四十六號〔市在區々戸長へ〕 御祭典等の節、日章御國旗相揭候儀は差許置候處、市在諸祭日に付、 日章軒提灯等差出候向も有之哉に相聞へ不都合の事に候。 以後右様猥に日章相印候儀不相成候條、區々扱所に於て厚く注意可致事。 明治六年六月十二日 東京府知事 大久保一翁 明治六年十月 ・<65/317>(80頁) 3・4段目 〔一〇・一七、日新眞事誌〕 http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920332/65 第三百四十四號○年中祭リ祝日等ノ休暇日左ノ通候條、此旨布告候事 明治六年十月十四日 太政大臣 三條實美 (後略) 明治六年十一月 ・<67/317>(85頁) 4段目 〔一一・二、東京日日〕 http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920332/67 天長節は御祭禮にあらず 明三日天長節に付、府下一般門には旗章を揚げ擧て之を祝せり。 去年迄は思ひ思ひにて出すもあり、出さゞるもありしが、 本年に至りては横町小路の別なきに至る。…(後略) 明治六年十一月 ・<70/317>(91頁) 1・2段目 〔一一・…、新聞雜誌一六二〕 http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920332/70 天長節を辨へざる者あり 天長節ハ恐コクモ聖上ノ御誕辰ナレバ、此日ノ本邦率土ノ濱ニ至ル迄、 萬民業ヲ休ミ、軒毎ニ日章旗ヲ揭ゲ、正衣ヲ着ケ、酒筵ヲ設ケ、老若男女打集リ、 上ハ天長無窮ヲ賀シ、下ハ我身聖恩ニ沐浴スルヲ感佩シ奉ルベキニ、…(後略) 明治六年十二月 ・<74/317>(98頁) 2・3段目 〔一二・二六、東京日日〕 http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920332/74 海軍旗章 増補更正 第百四十六號 (中略) 明治六年十二月廿四日 右大臣 岩倉具視 明治七年二月(皇紀2534/西暦1874) ・<86/317>(123頁) 1・2段目 〔二・九、郵便報知〕 http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920332/86 旗日布告畫とき 國旗を製して戸毎にくばる 聖上の威德を光昭するに、祝祭より大なるはなし、然るに僻地寒村に至りては舊態を存し、 往々右御祝祭日を知らざる者も有り、啻(※ただ)に布告のみにては細民了解しがたきものにして、 之を諭すに形を以てし、之を諭すに畫を以てす、 筑摩縣官員意を爰に止め、豫て許可を得て日章國旗を製し、(中略) 本年第一月一日戸々樹て並べ、萬竿空を指し、旗畫朝暾に映じ、 其旗影を被て人民正を賀し、戸々萬萬歳を唱したりといふ。 明治七年十一月 ・<138/317>(226頁) 4・5段目 〔一一・四、郵便報知〕 http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920332/138 國旗揭揚日 番外〔市在區々長戸長へ〕 御祝日等の節下方申合にて、毎戸軒先へ御國旗の雛形を相揭候儀は差許置候處、 右定日は昨六年太政官第三百四十四號御布告に基き、 左の御祭日御祝日に限り候儀と可相心得、此旨一般へ可相達候事。(後略) 明治八年一月(皇紀2535/西暦1875) ・<157/317>(265頁) 1段目 〔一・五、東京日日〕 http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920332/157 淺黃地や紫地で 妙な日の丸の旗 (後略) 明治八年九月 ・<223/317>(397頁) 4・5段目 〔九・一八、東京日日〕 http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920332/223 國旗揭揚不徹底 (後略) 明治九年三月(皇紀2536/西暦1876) ・<277/317>(505頁) 2段目 〔三・二三、東京曙〕 http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920332/277 布告の速達配布 (中略) 是では今迄のやうには御布告を見た事も無く しらずしらず違令になるやうな事はありますまい。(日日新聞) 明治九年六月 ・<301/317>(552頁) 1・2段目 〔六・五、東京曙〕 http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920332/301 草加宿で 田植天覽 (中略) 同宿にては毎戸の軒先に日章の國旗を揭げ、同じ提灯を燈したる景況にも 人民の喜悦思ひ知るべきことにこそ。(後略) ・<301/317>(552頁) 3・4段目 〔六・六、東京曙〕 道に御輦を留めさせられ 今日も田植を天覽 (中略) 御道筋へ拝見の老少男女群集し、 毎戸日章の旗を揭げしはいづれの宿驛もかはることなし。

kouki-koureisya
質問者

お礼

いつも的確な情報を教えて下さって誠にありがとうございます。 今回もこれだけ多くの有意義な情報を頂いたのですから、きちんと纏めなければdayone様に申し訳ないと思っています。 ところが『新聞集成明治編年史』が面白くて寄り道ばかりしていたものですから、お礼を申し上げるのが遅くなってしまいました。 私の質問は、「村の隅々まで、子どもでもたいてい知っているようになったのは、いつ頃からですか」ということですが、この質問は、大人は知っていることを前提としていました。 まず、この前提の間違いに気付きました。 子どもは学校で教わって日の丸を知っていたが、農山漁村に暮らす大人たちは、子どもから聞いたのではないか、あるいは村役場で日の丸を見る機会よりも近くの学校の行事で日の丸を見たことの方が多いのではないか、と思いつきました。 もちろん、dayone様の回答を読んでのことですが。 そのように考えていた矢先に#6のご回答が来ました。 まだ情報を整理しきれず、答えを出していないのですが、子どもたちに焦点を合わせてみようと、次の資料に注目しました。 〇『尋常小学修身教本.巻1,4/育英舎編輯所編/育英舎/明34.6』 <30・31/33>(27丁裏~28丁裏)「第二十八課 日の丸の旗」 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/757299/31 明治33年8月に改正教育令が発布され,授業料が無償化されたので、その後就学率が急速に90%以上に上がっています。 途中で退学することも多かったようですが、それはさておき、この「修身教本」で日の丸の教育が行われていたはずですから、この頃には村の隅々までたいていの子どもが日の丸を知っていただろうと推測できます。 さて、主題は質問テーマのとおり「一般民衆に周知されたのはいつ?」ということですが、 #4,5、6のご回答をよく読みながら、これから纏めてみようと思います。 とりあえず、現状を報告しました。

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