可能動詞とラ抜き言葉の関連性について

このQ&Aのポイント
  • 5段活用の「書ける」「読める」は可能動詞と呼ばれる可能専用表現ですが、上一段・下一段で「着れる」「食べれる」と言うと、ラ抜き言葉と言われ否定される場合が多いようです。
  • 5段動詞だけに可能専用表現が許されているのはおかしいと思います。また、可能動詞は正確には能力可能動詞と状況可能動詞に区別して使うのが妥当ではないでしょうか。
  • シチュエーションに応じず、無差別に能力可能動詞と状況可能動詞を使ってしまうために不自然になる場合が出現し、ラ抜き言葉といったいわれのない非難を受けることになるのではないか、という気がします。
回答を見る
  • ベストアンサー

可能動詞とラ抜き言葉の関連性について

5段活用の「書ける」「読める」は可能動詞と呼ばれる可能専用表現ですが、上一段・下一段で「着れる」「食べれる」と言うと、ラ抜き言葉と言われ否定される場合が多いようです。 しかし、5段動詞だけに可能専用表現が許されているのはおかしいと思います。 また、可能動詞は正確には能力可能動詞と状況可能動詞に区別して使うのが妥当ではないでしょうか。 「彼は目が良いので遠くの字も読める」「彼は胃が丈夫なので、いくらでも食べれる」は能力可能動詞。 「読める(YOMERU)」を能力可能動詞とする理由は、読み得る(YOMI+ERU)から変化したものという捉え方です。 「この拡大鏡を使うと小さな字も読まれる」「今日は体調が良いので、いくらでも食べられる」は状況可能動詞。 「読まれる」を状況可能動詞とする理由ですが、「れる」は、元来、自発用法から発しているはずなので、何らかの状況が前提となって自然に可能になる、といった意味に捉える、というわけです。 このようにシチュエーションに応じて使い分けるのが良いと思います。 ただし、これらの状況可能動詞の場合、「拡大鏡を使う」「今日は体調が良い」といった状況に重点を置いた場合の話です。 『「拡大鏡を使う」「今日は体調が良い」という状況に触発されて高まった能力』に重点を置いて話す場合は、「この拡大鏡を使うと小さな字も読める」「今日は体調が良いので、いくらでも食べれる」と表現すべきでしょう。 シチュエーションに応じず、無差別に能力可能動詞と状況可能動詞を使ってしまうために不自然になる場合が出現し、ラ抜き言葉といったいわれのない非難を受けることになるのではないか、という気がします。 要するに、ラ抜き言葉は正しく使えば決して間違いではない、とわたしは思うのですが、みなさんはどう思われますか。   

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
  • nebnab
  • ベストアンサー率34% (795/2317)
回答No.3

ら抜き言葉はどんどん使えばいいと思っています。 私も普段から使っています。 書き言葉の「地の文」、つまり会話体でない文に使うのだけはちょっと抵抗がありますが、「ちょっと気色悪い」という感覚的なもので、文法的に間違っているとは思いません。そのうち慣れてしまって抵抗は無くなるもしれません。 No2さんがおっしゃっているように、ら抜き言葉は明確に可能の意味を表すので合理的だと思います。 しかし、 >シチュエーションに応じず、無差別に能力可能動詞と状況可能動詞を使ってしまうために不自然になる場合が出現し、ラ抜き言葉といったいわれのない非難を受けることになるのではないか、という気がします。 このお説には賛同いたしかねます。 そもそも日本語に「能力可能動詞」と「状況可能動詞」の区別なんかあるのか、疑問に思います。 質問者様のお説通りの使い分けが一般になされているのなら、 「今日は体調が良いので、いくらでも食べられる。」 「今日は体調が良いので、いくらでも食べれる。」 はそれぞれ背景の説明や文脈のつながりなしにこの文だけを読んで「能力的に可能」と「状況的に可能」という二つのニュアンスの違いが読み取れるはずです。 しかし、そんな人は果たしているのでしょうか? 少なくとも私にはそのようなニュアンスの違いはわかりません。 余談っぽくなりますが、このお説を読んで中国語の可能の助動詞を勉強した時のことを思い出しました。 中国語で主に使われる可能表現の助動詞は三つありますが、その中に「能力的に可能」なときにしか使えないものがあります。 使い分けを覚えるのがめんどくさいなあ、と感じたのをよく覚えています。 そう感じたということは、日本語には「能力的に可能」と「状況的に可能」を一語で区別する表現はない、そもそも日本語話者はそんなことはあまり気にしていない、ということではないかなと思ったりします。

hakobulu
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 >そもそも日本語に「能力可能動詞」と「状況可能動詞」の区別なんかあるのか、疑問に思います。 : それは言えてますね。否定はいたしません。 ただ、そのように分けて考えると、すっきりと収まるようにも思われます。 「このきのこ食べられる?」 「このきのこ食べれる?」 は、使い分けられて然るべきではないだろうか、ということです。 前者は、「森で真赤なきのこを発見し、毒きのこでないか、山岳ガイドに尋ねている」というシチュエーション。本人に食べる能力があるか否か、という点は全く問題にされていません(状況可能)。 後者は、「真赤なきのこを友人に示し、こんな色のきのこを食べることができるかと尋ねている」というシチュエーションです。 友人の能力(勇気)に焦点が当たっています(能力可能)。 前者の場合に限っては、「食べれる?」と言うと、ラ抜きと批判されても仕方ないと思うわけですが、しかし、後者の場合は堂々と使えるのではないでしょうか、という趣旨です。 >「今日は体調が良いので、いくらでも食べられる。」 「今日は体調が良いので、いくらでも食べれる。」 はそれぞれ背景の説明や文脈のつながりなしにこの文だけを読んで「能力的に可能」と「状況的に可能」という二つのニュアンスの違いが読み取れるはずです。 : 申し訳ありません。 この例は(必ずしも間違いとは言えませんが)適切な例ではなかったと反省しております。 「体調が良い」という状況も含めて、本人の能力可能と捉えるほうが妥当な例文だったかもしれません。 「この店は安いので、いくらでも食べられる」という例文を挙げるべきでした。 つまり、「安い」という状況的可能性(=外部的な環境)に起因して、食べることが可能になっている例です。 いくら胃腸が丈夫である、という能力的可能性(=内部的な環境)を持っていても、お金が無いといくらでも食べることはできません。 「今日は部長の奢りなので、いくらでも食べられる」は状況可能性の表現であり、ここで、 「今日は部長の奢りなので、いくらでも食べれる」としてしまうと不自然になるわけで、「おいおい、それはラ抜き表現という不自然な表現だよ」という印象を与えてしまうのではないでしょうか。 しかし、「あなたは、蛙を食べれますか?」の場合は、そのように言われる確率は低くなるように思うのです。 状況の助けを借りずに、あくまで自分自身の能力だけをもって食べることができる、という意味になるからではないでしょうか。 なにげない日常的な日本語表現におけるご自身の深層心理の仕組みを再度ご検討いただければ幸いです。 わたしたちは無意識的に日本語を発しているわけですが、案外、その奥には思いもかけない、厳密な法則が働いているような気がします。 ただ、日常的に、多数が使う表現に慣らされて、本来の使い方やニュアンスが異なる方向に流れていく傾向は、いつの時代にもあるのかもしれません。(必ずしも、その傾向自体を全面的に否定しているわけではありません) >しかし、そんな人は果たしているのでしょうか? 少なくとも私にはそのようなニュアンスの違いはわかりません。 : これが当質問に対する直接的なご回答になるかと思いますが、その理由も含めて真摯にお答えいただき、有難く思います。 >中国語で主に使われる可能表現の助動詞は三つありますが、その中に「能力的に可能」なときにしか使えないものがあります。 : 中国語にもお詳しいのですね。 大変興味深い情報です。 >使い分けを覚えるのがめんどくさいなあ、と感じたのをよく覚えています。 そう感じたということは、日本語には「能力的に可能」と「状況的に可能」を一語で区別する表現はない、そもそも日本語話者はそんなことはあまり気にしていない、ということではないかなと思ったりします。 : その感覚はよくわかります。 逆に、外国の方にしてみれば、「お金は落ちていました」と「お金が落ちていました」の違いを理解するのはなかなか難しいことでしょう。 しかし、ネイティブは理屈抜きで使い分けが可能なはずです。わたしたちが、気にしていなくとも、そこにわたしたち自身の気付かない、ある法則が厳然と存在している可能性も大いにあり得るように思います。    

その他の回答 (3)

  • ahkrkr
  • ベストアンサー率35% (109/310)
回答No.4

「着れる」は可能動詞だとする文法体系を作っても何も矛盾は起こらないと思います。 http://okwave.jp/qa/q8067189.html

hakobulu
質問者

お礼

ご回答ありがとうございました。 ご提示いただいたURLも拝見いたし、大変参考になりました。 ラ抜きは誤った表現ではない、という点では、基本的には同じようなお考えであろうと推察いたします。 ただ、かのBAさんがおっしゃっている、 『可能動詞は五段活用の動詞の命令形に「る」がついたもの』(と捉えるから誤りにつながる) 『可能動詞を五段活用の動詞の仮定形に「る」がついたもの』(と捉えれば自然である) といったご見解には異論があります。 そもそも、命令形・仮定形を以って可能を表現しようとすること自体が不自然ではないでしょうか。 あくまで、「連用形+得る」の語形変化と捉えるのが意味的にも自然であり、妥当ではないか、とわたしは考えます。 また、能力可能と状況可能の使い分けについては、どのようにお考えでしょうか。   

回答No.2

私もANo1の方と同じですが、もう少し単純に考えています。 (1)私は、ウナギを食べられる。 (2)私は、ウナギに食べられる。 「食べられる」だけを見ると、まったく逆の意味になります。だから、(1)の場合は、「食べれる」とした方が合理的だと思います。 言葉は、時代と共に変化するもの。国語学者が、どんな理屈をつけても、みんなが使えば、変わっていくもの。いつか、ら抜き言葉という言葉が死語になる日が来るように思います。 国語学者は、これを、日本語の乱れと言うのでしょうか?

hakobulu
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 >「食べられる」だけを見ると、まったく逆の意味になります。だから、(1)の場合は、「食べれる」とした方が合理的だと思います。 : そもそも、5段活用の可能動詞「泳げる」などは、おっしゃるように可能用法に特化するために出現した表現ではないか、と思われます。 上一段・下一段活用にそれが無いことのほうが不思議です。

回答No.1

たったひとつの正しい日本語文法などというものは無い。統一感、一貫性のある理論による個々の文法が存在するということに過ぎない。たった一つに決め付けようという原理主義は、いずれ、破綻する。

hakobulu
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 回答者さんとしては、どう思われますか。 「メニューの写真はどちらもおいしそうに見えるので、すぐには決められない」 「レストランに入って注文するときなども、優柔不断な性格なのですぐには決めれない」 前者は「状況可能動詞」という認識です。 「おいしそうに見える」という状況が決めるという可能性を阻んでいる、というニュアンス。 後者はラ抜きではなく、「能力可能動詞」として自然な表現に思われませんか。 「あくまで自身の能力的な問題として可能ではない」というニュアンス。   

関連するQ&A

  • ラ抜き言葉 について

    この質問内容は、当初、 「可能動詞 について」 http://okwave.jp/qa/q6537930.html と同じスペースに掲載予定でしたが、字数の関係で、あえて独立させました。 基本的考えは重複を怖れず掲載したつもりですが、上記URLにも目をお通しいただけると幸いです。 http://okwave.jp/qa/q6530613.html 及び、 http://okwave.jp/qa/q6534485.html もご参照いただけれと思います。 可能動詞の成立過程について http://okwave.jp/qa/q6537930.html で述べましたように、 ラ抜き動詞についても、【正当な】成立過程が存在しているように思うので、それを提示し、みなさんのご見解を伺わせていただければ、と思います。 ウィキによると、ラ抜き言葉は、大正時代に出現したようで、 「見られる」のような上一段活用動詞、「食べられる」のような下一段活用動詞、また「来られる」のようなカ変動詞の「ら」を抜いたもの。 という解説が載っています。(ウィキでは肯定しているわけではありません) この「られる」が「れる」に変化した理由として、 「可能動詞 について」http://okwave.jp/qa/q6537930.html で、述べた内容と同様に、「動詞+得る」という意図があったと考えることができると思います。 「得る」に関して、ウィキでは五段活用の可能動詞の出現理由のひとつとしてしか挙げていませんが、これはラ抜き言葉にも適用できるのではないでしょうか、ということです。 五段活用の場合、先の質問でも示しましたが、   読む(YOMU)→読む[を]得る(YOMU-ERU)→読める(YOMERU) という出現過程が推測できるように思います。 [U]は発音上の便宜性で消滅したと考えることに無理はないでしょう。 同様に、あるいは似たように、 見る(MIRU)→見る[を]得る(MIRU-ERU)→見れる(MIRERU) 食べる(TABERU)→食べる[を]得る(TABERU-ERU)→食べれる(TABERERU) のような過程を経て(ラ抜き言葉ではなく)五段活用以外の動詞の可能動詞が出来た、と考えても良いのではないか、という、いわゆるラ抜き言葉擁護論についてお伺いするのが、当質問の骨子であります。 見られる・食べられる、という(正当的というべきなのでしょう)可能動詞の他に、なぜこのようなものが必要であるのか、という点に関して私見を述べます。 まず、(実際に使う人の意図に関わらず) 見れる と 見られる には微妙な意図の差異が存在するのではないか、ということを主張したいと思います。 「得る」が可能の意味であることは当然ですが、「【主体(人とは限りません)】が(何事かを)得る」という用法だと思います。 つまり、可能動詞は(動詞の対象ではなく)主体性重視を意図した表現である、ということの根拠となり得るのではないか、ということです。 「このテレビは、この眼鏡を描けると 3D 画像が見られるよ」 は、 「これは、そういう(3Dの)画像を見ることが可能な対象(=テレビ)」であることに重点を置きたい場合の表現。 「その眼鏡ではなくて、この眼鏡を描けると 3D 画像が見れるよ」 は、 「主体(=あなた)が、見ることが可能」であることに重点を置きたい場合の表現。 ということが言えるのではないか、ということです。 <結論> ラ抜き言葉とは、五段活用以外の動詞のための可能動詞であり、且つ、「動詞+助動詞-られる」型の可能表現と、その意図を峻別するために必要な動詞と言える。 <補足> ただし、上記の例において入れ替えを行なうと、微妙に不自然な表現になる。 つまり、ラ抜き擁護派・反対派を問わず、申し上げておきたいことは、 シチュエーションによって使い分けられるのが本来の用法であって、すべてラ抜きで事足りるということには決してならない。 たとえば、 「こんな流行遅れの洋服で、みんなの前に出れないわ」 という物言いをする女優が蓮っ葉に見えるとすれば、それは、 「出ることを得ない理由」が、「みんなの前だから」という他者への遠慮、あるいは常識的な慎ましさが基盤にあるのではなく、 「自分の損得のみに神経がいっている」という、その「身勝手さ」が、聞くものをして、無意識に蓮っ葉な印象を引き起こさせるのではないか、と思われます。     火事で逃げ送れた女優が煙渦巻く密室から、 「わたし、ここから出られないわ」と言ったらさぞかし奇異な印象を受けるでしょう。 「わたし、ここから出れないわ」が自然だろうと思います。

  • 可能動詞 と ラ抜き言葉 について

    次の1~3の見解に、基本的な間違いはないでしょうか。 あればご指摘くださった上で、無ければそのまま、最後に示してある質問についてご見解をお寄せください。 1. 古くは、可能の用法は、自発・受身・尊敬用法と共に、助動詞の「れる・られる」で表わしていた。 読まれる・休まれる・泳がれる・・・A 見られる・食べられる・来られる・・・B 2. 室町時代頃から「可能動詞」が出現する。 五段活用の動詞を下一段活用の動詞に変化させたもの。(上記 A ) 読まれる→読める 休まれる→休める 泳がれる→泳げる 3. 大正時代から「ら抜き言葉」が出現する。 「見られる」のような上一段活用動詞、「食べられる」のような下一段活用動詞、また「来られる」のようなカ変動詞の「ら」を抜いたもの。(上記 B ) 見られる→見れる 食べられる→食べれる 来られる→来れる 【質問】 可能動詞が五段活用だけに限定されているのはなぜでしょうか。 同じ意味ですが、ラ抜き言葉が可能動詞として早い時期から発達しなかった理由はなんでしょうか。 構造的に大差は無いように思うので、非常に不思議な気がします。   

  • 可能動詞 と ラ抜き言葉

    ウイキを見ていてちょっと感じたことです。 抜粋を交えつつ質問します。 ・可能動詞(かのうどうし)とは、現代日本語(共通語)において五段活用の動詞を下一段活用の動詞に変化させたもので、可能(行為をすることができること)の意味を表現する。 「書く」に対する「書ける」、「打つ」に対する「打てる」の類をいう。 ・かつては可能動詞を使わず、動詞の可能を表すには助動詞「る・らる」(現代の「れる・られる」)を用いていた。 ようで、 可変動詞というのは室町時代頃から出てきたものらしいですね。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%AF%E8%83%BD%E5%8B%95%E8%A9%9E 次に、「ら抜き言葉」についての記述を掲載します。 ・ら抜き言葉 [編集]「見る」のような上一段活用動詞、「食べる」のような下一段活用動詞、また「来る」のようなカ変動詞の 可能表現としてそれぞれ「見れる」「食べれる」「来れる」とするものは、「ら」を含んでいないということから「ら抜き言葉」と呼ばれる。 「ら抜き言葉」の使用は関東地方においては大正期から始まったが、この傾向は国家の教育方針のもとで抑制されてきた。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E8%AA%9E%E3%81%AE%E4%B9%B1%E3%82%8C#.E3.82.89.E6.8A.9C.E3.81.8D.E8.A8.80.E8.91.89 ここで質問なのですが、 可変動詞(室町)が抑制されず、ラ抜き言葉(大正)が抑制されるのは、つまり、歴史が新しいから、という以外に何か国語的な理由があるのでしょうか。 文法方面はからっきしだめなので、なるべく分かりやすくご回答いただけると助かります。

  • 可能動詞とラ抜き言葉 総括の総括

    一連の質問で、貴重なご見解を多数賜りました。 一応、煮詰まったようです。 ご回答をお待ちすべきかもしれない既質問に関しても、焦げ付かないうちに締め切るのが妥当と判断いたしましたので、悪しからずご了承ください。 礼儀として、最終的総括を披瀝すべきでしたが、字数の関係で難しく、一年半ぶりに拙ブログの埃をはたいて、そちらに掲載させていただきました。 ご回答内容で特に印象に残ったことをまとめただけですが、お暇な方は暇つぶしにご覧になってみるのも一興かもしれません。 http://hakobulu.seesaa.net/article/187293541.html 貴重な御見解をお寄せいただいた全てのみなさまへのお礼に代えさせていただきたいと思います。 ご参考までに、方言に言及した一部分を抜粋します。 -------------------------------------------- 4. このように「連用形+得る」としての「休める」は、主体重視の欲求から発生した表現と言える。 主体重視とは主に自分重視であるから、この欲求が人に兆すのはごく自然であり、つまり、押さえることのできない本能的な欲求と捉えることも可能になるだろう。 このことは同時に「休まれる」という対象重視の用法も厳然と存在していること、且つ、それが自然であることの証明にもなっている。 この意味で、主体重視の「休める」と対象重視の「休まれる」は、(シチュエーション把握の問題が関わってくるため)明確とまでは言わないが、使い分けられるのが妥当だろうと思う。 少なくとも、室町期においては、全国的に浸透していた用法と捉えるのが自然である。 ただ、一方、現代社会においては、使い分けが為されていない地方が(おそらく)多いような感触も得られた。 ただ、「休まれる」を方言と捉えるか否かは、方言の定義を知らない私にとって無理であるが、仮に方言だとすれば、縷々述べてきた理由に鑑み「正統派方言」の名を冠してみたい気がする。 また、実際に使い分けをしている人が、極端に少ないとも思われない。 ただ、どちらであるかをここで問題にするつもりはない 私にその能力が無いことと合わせ、これも言語学者に委ねるべき事柄だろうと思われるので。 -------------------------------------------- ところで、今回の質問は、ちょっと思いついたことなのですが、 「休まれる」よりも「休まれない」 「泳がれる」よりも「泳がれない」(以上、五段可能動詞) 「見れる」よりも「見れない」 「食べれる」よりも「食べれない」(以上ラ抜き言葉) のように、 『否定形のほうが、抵抗なく受け止められる、あるいは耳になじんでいる、というようなことはないでしょうか』 というものです。 単なるご感想でも、理由を付記していただいてもどちらでも結構です。 お聞かせくだされば幸いです。     

  • 可能動詞 について

    一連の質問をさせていただいた総括としての質問です。 多少、新しい見解も提示しております。 http://okwave.jp/qa/q6524818.html の続編と受け止めていただくと良いと思います。 ラ抜き動詞に関しては別掲いたします。 <結論> 可能動詞は主体重視、動詞+助動詞れる・られるは対象重視。 <前提 1> 以下はウィキからの抜粋です。 『「行かれる」のような「~れる・られる」の形は、古語の「~る・らる」の形から変化したものだが、「行ける」のような可能動詞はそれとの関係は不明である。 由来には大きく2説があり、「知るる(知れる)」等からの類推で、従来からあった四段(後に五段)活用動詞に対する下二段(後に下一段)段活用の自発動詞が一般化した(類似の動詞の項を参照)という説[1]と、 「行き得(る)」のような「連用形+得(る)」の表現が変化したという説[2]とがある。』 この後者、「連用形+得(る)」の表現が変化したという説に、かなり共感を覚えます。 <前提 2> 以下は、 http://okwave.jp/qa/q6524818.html に寄せられた#16さんのご回答です。 『そのように感じられるのは、「れる・られる」の可能以外の意味(受身、尊敬、自発)に大きく影響されているからではないでしょうか。 受身、尊敬、自発には、主体の積極的意志が感じられません。 「れる・られる」には4つの意味あると言っても、一つの言葉ですから、「れる・られる」の可能表現でも、可能以外の「受身、尊敬、自発」に引っ張られることがあってもよいと思います。』 これら2点を主な前提にさせていただきつつ、私の感じたことを総括いたします。 率直な(しかし可能なかぎり論理的な)ご感想をお願いできれば幸いです。 1. 可能動詞の誕生は次のような過程を経ていることになると思います。   読む(YOMU)→読む[を]得る(YOMU-ERU)→読める(YOMERU)   休む(YASUMU)→休む[を]得る(YASUMU-ERU)→休める(YASUMERU)    泳ぐ(OYOGU)→泳ぐ[を]得る(OYOGU-ERU)→泳げる(OYOGERU) これが、「動詞+得る」が可能動詞の発生過程と推測します。 [U]は発音上の便宜性で消滅したと考えることに無理はないでしょう。 3. そして、「得る」が可能の意味であることは当然ですが、「【主体(人とは限りません)】が(何事かを)得る」という用法だと思います。 つまり、可能動詞は主体性重視を意図した表現である、ということの根拠となり得るのではないか、ということです。 例を2点挙げます。 a. 「【会社を休むこと】を得ない」という意図ではなく、 「【わたしが休むこと】を得ない」という意図の場合、 『風邪を引いたが、繁忙期なので会社を休めない』 と表現する所以です。 逆に、 「会社が、休むことを得ないほど繁忙状態にある」という意図を表現したい場合には、 『風邪を引いたが、繁忙期なので会社を休まれない』 となる。 「会社は、わたしに休まれると困るような状態にある」 という受身の要素、 「私が意図したわけではないが、会社は、わたしに休まれると困るような状態になっている」 という自発の要素、 なども含まれているでしょう。 いずれも、【休むという行為の主体(=わたし)】の存在を薄めるニュアンスが込められていると思います。 b. 「海が汚れているために泳ぐことを得ない」という意図ではなく、 「わたしが泳ぐことを得ない」という意図が強い場合、 『わたしは泳ぐのが大好きだが、この海は汚れているので泳げない』 と表現するでしょう。 ただし、「私という主体」ではなく「海が汚れているために」泳げない、という意図でも、 「この海は汚れているので泳げない」と表現することは、往々にしてあるでしょう。 その場合は、 「この海は汚れているので(私たちは / 人々は)泳げない」という主体の転換がなされているにすぎません。 逆に、私という主体に強い関連性が乏しい場合、 つまり、「海が汚れているために泳ぐことを得ない」という意図を表現したい場合は、 「この海は汚れているので泳がれない」となる。 タンカー事故などによる油の大量流出で、観光地である【海自体の明らかな汚染】を嘆く人は、 「この海は汚されて、泳げない海になってしまった」ではなく、 「この海は汚されて、泳がれない海になってしまった」と表現する割合が高くなるように思われます。

  • ラ抜き言葉について

    正月に、母の実家に行って祖母と会話をしていたら「飲まれない」や「行かれない」という言葉を使っていました。ということは「行けない」や「飲めない」という言葉は、ら抜き言葉ということですか?自分は一応、ら抜き言葉を使わないと決め手いるので少し気になっています。教えてください。

  • 一般動詞の疑問文とbe動詞の疑問文の区別

    高校中退して、大学を受けようと現在中学の英文法から勉強してる若輩者です。ふと疑問に思った点を質問したいと思います。 英語は全く駄目だったので質問内容が分かりにくかったらすみません。 タイトルの通りと言えば通りなのですが、 一般動詞の疑問文(do/does/did)とbe動詞の疑問文(Is/Are/Wasが先頭)の区別、要は使い所、使用されるケースと言えばいいのでしょうか 英訳で、上記の疑問文を使うシチュエーションになった場合、この状況では双方のどちらかを使用した方がいい、といった様なモノなのか、 それとも、シチュエーションに限らず、二通りの方法があるということなのか教えてください。 多分とてもクダラナイ質問になってると思うんですが、宜しくお願いします

  • 解散の「刀」を抜きにかかる”とはどういう意

    今日 朝日新聞サイトに天声人語の社説ゴラムに載せるひとつのニュースを読んましたら、 この文章には解散の「刀」を抜きにかかる首相を、右腕である幹事長が羽交い締めにすると書いていた文が ネットでいろいろ探してきましたが、 この文の意味はよくわからないんです。 教えていただけませんか よろしくお願いします ~かかるとは他の動詞の連用形のあとに付いて用いる場合に、 今にも…しそうになるという意味を表すんじゃありませんか? ~を抜きにかかるという句は日本語で解釈すれば 何の意味ですか 原文のURLはこちらです http://www.asahi.com/paper/column20121115.html  

  • 「自動詞」と「自発の助動詞」の違い

    他の方のご質問に回答したのですが、 http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=2341851 まだ自分自身では、すっかり納得しきれていない部分がありますので関連質問をさせてください。 「このあたりの海では大きな魚が獲れる」という文についてお伺いします。 1、「獲れる」は、やはり自動詞ということになるでしょうか。 (当初、「れる」は自発の助動詞ではないかと考えたのですが、 前回、他の回答者の方に教えられて、現在は自動詞と考えるのが正解ではないか、とは思っていますが・・・。) 2、1がyesの場合。 例えば「思い出される」という言葉は、 【「思い出す」という他動詞】+【「れる」という自発を意味する助動詞】からなる語句だと思いますが、 「獲れる」が、 【「獲る」という他動詞】+【自発を意味する助動詞「れる」】という形をとらないのはなぜでしょうか。 (未然形に接続するようなので、この場合は「獲られる」となるのでしょうが) または、逆の視点で、 「獲れる」という自動詞があるのに「思い出される」という自動詞が存在しないのはなぜでしょうか。 (無いものは無いのだから無理を言うな、ということでしょうか) 因みに、辞書によると、 「自発」は、「主体の意志・能力にはよらないで、自然にそうなる意」と解説されています。 3、手持ちの辞書では、 「とれる」は「他動詞・下一段活用」となっているのですが、これは誤植でしょうか。

  • 「~を高める」と言うのに一番使える英語表現

    大学受験を控えている者です。 英作文の練習をしているのですが、「~の能力を高める」とか「~をのばす」とかっていう表現を使う機会が多く、毎回どの動詞を使おうか悩んでしまいます。 たとえば知的能力(Intellectual ability)をのばす、という場合には何の動詞を使うべきでしょうか? improveとかがベストですかね? また、わりかしどの名詞ともコロケーションが合う便利なこういう表現をご存知でしたらぜひ教えて頂きたいです>< よろしくお願いいたします。