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 再度、取り上げての質問です。(法身體大を明す)

kurinalの回答

  • kurinal
  • ベストアンサー率10% (128/1195)
回答No.1

>「《次の文に判らなことがあります》  +++++    密家には此の法身即ち宇宙全体を唯一の如来身として、金胎不二の大日如来として表号す。略して解説せば、金胎とは理知の義。宇宙全体に周徧せる五大即ち地水火風空と、識大の大元素は宇宙の現象なり。  万有の本体にして此の六大を離れて万物あることなし。六大の中地等の五大は物体にして之を理と云ひ、又胎蔵とす。識大は智にして即ち金剛界とす。宇宙全体は六大なれば、識大は宇宙精神、他の五大物体とは六大相渉入して無碍なり。六大を本体として四曼を相とす。  宇宙現象は其の相なり。万物は悉く大日の曼荼なり。例せば不動また観音と現はれたるは大曼荼。三摩耶曼は本誓とて、各々本づく天職を有して、文殊の智、普賢の行願の如く、之を表示して智剣を執り如意を持つが如く、法曼とは法は軌、生物解(←漢文です)とて、理を知ること。羯磨とは事業、各其の分を実行する事なり。」 「密家には・・・」 ほうほう

yy8yy8az
質問者

お礼

 kurinalさんには感心、されてしまいましたね。  例えれば、全くスカイツリーのような文章ですもんね。  長いこと見あげていると“首”が痛くなります。  回答、いや感想ありがとうございました。(2013/8/14 19:40)

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     今回は多くの方々から真剣な回答を頂けたのが、私には意外でした。  こうした回答を頂くと中途で済ませてはいけないと思いはじめ、だから再度これが最後の“関連の質問”をしておくことにしました。  彼のお坊さんの続いての文章です。  (三)物心無礙観  客観の物と相と主観の心の象とは本同一本質の物なる故に、相互に、相互に礙(さ)【さまたげる】へるものでない。吾人の観念は山河大地の内にも徹して碍(さまた)げず。試みに冥想観念して見給へ。吾人の観念は大地の中にも徹照して毫も妨げず。  されば吾人の観念中の萬物とも云い萬物内存の観念とも云い得らる。吾人の主観も法界に周遍して遺すことなく客観の萬物も宇宙に偏在して餘(あま)す所無し。然も相互に障碍せず。同質異現なり。之を佛心無碍観と云ふ。【物心無礙観が物心無碍観となっているのが不思議】  (四)物心無寄観  宇宙は本来絶対観念にて、宇宙自体は絶体にて主観とか客観とかの相待的のものに非ず。但し相待に規定せられたる衆生は客観の物象と主観の心象と見てをる。人間は自分から主観とか客観とか両面に分けて見てをるけれども絶対者自身より見れば、主観とも客観とも別々に分別して居らぬ。絶対である。之を物心無寄観と云ふ。  次に挙げるのは“付録”です。【前文の次の章です】  物質の触覚は絶体心の意志  客観の物象と主観の観念とは同一本質の相待現象なので、すべての物象も一大観念の客観的現象なることは巳に会得せり。然るに物質には吾人の触覚と感ずる重量とか個形態とかの如き阻碍性を有して居る所より見れば、心は観念なれば客観も心なりとは会得し難し。山河大地及木石の如き触覚に感ずべき個形態を何故に心なりと云ふべきぞ。答えて曰く宇宙一大心霊に寫象と意志との二属性を有す。  意志とは心の力能である。例へば人に意力ありて力と為り堅個と為る如く、宇宙心霊の力能が客観現と為りて、吾人の触覚に感ずべき物質となる。物質と心質とは同一本質の相待現象である。若し此の理に於いて能(よ)く了解し得ば、宇宙萬有は悉く一大観念の相象にして、能観の心と所観の山河大地等の萬象とは同質の反對現相にして、一切の触覚に感ずべき重力と個形態などは意志の力なりとす。  ☆如来の本体は絶体の大心霊体であって、知力と意志という属性があって、その心相は日光の遍く六合に照り渡る如き心の光明であるらしい。  その光明は、法身の四大智慧と報身の智慧との両方面があって、法身の四智は自然の一切の萬法に遍く亙れる理性で、それは一大観念と一大理性と一切認識の本源と一切感覚の本源である、らしい。  そして一大観念=大圓鏡智を五章に設けそれぞれ5~8ページに論じています。その初めの章で「法身一大観念態」の物心二象の本質は同一であると云う理を明かす為に四種の観を以てす、とあって、今回質問で取り上げた四つの観が著わされています。  今回の質問は、私からすれば遥かに高次元での真剣な回答に驚嘆し、それゆえに皆様方の受け止め方、を再度伺えないものか、との思いからなのです。  もしかするとここ哲学カテから居なくなってしまうかもしれない「人の道」さんに送った(←無偏光)回答を合わせて、ご感想をいただければ、とも思っています。  どうぞよろしく、お願いいたします。        

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     以下の文章は現代版般若心経、と捉えてよいでしょうか。  私にはそう思えるのですが。    法 身   本質と體量  法身の體。内容本質如何に就いては。唯物論者は実在の本質は物質的分子なりと曰ひ。亦た唯心論者は実體は唯観念體にして物質は妄現に過ぎずと論じ。唯理論者は宇宙の本質は物に非ず心に非ず物心を超えたる真理即ち真如なりと曰ふ。  また物心平行論者は物と心とは一體の両面にして外観すれば物質内観すれば心質にして。若し密教によれば宇宙の実體本質は物心一如これを六大無礙常瑜伽と曰ふ。六大とは地は堅、水は湿、火は燸(温める、焼く)、風は動、空は無礙、此の五大は物質にして識大は心質、六大即ち物心二元が相依て万物を成立す。  相互に無礙なり。無礙の故に心として観ずれば物も心ならざるなく、又物として見れば一切物ならざるなく物即心なり。物を外にして心作用を現すなく心を離れて物の用をなす能わず。  六大互いに具し地大に他の五大を包含し他の五大も亦然り、互いに主となり伴となる。一塵に一切世界萬有を具し一心に十界三千の理を備え、物心一如色心不二の故に常瑜伽と曰ふ。  六大は即ち物と心との二質なり。もと一體の両面なれども此の両面は同等の位にあらず。心大は眞の実在にして五大は意志に実現せられたる現象に過ぎず。五大は何故に意志の実現なりや、曰く意志は心の力なり。  絶対観念態が意志に実現せられたる相態を五大となす。堅湿燸動等は質にあらずして力なり。五大は観念の相なり。写象と意力を属性とせる所の絶対精神なりとす。  密には現象即実在とし、華厳には現象は力に実現せられたる相にして本質は萬有内在と云ふ。  華厳によれば宇宙の実體本質は一大精神なりとし之を一心法界と名ずく。亦た一切萬法を総括せる精神態なれば総該萬有心とも名づく。所謂精神態とは物心相対の心にあらず、絶対的精神。万象は其の実體上の影現に過ぎず。    例によってこの文章は山崎弁栄と云うお坊さんのものです。

  •  『実体』

     『如来の実体』  『如来の実体は、また法体ともいふ。実体とは全体、何物であると云ふにつき古来、種々の学説がある。実体とは実在を意味することあり。或いは事物の形式を抽象して本質のみを表(ひょう)して実体と名(なづ)くる者あり。また普通の属性や偶性を区別して其の本質を実体とするあり。  また実体とは現象の諸々の性質の奥に在る本体にして、万有の原因なりと云ふあり。神学にては実体を以て神性を表わし、人格的差別を超越するものとす。プラトーがイデーを万物の実体原因とし、デカルトが他に依らずして存在するものを実体とす、即ち神であると。スピノーザは自身に依って存在し無限永久必然なる実態即ち神であると。  ライプニッツは実体は活動し得る存在即ち力であると。カントは経験により来らず即ち純粋なる概念である、また実体は存在の最後の主体であると。或いは実体とは雑多の諸々の性質を総合せる基礎であると云ひ、また実体は現象の物の種々に変化するに拘わらず、内性不変動のものであると。  今の実体とは世界性(せかいしょう)と衆生性(しゅじょうしょう)を超越したる実在の第一義諦の如来性(にょらいしょう)を実体とす。実体は世界と衆生とを超越して而も二性(にしょう)の原因であると共に二性の内存である。  実体の本質なる実在につきての諸説は或いは人間の意識の境(きょう)を超越して不可知的であると説く、吾人は自己の意識に現れ来(きた)るもののみを知る実在は不可知的であると。観念的実在論者は、実在は観念的のものにて可知的にて、吾人の観念と実在とは一体であると。また実在以外に現象なく現象即ち実在であるとの説もある。  今は曰くは実在は吾人の観念と同一本質にして、不断の活動は其の属性にして、吾人の意志に比(ひ)すべく、若し吾人の観念と同一本質ならざれば、吾人は如来性と冥合(めいごう)すること能はざるべし。吾人が甚深の観念に入りて冥合して真如と相応するは本質が同一なるが故である。  起信論に真如の性(しょう)は言語道断心行所滅の体なれども唯、証のみ在りて相応するとは是である。  実体論には古来種々の説あり、物心二元論あり、唯物論あり、唯心論あり、また唯理論あり。唯物論者は謂(おもへ)らく宇宙を構造する本質は、物質の原子もしくは電子が在りて、之が永恒不滅にして且つ其の勢力は常恒存在して、其の自然律によりて万物を造る。  人間の精神の如きも脳髄神経を構造する細胞の作用に外ならずと。故に精神などは物質の副産物に外ならぬ。永恒の存在は物質の原子のみと。観念論者の説によれば心、生ずれば一切の法、生じ心滅すれば一切の法滅す。天地万物の色相は唯心の変現に外ならずと主張す。また唯理論者は云はく、物質いかに精妙なるとも物より精神の派生すべしと思はれぬ。また心質より物質の出現すと云うことも考えられぬ。  故に現象の上にては物と心とは異なれども其の実体は物心不二の理体である。之を仏教では真如と名づけてをる。即ち宇宙を包含する処の普遍的概念は変化極まりなき中に不変の法則が存在し之に依りて万物を生成す。其の物質と心質との原因なる統一的存在が即ち真如である。仏教にいはゆる真如とは、物心不二の理体なれども活動の主体なるが故に、心真如と名づけ物心一如の心である。  真如即ち実在は物心不二統一的存在を、物質に重きを置きて観る者が唯物論者にて、心質に傾く観方(みかた)を唯心論者とす。  心真如、即ち実体の本質は物心無礙超時間超空間的にして、而も偏時間偏空間絶体永恒万物内存の大心霊体とす。万物内存の故に内(うち)に非ず外(そと)に非ずして、而も内外(ないげ)に偏在せる絶対である。物心を統(す)ぶる故に大霊態とす。之を華厳に総該万有心(そうがいばんぬしん)と云う。之を宗教的に云わば法身毘盧遮那、即ち弥陀の法体(ほったい)と名づく。一切万法の本体にして一切生起(いっさいしょうき)の一大原因である。』(弁栄聖者著・人生の帰趣P172~175)  ☆ だいぶ長くなってしまって、あれこれと心配になってきてしまいましたが、以下に質問です。  サラブレッドの御御脚を持つ“帰依者”としましては、深く理解は出来ないものの、なるほど、なるほどと、心に染み入ってくるのです。  だからこれを現代のお経であると捉えているのですが、この思いは幼稚すぎますでしょうか。  ここ哲学カテの住人の皆様の学ばれた知識を以て、御判断を仰ぎたいのです。  また文章の中の「第一義諦(だいいちぎたい)」の意味がよく分かりません。  辞書を見ても出ていませんでした。  分かる方いらっしゃいますでしょうか。  よろしくお願いいたします。    

  • 《空(シューニャター)》とは ひとの自由意志をも

     【α】 《空(シューニャター)》とは ひとの自由意志をも 存在しないと見るのか?  ・ これが 問いです。  【α-1】 《存在する・しない》というのは あくまで相対的なものごととして 現象がある・ないという意味に用いている。  【β】 色即是空のあとにただちに 空即是色と言えるのなら 空だけれど その《色受想行識》としての現象はある。と言っているはずだ。  【β-1】 すなわち 意志自由は 現象している。《行》のことだろうか。  【γ】 すなわち 世界のものごとは 関係性(縁起連関)によって成るだけではなく その網状の集まりを成すそれぞれの結び目(結節点)もがあって これは 言わば社会的な独立性をうったえるところの人間の自由意志である。そのハタラキである。  ・ 次のヰキぺの解説記事の中から 《龍樹の空観》を取り上げますので その理論とからませて 上の問いにこたえていただければ さいわいです。      ▼ (ヰキぺ:空(仏教)) ~~~~~~~~~~~~~   http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A9%BA_(%E4%BB%8F%E6%95%99)  § 2.2.2. 龍樹の空観  (あ) 龍樹は、   ( a ) 存在という現象も含めて、あらゆる現象はそれぞれの関係性の上に成り立っている  ことを論証している。   * 【質問者の問い・δ】 すなわち 網の目を織り成すネットワークの結節点は あると言っているのかどうか?  (い) この関係性を釈迦は「縁起」として説明しているが、龍樹は説一切有部に対する反論というスタンスを通して、より深く一般化して説き、   ( b ) 関係性に相互矛盾や相互否定も含みながらも、相互に依存しあっている  ことを明らかにした。これを空もしくは「空性」と呼んでいる。   * 【ε】 相互依存の関係において モノゴトが縁起していることに間違いない。自由意志に当たると見る結び目は 存在するか?  (う) さらに、   ( c ) 関係性によって現象が現れているのであるから、それ自身で存在するという「ユニークな実体」(=自性)はない  ことを明かしている。   * 【ζ】 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~     あぁ! 《自由意志》はないか? けれどもただし この《それ自身で存在するという「ユニークな実体」(=自性)はない》というのは どうも そうではなく 《この世に絶対的なものが存在しない》と言っているだけのようにも見受けられる。     つまり 絶対的な存在ではなく 有限で移ろいゆく相対的なものであるが それとして自由意志もしくは人間の主体性は 存在する。のかどうか?    ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   ( d ) (最高の仏である如来だけがしかし、「自性輪身」〔三輪身の一つ〕)と呼ばれ、自性であるとされている)。   * 【η】 これは まさしく《絶対》のことである。法身仏のことである。したがって ひとの自由意志とは 別である。  (え) これを以て、   ( e ) 縁起により全ての存在は無自性であり、それによって空である  と論証しているのである。龍樹の空は、これにより「無自性空」とも呼ばれる。   * 【θ】 依然として 結び目は 存在するや否や? である。  (お) しかし、これらの関連性は、現象面を人間がどのように認識するかということとは無関係のものである。   * 【ι】 おお! 《現象面》では ひとの主体的な意志の選択が自由である。と言えるかも。・・・  (か) これを人間がどう認識し理解して考えるかについては、直接的に認識するということだけではなく、人間独自の概念化や言語を使用することが考えられる。   * 【κ】 むむ? 何のことだろう? 意志自由は あると思えば 勝手に あると規定すればよい!?!? 分からんなぁ。  (き) 龍樹は、人間が外界を認識する際に使う「言葉」に関しても、仮に施設したものであるとする。   * 【λ】 それは そうであろう。すべて 相対的なものごとだと言っているのだから。肝心の問いには 答えていない?  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~

  • 再度、同じような質問で

    申し訳ないのですが~質問の前に 原発は最もクリーンな発電 であると言う発言に、ならばCO2も排出もせずクリーンであるはずなのに?実際は 最も危険な放射能ゴミを原発、稼動する限り、排出し続ける訳です。そしてその処分を六ヶ所村で厳重に埋め立てられ、今では既に満杯状態でありますから、いずれ将来は日本各地に処分場が出来上がる事でしょう。まだ事故の検証もスーパー堤防も準備なされてない事や稼動する限り放射能ゴミを排出し続ける等で私は再稼動には反対の立場をとっていますが、放射能ゴミを六ヶ所村の過疎地に 厳重に地中深く埋め立てているのと同じくガレキを地中に厳重に埋め立てる方法とCO2 を撒き散らしながら焼却処分後、埋め立てる方法と費用は別にしてどちらが安全なのでしょうか?

  • 再度質問させていただきます。

    近日同カテゴリで質問した者です。 たびたび申し訳ございませんが、質問がありますのでお答えいただけるとありがたいです。 (1)パッケージの右上に「インストール済み、このソフトウェアはお求めのPCに既にインストールされています・・・。」と書かれているのですが、リカバリなどでPCを初期化してしまったときに使うためのCDなので、使用不可(ライセンス違反)でしょうか? また、使用できない旨はライセンスに記載されているのでしょうか?パッケージには「このCDは他のPCで使用できません」等のメッセージは書いていませんでした。既に現使用のPCにはインストールしてしまっていて確認できませんが・・。 (2) (1)で、もしできないなら別途購入しなければならないと思うのですが、家電量販店で確認したところstandard?でも2~3万もします。こんなものなのでしょうか?いくらなんでも高すぎないでしょうか? (3) 使用するのは、word、excell powerpoint の3つだけなのですが、安く済ませる方法はないでしょうか? 前質問で候補に挙がっていたASUS K53SD K53SD-SXWHITEには、6万程度でMO付きのモデルがあるみたいです。Lenovo G570 4334D9J には体験版しかないようです。 MO無しを購入して、必要なMOだけ別途購入する or 上の6万程度でMO付きのモデルを購入する のどちらが得なのでしょうか? (4) MO非搭載のPCを買われた方は、文書の作成等はどうされておられるのですか?MOは一般的に知られているものですし、違うソフトで作成されると、融通が利かない等、デメリットがあると思うのですが・・・。