• ベストアンサー
※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:キリスト者は 猿回しの猿か?)

キリスト者は猿回しの猿か?

このQ&Aのポイント
  • キリスト者が猿回しの猿であるかについての疑問が浮上しています。
  • キリスト者は猿のように動き回っているのか、それとも黙々と仕事を果たす存在なのか、議論が交わされています。
  • また、キリスト者が自らの存在を主張するために猿回し演芸会を催し、その芸についても考えられています。

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
noname#233059
noname#233059
回答No.2

厳密な意味でのキリスト者やムスリムやユダヤ教徒や仏教徒などについてすべて言えることだが、 自我がない、あるいは相対化されている、もしくは縮小されているということである。 自我、個人の観念が希薄であるため、罵られても平気であり、世界のために尽くすのみである。 「猿以上の存在」、すなわち自らは動物を超えるものだと思いあがっている者は、 旧約聖書(失楽園)にあるとおり、自業自得による苦しみを受けるであろう。 できることならば、自我の肥大化した彼らを救いたいとは思うが、 しかし、彼らが自省する(悔い改める。罪の意識をもつ)ことをしないかぎり、動物に過ぎぬ我々には救うことはできない。 彼らを救いたいと欲するならば、そのきっかけを用意し続けるしかない。 芸がないが、しかし、たかがヒトの分際であるから、それを超える芸はできない。 ヒトは「創造主」たりえない。全知全能ではない。 かくの如くの諦観をもっているのである。

bragelonne
質問者

お礼

 ひっつ‐きーさん お早うございます。ご回答をありがとうございます。  そうですね。  よく飲み込めない。というのが しょうじきなところですかね。  と言うより分かったと思う内容は   ○ 成るように成る。放っておくしかない。  なのですから。読み取り能力がよわいですかね。    ひっつ‐きーさんにはワルイですが わたしは《自我》という用語が大嫌いです。意味がない。あいまいです。  ★ ~~~~~~~  自我がない、あるいは相対化されている、もしくは縮小されているということである。  自我、個人の観念が希薄であるため、罵られても平気であり、世界のために尽くすのみである。  ~~~~~~~~  ☆ たとえば――のっけから続けていちゃもんばかりつけているようですが―― これなどは 《押しが弱く ふつうにおだやかな人となりであって 隣人愛の思いをみづからの内に感じて それに従い 自分のためにという側面をも持って 世界に尽くすことをおこなう》 このように読めます。わたしには。  つまりその場合は 《自我などは 屁の河童》ですが 《わたしはひとりの個人としてある》という考えはふつうに持っている。こう考えられます。  《ののしられた》場合 むろん まづはムッとなり 相手の状態を捉えようとする。たいていの場合そのあとは 相手が自分自身とも世間とも和解が出来ていないのだなと見て取って それぞれの人のさらに細かい状態に応じて 対処する。  とにかく《ひとをののしりたかったのだな》と捉えたとするなら もうそれでおしまいとする。つまりそういう意味で《平気である》。  しかも同じ場合 《どうもまだ 世間への恨みつらみがそうとう残っているな》と見て取ったなら その相手が次にどういう振る舞いをするかを注視している。おそらく《自分自身との和解が成っていない》から やけくそになって振る舞うのだなというふうにも見て取る。  つまりわざわざそういうふうに《世間の屑と呼ばれる役割りをになうようにまで すすんで成り 世界に尽くそうとする》 これを《猿回しの猿》と呼んでいます。  ★ ~~~~  できることならば、自我の肥大化した彼らを救いたいとは思うが、  しかし、彼らが自省する(悔い改める。罪の意識をもつ)ことをしないかぎり、動物に過ぎぬ我々には救うことはできない。  ~~~~~~  ☆ これは むしろ《猿》とは別に猿を相手にののしる側の人びとのことですね。  議論を伸ばして行ってもらってもかまいませんが いまはそう受け留めて保留とします。  少しかみ合わなかったかも知れませんが このように受け取りお応えする次第です。

全文を見る
すると、全ての回答が全文表示されます。

その他の回答 (1)

回答No.1

こんばんは。 ☆( a ) キリスト者は 猿回しの猿か? ◇YES。その可能性は極めて高い。カトリックの人は、ローマ教会という《猿回し》に踊らされている可能性が特に高い。 聖書の解釈の権限は、教会にしかなく、一般信者はそれに盲従しなくてはならない、とされているので。 伝え聞くところによりますと、プロテスタントの信者さんは、聖書の解釈は個人の範囲内で自由に行えるらしいですね。 とはいえ、それは形式的なものであって、実際のところは、その分派の教えや解釈に従っているわけで、カトリックと大差ないのでは? キリスト教として公認されていない、キリスト教も似たようなものでしょう。 特定の宗派に属さず、聖書や教父たちの教えなどをのみ頼りにする人も、《キリスト猿回し》と《聖書猿回し》、あるいは、自ら作り上げた《ドグマ猿回し》に使役されているだけかもしれない。 ☆( b ) 猿として動き回っているそのことが 仕事なのか? ◇YES。聖書という枠の中から出ることは、なかなか容易ではない。そもそも、その枠、舞台から出た瞬間、キリスト者ではなくなるのでは? 背信者、背教者ですよ、その猿は。 そして、この猿は、猿回しから与えられるご飯、〔こころの〕糧をもらって生きていますので、その舞台から逃げ出すと、ひもじくて死んでしまうかもしれない。餓死するかもしれません。 ☆( c ) 楽しんでいる人にも ののしりの言葉をあびせて来る人にも 黙々と務めを果たすその猿なのか? ◇それが《隣人愛》です。ののしりの言葉には耐えなければなりません。 右の頬を打たれたら、無条件で左の頬を捧げなければなりません。 最後には、さらに 「あなたに神の恵みがありますように」 といういうリップサービスまでしなくてはなりません。 ☆( d ) あるいはそのうれしい言葉をかけられて微笑みを返し あるいはそのこの世の屑呼ばわりを受けてそれでもやさしい言葉を返している。その《仕事》は そのことだけで じゅうぶんだろうか? ◇《猿回し》の《おさるさん》ですから、余計なことを考えてはいけませんよ。 この《おさるさん》は、長い間、餌付けされているので、《猿回しの猿》を演じていることに疑問すら抱いたりしませんって。 逃げ出したら、〔こころの〕飢えで死んじゃうかもしれない。 しかも、仲間の《猿》たちは、脱走した《猿》にはことのほか冷たい。 戻ってきても、なかなか群れには入れてくれないでしょうし、 脱走猿を捕まえて、《火あぶり》にして食べちゃうかもしれない(笑い)。 《隣猿愛》は、基本的に、群れ、仲間の猿の間にしか成立しません。 新参の猿には、《隣猿愛》は適用されますが、 脱走猿には適用されないんですよ~。 奇跡という名の手品、隠し芸を披露しなくてはならないのかもしれません。 ───そう言えば、つい最近、誰かさんが異例の早さで聖人に列せられたんだよな。奇跡を二度起こしたとか‥・─── まして、《他の猿回し》の猿など論外!! そこには、群れの冷酷な論理と現実が存在しています。 ☆( f ) キリスト者は その人たちにすすんで猿回し演芸会を催して声をかけ続けているその存在そのものが猿であることを欲した。のか? ◇YES。その方が楽ですから。 猿回しの猿は、自由な生活をする野性の猿と違って、餌の心配をする必要がありません。 なに、自由な生活を続けているように見える野性の猿だって、 実は、様々な掟や自然の厳しい制限に縛られています。 野生猿の寿命は、猿回しの猿よりも短いのだ!! 《他の猿回し》の猿と、どちの待遇がいいのか、これは《猿回し》次第でしょうから、コメントしません。 《ゴータマ猿回し》の猿、これはこれで、結構・・・ ☆( f ) 《アース役》にとって 言わば二段ロケットとしてその二段目の噴射は ありうるか? ◇猿回しの猿は、基本的に、猿回しと仲間の猿のいうことにしか聞く耳をもっていませんから・・・ 《アース役》は、誰かさんみたいに捕まって、《磔・ハリツケ》にされるかもしれません。 誰かさんみたいに、みんなから石を投げつけられ、殺されてしまうかもしれません。 まっ、その中の一匹くらいは、後になって「目からウロコが落ちた」といって、 猿から人間になり、 今度は《猿を回す》役になるかもしれませんが・・・。 ☆聖書は何か語っていますか? ◇壮大な皮肉でしょうか。 そして、その皮肉な状況に陥るな、と物語っているのかもしれませんね。 ではでは。

bragelonne
質問者

お礼

 ねむりねこさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。  ◇ カトリックの人は、ローマ教会という《猿回し》に踊らされている可能性が特に高い。  ☆ あぁ そういう意味ですか。つまり ここで言うのは キリスト者が自分の意志でその猿の役割をになうようにして振る舞っている場合を言おうとしていました。  教会制度の中で信徒が オシエや聖職者の発言によって《踊らされる》というのは これもその人の意志でその組織に参加しているのでしょうから 特にどうということも言わないという姿勢でいます。  ◇ 伝え聞くところによりますと、プロテスタントの信者さんは、聖書の解釈は個人の範囲内で自由に行えるらしいですね。  ☆ ええ。〔神をいだくときという意味での〕聖書と自分とのあいだに何も介在させないということですから。でも実際のところはわたしもよくは知りません。  ◇ とはいえ、それは形式的なものであって、実際のところは、その分派の教えや解釈に従っているわけで、カトリックと大差ないのでは?  ☆ そういう話は 話として聞いています。  ◇ 特定の宗派に属さず、聖書や教父たちの教えなどをのみ頼りにする人も、《キリスト猿回し》と《聖書猿回し》、あるいは、自ら作り上げた《ドグマ猿回し》に使役されているだけかもしれない。  ☆ これはですね。たとえばパウロですが 次のくだりの4:9-13の部分を念頭において 質問の趣旨説明を書きました。  ▲ 〔コリント前書 4:1-21(使徒の使命)〕 ~~~~~~  7: ・・・いったいあなたの持っているもので、いただかなかったものがあるでしょうか。もしいただいたのなら、なぜいただかなかったような顔をして高ぶるのですか。  8: あなたがたは既に満足し、既に大金持ちになっており、わたしたちを抜きにして、勝手に王様になっています。いや実際、王様になっていてくれたらと思います。そうしたら、わたしたちも、あなたがたと一緒に王様になれたはずですから。  9: 考えてみると、    神はわたしたち使徒を、    まるで死刑囚のように最後に引き出される者となさいました。    わたしたちは世界中に、天使にも人にも、見せ物となったからです。  10: わたしたちはキリストのために愚か者となっているが、    あなたがたはキリストを信じて賢い者となっています。    わたしたちは弱いが、あなたがたは強い。    あなたがたは尊敬されているが、わたしたちは侮辱されています。  11: 今の今までわたしたちは、飢え、渇き、着る物がなく、    虐待され、身を寄せる所もなく、  12: 苦労して自分の手で稼いでいます。    侮辱されては祝福し、迫害されては耐え忍び、  13: ののしられては優しい言葉を返しています。    今に至るまで、わたしたちは世の屑、すべてのものの滓とされています。  14: こんなことを書くのは、あなたがたに恥をかかせるためではなく、愛する自分の子供として諭すためなのです。  15: キリストに導く養育係があなたがたに一万人いたとしても、父親が大勢いるわけではない。福音を通し、キリスト・イエスにおいてわたしがあなたがたをもうけたのです。  16: そこで、あなたがたに勧めます。わたしに倣う者になりなさい。  17: テモテをそちらに遣わしたのは、このことのためです。彼は、わたしの愛する子で、主において忠実な者であり、至るところのすべての教会でわたしが教えているとおりに、キリスト・イエスに結ばれたわたしの生き方を、あなたがたに思い起こさせることでしょう。  ・・・  ~~~~~~~~~~~~  ☆ すなわち 《わたしに倣う者になりなさい》(4:16)というごとくです。これが 猿回しの猿という意味です。  ◇ ~~~~~   ☆( c ) 楽しんでいる人にも ののしりの言葉をあびせて来る人にも 黙々と務めを果たすその猿なのか?   ◇それが《隣人愛》です。ののしりの言葉には耐えなければなりません。   右の頬を打たれたら、無条件で左の頬を捧げなければなりません。  ~~~~~~~~  ☆ 隣人愛であることに間違いはないとわたしも考えます。  《左の頬ををも差し出す》というのは 基本的に言って 《抵抗を排除していない》と考えます。  なぜなら 《千歩行けと言われたら 二千歩いっしょに行ってやれ》なのですから。  つまり 《相手の欲することを倍にしてくれてやれ》ということですし しかも大事なことは《一緒に〔行く〕》というところだと考えます。そのようにして抵抗をしているというわけです。相手の言うことに甘んじていますが 相手の行動に対して譴責を怠らない。  ◇ 猿回しの猿は、自由な生活をする野性の猿と違って、餌の心配をする必要がありません。  ☆ 独立独歩の猿は どうでしょう。餌はいっさいありません。もらいません。  ただただ ヒラメキにおいてパウロに倣っているのみです。

全文を見る
すると、全ての回答が全文表示されます。

関連するQ&A

  • キリスト者は 猿回しの猿か?

     ( a ) キリスト者は 猿回しの猿か?  ( b ) 猿として動き回っているそのことが 仕事なのか?  ( c ) 楽しんでいる人にも ののしりの言葉をあびせて来る人にも 黙々と務めを果たすその猿なのか?  ( d ) あるいはそのうれしい言葉をかけられて微笑みを返し あるいはそのこの世の屑呼ばわりを受けてそれでもやさしい言葉を返しているそのことだけで じゅうぶんなのだろうか?  ( e )  なぜって自分は猿以上の存在だと思っている人たちにとっては その自分たちが落ち入っている深い地の底こそがよろこびの楽園だと思わずには生きて行けないようだからである。  ( f ) キリスト者は その人たちにすすんで猿回しを催して声をかけ続けているその存在のもとに猿であることを欲した。  また幕が上がる。  

  • 西洋でもキリスト教を信じない人が増えたのはなぜ?

    天地創造を信じている人はいないしダーグィンの進化論でキリスト教を否定することもあるでしょうが、キリストの言葉には今でも力あるものが多い。汝の敵を愛せよという言葉を私は力ある言葉だと思っているのですが、キリストの存在したことも信じない人が増えたのでしょうか?

  • キリスト史観が成ったんだって!  おおーい! 

    0. 経験合理性から飛躍した思惟があることをお断わりします。 §1. イエス・キリストは モーセやアブラハムより先にいた。 1. 聖書記者の述べるには こうです。 ▲ (ヨハネによる福音 1:1-5 ) ~~~~~~~~~~~ http://bible.salterrae.net/kougo/html/john.html はじめに ことばがあった。 ことばは かみとともにあった。 ことばは かみであった。 このことばは はじめにかみとともにあった。 すべてのものは ことばによって成った。 成ったもので ことばによらずに成ったものは何ひとつなかった。 ことばの内に いのちがあった。 いのちは 人を照らすひかりであった。 ひかりは 暗闇のなかでかがやいている。 くらやみは ひかりをとらえ得なかった。 ▲ (マタイによる福音書 13:16-17) ~~~~~~~~~~ http://bible.salterrae.net/kougo/html/matthew.html イエスは言った。 《・・・ しかし あなたがたの目は見ているから幸いだ。 あなたがたの耳は聞いているから幸いだ。 はっきり言っておく。 多くの預言者や正しい人たちは あなたがたが見ているものを見たかったが 見ることができず あなたがたが聞いているものを聞きたかったが 聞けなかったのである》。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   2. ヨハネのほうは キリスト・イエスについて語っており マタイのほうはイエスがみづから語った言葉です。これにしたがうと イエスは キリストなる神(《ことばである神の子》)として モーセやアブラハム(《多くの預言者や正しい人たち》)よりも前にいたことになります。   3. その正否をうんぬんする前に すべては表現の問題であるというようなかたちです。その表現の歴史としてでも 世界は動いて来たというひとつの主題です。 §2 イエス・キリストを俟ちのぞみつづけた歴史 4. アブラハムは 七十歳をすぎているのに この神から――あたかもお告げがあるかのように――《故郷の地を去って 行きなさい》と言われ そのようにしました。 5. その子孫としてモーセは その神に名を尋ねたとき    《〈わたしはある〉 それが わたしである》     (エフィエー アシェル エフィエー。)              (出エジプト記 3:14 ) という答えを得たと言います。   6. さらにそのあと 伝えによると ダヰデという人は或る日    《きょう わたしは おまえを生んだ》(詩編 2:7 ) という言葉を その神から聞いたそうです。   7. イザヤという人に到っては 《主なる霊が わたしに臨んだ》と表現する歴史に到りました。    これは主がわたしに油を注いで     貧しい者に福音を宣べ伝えることをゆだね     わたしを遣わして心の傷める者をいやし     捕らわれ人に放免を告げ・・・(中略)・・・るためである。               (イザヤ書 61:1-3 ) §3 俟ち望まれたキリスト・イエスの登場。 8. その後 時は飛んで――アブラハムから二千年でしょうか――イエスという人が出たというわけです。 9. イエスが 《自分の育ったナザレに来て いつものとおり安息日に会堂に入り 聖書を朗読しようとして立ち上がった》時のことです。        すると 預言者イザヤの巻き物を渡され 開くと次のように書い    てある箇所が目に留まった。      主の霊がわたしに臨み      油をわたしに塗った。      主がわたしを遣わしたのは      貧しい人に福音を伝え      捕らわれ人に解放を・・・告げ知らせるためである。          (つまり イザヤ書 61:1-2)    イエスは巻き物を巻き 係りの者に返して席に坐った。会堂の人    びとは皆 イエスに目を注いでいた。そこでイエスは      ――この聖書のことばは 今日 耳を傾けているあなたたちに       実現した。    と話し始めた。         (ルカによる福音4:17-21) 10. このとき――さらには十字架上に去って行ったそのときに――言わばキリスト史観が完成したと思われます。 §4 神と人間との関係の歴史が――人間のことばによる表現上――ここまで 及んだのだと捉えられます。   11. それは まるで千年も二千年もの時間をかけて あたかもことばをもてあそぶかのように。 12. そして もし成就したのなら キリスト史観は もうそのイエスまでだと考えられます。あとは 余韻のみではないかと。 13. キリスト史観から オシへを取り出し掲げる神観ないし神学をみちびくのではなく――ましてや その考えるべきオシへを 何を錯乱したか 無条件で受け容れなさい(つまり 信じなさい)と説く組織宗教をでは断じてなく―― 哲学としての神論ないし人間論をかたちづくりたい。 §5 キリスト史観は 理論としては 存在論である。 14. 《存在》――《わたしは ある(エフィエー。 I am. )》――をめぐる理論としては この命題で 完成だと言ってよいのではないでしょうか。 15. 《わたしはわたしである》という自己到来とその――そこから逸れたときにはわれに還るところの――自己還帰すなわち 自己(存在の数として一(いち))の自乗(冪)を繰り返す生活動態。(1^n=1)。 §6 アブラハムやモーセや ダヰデやイザヤらは このイエスの登場を待っていたと どうして言えるのか? 16. むしろイエスの退場の仕方に焦点が当てられる。   (あ) イエスは磔にされたまま 人間として去って行った。その意味は もし《神の子なら そこから降りて来てみろ》とあざける声を承けて神として十字架から降りて来ていたなら それは神の力による奇蹟であろう。だから そんなことは 人間には出来っこないと人びとは思ってしまう。 (い)  けれども人間としてだけではなく 神として去った。その意味は もし人間としてだけならば それは単なるひとりの殊勝なしかも目立ちたがり屋の人間がやったことだ。で済んでしまう。 (う) つまりその暗闇の中でかがやく光は ただ人間のちからとしての道徳や信念やあるいは科学の光に終わってしまう。 (え) あるいはひとりの奇特なやからの一編のパーフォーマンス(芸術作品)だと見なされて終わってしまう。 (お) すなわち確かに闇を照らす理性の光あるいは感性の輝きとして世界を明るくしたかも知れないが そこまでである。闇そのものを晴らすことは出来ない。 (か) われらが心の底なる深い闇そのものに光をあて照らしただけではなくこれを晴らし イエスはみづからがキリストなる神として わが心の燈心に火をともすことを成した。 (き) それは 人間にできることではない。神・その霊のみがよく成し得る。と示した。 (く) しかもこれらすべては 大ウソである。一編の虚構である。 (け) この虚構が 虚構ゆえにも 世界史上ただひとつの特異点であり核反応である。 §7 ペテロや弟子たちも イエスが去って行ったあと初めてキリスト・イエスだと分かった。 17. 生前には――イエスは みづからが神の子であると自称さえしていたが―― ペテロらは 分からなかった。《虚構――イエスの大嘘――》を捉え得なかった。 18. なぜか? ▲ (出エジプト記 33:21-23) ~~~~~~~~~ 更に、主は言われた。   見よ、一つの場所がわたしの傍らにある。   あなたはその岩のそばに立ちなさい。   わが栄光が通り過ぎるとき、   わたしはあなたをその岩の裂け目に入れ、   わたしが通り過ぎるまで、   わたしの手であなたを覆う。   わたしが手を離すとき、   あなたはわたしの後ろを見るが、   わたしの顔は見えない。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ というふうに 生前のイエスについては 弟子たちの目は覆われており イエスの正体が分からなかった。死後やっと キリストの背面を見ることが出来た。《顔――真理そのもの――》は なお見えない。     §8 あらためて《表現の問題》という問題 19. というふうに 言わば《ことばの民》にとっては ことば・ことば・ことば・・・として歴史が推移すると捉えられているものと考えられます。   20. この虚構が なかなか捨てがたいようだと思われ 受け容れられたのでしょう。どこまで分かったのか・どう解釈されたかを別としても。 21. ことばを《実質である事の単なる端として捉え 言の葉としゃれて表わす民》にとっては このキリスト史観をどのようにあつかうのがよいか? ( a ) たぶん 辻褄は合っている。か。 ( b ) 二千年四千年ものあいだ 語られたコトバを追って 人びとの歴史がいとなまれたと言われても こたえようがない。か。 22. 世界は このキリスト史観を受け容れたのだろうか? ユダヤは イエス・キリストをみとめていない。ヨーロッパ人は あらためてどのように受け容れたのか?  23. ただしその実質的な内容は 人びとに元気をあたえること。人びとが元気になること これだけであると考えられる。俟ち伸びわびた史観が成就したのであるからには あとは すこやかさだけである。

  • キリスト史観

    (1) イエス・キリストは モーセやアブラハムより先にいた。  ▲ (ヨハネによる福音 1:1-5 ) ~~~~~~~   はじめに ことばがあった。  ことばは かみとともにあった。  ことばは かみであった。  このことばは はじめにかみとともにあった。  すべてのものは ことばによって成った。  成ったもので、ことばによらずに成ったものは何一つなかった。  ことばの内に いのちがあった。  いのちは 人を照らすひかりであった。  ひかりは 暗闇のなかでかがやいている。  くらやみは ひかりをとらえ得なかった。  ▲ (マタイによる福音書 13:16-17) ~~~~~  16:しかし、あなたがたの目は見ているから幸いだ。   あなたがたの耳は聞いているから幸いだ。  17:はっきり言っておく。   多くの預言者や正しい人たちは、   あなたがたが見ているものを見たかったが、   見ることができず、   あなたがたが聞いているものを聞きたかったが、   聞けなかったのである。」  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~    ☆ ヨハネのほうは キリスト・イエスについて語っており マタイのほうはイエスがみづから語った言葉です。  これにしたがうと イエスは キリストなる神として モーセやアブラハムよりも前にいたことになります。    その正否をうんぬんする前に すべては表現の問題であるというようなかたちです。その表現の歴史としてでも 世界は動いて来たというひとつの主題です。  (2) イエス・キリストを俟ちのぞみつづけた歴史。  アブラハムは 七十歳をすぎているのに この神から――あたかもお告げがあるかのように―― 《故郷の地を去って 行きなさい》と言われ そのようにしました。  その子孫としてモーセは その神に名を尋ねたとき    《〈わたしはある〉 それが わたしである》              (出エジプト記3:14)  という答えを得たと言います。  さらにそのあと 伝えによると ダヰデという人は     《きょう わたしは おまえを生んだ》(詩編2:7)  という言葉を その神から聞いたそうです。  イザヤという人に到っては 《主なる霊が わたしに臨んだ》と表現する歴史に到りました。    これは主がわたしに油を注いで     貧しい者に福音を宣べ伝えることをゆだね     わたしを遣わして心の傷める者をいやし     捕らわれ人に放免を告げ・・・(中略)・・・るためである。               (イザヤ書 61:1-3)  (3) 俟ち望まれたキリスト・イエスの登場。  その後 時は飛んで――アブラハムからニ千年でしょうか―― イエスという人が出たというわけです。  イエスが 《自分の育ったナザレに来て いつものとおり安息日に会堂に入り 聖書を朗読しようとして立ち上がった》時のことです。        すると 預言者イザヤの巻き物を渡され 開くと次のように書いてあ   る箇所が目に留まった。      主の霊がわたしに臨み      油をわたしに塗った。      主がわたしを遣わしたのは      貧しい人に福音を伝え      捕らわれ人に解放を・・・告げ知らせるためである。          (つまり イザヤ書61:1-2)    イエスは巻き物を巻き 係りの者に返して席に坐った。会堂の人びと   は皆 イエスに目を注いでいた。そこでイエスは      ――この聖書のことばは 今日 耳を傾けているあなたたちに       実現した。   と話し始めた。         (ルカによる福音4:17-21)  (4) このとき――さらには 十字架上に去って行ったそのときに―― 言わばキリスト史観が完成したと思われます。  神と人間との関係の歴史が――人間のことばによる表現上―― ここまで 及んだのだと捉えられます。  まるで 千年二千年もの時間をかけて ことばをもてあそぶかのように。  (5) 理論としては 存在論である。  《存在》――《わたしは ある(エフイェー)》――をめぐる理論としては これで 完成だと言ってよいのではないでしょうか。  《わたしはわたしである》という自己到来とその自己の自乗(冪)を繰り返す動態。  (6) アブラハムやモーセや ダヰデやイザヤらは このイエスの登場を待っていたと どうして言えるのか?  むしろイエスの退場の仕方に焦点が当てられる。     (α) イエスは磔にされたまま 人間として去って行った。その意味は もし《神の子なら そこから降りて来てみろ》とあざける声を承けて神として十字架から降りて来ていたなら それは神の力による奇蹟であろう。だから そんなことは 人間には出来ないと人びとは思ってしまう。   (β)  けれども人間としてだけではなく 神として去った。その意味は もし人間としてだけならば それは単なるひとりの殊勝なしかも目立ちたがり屋の人間がやったことだ。で済んでしまう。   (γ) つまりその暗闇の中でかがやく光は ただ道徳や信念やあるいは科学としての光に終わってしまう。   (δ) あるいは ひとりの奇特なやからの一編のパーフォーマンス(芸術作品)だと見なされて終わってしまう。   (ε) すなわち確かに闇を照らす理性の光あるいは感性の輝きとして世界を明るくしたかも知れないが そこまでである。闇そのものを晴らすことは出来ない。   (ζ) われらが心の底なる深い闇そのものに光をあて照らしただけではなく イエスはみづからがキリストなる神として わが心の燈心に火をともすことを成した。   (η) それは 人間にできることではない。神・その霊のみがよく成し得る。と示した。   (θ) しかもこれらすべては 大ウソである。一編の虚構である。   (ι) この虚構が 虚構ゆえにも 世界史上ただひとつの特異点であり核反応である。  (7) ペテロや弟子たちも イエスが去って行ったあと初めて キリスト・イエスだと分かった。  生前には――イエスはみづからが神の子であると自称さえしていたが―― ペテロらは 分からなかった。《虚構――イエスの大嘘――》を捉え得なかった。  ▼ (出エジプト記 33:21-23) ~~~~~~~~~  21: 更に、主は言われた。    「見よ、一つの場所がわたしの傍らにある。    あなたはその岩のそばに立ちなさい。  22: わが栄光が通り過ぎるとき、    わたしはあなたをその岩の裂け目に入れ、    わたしが通り過ぎるまで、    わたしの手であなたを覆う。  23: わたしが手を離すとき、    あなたはわたしの後ろを見るが、    わたしの顔は見えない。」  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ というふうに 生前のイエスについては 弟子たちの目は覆われており イエスの正体が分からなかった。死後やっと キリストの背面を見ることが出来た。《顔――真理そのもの――》は 見えない。      (8) というふうに 言わば《ことばの民》にとっては ことば・ことば・ことば・・・として歴史が推移すると捉えられているものと考えられます。    この虚構が なかなか 捨てがたいようだと思われ 受け容れられたのでしょう。どこまで分かったのかを別としても。  (9) ことばを《こと(事・言)の端》として捉える民にとっては このキリスト史観をどのようにあつかうのがよいか?  ・ たぶん 辻褄は合っている。か。  ・ 二千年ものあいだ 語られたコトバを追って 人びとの歴史がいとなまれたと言われても こたえようがない。か。  (10) ユダヤから見て異邦人のあいだに このキリスト史観を共有する人間はいるか?  世界は このキリスト史観を受け容れただろうか?  ただしその実質的な内容は 人びとに元気をあたえること。人びとが元気になること これだけである。

  • イスラム教とキリスト教の違いって何ですかね。

    はじめまして。  以前から疑問に思っていたのですが、はっきりと形になりましたので、聞きたいと思います。  古今東西を問わず、価値観の違うもの同士は仲が悪いと思うのですが、今話題になっているイスラム教とキリスト教ってそれほど違うものなのでしょうか。  何かの授業で聞いた話しですが、イスラム教の創始者ムハンマドは自らをアブラハムの子孫だって言っていたんですよね。そのアブラハムをずーとたどっていくとイエスにたどり着くんですよね。  ということは大元は同じってことになるんですよね。  それなのにどうしてあそこまで憎しみあうのか完全に僕の理解を超えています。もっとも、イスラム教とヒンドゥー教だって戦争をしているわけですけれども。  つまりパレスチナのハマスの幹部組織の人とか、イラクの上層部の人たちは何を根拠にして、自爆テロをするように人々を説得しているんでしょうか。  彼らにはそれなりの政治的な理由があるんでしょうが、そういう理由じゃなくて、もっと宗教的な理由を掲げていると思うのです。もっともキリスト教には多数の流派がありますので、一言ではいえないと思いますけど。    イスラム教徒がキリスト教徒の存在を許せない理由(もしくはその逆)って何なんですか。可能な限り平易な言葉でお願いしたいのです。  知っている方は教えてください。お願いします。  

  • キリスト教の世界観について

    私は無宗教ですが、いろんな宗教に関心はあります。世のため人のためになる信仰なら良いと思うし、論理的に筋が通っているなら神は存在しているとしても問題ないと思います。(神がいない事を科学的に証明できないだろうし) 訪問してくるエホバの証人のお兄さんと時々論議しているのですが、キリスト教の世界観に違和感を感じます。(どこまでがキリスト教の教義で、どこからエホバの証人の教義なのか線引きはよくわかりませんが) 神が造った人間は神に従って不老不死で永遠に楽園で暮らせたのに、サタン(蛇)にそそのかされて知恵の実を食べたため、この世界に「罪と死」が入ってきたということです。今の世界は直接的にはサタンが支配していて、最終的に神がそれを終わらせて神の統治がはじまるそうです。 神話的な話ですが、どんな暗示を含んでいるのかとても興味あります。(聖書は難解なのできちんと読んだ事がなく解説本を読む程度です。) 以下、エホバのお兄さんとの論議の流れです 唯一絶対・全能神が創ったこの世界における「サタン」とは? →堕天使であり、もとは神の被造物。 なぜ完全である神の造ったものがサタンになったのか? →自ら勝手になった。 完全である神はそれを予想しなかった? →神は先を見通す力があるが、使うときと使わないときがある。 神はなぜ人間に害をなすサタンを放っておく? →神の主権の正しさを人間にわからせるため それって「必要悪」ってこと? →違う。神は人間の「自由意思」で神を選んでほしい それってやっぱり、試金石としてサタンが必要? →(そこは否定) じゃあ、自由意思というけれども、サタンを選ぶのも自由なのに、最終的に神に滅ぼされるのが決まってるなら、自由選択というのはちょっと変じゃない? →どんな人間が滅び、どんな人間が神の国で生きるかは、神が決めることなのでわからない。 宗教は科学的である必要はないと思いますが、論理的に筋が通っている事は必要ですよね?大事な所はいつもボカされている気がします。 さて質問を整理すると、キリスト教の世界観におけるサタンの存在について、論理的に納得できる説明ってあるでしょうか? 私は自分なりに考えて、 神は、意図的に悪(サタン)を世界に加えた。それを人間が駆逐・克服していく過程で世界は発展していき「神の国」という理想の世界に近づいて行く。それは神が仕組んだプログラムかもしれないけれど「神の国」はあくまで人間が創る。 …とするとスッキリするんですが、エホバのお兄さんが言うには、天の国では1914年だかにイエスの統治による神の国が始まっていて、現世も近いうちに神の統治が始まるらしいです。人間にできる事は、神を信じ、神に愛される生き方をする事であって、理想の世界を創るのはあくまで神の実力行使。人間が世界を良くしようとする努力を否定してるように感じるのです。

  • 進化論って間違ってるの?

     テレビで基督教の番組がありました  ダーウインの進化論についての特集で  クリスチャンの大学教授がゲストとして出てました  その人によると、「これまで発掘された化石はダーウィンの進化論のように緩やかに猿から人へ進化する過程を証明する化石が発掘されていないんです。猿か人かという極端な形の化石しか採掘されていないので」という点から、進化論を否定しています。  司会の方も「自分が基督教から遠ざけていたのは進化論であったと、今振り返ると思います」という自分の体験談から「現代の物質的な教育が神の存在を自分と同じように遠ざけるきっかけになっている」と話していました    私はまったく無知な人間なんで、どうにも頭がこんがらがる話なんですが、どう思われますか?

  • クリスチャン、キリスト教徒を辞めた方に質問です。

    両親が熱心なクリスチャンで幼い頃から日曜学校、そして日曜礼拝に参加してきました。エホバ、統一教会ではなく、割と大きい日本のプロテスタント教派です。 妻は仏教の家庭で育ち、妻のおかげで我が家の異常性に気が付きました。子供の頃からサタンの存在や神への畏れを教え込まれ、家庭で起きたトラブルは最後はいつも「祈ろう」で終わらせてきました。統一教会ほど露骨でなくとも、10分の1献金があり、両親は家一軒建つほどの金額を教会に納めていると思います。全てが最後は神に帰着するので、自分も両親も他者への思いやりの心が無く、プライドが高く、傲慢な人間だったと感じます。布教「救いを届ける」が最も崇高な使命だと考え、他者に押し付け、非クリスチャンを救われない人々として扱います。良い事があれば神に感謝し、悪い事があれば神にすがります。「人」に感謝し、「人」に謝ることをしません。食事でも食べる動植物や産業に携わる人への感謝ではなく、「神」です。結局のところ、イエスキリストの愛し合いなさいという言葉は全く実行されていないと思います。同じクリスチャンでも家庭による違いはあるかも知れません。キリスト「教」では本当に人を愛することはできないと気付きました。しかし、ときどき夢に両親や教会が出てきて、うなされることがあります。こういった苦しみから完全に逃れたいです。同じような環境でクリスチャンを辞めた方がいらっしゃればご意見をいただきたいです。

  • イエス・キリストの規約違反

    新約聖書でキリストの言動を調べてみました。どれが最大の問題ですか。 [1] 釣り質問のすすめ 魚をとるよりも人を釣りなさい、と弟子をそそのかしました。ルカ福音書5章10節に記載されてゐます。 [2] 誹謗中傷の投稿 意見の違う回答に対して、「偽善者」「愚か者」「蛇」「まむし」などと指摘してゐます。マタイ福音書23章は誹謗中傷のことばであふれてゐます。 [3] 自作自演のベストアンサー 自分で質問し、自分で回答してゐます。たとへばマタイ福音書5章46-48節。そして23章10節で、みづからを師と呼んでベストアンサーにしてゐます。 [4] マルチポスト 福音書はマタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの4種類が存在し、同じ内容の投稿をくりかへしてゐます。

  • 因果応報説は 愚の骨頂

     ではありませんか? 次の聖句に照らし合わせると。   すなわち その5:19の《人々の罪の責任を問うことなく》に注意することができるではないでしょうか?  ▲ (コリント後書5:12-21) ~~~~~~~~~~~~~~~  5:12  わたしたちは、あなたがたにもう一度自己推薦をしようというのではありません。ただ、内面ではなく、外面を誇っている人々に応じられるように、わたしたちのことを誇る機会をあなたがたに提供しているのです。  5:13  わたしたちが正気でないとするなら、それは神のためであったし、正気であるなら、それはあなたがたのためです。  5:14  なぜなら、キリストの愛がわたしたちを駆り立てているからです。わたしたちはこう考えます。すなわち、一人の方がすべての人のために死んでくださった以上、すべての人も死んだことになります。  5:15  その一人の方はすべての人のために死んでくださった。その目的は、生きている人たちが、もはや自分自身のために生きるのではなく、自分たちのために死んで復活してくださった方のために生きることなのです。  5:16  それで、わたしたちは、今後だれをも肉に従って知ろうとはしません。肉に従ってキリストを知っていたとしても、今はもうそのように知ろうとはしません。  5:17  だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。  5:18  これらはすべて神から出ることであって、神は、キリストを通してわたしたちをご自分と和解させ、また、和解のために奉仕する任務をわたしたちにお授けになりました。  5:19  つまり、神はキリストによって世をご自分と和解させ、人々の罪の責任を問うことなく、和解の言葉をわたしたちにゆだねられたのです。  5:20  ですから、神がわたしたちを通して勧めておられるので、わたしたちはキリストの使者の務めを果たしています。キリストに代わってお願いします。神と和解させていただきなさい。  5:21  罪と何のかかわりもない方を、神はわたしたちのために罪となさいました。わたしたちはその方によって神の義を得ることができたのです。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ クリスチアニスムの事例を挙げましたが どの思想であるかは自由に ご見解をお寄せください。おしえを乞います。ただしわたしが納得するまでお尋ねしてまいります。