「nibbuta」と「nibbāna」の違いとは?

このQ&Aのポイント
  • 「nibbuta」と「nibbāna」は、Suttanipataのパーリ語テキストにおいて涅槃と訳される言葉です。
  • 「nibbuta」と「nibbāna」の違いについての明確な説明はありませんが、研究者によって異なる解釈がされています。
  • 安らぎは「santi」であり、涅槃は必ずしも安らぎではないと考えられています。
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「nibbuta」と「nibbāna」の違いとは?

Suttanipata (Pali Text) PTS Version (Andersen/Smith) https://mywebspace.wisc.edu/jrblack/web/BU/DL/suttanipata.html スッタニパータのパーリ語テキストを読んで 涅槃と訳される言葉には 「nibbuta」と「nibbāna」があることがわかったのですけど、 この違いは何なのでしょうか? それから、安らぎは「santi」でしたけれども すると、涅槃は必ずしも安らぎではないのでしょうか? THE TIPITAKA http://awake.kiev.ua/dhamma/tipitaka/index.html

noname#195588
noname#195588

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回答No.4

反応がないので、心配。 ネコがいる、落ち込むな。 で、ちょっとサンスクリット語の文法解説。 動詞の語根に、接尾辞のtaやnaが付くと、過去〔受動〕分詞というやつになりやす。 自動詞の場合は過去の意味で、他動詞の場合は受身の意味になります。 このアタリは、英語の過去分詞と同じです。 ほいで、 nirvR+ta→nirvRta nirvA+na→nirvANa そして、これが名詞になって、 nirvRta≒nirvANa=涅槃 さらに、サンスクリットをパーリ語にすると、 nirvRta→nibbuta nirvAna→nibbAna みたくなる。 所詮、パーリはサンスクリットの俗語。 意味に大差はないはずですよ。

noname#195588
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 ご心配おかけしました。 気にしないでください。

その他の回答 (8)

  • kurinal
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回答No.9

「安心」はともかく、 「安らぎ」、こころの平穏、これを究極の課題とするからこそ、「煩悩」は問題となるのでしょう? そこの根本的な問題さえガッチリなんとかすれば、何度生まれ変っても同じこと、なんでしょう。 すなわち、「極楽」なのと違いますか。 縁起だの「修行」だのというのは、逆立ちして手段が目的と化してしまって、本来の目的はどこへやら、ただただ凄い、珍しい、ありがたいみたいな、そんなものを拝んでみても、何にもならないでしょう。

回答No.8

 どうも重ねて回答させていただきます。 >>ところで、スッタニパータの第四章と第五章が古いとされる理由の一つに >>ニッデーサという註釈書があるらしいのですが、検索しても詳細がよくわからず。 (中略) >>でも、ふつう註釈書というのは、先に本文があって、 >>その後に成立すると思いますし、  まずは、なぜ『スッタニパータ』と『スッタニパータ』の注釈書である『大義釈』『小義釈』の両「ニッデーサ」が同時代に成立したとなっているのかが疑問ということですかね?  まぁ、おっしゃる通りでふつうはお経と解説書が同時にできるってことはないのですが、そもそも『スッタニパータ』は漢字に訳した時は『経集』となるわけですから、題名から考えても一つのお経ではないのです。いくつかのお経を集めて作られた経典なんですね。  ですから、昔からあったいくつかのお経をとりあえずまとめて『スッタニパータ』って名前にしましょうとなって、現在の『スッタニパータ』の原型ができた頃には、すでに集めたお経のいくつかのものについては解説があってついでにまとめて「ニッデーサ」という名前を付けてみたと考えれば、ウィキの >>『ニッデーサ』は文献学的に『スッタニパータ』と同時代に成立したと考えられている。 というのも全く問題ないのではないでしょうかね。まぁ付け加えるとすれば、経典の文献化に関しては大体お釈迦様が亡くなってから300から400年後ということで大方の学者さんたちの意見はまとまっているようですから、そのころにはすでに『スッタニパータ』も「ニッデーサ」もあったでしょうから、「 文献学的」には同時に成立していても問題ないかもしれません。 >>たまたまニッデーサが第四章と第五章と犀の角を註釈していただけではないか? >>などと思ったりもしても、なにぶんさっぱり分からず。  『スッタニパータ』の四章五章の最古層とそれ以外の古層には教学的な食い違いもありますから、たまたまとは言い切れないんですよね。また中村元氏の『ブッダのことば』を低本とします。最古層四章から「戒律」て言葉に注目して読んでみますと、 839師は答えた「マンガディヤよ、『教義によって、学問によって、知識によって、戒律や道徳によって清らかになることができる』とは、わたくしは説かない。『教義がなくても、学問がなくても、知識がなくても、戒律や道徳を守らないでも、清らかになることができる』、とも説かない。(略)」 とあって、教義・学問・知識を学べばいいとか、戒律を守っていればいいとうような立場でもなく、そんなものすべてなくてもいいという立場でもなく、それら双方ににこだわることをしないというお釈迦様の立場が記されています。  しかしこれが、四章より成立が新しいといわれる三章には、 547(略)サビヤよ、かつて異説の徒であった者がこの教えと戒律とにおいて出家しようと望み、完全な戒律を受けようと望むならば、かれは四か月の間別に住む。四か月たってから、もういいな、と思ったならば、諸々の修行僧は彼を出家させ、完全な戒律を受けさせ、修行僧になるようにさせる。 とあり、完全な戒律を受けて修行僧になるという戒律を重視する傾向が見られます。  これを、お釈迦様は「対機説法(相手に合わせてた説法)」であるから、これは聞いている相手が違うから内容な違うんだと言ってしまえばそれまでですが、現在の四章五章を最古層とする研究者がたの立場から考えれば、四章成立のころの教団はあまり大きくなく戒律は一つの心得でありガイドラインとしての効力で充分だったのでしょうが、三章ができたころは仏教教団が大規模化していて教団運営のために戒律を規則化し重視する傾向にあったことがうかがえます。  また、縁起にに関しても『スッタニパータ』最古層四章の「争闘」というところでは、「○○が生ずるから、△△も生じる。○○が滅すれば、△△も滅する」という縁起のような論法で、なぜ諍いが起きるか、どうすれば諍いはなくなるかが説かれています。しかし、四章ではあくまで諍いが主題であって、縁起の教学における主題である「苦」ということには触れられていません。  しかし、これが三章になると「二種の観察」の部分では 742執着によって生存が起こる。生存せるものは苦しみを受ける。生まれたものは死ぬ。これが苦しみの起きる原因である。 とあり、ここでは「執着→生存→苦」という複雑なものではないが、のちに十二縁起説につながっていくであろう縁起説を読み取ることができます。  このように、四章の「争闘」の部分で使われていた考え方が、三章の「二種の観察」というところになると縁起説として花開いています。  上述のように『スッタニパータ』のなかだけでも、古層最古層の間では仏教の思想遍歴を読み取ることができます。また特に四章なんかが古いということは小部経典の『自説経』や律蔵の中には、論議第一のマハーカッチャヤナ尊者の弟子のソーナって人がお釈迦様に「youみんなにお説教しちゃいなよ」って言いわれて説いたのが第四章で、お釈迦様に「you勉強してんな」って褒められたって話がありますから、四章はお釈迦様の在世中から存在して多くの弟子たちが勉強してたかもってことをにおわせています。ですから、「ニッデーサ」において、四章、五章、犀角経のみが注釈されていたということは、やはりこの三経は『スッタニパータ』におさめられている経典の中でも最も古い成立を持ち、ほかの経典は「ニッデーサ」以後のお経なのではないかとも考えられるわけです。 >>最近は、ニッデーサとはなんなの。なんて困っている状況です。  私自身は「ニッデーサ」に関しては、ほとんど名前と、どんな立ち位置のものなのかということぐらいしか知らないので何とも言えませんが、ある意味お経を集めて『スッタニパータ』として成立するまえからあった、解説なんじゃないかな。  ここからは余談ですが、『スッタニパータ』の中の『犀角経』のなかの、「犀の角のように」という部分は誤訳ではないかって話があります。犀の角という部分はパーリ語では「カッガ・ヴィサーナ」というんですが、まず「カッガ」は第一の意味は「剣」、二義的な意味で「犀」を表します。そして「ヴィサーナ」は「角」を表します。このようなことから一般的には「犀の角」と訳すわけですが、アメリカ(だったと思います)の言語学者フランクリン・エジャートン氏は「カッガ・ヴィサーナ」は本来第一義的な意味で理解すべきであり、「剣のような角を持つもの」という意味で犀そのものを表す言葉ではないかと考えられているようです。あくまで、この経ができた当時は「カッガ・ヴィサーナ」で犀を表していたものが、おいおい「カッガ」のみで犀を表す第二義が生まれたのだというんですね。  個人的には一理あるんじゃないかと思ってるんですが、まだまだこんなことも議論されてるんですね。こんなことからも、語源の研究や言語学的な研究によって、まだまだ初期経典の訳や解釈もが変わっていくんじゃないかと考えたりします。果てがないですね。  あぁ、なんか答えになってませんね。申し訳ないです。本と私は初期仏教に関しては知識がないことを思い知らされます。急ごしらえのため誤字脱字乱文ご容赦ください。 合掌 南無阿弥陀佛

noname#195588
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 詳しく調べていないので、なんとも言いようがないというか 間違いだらけのトンデモ発言になるかもしれませんが 初期の仏教に苦の考察がまだ無かったり、 ブッダという言葉よりも、ムニと言う言葉が多かったり、 安らぎを見て、ばかばかしい、つまり愚か、と言われたり。 なんだか初期の仏教は浄土教っぽいのかなあ、などと 無理があるかもしれませんが、なんとなく思ったりしました。 縁起も悟りもまだなくて、安心だけがあった愚かな人。 なんてね。すみません。

回答No.7

こんにちはです。 また、しゃしゃり出ます。 NO6さんの回答にあるように、中村説では《nibbuta》は、覆いが取り去られた、英語でいうと《un-covered・覆われていない》《without cover・覆いが無い》みたいに解釈されています。そして、これが、一般的な解釈です。 ではあるのですが、 《煩悩》を取り去ることは可能なのか? ───────── 1 蛇の毒が(身体のすみずみに)ひろがるのを薬で制するように、怒りが起こったのを制する修行者(比丘)は、この世とかの世とをともに捨て去る。──蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである。 ───────── 「《怒り》が起こる」→「それを制する」 なので、煩悩・怒りは、取り去られてはいない。 ただ、コントロールされているだけ。 ───────── 2 池に生える蓮華を、水にもぐって折り取るように、すっかり愛欲を断ってしまった修行者は、この世とかの世とをともに捨て去る。 ──蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである。 ───────── 「愛欲を断った」もこの文脈で考えなければいけない。 愛欲その物が取り去られたのではなく、それが制されていることを 「愛欲を断った」と表現しているにすぎない。 涅槃に対しては、こうした考え方もあるのです。 このことを裏付けるように、阿含経か何かに、 成道後のゴータマさんが、無比女という女性に対して、恋愛感情を抱いた。 あるバラモンに対して激しい怒りの感情をおぼえた などなどの話が載っているそうです。 つまり、一部仏伝の使えるゴータマさんは、煩悩を完全に取り去ってはいない、ということになります。 で、こうした話が、例の《有余涅槃》や《無余涅槃》の話につながっていきます。 基体としての煩悩、あるいは煩悩の基体・発生源としての肉体の有り無しで、涅槃を二種類に分類する。基体が有るのが《有余涅槃》、無いのが《無余涅槃》とするわけです。 であるとするならば、 《nibbuta》は、煩悩という覆いが未だとれていない状況と考えるしかない。ただ、それがコントロール、制御されていて、表面的に現われていない、と考えるしかない。 《nibbuta》は、《un-covered》や《without cover》の意には解釈できないワケです。 中村説には、ここに《致命的な欠陥がある》と思います。 涅槃を心の平安ととらえるのは、その一つの現われなのでしょう。 中村説は、日和見。この問題についてどっちつかず、の印象があります。 なので、 文法的に多少の無理をしてでも、 《nibbuta》《nirvRta》という語を、整合性のある意味にせねばならない!! で、 ネコは、無い知恵を振り絞って、「覆い(cover)をかぶせて、煩悩という火を消し止める」の意に解釈したというワケです。 ゴータマさん涅槃は《煩悩コントロール》説を採用した次第です。 舞台裏を申し上げると、こういうことでおま。 パーリ語のスッタニパータを調べてみた───ただ、nibuttaで検索をかけただけですが、ポリポリ───、 nibbutaという言葉がむき出しで出てくるのは、一度だけですね。 そのほとんどは《abhi-nibutta-tta》か《pari-nibbuta-tta》の形で出てくるみたい。 語尾の変化があって《abhi-nibuttatto》となっているけれどね。 abhi-nibutta:「abhi(perfectly・完全に」+「nibbuta」。 で意味は、 perfectly cooled, 《camled・こころの安らいだ》.... になるんだった。 で、 abhi-nibbuta-tta=《abhi-nibbuta》+《citta(こころ)》 で、意味は「of cooled mind」になるんだって。 abi-nibbuttaは、「ク~ルな」か。「く~る」じゃん。 ☆☆☆☆☆☆ ほれ、以前、 かざみどりさんが「涅槃について」質問をしたときに、 《有余涅槃・abhinibutta》か《無余涅槃・parinibbutatta》みたいな話が出たじゃん。 で、その時に阪大の博士課程の院生さんの論文 ”『スッタニパータ』「ヴァンギーサ経」における涅槃について” http://ir.library.osaka-u.ac.jp/dspace/bitstream/11094/4986/1/mrp_042_049A.pdf の話題が出たでしょう。 ───────── 2)nibbāna の語源について、従来よく言われる「吹き消す」は誤解であり、Sakamoto-Goto[1993 : 300, n. 15]や榎本[2002 : 149, n. 22]が指摘するように、「消える」が本来の語源である。 過去分詞形 nibbuta については、藤田[1988a : 265]、中村[1993 : 873]、松本[1989 : 198]とも、語源を nir+vta (cover) とし、否定の接頭辞 nir がついた形で、「覆いをとりさること」「ときほごされた状態」と捉えている。しかし、並川[2005 : 74]はnirを「否定」の意味ではなく、全く逆に「確定」ととり、「しっかりと覆う」という意味ではないか、と定説を覆す見解を述べている。これらの意見に対して榎本[2005]は、nibbuta が cover(覆う)の意味の動詞語根 √ v に由来する説に疑問を呈し、ジャイナ文献でパーリ nibbuta のアルダマーガディー語対応形である nivvuḍa の用例を改めて検討し、nivvuḍa 自体にこれらの意味を積極的に認める根拠は見出されず、仏教のパーリ文献においても nibbuta が nibbāyati (nir √2vā) の過去分詞の役割を果たして『火の消えた』意味で用いられることを指摘している。筆者もこの説に準じる。 ───────── ネコの「nirVrta」の語義解釈は、ここにある《並川説》に近い。 まったく、デタラメってワケじゃ~ない!! ───実は、これを書いている最中に、この注を読み返し、ネコと似たようなことを考える人がいるのだな、と思ったのであった。《nir》が前に付いているからって、必ずしも否定の意味とは限らないんだわ!!───

noname#195588
質問者

お礼

第一章の1と2が出てきたので参考に THE TIPITAKAのサイトからスッタニパータの第一章の1と2をコピペ。本当は、Buddhism Downloads のPTS Versionのpdfをコピペできるといいんですけど、文字化けするので代わりに違うサイトを使用。THE TIPITAKAのサイトは違っている箇所とか、 入力ミスがあったから参考程度に。 1. Yo1 uppatitaṃ vineti kodhaṃ visaṭaṃ sappavisaṃca osadhehi, So bhikkhu jahāti orapāraṃ urago jiṇṇamiva tacaṃ2 purāṇaṃ. 2. Yo rāgamudacchidā asesaṃ bhisapupphaṃ'va saroruhaṃ vigayha, So bhikkhu jahāti orapāraṃ urago jiṇṇamiva tacaṃ purāṇaṃ. ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ vinetiパーリ語辞典 水野弘元著 vineti:vinayati [vi-neti<nī.cf.vinaya] 調伏す; 教導す,訓練指導す.imper.vinaya,vinayassu; opt.vineyyaṃ,vinayetha; fut.vinessati; aor.vinesi; ger.vineyya,vinetvā,vinayitvā,vinayitvāna; grd.vinetabba,vineyya; ppr.vinayaṃ ( sg.nom.); pp.vinīta. http://palidictionary.appspot.com/ というかパーリ語がわからないわけで。 これであっているのかわかりません。 2つ目はさらにわからない。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ Fausbollの英語訳。pdfからコピペできなかったので、 手で入力しましたから誤字があるかもしれません。 1. He who restrains his anger when it has arisen, as (they) by medicines (restrain) the poison of the snake spreading (in the body), that Bhikkhu leaves this and the further shore, as a snake (quits its ) old worn out skin. (1) 2. He who has cut off passion entirely, as (they cut off) the lotus-flower growing in a lake, after diving (into the water), that Bhikkhu leaves this and the further shore, as a snake (quits its) old worn out skin (2) 英語だとrestrainとcut off かな。

回答No.6

 どうも、わたくし俗には浄土真宗のボーズと呼ばれるものです。言語学的なところは一般的な仏教学程度の知識しかないのですが、わかるところだけお話しさせていただきます。  日本語訳の底本は一番手に取りやすい中村元氏の『ブッダのことば』からとさせていただきます。 >>スッタニパータのパーリ語テキストを読んで >>涅槃と訳される言葉には >>「nibbuta」と「nibbāna」があることがわかったのですけど、 >>この違いは何なのでしょうか? 「ニッバーナ」と「ニッブタ」ってことだと思うんですけど、一応語源としては現在の仏教学的には先にもあげている方がいらっしゃるように、両方とも「消える」とか「覆いを取る」という言葉から派生したと考えられているようです。私も根本的な意味としては二つとも同じだと思います。  この二つの言葉の使い方ですが、用例を見ていきますと「ニッバーナ」のほうは 1086「ヘーカマよ。この世においてみたり聞いたり考えたり識別した快美な事物に対する欲望や貪りを除き去ることがニルヴァーナの境地である」 1094「いかなる所有もなく、執着を取り去ること、―これは洲(避難所)に他ならない。それをニルヴァーナと呼ぶ。」 中村氏はサンスクリットの「ニルヴァーナ」という読み方を採用しておられますが。これが「ニッバーナ」の用例の一部です。  では「ニッブタ」の方を見てみますと、 1041師(ブッダ)は答えた「メッテイヤよ。諸々の欲望に関して清らかな行いをまもり、妄執を離れて、常に気を付け、究め明らめて、安らいに帰した修行者、-かれには動揺が存在しない。」 この「安らいに帰した」という部分が「ニッブタ」の訳語に当たります。 1087「このことをよく知って、よく気を付け、現世において全く煩いを離れた人々は、常に安らぎに帰している。」 この文では「全く煩いを離れた」が「ニッブタ」の訳語にあてられています。  このように用例を見ていくと「ニッバーナ」は名詞的な扱いで使われていて、「ニッブタ」はいわば「涅槃した」というような動詞的な用例で使われているように思います。一応ここでは『スッタニパータ』の中でも、最古層に分類される四章五章を見てみただけなので、ほかの用例もあるかもしれませんが、最古層ではそのような使い分けがされているようです。 >>それから、安らぎは「santi」でしたけれども >>すると、涅槃は必ずしも安らぎではないのでしょうか?  これに関しては詳しいことはわからないのですが、中村氏は「ニッブタ」を「安らいに帰した」と訳してますから、中村氏の説によれば涅槃=安らぎでもいいように思います。  急ごしらえのため誤字脱字乱文は御容赦ください。 合掌 南無阿弥陀佛

noname#195588
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 ところで、スッタニパータの第四章と第五章が古いとされる理由の一つに ニッデーサという註釈書があるらしいのですが、検索しても詳細がよくわからず。 Niddesa (Pali Text) https://mywebspace.wisc.edu/jrblack/web/BU/DL/niddesa.html たとえば、wikipediaには ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ また『スッタニパータ』の注釈書として『ニッデーサ』(義釈)が伝えられている。『スッタニパータ』の第4章と第5章のそれぞれに大義釈と小義釈が存在することから、この部分がもっとも古く、元は独立した経典だったと考えられている。 『ニッデーサ』は文献学的に『スッタニパータ』と同時代に成立したと考えられている。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%83%83%E3%82%BF%E3%83%8B%E3%83%91%E3%83%BC%E3%82%BF ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ニッデーサには「犀の角」も、註釈されているみたいなんです。 でも、ふつう註釈書というのは、先に本文があって、 その後に成立すると思いますし、 たまたまニッデーサが第四章と第五章と犀の角を註釈していただけではないか? などと思ったりもしても、なにぶんさっぱり分からず。 最近は、ニッデーサとはなんなの。なんて困っている状況です。

  • kurinal
  • ベストアンサー率10% (128/1195)
回答No.5

kazamidori365様、おはようございます。 中村元先生の訳書(文庫)で、小乗仏教の世界(観)を知った者です。 それから、心理学なども少し学びました。 (パーリ語なんて全然わかりません。) >「涅槃は必ずしも安らぎではないのでしょうか?」 ありがとうございます。私には、中村元先生の訳書で十分でした。

noname#195588
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 サンスクリットの仏典のほうがいいなら こういうサイトがありましたよ。 Digital Sanskrit Buddhist Canon http://www.dsbcproject.org/ 大阪大学インド学仏教学研究室ツール集 http://www.let.osaka-u.ac.jp/indology/tool_fm.html 他にもあるみたいです。 オスロ大学 Bibliotheca Polyglotta http://www2.hf.uio.no/polyglotta/index.php このサイトのThesaurus Literaturae Buddhicae

回答No.3

あっ、ごめん、間違っている。 【誤】「〔何かを〕かぶられて、火が消えちゃった」 【正】「〔何かを〕かぶせられて、火が消えちゃった」 【誤】nirvANaが、通説のとおりに√vaを語源としているならば 【正】nirvANaが、通説のとおりに√vAを語源としているならば だね。 いつも、面倒いから、英語表記しているんで、vAをvaと書いてしまった(ポリポリ)。 ついでついで。 でも、最近、 涅槃を、煩悩が消失した状態ではなく、「煩悩が完全にコントロールされて、それが発現しない」とする説が、少しずつ支持を集めているみたい。 また、欧米を中心にして、nirvANaの語源を√vRにする説が徐々に支配的になってきているようです。

回答No.2

☆教えてもらいたくて、誰かに質問しても  答えてくれる人もいなくなった。 ◇ネコがいるじゃん(ニコニコ)。 ☆インターネットに投稿して批判されてまでやることでもない。 ◇シャレでさぁ~。本気にそんなことを思っているわけじゃ~ない!! まぁ、そんなヤケを起こさないでください。 せっかくパーリ語の勉強をはじめたのですから、続けてくださいな。 パーリ語はまったく分かりませんが、お手伝いできる範囲内で協力いたしやす。 「ウッ」と、ネコを絶句させるような質問をどんどんしてくださいませ!! ☆☆☆☆☆☆ ついでなので、ちょっと小難しい話をします。 でも、ネコは専門家じゃ~ないから、話半分に聞いてね。 nirvRtaの語根は、「√vR」なんすよ。 つまり、nirvANaとは、語源が違う。nivANaは√vA)が語源(?)。 vA:to blow out vR:to cover, cover up とかの意味。 で、nirvRta(にるヴりた)は、 nirvRta:covered up, extiguished とかの意味になる。 イメージ的に言うと、 「〔何かを〕かぶられて、火が消えちゃった」 みたいな感じ。 nirvANaが、通説のとおりに√vaを語源としているならば、 ニルヴァーナは、「〔フッと息を吹きかけられて〕、火が消えちゃった」、「吹き消された」状態みたいな意味になる。 語源から探ると、ちょっとイメージが違うわけです。

回答No.1

また、そういう難しい話を。。。 僕を困らす。 困ったもんだ、kazamidoriさんは!! Pali語なんか、知らないもん、猫は!! 遅れましたが、こんにちは。 辞書(A Comparative Dictionary of the Inod-Aryan Language)によると、 nibbutaは'happy'の意味らしいです。 サンスクリットだとnirvRtaっぽいね。 【nirvRta】 http://spokensanskrit.de/index.php?script=HK&beginning=0+&tinput=nirvrta&trans=Translate&direction=AU 例の辞書によると、 to attain nirvANa (涅槃を得ること) なんてのがある。 同じ意味でいいんじゃないの。 細かいことを言えば、 nibbutaは過去分詞から作られた言葉(たぶん、そうよ。きっとそうだ)ってことになるので、 完了の意味とか出てくるのかもしれないけれど。

noname#195588
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 難しいですよね。 回答がつかないかと思いました。 私は最近、むなしくなってきました。 これ以上は、パーリ語の勉強をしないといけないし、 自分の能力の不足もある。 教えてもらいたくて、誰かに質問しても 答えてくれる人もいなくなった。 それよりなにより、もう仏教の勉強をしていても 意味がないような気がしてきました。 正直、santiとかnibbutaとかどうでもいいのだと思います。 結局、悟りとか、縁起とか、空とか、涅槃とか そういう話のほうが大事であって、 わざわざ探求したところで何の意味も無い。 インターネットに投稿して批判されてまでやることでもない。 それこそ、私はここで、終わりでいいと思いました。 あとは、もっと才能があって、人望がある人がやるでしょう。 パーリ語のテキストはネットにありましたから。 今まで、ありがとうございました。

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    私は、潔癖症&不潔強迫を煩って8年になります。 とことん酷くなったのが4年前から。 お風呂から上がった後は、いつもさっぱり&爽やかで居たい為、拭き掃除を必ずします。 各部屋のドアノブ、リモコン、携帯電話、ソファー、電気のスイッチ、 パソコンデスクやマウス・キーボード、チェア等など。 そして、拭いていない物を触った場合は、直ぐに石鹸で手を洗います。 けれど、毎日毎日拭いたり洗ったりするのは精神的にも肉体的にも疲れてしまいます。 そんな中、この症状を克服したいと、この1年の間で何度か意図的に洗わな い・拭かないを実行した事があるのですが、大抵翌日には挫折してしまいます。 酷いと数時間後に。 理由は、肌の感触が不快だからです。 拭いたソファーはサラっとしていて肌触りが良くとても気持ち良いのです が、拭かないと腕や脚が痒くなり、若干肌にベタとくっついて来てその感 触が不快なのです。 また、拭いた携帯電話やリモコンは、とてもさわり心地が良く、ピタっと 吸い付く様に握れるのに、べたついたり、ぬるついたりはしません。 しかし、これを拭かないままにすると、ツルンとすべったり、拭いたとき の様なさっぱり感が無い為、とても不安になります。 その他も同様の理由で挫折してしまいます。 今、また再びチャレンジしているのですが、やはり手足が痒くなったり、 さわり心地の悪さに不安になったり、手の平も今まで石鹸手洗いで除去 し続けてきた皮脂が分泌され始め、常にではありませんが以前より 明らかにヌルつく場面が増え不快でたまりません。 どうしても、『拭く・洗う』をした時の感触と比べてしまい、その心地良かった思い出に心が折れそうになります。 手のヌルつき・ベタつきが不快で、しょっちゅう手を洗ったり、お風呂の 後、拭き掃除をされる方はいらっしゃいますか? 逆に、手洗いなど特に気にされない方、普段の生活において不快に感じら れないものですか? 因みに、新聞を読んだ後に残るカサカサとした感触も不快で仕方ありません。 普通なら、新聞を読んだ位で手なんて洗わないのですよね。 昔は、ほとんど気にしない性格だったのに、洗う・拭くの生活が長いせい もあり、昔の記憶・感覚が思い出せません。 是非、皆さんのご意見をお聞かせ下さい。 『病気だから病院に行くように』とかのアドバイスではなく、皆さんの 感覚を教えて下さい。