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和の思想は、どうしてできたのでしょうか?
和の思想が、この国の伝統的な文化であることは、なんとなく分かるし、誇りにすら思うのですが、縄文から弥生時代にかけて、その思想はどのようにしてできあがってきたのでしょうか。やはり朝鮮からの移入ですか。それとも原住民が異民族の流入のなかで、折り合いながら生きる思想でしょうか、それとも弥生時代の農耕や漁撈などの集団生活の中で確立して行ったものでしょうか。 なお、この国は災害大国ですが自然観や災害観との関わりはいかがでしょうか。それは仏教の影響の方が強いのでしょうか。それとも、古代のアニミズムやシャーマニズムの延長にあるものでしょうか。和の思想との関わりが分からなくなりました。
- wet-dry
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質問者が選んだベストアンサー
こんばんは、とても興味のある問題ですね。少しばかりこの問題をアップグレードして考えてみました。 「和の思想」なるものが如何なる現象を指し示すのかを一先ず規定するならば、質問者様の意図として恐らくは「予定調和」を想定されているのでしょう。 それであるならば、古代ギリシアやローマそして中国の百家争鳴に見られる「議論百出」などの形は規範原理も異なると考えるのが論理としては優位性を保ちうると考えられます。 例の厩戸聡耳が遺したとされる十七条憲法も道徳や役人の服務規程などであり、またその人物が生存していた時代背景なども擦り合わせてみますと、「和の思想」を思想的規範の範疇に含めるのは、何やらあやしいとの可能性も考えられます。 むしろ質問者様がご指摘の「社会組織」による行動から規範原理の基とも呼べる意識が形成されてきたような印象があります。集団の存在を前提とした農耕文化であり、それは地縁的共同体の成立を前提と考えるならば自然でしょう。 耕作を行うには水が必要であり、その「水」を耕作地までどの様に引き入れるかが文字どおりの死活問題にもつながります。当事者にしてみれば、規範などは二の次の問題でしょう。とにかく日々の生活を維持するためには協同して作業を行わねばならない。だから水を確保するなり、集団で狩りをするなどして獲物を手に入れねばならないとの切実な問題に直面していることを考えるならば、それは集団の中でのみ通用するルールと考えることが妥当でしょう。その指示命令を下す意味でのチームリーダー的な存在が生まれ、そこに権力と富が集中する形になっていったと考えるのが自然です。違和感もありません。 件の人物が他界した後、日本には律令が「システム規範」として移入されます。しかしながらその底流にあるのも前代からの世襲などの「血の論理」です。上卿や殿上人などと呼ばれる限られた階層による「表向きの合議」が関与する意志決定のあり方です。 また同時に「和」といっても「誰にとっての『和』」であり、「誰から見ての『和』」であるのかによっても、とらえ方は180度逆転することもあります。個人的には「和の思想」が日本の全史的過程および構造において貫徹していたとは思えません。
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- rabbit_cat
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質問者の言う「和の思想」が具体的にどのようなものを指すのか分かりませんが。 とりあえず、現代の日本で、「和」とか伝統とか一般的に言っているものの多くは、江戸時代もしくは明治以降に確立したものだと思います。
お礼
聖徳太子17条の憲法を頭に置いていたんですが・・・確かに、客観的に「和の思想」として確立してくるのは、近世以降ですね。ありがとうございました。
- cfasfaf
- ベストアンサー率37% (3/8)
古来の日本人は尚武の民というか 和の思想とは真逆の荒くれた民族だったみたいです そのことは中国の歴史書にも書かれていて年中部族どうしで争ってたらしいです。 ではなぜそのような状態から和の思想が生まれてきたかといえば それは統一政権ができたからです 統一政権が出来た以上部族間のイザコザを戦闘で解決されては困ります。 例えば統一政権が出来た最初の頃は物部氏や蘇我氏が争って戦争を起こしたり とにかく内輪もめがよく起こっていました こうなると誰が困るかというと朝廷です 自分の勢力下で勝手に私闘をされては国としての体をなしません なので聖徳太子は和がどうこうと言い出し始めました つまり必要に迫られて生まれた思想と言えると思います
お礼
なるほど。しかし、和という思想が、統一国家として必要だという発想は、儒教の影響でしょうか?
- 莽翁寒岩 一笠一蓑一杖(@krya1998)
- ベストアンサー率20% (605/2887)
日本人【(心)性】のルーツの問題に繋がると存じます。 むろん、律令から江戸期までの歴史は相当にファクタにはなっていましょう。 湿度が多くて、女体になぞらえる国土を例示している方もおられます。 鎖国やこの国土内だけでの歴史と文化、そして限られた移動ということもありましょう。 無論、有史以前からはるかな昔から、数派に亙って大陸から、山東半島から、そして太平洋沿岸から移住してきた祖先たちがどのようにこの言語を作っていったかが問題でもあります。 幸か不幸か、朝鮮半島のエヴァンキは祖先にはなっていないようです。ただかれらが会話しているのを少し離れて聞いていると日本語を話しているような様子ですが、人種としてはともかく民族としては全くすごい昔から関係を分かれていると思います。 日本国内の言語も、明治以降はともかく、それ以前はお互いに外国語のようであったようですが、基本語と文法が共通していました。 今も近所のお店のご主人が郷里の秋田と話していると、東京を出たことのない私にはまったく通じません。 東京でも、子どもの頃、江戸いろは四十八組の一番筒のおじさんに可愛がられましたが、江戸語は私たちの言葉とはやはり違います。 幕末、志士たちは、会話のために謡曲調に語り合う事で意思疎通ができたそうです。
お礼
ありがとうございました。新しいヒントですね。
- jaham
- ベストアンサー率21% (215/1015)
朝鮮には「和」の思想はありません 朝鮮は 歴史を破壊しています、ですから日本の鎌倉時代の頃に作られた歴史書が最古です それより古い資料は好太王の碑だけです 残されている朝鮮の歴史は 重臣の権力争いと宗主国へのへつらいとだまし討ち です 和 など微塵もありません 百歩譲って二千年前くらいにはあったとしても 百済や高句麗の頃には影も形もありません 和 には仏教の影響もありません 仏教が渡来した頃には 和 は確立していました だから 仏教が渡来してから数十年しか経っていない聖徳太子の時代に 和を以って尊しと為す が いの一番に出てくるのです 篤く三法を敬え はその次です 言って見れば 日本教(大和教)です
お礼
わかりました。そういう日本教のルーツというか、文明の歩みが知りたいのですが。
- marbleshit
- ベストアンサー率49% (5033/10253)
十七にいう。ものごとはひとりで判断してはいけない。かならずみんなで論議して判断しなさい。ささいなことは、かならずしもみんなで論議しなくてもよい。ただ重大な事柄を論議するときは、判断をあやまることもあるかもしれない。そのときみんなで検討すれば、道理にかなう結論がえられよう。 聖徳太子の十七条憲法ですが、当然の如く法華経の思想の影響が濃厚ですね。 http://takato112.blog80.fc2.com/blog-entry-243.html
お礼
ありがとうございました。法華経とは、思いもつきませんでした。
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