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梶川与惣兵衛が浅野内匠頭を止めなかったら忠臣蔵は?
歴史にifは無意味だと思いますが・・・ 忠臣蔵自体が創作戯曲の様な存在であり、想像力を発揮・ifの世界に散策してみたいと思います。 そこで、皆様に質問します。 ◇松の廊下で梶川与惣兵衛が浅野内匠頭を止めなかったら、その後の忠臣蔵はどのような展開を見せるでしょうか? http://www.kusuya.net/%E6%A2%B6%E5%B7%9D%E4%B8%8E%E6%83%A3%E5%85%B5%E8%A1%9B
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これは皆さん、「喧嘩両成敗」 と言っているが、喧嘩ではない。 直後の取り調べで、 大目付は、間近にいて実際を見ていた梶川与惣兵衛に、「吉良は脇差に手をかけたか」 と繰り返ししつこく確認しています。 調書が残っています。 「切り合えば」 間違いなく 「喧嘩」 であり、両成敗です。 切り合わなくとも、 「脇差に手をかけて」 いれば 「応戦の意思あり」 ということで喧嘩と解釈されることになっています。 ところが吉良は、 そうしていないから、喧嘩ではない。 狂犬に咬みつかれたのと同じことだと解釈されたのです。 だから浅野は即日切腹であり、 吉良は 「神妙であった」 とされたのです。 浅野遺臣は、 これが不満で、喧嘩両成敗の武家の法に悖ると思いましたが、 幕法ではこれは喧嘩ではないというのが公式解釈です。 で、質問の 「梶川が止めなければ」 ということですが、 まず梶川は譴責を受けます。 刃傷の場に居合わせて、 傍観していては幕臣の勤めに反することで、 殿中の法度をやぶった者を取り押さえなければいけません。 討たせてやるのが武士の情け、 そのあとで取り押さえれば、というのもだめです。 討たせる=不祥事を完結させるまで手出しをしないのは居合わせた幕臣には許されません。 何らかの譴責処分を受けます。 肝心の遺臣たちの行動ですが、 止めないことによって浅野は吉良を討ち果たしたのなら、仇討の理屈は立たなくなります。 恨みはかえって吉良側に残ります。 浅野家取り潰しでおしまい、という他の方の意見に賛成します。 梶川が止めなくとも、殿中しかも松の廊下には人がたくさんいますから、浅野の好き放題にはならなかったとして、史実のとおり吉良は生き残ったとすれば、君父の讎はともに天をと言った仇討の理屈が生きることになります。
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忠臣蔵は好きで見ています。その時は当然、大石内蔵助を中心に見ています。 地元、県内のものとして言えるのは 家康が松平の姓の時からの家来の直参旗本の家に 分家の小大名がいちゃもんをつけてくること自体おかしいと思います。 時の幕府としても 喧嘩両成敗でも 身内とよその大名と同じ扱いはできなかったのではないかと思いました。当然、吉良のほうに有利になるように思います。江戸時代初期から 難癖をつけておとりつぶしの大名家は百近くあると思いましたが。 吉良死亡で浅野家おとりつぶしで 終わり、忠臣蔵はなかったことになるのではないかと思います。
お礼
ご回答賜りまして、誠にありがとうございます。 >地元、県内のものとして言えるのは 家康が松平の姓の時からの家来の直参旗本の家に 分家の小大名がいちゃもんをつけてくること自体おかしいと思います。 時の幕府としても 喧嘩両成敗でも 身内とよその大名と同じ扱いはできなかったのではないかと思いました。当然、吉良のほうに有利になるように思います。江戸時代初期から 難癖をつけておとりつぶしの大名家は百近くあると思いましたが。 吉良死亡で浅野家おとりつぶしで 終わり、忠臣蔵はなかったことになるのではないかと思います。 ↓ そうですか・・・外様の中小大名の幕府権力権威への挑戦として見れば仰るとおりであり、全体の流れとしても同様に動いていますね。 しかし、外様・譜代の大名や江戸庶民の仕置きへの不平不満は大きく成り、現代の抗議行動や掲示板での炎上の如く激しい批判非難に幕閣も御用学者や僧侶も影響を受け、宥める為にはガス抜き(吉良への処罰・浅野家への穏便な処置)に動いたのではないでしょうか。
- あずき なな(@azuki-7)
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忠臣蔵は浅野内匠の敵討ちなので 松の廊下がなければ起こらなかった…とも言えません 実は吉良は元々浅野や大石から憎まれていました 遅かれ早かれ 何事かは起きたはずです
お礼
ご回答賜りまして、誠にありがとうございます。 >忠臣蔵は浅野内匠の敵討ちなので 松の廊下がなければ起こらなかった…とも言えません 実は吉良は元々浅野や大石から憎まれていました 遅かれ早かれ 何事かは起きたはずです 赤穂浅野の城代家老(大石)と高家(吉良家)との間の確執とは・・・ ◇製塩法を巡る諜報戦? ◇勅使供応を巡る争い? 何があったのでしょうか、双方に面識・怨念があるとは思えないのですが ※高家 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E5%AE%B6_(%E6%B1%9F%E6%88%B8%E6%99%82%E4%BB%A3)
忠臣蔵の討ち入り自体が無くなるでしょう。 浅野内匠頭の切腹で幕を閉じるでしょう。 城の中で小刀を抜くのはご法度のはずです。 喧嘩両成敗の時代ですから。
お礼
ご回答賜りまして、誠にありがとうございます。 >忠臣蔵の討ち入り自体が無くなるでしょう。 浅野内匠頭の切腹で幕を閉じるでしょう。 城の中で小刀を抜くのはご法度のはずです。 喧嘩両成敗の時代ですから。 吉良の生死や重篤の度合い如何では、浅野家に対しさらに過酷な厳罰処置が下されていたと思います。 その結果、吉良側からの仕返しも考えられますし、浅野家側でも城の明け渡しがスムーズになされなかったのでは・・・ 城を枕に討死、殉死派が多くなっていたのでは? また、吉良の傷が軽ければ、不満派の家臣が纏まりを欠き、散発的に(裁きを下した幕閣や吉良への暗殺行動や門前での抗議の切腹)を企てる事態・事件が続いたのでは?
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