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死が訪れることは、悲劇か?

人生に形と意味を与えるには死が必要? 死がなければ人生は虚しいものになる。 永遠に生きられることが望ましいと思う人は その結果を熟慮したのだろうか? 人生が永遠に続くなら与えられた時間を 精一杯生きようなどという考えは無意味と なってしまう。 時間は永遠にあるのだから・・・。 そのような意味では、死が訪れないことの方が 悲劇ではないのか? (これは、あくまでも仮定の上での話しですが)

みんなの回答

noname#246942
noname#246942
回答No.2

「生き物」と言う観点から見れば、「生」と「死」は、「始まり」と「終わり」に他ならない。 しかし、人の「人生」と言う観点の中での「生」と「死」は、どちらも「通過点」となるのではないだろうか。 与えられた物に満足出来ないのは、人の常。 それは、「意識する」と言う上で、「形あるもの」「形ないもの」どちらに取っても言える事であり、その輪郭をハッキリと鮮明に、そして非常に曖昧なものにして行く。 自分が思うに、「永遠と言うものを意識して望む」者は、きっと「生そのもの」を望んでいる訳では無いのではないだろうか。 >人生に形と意味を与えるには死が必要? と君が言っているように、その者達に取っては 「人生に形と意味を与えるには『生』が必要」と思っているのかも知れない。 本来、動物の「本能」と言う観点の中では、「生に逆らう」事も「死に逆らう」と言う事も「意識」して行われるものではない。 「意識する」事の根底にあるのが「本能」なのだから。 そういう意味では、「人間」だけが他の動物と違い、意識した後に「条件」を求める生き物なのではないだろうかと考える。 「自分の死」に「納得するかしないか」、それは他の動物には「悟る」事はあっても、納得する事など決してないように、永遠を望むか望まないかの本質に当たる部分になると自分は思う。 >精一杯生きようなどという考えは無意味となってしまう。 そもそもからして、永遠を望む者が「精一杯生きる」などと言う考え自体を持っていないのかも知れない。 であるならば、その言葉に元から意味など無いに等しいのかも知れない。 自らの命は永遠でも、周りの命は永遠ではない中で、それを悲劇と呼ぶのかどうかは、本人より他に知る由はないのかも知れない。

dokidoki777
質問者

お礼

仮に人間が意識して生を考えないものであるならば 死を意識しないものであるのだろうか? 永遠に生きたいと思考するものが=精一杯生きたい などという時間観念を持たないと言い切れるだろうか? なかなかむずかしいですね。 回答ありがとうございました。

  • nantamann
  • ベストアンサー率30% (342/1138)
回答No.1

死がないならどうして生(生まれる)があるのでしょうか。 死があるから生物なのです。 生を繋ぐため食うことも、生きる最大の目的である生殖すら無意味です。もちろん感情も必要ありません。死がないのなら石っころと同じです。 >死が訪れないことの方が悲劇ではないのか? 生きているから死があるからそう思うのです。石っころに自我はありません。 >死が訪れないことの方が悲劇ではないのか? 中国の仙人のように現生の苦難から超越した存在という答えもできますが、これはあくまで生死ある人間の発想です。大人のおとぎ話です。 >死が訪れないことの方が悲劇ではないのか? ガリバー旅行記の天空に浮かぶ島には不死の人間がいます。彼らは死なない以外にありとあらゆる人間としての苦難(老、病気)があります。このような存在であれば悲劇と言えます。

dokidoki777
質問者

お礼

最近ようやく日本政府も健康寿命。 人が人として尊厳がある状況で生きている寿命と ただベッドに寝たきりでチューブがつながれていて 生きている状態と分けて考えるようになったみたいですね。 やはり人間、自分で好きになんでもできる状態で 生きている寿命を正式な寿命としてほしいものですね。 回答ありがとうございました。

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