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江戸時代の庶民は

江戸時代の庶民は天皇家をどれくらい知っていたので しょうか。江戸城松廊下の事件は天皇家の勅使、院使 を迎い入れる儀式の最中に起きた事件ですよね。 すると庶民は浅野氏が何故吉良氏を襲ったのか、そして その理由は何なのかをかなりの線まで知っていたのでは ないでしょうか。 また勅使、院使の行列も江戸庶民は目の当たりにしてい たとみるべきでしょう。すると天皇家というのは京都に ある幕府とは違う権力機構だということぐらいは知ってい たと思うのですが。

  • 歴史
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質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
  • nene-k
  • ベストアンサー率42% (118/279)
回答No.4

庶民にとって、松の廊下の事件が天皇家に結びついていたかどうかは存じませんが、天皇家の存在は一般庶民も認識していたと思います。 ただし、「幕府とは違う権力機構」としてではなく、「天照大神のご子孫である」という意味で… 今より、ずっと神仏に対しての思いが強かったでしょうしね。 江戸時代には、何度もお蔭参りがブームになってます。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%8A%E8%94%AD%E5%8F%82%E3%82%8A 確かに、これは、「仕事がサボれる」「奥さんが家事をサボれる」「子供が親に内緒で出掛けられる」なんて事で出掛けた者もいたでしょうが、基本、伊勢神宮の何たるかを理解してお参りをするのですから、たぶん知ってたと思います。 また、江戸も後半の関西では、天明の大飢饉に対して充分な対処をしない幕府に見切りをつけた民衆によって「御所千度参り」という現象が自然発生し、逆に、幕府のほうが朝廷の存在を再認識させられています。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%A1%E6%89%80%E5%8D%83%E5%BA%A6%E5%8F%82%E3%82%8A なので、多くの庶民が天皇家を知っていたと思います。

shojiayuturi
質問者

お礼

なる程、伊勢参りや天明の大飢饉での御所参りですか。 すると江戸にいる庶民は伊勢参り、関西の庶民は 飢饉で苦しんでいる現状を幕府ではなく朝廷に訴えた ということですね。全然知りませんでした。 ありがとうございました。

その他の回答 (3)

  • mekuriya
  • ベストアンサー率27% (1118/4052)
回答No.3

徳川家康の霊に、東照大権現の神号を贈ったのが天皇であることを知らないのは無知蒙昧な現代人だけです。

回答No.2

>江戸時代の庶民は天皇家をどれくらい知っていたのでしょうか。江戸城松廊下の事件は天皇家の勅使、院使を迎い入れる儀式の最中に起きた事件ですよね。 すると庶民は浅野氏が何故吉良氏を襲ったのか、そしてその理由は何なのかをかなりの線まで知っていたのではないでしょうか。 ここで言う庶民が、江戸四十八里の範囲の町民であれば、講談・瓦版などの大衆娯楽の部類である程度の情報は得ていた、とは考えられるが、その程度は当時の資料からは判然としない。 ただし、講談『忠臣蔵』の普及度との関係性もあるので一概には言えないし、興味をもっていた町人はそこそこ居たはずである。 といっても、極めてマイノリティであろうが なお、これが地方(江戸以外)であれば情報は皆無に近かっただろう。 もっとも、武家でも”有職故実”に関わる職務の武士くらいしか事件の経緯や情報は少なかったと思われ まぁ、簡単にいえば、江戸町人ではそれなり・・という程度であろう。 なお、綱吉公の統治時代でかつ勅使・院使の迎賓という大イベントの意味での騒動が大きく、事件そのものはかき消されていた・・というのが小生の私見である >すると天皇家というのは京都にある幕府とは違う権力機構だということぐらいは知っていたと思うのですが。 まず、権力・権威の二重統治体制というニアンスでの理解は史家・江戸町人・上方(京都方面)・武士は持ち得ていただろうとは思うが、そもそも権力という認識は存在しないと思われ。 西国方面であれば指摘されるような認識は武家では強くなるだろうが、庶民レベルではそのような意識が培われる土壌など存在しないだろう ただし、例外的に寺社勢力は、朝廷権力との関係性が強いことからある程度の認識はあっただろう 以上

shojiayuturi
質問者

お礼

そうですね、ある程度の知識はあったのでしょう。 当時、武士は天皇を天守様、幕府では天上人と 言っていたと記憶しています。すると庶民はやはり 同様に言っていたのでしょう。

回答No.1

 浅野が吉良に斬り付けた理由など誰にも分かりません。  当事者しか知りえないことで、当事者はいずれも「度重なる怨恨があった」、「私には心当たりが無いしあったとしても高齢で覚えていない」と語ったのみでいずれも詳細については何も語らぬまま死んでいますから、当時の庶民に限らず、我々も含め真実に触れることなど誰にもできないと思います。  勅使を迎える作法をきちんと教えなかった事への怨恨、という話自体後世の憶測、創作に過ぎません。  庶民が大名以上の行列を目の当たりにすることなどできません。  庶民は行列を前にして土下座することを当然の義務とされ、しなければ無礼打ちされました。  ですが帝の存在も社会に対して行う祭祀などの役割も広く理解されていたはずです。  貴族や皇室には位はあっても実際の政治的実権は武家に掌握され無いに等しかったので、権力機構という表現は正しくはないと思いますが、皇室が京の都にあり、帝が祭祀を司ってきたことは広く世間の常識であったと思います。

shojiayuturi
質問者

お礼

そうですね、松の廊下の事件は当事者しか分からない ところも大部分あると私も思います。 大名行列などは道で遭遇した人は土下座をしますが 二階家では隠れて見ていた人も多くいたそうです。 やはり庶民も天皇の存在は知っていてそれなりの 知識はあったようですね。

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