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ゴータマ・シッダールタの説いた教えとは?

neil_2112の回答

  • neil_2112
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回答No.4

補足を拝見しました。それでは、続きを少し逆の方向から書いてみます。読みにくいのは私の責任でどうかご容赦ください。 釈迦の覚りの根本は、やはり「縁起」ということです。(これについては過去に簡単に回答していますので宜しければご参照ください) 「悟りとは?」:http://www.okweb.ne.jp/kotaeru.php3?q=550238 要するに、この世の存在や現象は全て相互の関係のなかで生まれるもので、「本質」というものは存在しないのですが、それにも関わらずひとは確固たる自己があるかの如くに錯視して様々の苦しみを自ら招いている、という認識が釈迦の根本にあったのです。 雑阿含経には以下のようにあります。 「比丘達よ、縁起とは何か。生によりて老・死がある。如来が世に出ようと出まいと、これは法として定まり確立していることである。つまりものごとは相互依存的なのだ。如来はこれを知り、明らかにしたうえで『お前達よ、これを見なさい』と説くのである」(因縁法経、私訳) つまりここでは、「死」というものは観念である、と説かれているわけです。「死」は「生」という概念と対でしか生まれない相依的なものだ、それなのに「死」を実体の如く観念してしまうことが苦を生んでいるのだ、という鋭利な指摘がなされています。 ここで説かれる縁起という関係性は当然釈迦という人間にも当てはまる普遍のもので、これこそを釈迦は「法」と認識していたのです。そしてその縁起を体得するために出家者はいろいろな修行を行ったというわけです。 しかし釈迦の没後、部派仏教としてよく知られているように、教団は守旧派と革新派の分派を細かく繰り返すようになります。この間にどんどんと教理要綱が複雑に積み上げられるようになっていき、理論が精緻化するにつれ、釈迦の経説の本質がかすんでくるようになるのです。 6にある「三千世界」なども、この間のアビダルマ仏教が「倶舎論」という書物を通じて確立させたものです。「倶舎論」は全30巻で、その全体が戒律や業論に関する細かな教学から始まって、下は物質の構成から人間の生存や知覚のシステム、上は宇宙の成り立ちを含めた空間論・時間論に至るまで、こと細かに記載されているのです。特にその中の第11巻「分別世品」に、どうやって考えついたものかわかりませんが宇宙の大きさ、須弥山の大きさや形態、そこに住むものの寿命や特質を始め、三千(千の3乗)あるという世界の構造がつらつらと記されています。 釈迦が回答しなかった質問には、「世界は不滅かどうか」「世界の果てがあるのかどうか」というものもあって、釈迦は本来はっきりした宇宙観を説いていません。「なぜ説かないのか」という質問には、「正智におもむかないため」と回答しています(阿含経)。つまり、覚りに役立たないことだから、として宇宙観をあえて持たなかった仏教が、インド的思想を吸い上げる形で壮大かつ精緻な世界観を持つようになったのは、この部派仏教時代のカテキズム偏重、特に「倶舎論」が大変大きな影響を与えたからなのです。 明王や天部も、この倶舎論で明記されているものもありますし、もっと早くから原始経典に出てくるものもありますが、概ねヒンドゥー教の神格や土着の信仰が形を変えながら仏教に取り入れられたものです。こういった過程自体はどこの宗教でもあるもので、宗教が一般に伝播するうえで不可避的に出てくるものですね。 さて、8と9を合わせて。 極楽浄土と地獄という考えがあります。地獄は、後のイメージとかなり違うものですが、言葉自体は原始経典にもよく出てきます。それに対して浄土は部派仏教を通じてもほとんど説かれることはなく、やっと出てくるのはいわゆる大乗仏教からといっていいと思います(「浄土」自体が中国での造語で、buddha-ksetra=仏国土を意訳したもの)。 もともとは、仏教が大衆化するなかで、この世をどうにもならない汚いものとみて、せめて死後の世界でよりよい世界を求めたい、という気持ちからこういう「他方世界観」が生まれたわけです。ほかにも阿しゅく仏の浄土(歴史的にはこちらが早い)とか、弥勒の兜率天も同様です(未来仏としての弥勒菩薩の件は、阿含経に出てくる逸話で弥勒と翻訳されるMetteyaという弟子が釈迦に将来のお覚りを約束してもらった、という話が下敷きになっています)。 ただ、どこかよそによい場所を求めるのは大衆的ではあっても釈迦の本意ではありませんから、後には浄土思想にも大乗的な転換が生まれています。「この世を浄土として切り開いていく」、あるいは「己心の弥陀」といって「西方浄土も阿弥陀も自分の心の中にある」といった現実と向き合う浄土思想も誕生したことは付言しておきます。 10. 大日如来や昆慮遮那仏といった仏は「法身仏」(ほっしんぶつ)と呼ばれます。もちろん後代になって生まれたものですが、これは「宇宙の中心」というより「宇宙とそこで起こる現象全体」を表すものとして生まれたものです。 冒頭に「この法は如来の出現と関わりなく定まっている」という釈迦の言葉を紹介しましたが、この考えが法身仏の生み出された背景にあります。つまり釈迦という人間は新たな原則や教理を打ちたてたのではなく、それ以前からある原理を表現したに過ぎない、宇宙の誕生以来この世界そのものを動かしている「縁起」という原理をただ明らかに示したに過ぎないのだ、という立場がやがて、その理法そのものを人格的に仏と見たてて法身仏を生み出したというわけです。 釈迦は自ら説く「縁起」の外にあったのではなくて、縁起そのままに生まれ、覚りを得て亡くなったのですし、人間も含め世界の動植物や岩石草木という存在全て、雨が降り風が吹くといった現象全てがそのまま「縁起」という法の表れである、というわけです。 法がこのように広く捉えられてくると、我々の平凡な日常もまた新たな意味を持った、ありがたい存在として感じられることになってきます。 この感覚が、例えば華厳ならば「昆慮遮那如来の光明の中に百千億の世界があり、そのなかの微塵ひとつひとつで釈迦如来が説法する」、といった世界観に通じてきますし、また禅の方向に向かえば「山川草木がそのまま無言の経を説いている」といった数々の詩的表現になります。大日如来も、世界の根本的な理法というものを密教的に結実させたものだというわけです。 法身仏を言うのならば、本当は仏性論と空についての論理を語らないと大乗仏教の意義ははっきりしないものなのですが、それぞれ簡単に説明しつくせるものでもありませんので触れません。ただ、法身仏という大乗の思想の背景が釈迦の立場に通じるものであったことだけは理解して頂けると思います。 最後に末法について。ごく簡単に… 末法思想というのは種々に言われますが、もともとは訓戒ですね。つまりアバウトに喩えれば、企業が変化する時流のなかで偉大な創業社長の遺戒をいかに伝えようかと腐心するが如きで、無常を旨とする仏教であれば仏教そのものも衰えることは避けられない、「今我々がしっかりと伝えなければ後々に正法が伝わらない」といった遺弟子たちの心情がペースになって、やがてこれがインドで下降史観として定式化してゆくわけです。5世紀頃のこととされています。 釈迦は弟子たちに不放逸を、つまり怠ることなく修行に励むことを重ねて強調し、放逸には悪果のもたらされることをも説いています。末法思想は、個人における不放逸と悪果の関係が拡大されて、仏教全体の歴史に当てはめられた結果の史観である、とみることもできるでしょう。

参考URL:
http://www.okweb.ne.jp/kotaeru.php3?q=550238
yoshinobu_09
質問者

補足

 大変詳しいご説明おそれいります。  仏教の教えは理解するのに複雑すぎるので、まず釈迦の真説を理解しようというのが質問の意図です。  縁起とは、一切の事物は実体をもたず、複数の原因と条件が寄り集まって成立しているということを表すものだと理解しました。  老病生死、釈迦も如来もこの理の一部であるということですね。 >釈迦という人間は新たな原則や教理を打ちたてたのではなく、それ以前からある原理を表現したに過ぎない  この言葉は新鮮にひびきました。当たり前のことを当たり前だと確認したわけですね。ニュートンが引力を発見したのを思い出しました。  華厳や禅の考え方が発生した背景もわかりやすかったです。  三千世界、明王、天部、極楽、地獄などの教義が取り入れられた背景についてもよく分かりました。  ただ密教の神秘性がどこから発生してきたのだけはまだ理解できません。即身仏の思想や現世利益、超能力などの発想がどこから生まれてきたのでしょうか。  釈迦があえて説かなかった真理=密教という話を聞きました。在来の山岳宗教的なシャーマニズムと結びついたものでしょうか?

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