• ベストアンサー
※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:聖母マリアの処女懐胎の話を直視すればどうでしょう?)

聖母マリアの処女懐胎の話を直視すればどうでしょう?

o-saiの回答

  • ベストアンサー
  • o-sai
  • ベストアンサー率19% (199/1001)
回答No.15

現実から宗教誕生の成り立ちを考察すれば、マリアとは、ユダヤ民族によって強姦された娘です。 そういう娘たちは数知れず存在し、差別によって生涯を迫害されて終わっていました。 いわゆる一神教の歴史とは差別の歴史であり、理想として「博愛」「平等」を謳います。 後の世界ではカトリックとプロテスタントが殺戮し合い、自由を求めた新世界(アメリカ)は、 奴隷による綿花農耕で栄えます。 マリアとは、差別され続けたユダヤ以外の民族の叫びであり、歴史の必然でした。 質問者さんは宗派の細かい設定に疑問を持っているようですが、 大局的な視野でキリスト教とはなんなのかを眺めなおしてみたほうがいいように感じます。 聖書も「例え話の講話」ですから。

bragelonne
質問者

お礼

 お‐さいさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。  ★ 現実から宗教誕生の成り立ちを考察すれば、マリアとは、ユダヤ民族によって強姦された娘です。  ★ マリアとは、差別され続けたユダヤ以外の民族の叫びであり、歴史の必然でした。  ☆ 《差別》という《大局的な視野で》ユダヤ民族およびイエス以後の世界を見直せというご指摘でしょうか?  M.ヱーバーでしたか わたしはこの人物が嫌いですからあまり出したくないのですが そういった視点からユダヤ民族=《パリア民》説を打ち出しましたね。外部からは エジプトによる奴隷化を初めとしてそのようにいろんな意味で虐げられて来た民族であると見得るとして そのユダヤ民族の内部では こんどはさらに別に  ★  民族によって強姦された・・・娘たちは数知れず存在し、差別によって生涯を迫害されて終わっていました。  ☆ という歴史もあるのだと。のちから見てでしょうが マリアはその典型となったのだと。  そしてイエス以降の世界史においても ユダヤ民族もまだまださらに迫害を受けるわけですが そのほかの民族にしても 同じような社会的立ち場に追いやられているとしたら 言わば疑似体験のようなものを共有し その象徴としてまたはその心の拠り所として聖母マリアを 抱きつづけるようになったのだと。  ただですね。まづ この《除け者》論については 別の質問でやっているのです。  ○ 【Q:イエスは 排除された《第三項》か?】    http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa7322517.html  そうして この本質問は あくまで《けがれなき身ごもり》をどう解釈しておけばよいかを問うています。    ○ 物語としてはですが 聖霊によるけがれ無き身ごもりという《神格》の貌(かお)とそして同時に DNA によるふつうの人間としての受胎という《人格》の貌 これらふたつの貌があるのだ。こう認識するなら 無理なく――たとえおとぎ話としてであっても―― 一般に共有することが出来るのではないか?  こういう問いです。  ひとつの民族が他のそれらから虐げられたということは どういうわけか 歴史的事実のようです。そしてその内部でも 除け者にされいわゆる犠牲に供される人びとがいるということも 歴史の示すところだと思います。  ただ  ★ 現実から宗教誕生の成り立ちを考察すれば  ☆ という切り口からの発議だとすれば それは違うと考えます。  1. もとは――遠くさかのぼれば―― 個人の《非経験のナゾ》との邂逅にあります。アブラム(のちのアブラハム)という個人に 神が《この父祖の土地を去って どこかへ行け》とささやいたという《非思考ないしヒラメキ》にそもそもの初めがあります。  2. その子孫にもこの神が受け継がれ それぞれにおいて《信仰》が生きた動態となって現われたが たとえばアブラハムはその子イサクをいけにえとして捧げることを止めて 《人は人を殺さない》という命題を得た。これは 人間という存在にとっての《自由》という公理ですね。  3. ところが この公理は モーセのときに《なんぢ ころすなかれ》という倫理規範としての命題となって持たれるようになった。つまり それまでは 個人個人の信仰において持たれていた公理が 人間の言葉に翻訳されてその言語表現が規範(戒め)として持たれるようになった。  4. 信仰における神が 人びと共同の倫理規範を共有することにおいて あらたに・別様に 持たれるようになった。律法とも言いますが。  5. このような人びと共同の規範が 人間の言葉に翻訳した信仰の内容であるとして持たれるということ これが 宗教の初めである。  と考えるからです。《除け者の排除》問題とは 議論を起こす切り口もその発生の情況も違うと考えるからです。  どうでしょう? と言っても問うている問題が違うのではありますが。

関連するQ&A

  • 処女懐胎

    宗教、哲学について何の知識もありませんので教えていただきたいのですが、(キリスト教信仰者の方には失礼ですが敬称を省かせていただきます)キリストの母のマリアは処女で懐妊してキリストを産んだことを処女懐胎とゆうことと思ってますが、素朴な疑問がいくつか出てきますので専門的用語をなるべく避けていただいて教えてもらえればありがたいです。 1、マリアはどのように受精したのでしょうか 2、マリアとキリストは神様ですか人間ですか 3、神様の定義 そのほかいろいろ知りたいのですがまずはこの3つのことを教えてください。

  • イエスはヨセフとマリアとの子であり神の子でもある。

     (あ) イエスは ナザレの人たるヨセフとマリアとのコイトスによって生まれた子であり ふつうの人間であると同時に 神の子でありみづからも神である。  言いかえると  (い) マリアは 許婚のヨセフとの性交によってイエスを身ごもり生んだと同時に 神なる聖霊によっても身ごもったと言われる。  (う) イエスは 神の子でありみづからも神であるゆえに イエス・キリストと呼ばれるわけであるが その《人間であるイエスが キリストなる神である》というのは 大嘘でありひとつの物語である。  (え) ただし この虚構によって 神は――世界のどんな名の神も 神という神は  《無い神》をもふくめて―― すでに要らないと見なされるかたちで 揚棄された。  (お) だから もう神を知れ・うやまえとか神を信じなさいとか神などはいないとか いや いるんだとか いちいちあらそうこともなくなった。理論上 そうである。  どうでしょう?

  • 聖母マリアは 聖霊と精子との両方により身ごもった

     神 信仰ならびに宗教についての一般理論  第三章 補論: 聖母マリアは 聖霊と精子と両方により身ごもった  1. 聖母マリアは 許婚のヨセフとの交渉によって人であるイエスを生み それと同時に 聖霊による受胎において キリストを生んだ。  飛躍のある理論ですが これをたたき台として ご批判をどうぞ。賛成票も どうぞ。

  • 処女懐胎(受胎)はやっぱり誤訳だったのですか

    処女懐胎(受胎)はやっぱり誤訳だったのですか 誤訳だ、いや誤訳ではない。という争いはよくあったらしいのですが http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%87%A6%E5%A5%B3%E6%87%90%E8%83%8E 欄外のところを要約すると そもそも原本から”処女”という意味合いはなかったということでしょうか そもそも聖書ってキリスト教徒からして、どれほど正しいと思ってるんでしょうか どれもキリスト本人が書いたわけではですよね キリスト教についてはかなり素人ですが、疑問に思い投稿しました

  • キリスト教の神はだれなのでしょうか?

     キリスト教の神は誰なのでしょうか?  神の子=イエス・キリストは十字架の像をとってもよく見ます。聖母マリアもよく見ます。でも、  神自体の像を見たことがありません。  (聖母マリアは処女懐胎だから父親がわからないからという、ジョークはなしで)  ユダヤ教のヤハウェ(エホバ)なんでしょうか?ユダヤ教ならいざしらず、キリスト教の  新約聖書では全然でてきません。神の子のイエス・キリストを崇めるなら、なぜ神自体を  崇めないのでしょうか?  神=神の子(イエスキリスト)=霊魂 は一体という三位一体という理論ででしょうか?  でも、それなら、イエスキリスト自体を神と言えばいいと思います。なぜ、神の子というの  でしょうか?    本当は偶像崇拝禁止がいつのまにか偶像崇拝になり(まあ、異教徒への布教があったから  仕方ないのかもしれませんが)神の子と聖母マリアはさんざん偶像になるのに、神自体は  偶像にならず、不思議な気がします。  キリスト教の神とは誰なのでしょうか?  

  • 日本人になじみ深い『聖書』のなかの記述

    よろしくお願い申し上げます。 キリスト教の聖書のなかで、日本人に一般的に知られている部分、場面、言葉といったら、どういうものがあるでしょうか。 楽園からの追放、バベルの塔、イエスの生誕(処女懐胎)、最後の晩餐、ユダの裏切り、イエスの復活といった箇所はよく知られていると思いますが。 どうぞよろしくお願い申し上げます。 お好きな「聖句」も歓迎します。

  • 「三位一体」の創造主の神について

    少し疑問なんですけど「イエス・キリストの父」について、調べてると「ゼウス・アッラー・ヤハウェ(ヤコブ)」など「候補」がたくさん出てきます。 それってつまり A「創造主(イエス・キリストの父)は誰なんですか?」 B「創造主の神だよ」 A「だから、誰なんですか?」 B「なので、創造主の神だよ」 B「創造主の神ってことになってるんだよ」ってことになるんですか?

  • イエス・キリスト誕生の疑問

    キリスト教では、イエスの母マリアの夫ヨセフがダビデの家系の者なので、イエスはダビデの血筋となっていますが、マリアが処女懐胎したのならヨセフとの血のつながりはないはずなので、この部分の聖書の記述はとても矛盾していると思います。どのように理解したらいいのでしょうか。

  • キリスト教による祈り。

    キリスト教の信者になろうとしてます。 しかし、祈り方がわかりません。 誰に祈っていいのかがわからないのです。 見えない神様に対してなのか、イエスに対してなのか。 三位一体とうものがありますよね?? これは神様とイエスは同一であるということですよね?? それが私の中で理解できていないのでしょうが・・。 (主イエスキリストの名によってお祈りします)と皆さん お祈りされるときに言いますが・・・??? 意味がわかりません。 私の頭の中では神がイエスなら、上記のような言葉は不自然なんです。 たとえば神社で神様にお祈りするとき(どうか受験に合格しますように)と神様に対してお祈りしますよね? そのときってもちろん見えない神様につぶやきます。 しかし、キリスト教ってイエス様がいますね。 そのときイエスさまを思い浮かべて、イエス様に語るのでしょうか? 何を質問しているのか自分でも言葉にできないのですが・・・・。

  • 聖書の記述の信憑性について

    私は、キリスト教には詳しくない、仏教徒です。最近、聖書を読む機会があり、内容には感心したのですが、気になることがありました。 それは、聖書の内容の信ぴょう性についてです。 正直、マリアが処女懐胎したり、イエスが奇跡で病を治したり、イエスが1度死んだあとに生き返るといった記述は、実際に起こりえるとは思えません。信者の方、もしくは、協会では、聖書に記述されている出来事の信ぴょう性はどのように捉えているのでしょうか。よろしくお願いします。