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寺山修司さんの

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  • honnori
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回答No.1

 「マッチ擦る つかのま海に 霧ふかし 身捨つるほどの 祖国はありや」 こういう短歌でした。寺山修司さんは詩人で劇作家でもあって、短歌も若い感性でみずみずしさがあふれていて、それでいて愉鬱桜佐を表現する徳治の世界をもっていた人です。1960年代のカリスマと言いいいのでは。でも若くしてなくなられたので、これからさらなる活躍が期待されていたのに残念です。  ではこの短歌を素直に解釈してみると・・・  <マッチを擦ったその瞬間、海には深い霧が立ちこめていたことに気づく。命を投げ出すほどの祖国というものが自分にはなるのだろうか。>  こう書いてみると前半部と後半部とのつながりがあまりないように思えてくる。作者はあらためてこの国に目を向けてみると、自分はこの国に命を捧げるかどうかと聞かれたらないと答えるかな?自分にはそういう祖国がない気がするという感じかと思っていた。  調べてみて意外なことがわかってきました。 「寺山修司は青森の国民学校の3年生のとき、天皇のポツダム宣言受諾のラジオ放送を聞いた。そのときのことを、「つかまえたばかりの唖蝉を、汗ばんだ手にぎゅっとにぎりしめていたが、苦しそうにあえぐ蝉の息づかいが、私の心臓にまでずきずきと、ひびいてきた」(『作家の自伝』/A新聞)とあり、 「「身捨つるほどの祖国はありや」と謳った彼は、終戦がなければ、いつかは自分も戦場に出向かなければならない、その意味はあるのだろうか、と自分に問いかけていたのだろう。」 次のホームページの中にありました。http://www.mypress.jp/v2_writers/kanon77/?all=yes 子ども頃に終戦を迎えた作者の戦争に対する考え方が述べられていると考えられますね。ここで次のような話が出てきました。寺山さんはこの短歌を盗作したと考えられているのです。確かに本歌を利用した短歌が多いようです。 「マッチ擦るつかのま海に霧深し身捨つるほどの祖国はありや」 修司 「一本のマッチをすれば海は霧」 富沢赤黄男 もとは俳句だったのですね。それに「身捨つるほどの祖国はありや」をくっつけてきたと言うことになります。  無理矢理つけたと言うことでしょうか。彼は戦後日本がアメリカに流されていく姿を見て安保闘争に参加こそしなかったが、日本の現状に疑問を感じ、あるべき姿はどうなのかを自問自答していたのであろう。そして「この国命をかける価値があるのか、いやないといえよう」と感じ詠んだのであろうという見方もできるということがわかりました。「霧」は日本の将来への不安をあらわしていたのでしょうか。  ともかくも、夕暮れ時の海を前にマッチをする。霧に包まれている。と言うシーンは目に浮かぶ。美しいもはかないたんかと言えよう。  解釈するのは難しいですね。 http://www.wombat.zaq.ne.jp/sugane/frame/nichi12.html

参考URL:
http://www.wombat.zaq.ne.jp/sugane/frame/nichi12.html
noname#17364
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 私は詩の詠まれた背景などを知りませんでしたので、勉強になりました。また違った解釈の仕方があると感じました。 わたしは、「自分を縛り付けておかなければならないほどの郷里なんて無いのだから、我が道を進もう」という意味なのかなと思っていました。なるほど、戦争という背景を重ねると、違った見え方がしてきます。 ともあれ、構成のアンバランスとそこに漂う不安感のようなものがこの詩の魅力なのかなと感じています。 ありがとうございました。

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