• ベストアンサー
※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:《神を見た》という命題は 共有できない。)

神を見たれば 共有できぬ | 100字程度の要約文をまとめよ

BuffaloAndJtpの回答

回答No.10

確かに、人類が具体的に想像し得る【理想像】と絶対的な【イデア】との峻別の可否を巡りまして、古代から多くの方々が研究を続けてきたのだろう、と考えられますから、直接体験の内容の間身体的な翻訳の可否にはPPM(http://search.yahoo.co.jp/search?p=PPM%E3%80%80%E8%8A%B1%E5%BD%A2&aq=0&oq=PP&ei=UTF-8&fr=sb-kingbrw1&x=wrt)的な調査の価値が有るのでしょうね。 でも、拙い私見では、記号の根源的な【不完全性】のせいで、経験世界にも人類の手に負えない未踏領域が残り続けざるを得ない、と思われますので、(リアルかヴァーチャルかに関わらず、)経験世界の解釈が深まる前にいきなりに非経験の世界へジャンプする勇み足的な発想・修行の異常な難しさを感じました。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ヒラメキということが 人には起こります。  1. 直感としてイメージを得る場合。  あるいは  2. すでに何らかのまづは片言のような言葉をつうじての観想(テオーリア)が得られそこからさらにその片言の内容を経験思想としてととのえたかたちの理論(テオリ・セオリ)として得るもの。  ☆ これらは まとめてインスピレーションと呼ばれるもので 日本語で言うと少々語弊が出るかも分かりませんが 霊感です。  一般にスピリット=霊と言えば なんらかのかたちで《非経験の世界 すなわち 神》とのかかわりを持つものと捉えられています。  その限りで《神を見た》という表出は 主観にとどまる自己表出として 認められる余地があり ただしこれを経験思想として人びとが共有することはむつかしい。しかもただし これを《神の後ろ姿を見る》というふうに言いかえると 或る種の仕方で 経験思想としても 共有し得て話を交わすことができる余地がある。  こういうことを問うています。  ありがとうございました。

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     たたき台をしるしますので お考えを述べてください。  【§1】 エワとアダムの自由意志から始まった(創世記3:1-24)  (1) 生まれつきそなわった自然の自由な心にその心に背く自由もあった。:食べるなと言われた木の実から採って食べた。  (2) アダムよ きみはどこにいるのか? という心の声を聞いて 自由のおそろしさを知った。  【§2】 その子カインは 自由は自由ではないかと心に思った(承前4:1-17)  (3) 弟のアベルは おのが心に背かないみたいだ その能天気はマチガイではないかと兄はうたがった。  (4) 背かないのはおかしいではないかとカインは或る日 野原でアベルに迫ると アベルはその従順をとおした。これをカインは ころした。  (5) あらためてカインも 自由のおそろしさを知った。知ってみるとそこで《顔が落ちた》。  (6) 自由という畏れには 仕返しという観念がなかった。そのこともカインは知った。  ▲ (創世記 4:15) ~~~~~~~~~~~~~    主はカインに言われた。       「いや、それゆえカインを殺す者は、だれであれ七倍の       復讐を受けるであろう。」    主はカインに出会う者がだれも彼を撃つことのないように、カインに    しるしを付けられた。   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  (7) のちに:  ▲ (申命記19:21) あなたは憐れみをかけてはならない。命には命、目には目、歯には歯、手には手、足には足を報いなければならない。  ☆ というふうに復讐をすすめてもいるが:  ▲ (申命記32:35) わたし(=神)が報復し、報いをする  ☆ とも言っている。  (8) イエスの出たあとでは こう言う。:  ▲ (ローマ書12:17-21) ~~~~~~~~~~~  17: だれに対しても悪に悪を返さず、すべての人の前で善を行うように心がけなさい。  18: できれば、せめてあなたがたは、すべての人と平和に暮らしなさい。  19: 愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。    「『復讐はわたしのすること、わたしが報復する』    と主は言われる」(申命記32:35)  と書いてあります。  20: 「あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。    そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積むことになる。」  (箴言25:21-22)  21: 悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  【§3】 神のためならば《ころし》もありなのか? (創世記22:1-19)  (9) あなたの息子イサクをささげなさいと言われたアブラハムは 気のくるうばかりに悩み苦しみ考えた。  (10) ひとは おのれをもほかの人をも ひとをころすことはしない。という答えを得た。  【§4】 《なんぢ ころすなかれ》とモーセ (出エジプト記20:1ff.)  (11) これは 禁止命令である。アブラハムの主観内面における信仰とヒラメキを人びとのあいだに共同化したのである。  (12) モーセその人は個人としてアブラハムと同じくおのが心における内面の信仰にしたがっていたが 集団・社会としてはこの倫理規範を持った。律法と呼ばれる。法律である。  (13) 主観の内から言わば外へ出たのである。《カインにつけられたシルシ》に発するごとく。  【§5】 《文字はころし 霊は生かす》とパウロ (コリント後書3:6)  (14) 律法は 禁止命令としての倫理規範である。つまりは 禁止を犯したことの罪を自覚させるシルシとしての文字である。つまりは 《法律〔やオキテやナラハシ〕》を超えて 主観をおもんじるアブラハムの信仰に還る。と言う。    (15) ▲ (コリント後書3:2-8) ~~~~~~~~~~~  2: わたしたちの推薦状は、あなたがた自身です。それは、わたしたちの心に書かれており、すべての人々から知られ、読まれています。  3: あなたがたは、キリストがわたしたちを用いてお書きになった手紙として公にされています。墨ではなく生ける神の霊によって、石の板ではなく人の心の板に、書きつけられた手紙です。  4: わたしたちは、キリストによってこのような確信を神の前で抱いています。  5: もちろん、独りで何かできるなどと思う資格が、自分にあるということではありません。わたしたちの資格は神から与えられたものです。  6: 神はわたしたちに、新しい契約に仕える資格、文字ではなく霊に仕える資格を与えてくださいました。   文字は殺しますが、霊は生かします。  7: ところで、石に刻まれた文字に基づいて〔* 罪の自覚をうながし その罪がけっきょくあたかも人をそこへみちびくところの〕死に仕える務めさえ栄光を帯びて、モーセの顔に輝いていたつかのまの栄光のために、イスラエルの子らが彼の顔を見つめえないほどであったとすれば、  8: 霊に仕える務めは、なおさら、栄光を帯びているはずではありませんか。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  【§6】 イエスの後の現代  (16) 法律や思想が 有限のものであり相対化されたなら もう神は要らない。神という観念は要らない。主観内面におさまる。  (17) ひとの意志を踏みにじる《ころし》は ウソ・イツハリをもゆるすような自由度を持つ自由意志に発していると知ったし その自由についてのおそれをも知っている。その自由は 仕返しから 自由である。

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    聖書に詳しい方への質問です。 一般的に聖書に書かれている記述のみが神のことばと認識されていると思いますが、 自分はこれについて疑問に思っています。なぜならば、ヨハネの福音書の最初にもあるように、ことばは万物の始まりであり、これに基づけば私達が普段使っていることばも神に由来すると言え、ことばは全て神のことばになるとも考えられるからです。 また普通のことばが神のことばとなる転機は、ちょうどキリストを信じるように、信仰による神との聖約によって完成するのではないかと推測しています。ですから傍から見て神のことばと思えないものも、信じる者の信仰によって実質的には神のことばとなるのではないかと。すなわち神のことばと、そうでないことばの違いは信仰だと言えるのです。どうでしょうか? ちなみに自分は、聖書に書かれている御言葉は全て真実と信じる、いわゆる福音主義に立つクリスチャンです。また主の導きにより、現代でも特定の人物に対して神のことばを与える、いわゆる預言があるとも信じています。ですからここで書いていることばも、自分ではなく神の導きによる預言だと信じています。こういう訳で、自分の行っていることは、単に主の考えを反映している以上、第二ペテロの手紙1章20節で記されている、人による聖書預言への私的解釈には該当しないとも思っています。

  • 預言者ホセアの行動をどう捉えますか?

     旧約聖書における預言者ホセアの行動について 問います。  次に言う《淫行》は 人に対する裏切りと取ります。裏切りに遭っても その相手をホセアは 受け容れました。戻って来た妻を迎え入れました。  これをどう扱うか? ホセアの行動をどう解釈するのか?   ▲ (ホセア書) ~~~~~~  1:2 主がホセアに語られたことの初め。主はホセアに言われた。     「行け、淫行の女をめとり 淫行による子らを受け入れよ。     この国は主から離れ、淫行にふけっているからだ。」  1:3 彼は行って、ディブライムの娘ゴメルをめとった。彼女は身ごもり、男の子を産んだ。  1:4 主は彼に言われた。     「その子をイズレエルと名付けよ。     間もなく、わたしはイエフの王家に イズレエルにおける流血     の罰を下し イスラエルの家におけるその支配を絶つ。  1:5 その日が来ると イズレエルの平野で     わたしはイスラエルの弓を折る。」  1:6 彼女は再び身ごもり、女の子を産んだ。主は彼に言われた。     「その子を ロ・ルハマ(憐れまれぬ者)と名付けよ。     わたしは、もはやイスラエルの家を憐れまず     彼らを決して赦さないからだ。  1:7 だが、ユダの家には憐れみをかけ 彼らの神なる主として、     わたしは彼らを救う。     弓、剣、戦い、馬、騎兵によって救うのではない。」  1:8 彼女はロ・ルハマを乳離れさせると、また身ごもって、男の子を産んだ。  1:9 主は言われた。     「その子を ロ・アンミ(わが民でない者)と名付けよ。     あなたたちはわたしの民ではなく     わたしはあなたたちの神ではないからだ。」  ・・・・  2:7 その母は淫行にふけり 彼らを身ごもった者は恥ずべきことを行った。   彼女は言う。     「愛人たちについて行こう。パンと水、羊毛と麻 オリーブ油と飲み物     をくれるのは彼らだ。」     ・・・・  3:1 主は再び、わたしに言われた。     「行け、夫に愛されていながら姦淫する女を愛せよ。     イスラエルの人々が他の神々に顔を向け、その干しぶどうの菓子     を愛しても、主がなお彼らを愛されるように。」  3:2 そこで、わたしは銀十五シェケルと、大麦一ホメルと一レテクを払って、その女を買い取った。  3:3 わたしは彼女に言った。     「お前は淫行をせず、他の男のものとならず、長い間わたしのもと     で過ごせ。わたしもまた、お前のもとにとどまる。」  ・・・・  ~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 主題は いくつかあると思われます。  (あ) 神によって与えられたヒラメキをどう受け取るのか?  (い) ヒラメキ直観によって わが心がやわらぎを見出したそのあと 淫行すなわち人に対する裏切り行為をも ゆるされたと見ることが出来るか?  (う) ヒラメキ直観に従うことは 裏切り行為をゆるせなくても その当の人については 受け容れることが出来るということか?  (え) ホセアなる男がヒラメキ直観に心から従うならば 相手つまりこの場合《淫行の妻ゴメル》の心においてもやわらぎが得られていると言えるのか? ゴメルは ホセアをただのロボットだと見なさないか?  (お) ヒラメキによって心のやわらぎを覚えたとは言え ホセアは ほんとうに裏切りの人間を心から受け容れることが出来たのか?  (か) そのほか じつはこういう主題が語られているのだというお考えがあれば どうぞそのように。