A級戦犯について

このQ&Aのポイント
  • 賀屋興宣氏はA級戦犯の一人として訴追され、終身禁錮刑を宣告されました。
  • 戦犯釈放を願う署名運動が行われ、日本社会党が推進しました。
  • 賀屋興宣氏は自由民主党公認で衆議院議員に立候補し、名誉回復されました。
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A級戦犯について

賀屋興宣氏は、 近衛文麿内閣大蔵大臣、北支那開発株式会社総裁、東條英機内閣大蔵大臣を歴任し 大東亜戦争の計画や準備、実行などに主導的な立場で取り組んだとして 28名のA級戦犯の内の一人として訴追され、 極東軍事裁判で終身禁錮刑を宣告され服役しました。 しかし、戦犯釈放を願う署名運動を日本社会党が推進し、 当時の日本の人口7000万人に対し4000万人もの署名が集まり 衆議院は、1958年に戦争犯罪による受刑者の赦免に閲する決議を行い (日本社会党・日本共産党も賛成)により正式赦免となりました。 賀屋興宣氏は、 自由民主党公認で東京都第3区から衆議院議員総選挙に立候補し初当選 (以後5回連続当選) 自由民主党外交調査会長、自由民主党政務調査会長 第二次池田内閣法務大臣、第三次池田内閣においても法務大臣留任と 要職を歴任し、「戦犯」の立場からから見事な名誉回復をされました。 質問1. 与党の政策責任者(自民党政調会長)や 外国人の在留許可、永住許可、帰化を所管する国務大臣(法務大臣)に かつてのA級戦犯が就任する事に際し、 当時は何故、国内や近隣諸国から反対意見が寄せられなかったのでしょうか。 現在は、「A級戦犯」が合祀されているとの理由で、国務大臣が在任中に靖国神社を 参拝する事さえままならないのが現状です。 質問2. 禁固刑などで服役中の「戦犯」は赦免によって名誉回復の道が開かれた (この様に要職を歴任した人がいる)一方で、 前任の近衛文麿氏が決定した対米戦の開始を 内閣総理大臣として、懸命に回避すべく努めたにも関らず絞首刑に処せられた 東條大将に対しては、「戦犯」の汚名を着せられたまま 何故、名誉回復の道が全く無いのでしょうか。

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回答No.2

日本国として全員の名誉回復は サンフランシスコ条約の後で成 されています。 正式にとっくの昔に名誉回復は 成されている。質問1の答えです。 これは独立国日本内部の課題であ り外国が介入する外交問題では無 いからです。なので当時は無問題。 質問2の答え。 東條元首相の名誉回復も他の人達 と同時に成されています。国会に おいて成された名誉回復です。 現在の日本においてA級戦犯という 分類は正式には存在しません。 A級戦犯とされた無実の受難者です。 死刑にされた七人を特に尊称して 三重県に在るのが「殉国七士の墓」 です。 土肥原賢二、松井岩根、東條英機、 武藤章、板垣征四郎、廣田弘毅、 木村兵太郎。この七人がそうです。 ◎大東亜戦争遂行に協力したマスコミ 各社とマスコミ人間が卑怯にも自分 達の立場を有利にするために死刑に されて反論の方法が無い七人に対して 悪口の言い放題を長年に渡り続けて 来ました。中でも有名な東條元首相 に対しての悪口はひどいもので現代 でも続いています。

airbus380
質問者

お礼

kawasemi60 さんこんばんは。 ご回答有難うございます。 仰る通り、A級戦犯という分類は正式には存在しないと思いますが 実態としてはA級戦犯が存在し、 国民が挙って忌み嫌うべき歴史上の人物と定着しているとしか思えません。 名誉が回復されたと確認できる事象は何も無く 七柱の英霊には汚名が着せられたままだと感じます。 ご紹介いただいた殉国七士の廟に赴き (何の権力も無いですが)何としても汚名を晴らして差し上げたいと所望する者が 今の世にもいる事を、せめてお伝えしたいと思います。

その他の回答 (1)

  • ww8
  • ベストアンサー率30% (65/215)
回答No.1

1 そういうグジャグジャを、中国・韓国の方で問題にするようになったのは、終戦よりずっと後世になってからじゃなかったんですかね。 当時は米国の後ろ盾さえあれば何でも押し切れたでしょうし。 それに何年間か服役すれば恩赦とか仮出所で獄中から出てくるのも普通にあるんじゃないですか。 2 また、軍のトップは、軍のトップになった瞬間から命を捨ててますよ。 特に日本軍はそうだったでしょう。 ですから処刑されてもなんとも無い。トップに立った時に既に死んでる。 それが正常な軍人です。 だから回りが従える。死を共有できる。 そうやって戦ってきた人を、その汚名を晴らそうとは、軍人は思ってもみません。

airbus380
質問者

お礼

ww8さん こんばんは。 ご回答有難うございます。 戦犯釈放を願う署名運動を日本社会党が先頭を切って行いながら その後身である社民党の福島党首が、小泉首相(当時)の靖国神社参拝に関し 「A級戦犯を正当化する行為」と発言する事の論理矛盾を 誰も論破しない事が不思議でなりません。 国家の為に自らの命を投げ出すことも厭わないと言う意志をお持ちの軍人方が 多かったのであろうと思いますが 原爆はもとより、我が国の主要都市の一般市民を目的とした 殺戮行為を行った者から、「犯罪者」呼ばわりされた事。 かつては戦犯の名誉回復運動に有権者の大多数が賛同していながら 今日では「A級戦犯」が定着したものであるかに思う人が多い事。 嘆かわしく思います。

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