• ベストアンサー

半ばなで

3世紀後半になると、奈良盆地を中心とする地域に強力な勢力が生まれ、4世紀半ばなでには、中部地方以西の主要な地域は大和の倭王のもとに服属し、大和朝廷が成立した。 「半ばなでには」という言葉の意味はちょっとわからないんですが、教えていただけませんか。お願いします。

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
  • cxe28284
  • ベストアンサー率21% (932/4337)
回答No.2

「半ばまでには」のミスプリントだと思います。 半ばは二つに分けた半分の意味で「4世紀の半分過ぎた頃までには」 と言う意味です。

pchy
質問者

お礼

なるほどミスプリントですね。はっきりしました。 ありがとうございます。

全文を見る
すると、全ての回答が全文表示されます。

関連するQ&A

  • 大和政権の成立に、水辺に縁遠い奈良”盆地”が関与し

    日本が本格的な統一国家になって、大和政権が、平地でない奈良“盆地”に成立しました。 その後、都は、同じような地形の京都盆地に移りました。 そして、都は、海岸近くの鎌倉・大坂・東京に移りました。 規模がまるで違いますが、4大文明は、黄河やナイル河などの大河沿いに発生しました。 質問は、大和政権の成立に、水辺に縁遠い奈良“盆地”という地形が、関与していますか?

  • 大和を中心に統一された理由

    古代の日本には大和以外にも、毛野、越、吉備、出雲、筑紫などの地域にそれぞれ有力な王権が存在したようです。 これらが武力によるものか同盟関係のようなものが成立したのか分かりませんが、最終的に大和を中心に統合されました。 大和が他の地域より優位に立った理由は何なのでしょうか? 山間の盆地にあって交通が便利でもなければ肥沃な土地でもなく、そうかといって海に面してもいないので大陸との交易に有利なわけでもありません。 川は流れていて、(現在でいう)大阪湾から瀬戸内海までつながっていますが、それは別にここだけではありません。 地の利ではなく統合の時代に大和に優秀な指導者が多かったのでしょうか?

  • 円墳があってその後時代がくだって柵がつくられる

    4世紀前半の円墳盗掘なしの円墳で 遺物は畿内方式です その同地域(円墳)から北へ車で30分と南に40分ほどに 6世紀に柵が作られるているということは 大和王権協力者その勢力があったが 後の時代に蝦夷からその地域は 奪い返されたと考えるのか 円墳名 城の山古墳 詳しくはweb検索 柵名 沼垂の柵岩船の柵

  • 琉球ってどこからの文化?

    禁止:2014/09/17(水) 11:10:49.09 ID:3oZSal/V0南西諸島の歴史 629(舒明天皇元)掖玖に大和朝廷から使者を派遣 682(天武天皇11)多禰人・掖玖人・奄美人に禄を与えた 699(文武天皇3)多禰·掖玖·奄美·度感が朝貢 714(和銅7)信覚(石垣島)・球美(久米島)などの人が大和朝廷に朝貢(『続日本紀』) 715(和銅8)信覚・球美・度感・奄美・信覚が朝貢 720(養老8)南島232人に位階を授ける 727(新亀8)南島132人に位階を授ける →琉球ではなく大和朝廷に服属してる島があることがわかる 1流刑となった源為朝が琉球に流れ着き琉球の始祖舜天となったと伝わる(『中山世鑑』『おもろさうし』『椿説弓張月』等) 鎌倉時代 奄美が北条氏得宗領となり被官千竈氏が統治する 1422 山中が沖縄本島を統一する(第一尚氏王朝) 1429 沖永良部の島之主と重臣が自刃、沖永良部を併合する 1470 クーデターにより重臣金丸即位(第二尚氏王朝) この頃 八重山を侵略 1524竹富島を強制的に服属させる 1447奄美大島に侵略 1466喜界島に侵略(奄美併合完了) 1571再び奄美を服属させる →どうみても平穏に南西諸島を統一してない 1609 薩摩藩が琉球侵攻のため奄美に立ち寄る。奄美の親方(地主)たちから服属したいとの申し出を受ける 琉球に到着した薩摩藩兵に琉球王国は戦わずに降伏し服属する 1610 尚寧王、徳川家康、秀忠に謁見 薩摩藩領となる。奄美は薩摩藩の直轄となる 明治5 琉球藩となる 明治12 沖縄県成立、奄美、鹿児島県に 明治18 大東諸島を編入 明治27 下関条約で清国日本の主権を認める 明治28 尖閣諸島を編入 →大東と尖閣は琉球の範囲でないことがわかる 昭和20 米国に接収される。日本政府、降伏文章の「北部琉球」を鹿児島県奄美群島に改めさせる 昭和21 米国、琉球と奄美にそれぞれ政府を樹立 昭和27 トカラ列島が返還される 昭和28 残りの奄美群島が返還される 昭和47 沖縄が日本に返還される →沖縄と奄美はアメリカも別とみなしていたことがわかる 独立するなら沖縄本島、八重山・石垣、宮古、大東で別々に住民投票するべきでは?

  • 神社の祭神は出雲の神様が多いのは何故か

    神社の起源は山や大木,巨岩のよな大きいものを崇拝する事か始まり,そこに社が造られ,祭神をもうけることで”神社”となったとされています。 現在,約10万社があると言われていますが,その祭神を大別すると現在の皇室の系統の「天孫系」と天孫系に国譲りをした「出雲系」になります。 天孫系の八幡宮(祭神は応神天皇,神宮皇后,謎の比売大神)は源氏の守り神になったために全国に広がったという幾分例外的な背景がありますが,他の天孫系神々を祭った神社はかなり少ないです。 一方,天孫系により討伐された出雲系神々である素戔嗚尊や大国主命,建御名方神を祭った神社が圧倒的に多く全社中で60~70%を占めると言われます。 天孫族である大和朝廷にとって出雲系は敵であるはずですが,出雲系の神社はお膝元の大和や近畿を始め九州,四国,中部,関東,東北と全国的な広がりを持ちます。歴史学者は出雲は神話であり架空の話として,余り触れたがりませんが,ある高名な学者は著書の中で大和国家が成立する以前には出雲の支配勢力が全日本に及んでいたと述べています。私はこの説に納得するのですが如何でしょうか。 また明治天皇は明治元年に,素戔嗚尊を祭った氷川神社を武蔵国の総鎮守神に定めると同時に行幸されています。これも謎です。

  • 日本史・歴史学で質問です

    学校の宿題でこのような問題がでたのですが、わかる方いらっしゃいますか><; 問題1 20世紀末から21世紀初めにかけての日本社会、すなわち、現在の日本社会は、「小経営の時代の終わり」とよぶべき歴史的な局面をみかえていると考えられる。 具体的な社会現象を複数挙げて、それにもちづき、なぜそれらの現象が「小経営の時代の終わり」を意味するのか300字程度で説明せよ。 また、それに続けて、現在深刻化している少子化が「小経営の時代の終わり」と関係しているという立場に立ち、少子化の理由を100字程度で説明せよ。 これらの説明において、以下の語句をすべて使用せよ。 使用する語句:農家、個人商店、地域コミュニティ、擬似小経営的サラリーマン、家業、相続、非婚化 問題2 鎌倉幕府の成立を持って、日本史の時代区分上においては、古代が終わり、中世が始まった、とされている。 鎌倉幕府の成立による国家体制の変化の内容を、朝廷がどのように変化したのか、という点にもふれながら、次の5つの語句を用いて300字程度で説明せよ。 語句:守護・地頭、武士勢力の公権力化、一元的な律令制国家公権、    多元的な国家公権、身分などの特定分野

  • 古代の船の本

    3世紀から8世紀ぐらいの中国、韓国、日本で使われていた船に関する本を探しています。 魏志倭人伝、騎馬民族征服説、遣隋使などがどのような大きさ、搭乗数、水夫数、船団構成数、目的地到達率、近辺到達率、遭難率など知りたく思っております。当然部分的研究成果しかないでしょうが、ご存知の方教えてください。 疑問発端は、徐福伝説は各地にありますが、徐さんが多く住む地域はないようです。騎馬民族が短時間に大和地域を勢力下に置けるだけの兵隊、馬を短時間に運べたとは思えない。遣唐使の名簿追跡では7割の生還率との記載見ましたが?? 日本では埴輪、鎌倉時代に書かれた遣唐使船らしき絵ぐらいしか基礎資料がないがようです。

  • 奈良と京都

    794年の平安京遷都から、平安時代に移行したのだと思いますが、以後、「奈良」が日本史の表舞台に立ったということを、私は知りません。それに対して、「京都」は、戦国時代も幕末・維新の時代も中心的な舞台だったように思います。  ふと、「何故、奈良は、平安京遷都以降、歴史の表舞台に出ることがなかったのだろうか?」という疑問が湧いてきました。すぐに、思い浮かぶのは、「朝廷」とか「天皇」ということなのですが、はたして、それだけなのだろうか、「奈良には京都とは異なる何かがあるのでは」という疑問が湧いてきました。日本史に、「奈良時代」という1時代を画した「奈良」のことが分かりません。  ここで質問なのですが、以下のことについて、歴史の評価として一般的に言われていること、あるいはあなたが「日本史に学んだこと」として、個人的に考えていることを教えて下さい。ご回答、ご意見は次の3つのうち一つでも構いません。 (1) 平安京遷都以降、平城京(奈良)の様子はどのように変化したのでしょうか?質問が、漠然としていますが、断片的なこと、一面的なことでも構いません。 (2) 平安時代以降で、奈良が、「日本史の表舞台」とまでは言いませんが、「あなたは知らないかも知れないけれど、奈良でこんなことも起こったのですよ。」というような出来事はありますか?南北朝時代というのもありましたが、奈良に関係しているのでしょうか? (3) 平安時代以降、「奈良」が日本史の表舞台に立ったことがないということが事実だとすれば、なぜそのようになってしまったのでしょうか?日本史における「奈良」と「京都」の違いは何でしょうか?地勢、文化、あるいは今日でいう「地域性」、「県民性」のようなものでも構いません。また、私の疑問は事実でないとすれば、その理由を教えて下さい。

  • 大和政権の成立について

    大和政権ができた理由についてですが、自分の見解としては、次のようです。しかし、この解釈でまちがっていたり、いや、そこにはもっと深刻な背景がある!ということがあれば、どなたかに指摘していただきたいのです。↓の文を読んでいただき、お願いいたしいたします。 弥生時代、鉄資源確保のために、朝鮮半島南部の伽耶地域と通交していたが、4世紀になると朝鮮半島では高句麗・百済・新羅の3つの統一国家が成立し、かれらが国力を上昇させるために鉄資源を集積しはじめたため、日本への鉄資源供給が滞った。そこで、日本ではそれまで分立していた小国が、鉄資源の確保という目的に一致点を見出し、朝鮮半島の統一国家に相手にしてもらうためには、まず国家的体裁を整えるべきと考え、畿内で大王を中心とした連合政権が形成された。 以上、よろしくお願いします。

  • 加羅(伽耶)について

    加羅は5世紀ごろ当時の日本(大和政権)が 朝鮮半島に有していた支配地域(勢力範囲)と認識しています。 高校時代の日本史の教科書でもそのように習いました。 確か任那とも呼ばれてたと思います。 先日、韓国の方とその件で意見の違いがありました。 その方がおっしゃるには 「加羅などない。そんなものは日本に来てから初めて知った、日本の教科書は間違っている」 言い返そうかと思いましたが 彼女と私の言い分は結局 ・自国の教育で習った ・自国の教科書に書いてあってそれを信頼している それだけが根拠なのです。そこで加羅の存在について教えてください。 1.存在していたが、実態はよく解らない 2.存在していて「日本の支配が及んでいた」といえるほど深いつながりを持っていた 3.存在していたが、日本とはほとんど関わりがなかった 4.そもそも存在しなかった いろいろ考えてみましたが、どうなのでしょうか?