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鎌倉時代~義満政権

magicalpassの回答

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回答No.2

 鎌倉幕府は源氏の棟梁である源頼朝が征夷大将軍となって設立し、朝廷から守護や地頭の設置権を認めさせ、武士による土地の支配圏を確立することが目的とされていました。当初は幕府の権限は東日本に限られましたが、承久の変によって幕府が朝廷を打ち破ると、支配権は全国に広がりました。  土地の実効支配とともに裁判権も武士に移ったので、幕府の政治的な権限はしだいに高まり、元寇の頃には外交までを取り仕切るようになっていました。こうして、武士の信頼を勝ち得た鎌倉幕府でしたが、元寇にたいして十分な恩賞が行えなかったのと、執権・北条氏の世襲制が行き詰まりを見せたため、その好機に乗じた後醍醐天皇の討幕が成功し、鎌倉幕府は終焉しました。  幕府を倒した後醍醐天皇は古来の天皇親政の復古を目指しましたが、旧来の公家を中心とした政治は全国を実効支配する武士たちを満足させることができず、不平の声に支えられて挙兵した足利尊氏によって京都を追われることになりました。尊氏は当時2系統に分かれていた天皇家のもう一方を担ぎあげ、征夷大将軍の称号を得て新たな幕府を開きました。これが室町幕府です。  後醍醐天皇は吉野に逃れて抵抗を続け、武士の間の家督争いや権力闘争も巻き込んで、全国は戦乱の時代になりました。これが南北朝時代で約60年続いた後に、これを統一したのが3代将軍・足利義満です。  鎌倉幕府は頼朝が建てたと言っても実際には関東の有力武士たちによる共同組織であり、将軍の権限はそう強くありませんでした。頼朝の死後、武士たちの中から北条氏が有力となって権力を握り、執権政治を始めました。北条氏の権力は時代とともに強まりましたが、源氏が3代で滅びた後も名目上の将軍は別に置かれていました。いわば北条氏の傀儡の将軍です。  室町幕府を興した足利尊氏も、武士の代表として担ぎあげられたかたちであり、将軍としての権力はそれほど強くありませんでした。それどころか、実弟の直義との抗争を繰り返して時には南朝側に付いたりもしてたので、権威も何もあったものではありません。  2代将軍である義詮が早世すると、3代目の義満は10歳で将軍の地位に付きましたが、当然ながらこの年齢で実験はありません。幕府の実権は管領・細川頼之が握っていました。しかし、成人に達した義満は康暦の政変によって細川氏が失脚した後に次第に実験を握っていき、南北朝を合一、応永の乱で西国の大大名・大内義弘を失脚させた後には揺るぎない権力を確立することになりました。  こうして足利義満の時代に将軍の絶対権力が確立されたのです。

negret2
質問者

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ありがとうございます。 参考にさせていただきます。

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