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今後の哲学は他の学問に発展しますか?

kigurumiの回答

  • kigurumi
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回答No.4

>実際的に何かの役にたちますか? >言葉を操る、こねくる以外の意義はありますか? 新約聖書を作った人の思想。 作家はイエスという登場人物を使い自分の哲学を表したものだと思えます。 <わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。> 古代では「人間はもともと全くの善の世界にいたが、肉体という有限の中に入ったことで、善がなんなのかわからなくなってしまった」と考えたようなんですね。 イエス作家が生きた時代、ユデアの支配者層には王や聖職者は律法学者たちがいたわけです。 彼らが人々を「これが正義」と導いていたわけです。 で、安息日に腹をすかせた弟子たちが借り入れの終わった麦の穂を拾っていたら、律法学者が「律法に違反している」と指摘したわけです。 さて、狩り終わって地面に落ちた麦を拾って集めて食べたところで、その畑の人を困らせることにはなりませんよね。 従って泥棒だとは言ってない。。 安息日にはは労働も食べることもしてはいけないので、律法をないがしろにする行為をしたと、律法学者はとがめたわけです。 イエス作家は弟子たちをかばいます。 ダビデの一件を持ち出して。 律法は人を正しい方向・幸福な方向に導くための道しるべであって、律法によって人が不幸になってしまっては、律法の存在価値が無くなるわけです。 それでイエス作家は律法は人を苦しめ縛り上げるためにあるのではない と律法の正しい遣い方をイエスを通して語ったようなんです。 ところがピラトは真理・真理というイエスに対して「真理とはなんぞや」と問うわけです。 イエスは無言でした。 イエス作家も「これが真理(人の正義のありかた)」というものがどういうものかわからなかったわけです。 2000年後の現代も、真理がなんなのか言える人は1人もいません。 しかし、それが分かる日が来るという希望を持たず生きることが、どれほど辛いか。 従って人のあり方を考える哲学は古代から今もあらゆる分野を貫いてきているわけです。 例えば医療現場。 医療が進み昔なら死んでいた病気で死ぬ人が少なくなった。 一見喜ばしいことのように思うが、薬には必ず副作用があり、その薬を使ったためよくなっても、他の部分に悪影響を与えるわけです。 例えば医療が進んだことで交通事故で死ぬ人が減ったが後遺症で不自由な生活で苦しんだり、脳卒中で昔なら死んでいたが、今は命は助かる、が、後遺症として言語や身体障害、認知症が残ったりする。 果たして医療という世界は本当に進歩しsたのか、人間にとって善いものなのか ということになる。 医者に「助けてくれてありがとう」と言ったとしても、本当に助けたことなのか、さらなる苦しみを背負わせ生かし続けられたのか 疑問なわけです。 例えば義務教育により子どもが学校で知識を習う。 親は子どもの教育を国に丸投げしたわけです。 子どもを家族から引き離し、国の望む子どもを国が作り上げてきたわけです。 プラスなようで、実はマイナス面もあり、プラマイ0。 例えば環境保護が叫ばれたことで、環境が改善されたが、環境保護をするために環境を破壊しなければならず、それは保護と破壊の量が同じなのでプラマイ0。 lこのように進化したのか退化したのか、全く変わらないのか あやふやな世界。 しかし医療現場ではプラスの面を打ち出しているし、学校も他の国に比べて日本は学力が上だとしたりして 良い面だけみて悪い面に目をつぶるってきたわけです。 日本国憲法の前文が哲学にあたる、日本国憲法はその前文の支配下にあるので他の学問はすべて哲学の支配下にある。 あなたが一つ決断するとき、それは自分にとって利益だから ではなく、人間として正しいものを選んで決断しなければならない。 日本国憲法前文が憲法国憲法を超越したところにあるように、真理や正義は法を超越したところにある。 尖閣諸島問題がありますが、国益を考えた対応じゃなくて、人として正し対応をする。 政治・経済も支配下におき、あらゆるものに対し人としての正しさを希求する学問。 それが哲学なんです。

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