• ベストアンサー

長篠の戦いは、平坦地でなく織田、徳川軍が、堡塁を築いて迎え撃つたらしい

長篠の戦いは、平坦地でなく織田、徳川軍が、堡塁を築いて迎え撃つたらしいです。 「城攻めの様だ」と武田側が述べた記録があるそうです。詳細を御存知の方は是非 教えて下さい。

  • 歴史
  • 回答数8
  • ありがとう数23

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
回答No.8

今では、ドラマや小説で描かれている様な長篠の戦いは無かったと言うのが 有力ですよ。 鉄砲3000丁を使ったと言うのも相当前に否定されているにも関わらず今もなお 本当の事の様に扱われています。 『城攻めの様だ』、『鉄砲3000丁』などの資料は確かに残っています。 今の研究では、武田、織田徳川連合軍が対峙しての戦はあったようですが、その場所は 特定できないのだそうです。 長篠の戦いがあったとされる地域が数ケ所ある事、そのいずれも起伏が激しく 大群が布陣するのはもちろん馬が走りまわるのもできない様な場所である事 などから残されている資料の信ぴょう性が疑われています。 決定的に疑う材料になったのが、長篠の戦いがあったとされる場所や色んな記述から この辺りでは?と思われる場所の大規模調査を行った際、いずれの場所からも 槍、刀、鎧などの一部すら発掘されないばかりか鉄砲の弾1つすら発掘、発見されませんでした。 長篠の戦いは、はなから信ぴょう性が薄いとされる信長記から出た話である事も 合わせて武田、織田徳川連合軍の戦がどこかで行われたのを元にした 織田寄りの人間の創作戦話説が有力です。 実際は広く数カ所に布陣して、柵や土塁を築いて徹底防御の姿勢の連合軍に数の力で 各個撃破されたのではないか?と考えられています。

ef98uraimu
質問者

お礼

貴重な御意見に感謝致します。有難う御座ゐました

ef98uraimu
質問者

補足

織田、徳川側の鉄砲2,000挺に死傷者6000(武田軍)1000以下(織田、徳川連合軍)は 間違いなさそうですね。

その他の回答 (7)

回答No.7

「長篠・設楽原の戦い」で検索すれば多くのサイトが出てきます。 長篠の戦いというのは長篠城の城主奥平氏を武田軍が取り囲んだことから始まります。 奥平氏が岡崎の徳川軍に援軍を頼んで、その徳川・織田連合軍が来て武田軍と戦ったのが 「設楽原の戦い」なのです。 設楽原はほぼ平地です。当時無敵の騎馬隊を誇った武田軍に対して、「馬防柵(まもうさく)」という丸太を大きな柵状につくって馬の侵入を防ぐ戦略をとり、柵の前で立ち往生する武田騎馬隊を織田軍の鉄砲隊が撃ち滅ぼしたというのが概略です。 鉄砲が戦の主流に変わった点が歴史的な転換点として意味のあるものとされています。

参考URL:
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E7%AF%A0%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
ef98uraimu
質問者

お礼

有難う御座ゐます

  • kimari14
  • ベストアンサー率17% (50/288)
回答No.6

信長公記だったかなー 野戦組討となれば、とても太刀打ちできない と おもったか (信長はもともと兵を過大に評価していない) 鉄砲主体なら、すこしでも高いところへ か (地形上 連子川から織田側は駆け上がりになっている、 強固でもなくさりとて案外ねばっこい場所) そこへ 三段の柵(馬防用かどうかはわからない) 土ぐらい盛るでしょう。 まあ、武田にしたら、相手が柵を作って 砦か? しかし、キシャな一夜砦  物見はそう報告?  幅広だが奥行きはない 柵付き鶴翼の構え?  なら一点集中で一件落着 なのに  武田も 幅広な 左翼 中央 右翼 に展開 やはり、鉄砲のうわさ その数のうわさに  惑わされたか でも、いわれるほどの 弾は 発掘調査では出ていない 考えればね? 根こそぎ持って来た訳じゃないでしようからね まあ、昔の戦いだから 疲れたら 後ろで 一休み。 当たり前だが時間がかかる。 鉄砲よけの竹束を先頭に ジリジリ やったんでしょう。 後世に誤って伝わっている 騎馬隊があればね 簡単に 勝ったでしようがね。 緒戦の真田隊の大崩れは、織田のオトリに誘われて  鉄砲の集中砲火でも浴びたのか? 武田の作戦負け 柵を作るとゆうことは 出てこないとゆうこと 長篠城の後詰めだろう 戦い易い場所に出てくるように 誘えばよかった。 先に仕掛けてどうするの? 遊撃隊を(信玄は若い時、小笠原長時との戦いで、 騎馬身分のものを特別に編成して、勝弦峠まで長駆35Kmして 不意を付いてこの騎馬隊だけで勝ったことがあった。 相手は騎馬隊だけとは思えず相当混乱して逃げ帰った) この時と同じように騎馬身分の者を特別に編成して 背後に廻り 挟み撃ちに ね 古参の武将もいたのにね 代が変わると(世代交代)何事も経験不足だはな 武田の前線が崩れだしたのは、連合軍の別働隊が 長篠城を囲む武田の砦を 急襲し奪い取った情報が伝わったからで 背後に回られる怖さ、事の大事さを知っているから もう戦どころじゃない 浮き足だつ この戦場の兵の心理は 近代戦でも同じ   

ef98uraimu
質問者

お礼

有難う御座ゐます。堡塁の前に空堀が在り、堡塁の間に人馬を防ぐ先の尖った木を並べ、堡塁より 鉄砲で射撃したらしいのです。かなり周到な準備されていたらしいので詳細が知りたかったのですが

ef98uraimu
質問者

補足

武田の馬は山に強く、平原では使い物にならない可能性はどうでしょうか?

  • rurubonpp
  • ベストアンサー率26% (128/488)
回答No.5

「センゴク天正記」(宮下秀樹 講談社)というコミック漫画の3~5巻に長篠の戦いの様子が描かれてますが、こんな感じだったのではないのかな~と思います。 漫画ですが、参考になると思うので一読して見ると良いでしょう。参考文献もしっかりしているので良いかと思います。

ef98uraimu
質問者

お礼

有難う御座ゐます

  • isa-98
  • ベストアンサー率23% (205/859)
回答No.4

馬防柵はほぼ間違い無いようです。 数日で機動展開しながら堡塁はないだろう。 が実際の所です。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E7%AF%A0%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84 陣地を構築する為の所要日数はあった。 土塁や堀などは普通である。 一夜城の話は無かった。 どうも、馬鹿なので半日も火縄銃の射程内に居続けた。 これが真相を曇らせているのだと思います。 堡塁があったら城攻めの策と装備が必要です。 無策で突進したのは明らかにおかしい。 半日も戦いが続いたのは、一方が攻めたて、一方が防戦一方だったとも考えられます。 一点に兵を運用されてしまいますと、防御側が極めて不利となります。 死にものぐるいで包囲(鶴翼)して鉄砲で何とか勝利は掴めるとは思います。 三段構えとは、鶴翼の可能性もあります。(勝った姿勢。)

ef98uraimu
質問者

お礼

有難う御座ゐます。関が原の西軍陣地も用意周到で凄いらしいです。

回答No.3

最近はこんなこともできるんですね。入るかな? http://maps.google.co.jp/maps?f=q&source=s_q&hl=ja&geocode=&q=%E9%95%B7%E7%AF%A0%E5%8F%A4%E6%88%A6%E5%A0%B4&sll=34.917678,137.524495&sspn=0.022768,0.029225&brcurrent=3,0x601b36a26b4878ab:0x9f477ceecb3f1625,0&ie=UTF8&hq=%E9%95%B7%E7%AF%A0%E5%8F%A4%E6%88%A6%E5%A0%B4&hnear=&ll=34.921128,137.5258&spn=0.011383,0.014613&t=f&z=16&ecpose=34.91015727,137.52385051,493.92,8.288,71.207,0 Aというところが資料館でその西が連子川沿いの谷筋です。 この両側の尾根に両陣営が陣をきずいたといわれています。 西側が小田・徳川方で、尾根すそ沿いに馬防柵が作られたようです。

ef98uraimu
質問者

お礼

有難う御座ゐます。

回答No.2

現地へ行けばわかりますが、そもそも平坦地じゃないですよ。 東西に張り出した尾根の間の狭い場所です。

ef98uraimu
質問者

お礼

有難う御座ゐます。8世紀迄海が入り込んでいたらしいです。

  • eroero1919
  • ベストアンサー率27% (3007/11114)
回答No.1

戦国時代の合戦でも最もメジャーなもののひとつですし、これひとつの戦いで本一冊できるくらいですから詳細を語ろうとしたら2000文字じゃとても足りないですよ。 http://www.google.co.jp/search?hl=ja&source=hp&q=%E9%95%B7%E7%AF%A0%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84&aq=0r&aqi=g-r10&aql=&oq=nagasino&gs_rfai=&rlz=1R2SNYA_jaJP381 とりあえず基礎的なところを抑えて、それで具体的な疑問がまた出てきたらお会いしましょう。

ef98uraimu
質問者

お礼

いかにも其の通りです。有難う御座ゐました。

関連するQ&A

  • 長篠の戦いに負けた理由

    武田軍は何故長篠の戦いで敗れたのでしょうか? これまでは織田軍の3000丁の鉄砲の一斉射撃で馬場・山県など名だたる猛将が討ち死にして壊滅し敗れたと言うのが定説でした。 しかし最近では長篠の戦いで鉄砲の一斉射撃は無かった説が有力となっています とすればです いくら信玄亡き後の武田家とは言え高坂・山県・飯富・馬場などの武将が健在であり 完全に織田軍を凌駕していたはずの武田軍は一体何故負けたのでしょうか? 鉄砲がなければ騎馬隊こそが最強ではなかったのでしょうか?

  • 「センゴク」における長篠・設楽ヶ原の戦いについて

    週間ヤングマガジンで連載中の「センゴク 天正記」は毎週楽しく読ませていただいています。 特に、姉川の戦いにおいての新説は目から鱗でした。 さて、そんな「センゴク」ですが、長篠・設楽ヶ原の戦いの記述を非常に楽しみにしていましたが、どうも最後までよく分かりませんでした。 というのも、織田・徳川連合軍の勝利(武田軍の敗北)理由がよく分からないのです。 先陣を切った真田兄弟が潜伏していた明智光秀を始めとする織田軍の主力鉄砲隊に殲滅(致命的というより、生存者がいないほどの全滅っぷり)されたのは分かりました。 そのことによって、武田軍が大打撃を受けたのも分かります。 しかし、すぐさま武田軍が全軍撤退となった理由がよく分かりません。 (鉄砲隊を除けば)おそらく連合軍の主力最強主力である徳川軍は徳川軍は山県昌景が抑えており、 その他の部隊は(兵隊の練度でいえば)武田軍の方が上回っていると思います。 (織田軍は兵農分離が進んでいるとはいえ、「弱い」と認識しています) 「センゴク」の描写では、長篠城を酒井忠次に奪われたことは、 むしろ武田軍の利であるような描写をしていますし、 それまでの山県昌景、馬場信房を始めとする武田軍の活躍の描写を見る限り、  「先陣の真田軍の全滅→全軍の撤退」 と直結することに違和感を覚えます。 「武田軍撤退の理由」について、ご存知の方がいらっしゃいましたら、 教えてください。

  • 武田勝頼対織田・徳川連合軍の「長篠の合戦」での武田の旗に、「風林火山」

    武田勝頼対織田・徳川連合軍の「長篠の合戦」での武田の旗に、「風林火山」の旗はあったのでしょうか・・・

  • 武田勝頼と長篠の戦い

    武田勝頼は、長篠の戦いで、なぜ織田の鉄砲隊に無謀ともいえる突撃を繰り返したのですか?少し考えれば負けることが分かったと思うのですが。

  • 長篠の戦いの侵攻路

    長篠の戦いの時、武田軍は甲斐からどういうルートを使い長篠に進軍したのでしょうか? どこに糧道を引いたのでしょうか? 飯田から現在の国道151号沿いでしょうか? 武田信玄の侵攻路もかなりの山道ながら天竜川沿いに船かイカダで兵糧を送れることを考えるとぎりぎり成立しそうな気もしますが、信州と長篠を直接じゃあまりに山道が長い気がします。

  • 長篠合戦 武田軍の敗因は?

    長篠の合戦で武田軍は何故敗れたのでしょうか? そもそも織田信長による鉄砲隊の一斉射撃は無かったわけだから だとしたらいくら勝頼が愚将でも山県や飯富、馬場美濃に高坂といった武田二十四将や 甲陽五名臣といった最強クラスの武将が そうあっさりと織田 徳川軍に負けるでしょうか? 織田軍には当時 中国計略中の羽柴秀吉や北陸で戦っていた柴田勝家 前田利家らのエース級の武将が不在だったわけで どう見ても織田軍に勝ち目はなさそうなのですが…

  • 長篠の合戦 (織田軍の鉄砲の三段撃ち?・武田の騎馬隊は存在しなかった?)

    長篠の合戦についての通説の誤りが指摘され、新しい定説が普及しつつあります。 代表的なところでは 1、信長・家康連合軍の鉄砲「3千挺」という数字は誤り。せいぜい1千。 2、織田軍の鉄砲の三段撃ちはなかった。それぞれ勝手に撃っていただけ。 3、武田軍には、いわゆる騎馬隊(モンゴル軍のような騎兵隊)は存在しない。 4、兵力も、連合軍3万8千、武田1万5千はおおげさ。せいぜい連合軍1万5千~2万5千、対、武田7千から1万。 5、合戦の性質も、野戦ではなく、織田軍が築いた土嚢の陣地を武田軍が攻めるという「城砦攻防戦」だったのではないか。 長篠の合戦に関する賛成意見・補足・反論などをお願いします。

  • 鉄砲三千丁説が唱えられた由来

    織田・徳川連合軍と武田軍が戦った長篠・設楽原の戦い。 信長が三千丁もの鉄砲を使用したというのは誰もが知っています。 ただこの三千丁説はどこから来ているのでしょうか? 信長公記には千丁余と記されていますよね。

  • 鉄砲の有効性を理解していた武田勝頼が何故?

    長篠・設楽原の戦いについての疑問点があります。 それは鉄砲の有効性、及び三段撃ちの存在を理解していたと思われる武田勝頼が何故あのような戦術をとったのかということです。 それでもなお勝頼は武田軍が得意な白兵戦に持ち込めるという考えを持っていたのでしょうか? それともやはり織田・徳川軍が陣城を築いているという情報を掴めなかったのが敗因でしょうか?

  • 鉄砲隊の三段備え

    かつて学校で「長篠の戦いで織田軍は三段の鉄砲隊を使って順次、武田軍を攻撃した」 というように習いましたが、今では間違いとする説もあるようですね。 しかし間違いとした場合に、このような発想はなかなか出にくいと思うのですが、 長篠の戦い以外で、三段備えの戦術というのは例があるのでしょうか?