- 締切済み
徳川の埋蔵金は結局どうなったのでしょうか?
徳川の埋蔵金は結局どうなったのでしょうか? 過去の質問を検索してみると 「群馬の山奥で今も掘り続けている」 「幕末の明治政府が江戸城を開けたら空っぽでお金があれば負けなかった、各大名の様子」 など書かれていましたが、具体的な質問返答としてはそれだけだったようです。 結局お宝とは何だったのでしょうか? 以前、歴史特集や埋蔵金発掘の番組特集などは一応見た記憶がありますが、やはり場所は確定なのでしょうか? それとも、千葉や他関東など具体的な他の土地説は、また新説はあるのでしょうか? どなたかご存じの方、お願いします。
- 歴史
- 回答数3
- ありがとう数11
- みんなの回答 (3)
- 専門家の回答
みんなの回答
- kishn_an
- ベストアンサー率44% (597/1336)
結局お宝とは何だったのか。 私は横須賀造船所こそが徳川幕府が後世に残した宝ものだと思っています。 日清日露の海戦に勝利できたのも横須賀造船所あればこそです。 ちなみに横須賀造船所を作ったのは、埋蔵金を隠したとうわさされた小栗忠順(上野介)です。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A8%AA%E9%A0%88%E8%B3%80%E9%80%A0%E8%88%B9%E6%89%80
- eroero1919
- ベストアンサー率27% (3007/11114)
徳川埋蔵金より、豊臣埋蔵金のほうが可能性があるんじゃないかって思います。 徳川幕府の財政事情ってさすがにかなりしっかり記録が残っているのですが、とにかく苦しかったのですよ。どのくらい苦しかったのかというと、八代吉宗公の頃から「破綻」の二文字がちらちらするほどでした。 で、厳しかったのは新政府(薩長)も同じでね。ウソみたいな本当の話で、薩長軍は進軍するにあたってお金がなかったのでなんと徳川慶喜に借金を申し込んだんですよ・笑。もちろん即却下ですが。 一方豊臣家は、例の鐘文字の難癖で有名な方広寺の再建など家康によって膨大な金額を供出させられますが、それでも大阪城が落城したときは結構な金額が残っていたそうですよ。 秀頼が落ち延びたときに備えてどこかに資金を埋蔵した可能性はありますね。
- ultraCS
- ベストアンサー率44% (3956/8947)
ギミアブレイクの埋蔵金プロジェクトの顛末ですよね 掘っていた人(水野さんだったかな)はまだ探索を続けているはずです。 重機を担当した望月建設は、あのお陰もあって現在も盛業中だったと思います。 TBSと糸井重里は飽きてしまった(というより、スポンサーから金を引き出せなくなった)ので、プロジェクトは終了です。 なお、国内の金埋蔵量、過去の産出量、流通量、海外への流出量(これの算定が難しいらしいが)等を勘案すると、それほど多量の小判での埋蔵金があるはずはないという、鉱山学者だったか冶金学者だかの推定を聞いたことがあります。実際に奉行所や代官所にはそれなりの運営資金がプールされていたと思いますが、江戸城の金蔵にそれほどの金があったら、幕府はもっと上手く立ち回れたはずです。 Wikiに簡単な概要があります。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%9F%8B%E8%94%B5%E9%87%91
関連するQ&A
- 埋蔵金伝説、掘ったらほんとに出てきたことはあったのか
四国の剣山にソロモンの財宝が埋まっているという話があって、何十年も掘り続けた人がいたそうです。その他、埋蔵金伝説は徳川埋蔵金などイッパイありますが、伝説に基づいて掘ったら、実際にお宝が出てきた例はあったのでしょうか。 シュリーマンのトロイアの発掘以外に、伝説どおりに出てきた例は知りません。実際に掘り当てたという面白い話があれば教えてください。
- ベストアンサー
- 歴史
- 幕末の外様大名と徳川家康の関係
幕末、倒幕・佐幕に分かれて争いがありましたが、薩長を含め、外様大名と徳川家康とはなんらかの関係があったのでしょうか。 知っているのは、加賀・前田家はかつて前田利長が徳川家康の恫喝に屈し、母まつを人質に出すという屈辱がありましたが、幕末時の前田家の当主の母はかつての将軍の孫、つまり徳川家康の子孫であるので、積極的に幕府を戦おうとしなかったことぐらいです。。 他の大名はどうだったのでしょうか。
- ベストアンサー
- 歴史
- 何故井伊家は彦根から国替えがなかったのですか?
徳川譜代大名の武功派は江戸幕府が安定すると、次第に地方に遠ざけられていきました。 井伊、酒井、本多、榊原など、家康が天下取りに行く過程で、忠勤を励みました。 井伊、以外の譜代大名は秀忠以後、何度も転封、国替えになっています。しかし、井伊家は彦根から動くことなく、幕末を迎えました。何人も大老を輩出しています。 藩祖直政が家康の寵愛が深かったと思いますが、それだけの理由でしょうか?徳川幕府草創期の功臣たちは、国替えばかりでなく、改易、断絶になっている譜代家も多いです。 井伊家は譜代随一の禄高ですが、何故、他の譜代家に比べ厚遇されたのは何故でしょうか?
- ベストアンサー
- 歴史
- 蜂須賀家ってどの様な家柄でしょう?
まず蜂須賀正勝が秀吉に仕え”墨俣城の築城”で尽力し秀吉の家臣団の中心人物となりますが,その後の合戦でほとんど名前がでてきません。 次にでてくるのが本能寺の変の時,高松城の後始末に登場するくらいです。 その他では,加藤清正等を秀吉に推挙?する逸話が聞かれるくらいで,余り歴史に登場しません。 又後に太閤記などで,盗賊扱いされて書かれるなど軽視されていたのでしょうか? ただ彼の息子(家正)は四国征伐後に阿波を貰いますが,本来は正勝がもらうはずだったと言われています。 これは秀吉に評価されてたからですよね? 質問1:蜂須賀家の豊臣内での位置づけは? (情報収集担当で,家康にとっての服部半蔵のような存在だったと聞いたことがあります。) 正勝は秀吉の出世を側で見続けていながら,どんどん後輩に追い抜かれて行ってますが心中どうだったのかな? その後の混乱(豊臣vs徳川)を世渡り上手?でくぐり抜け,家康に”阿波の狸”と言われましたが,徳川の時代になって阿波に加えて淡路島を余分に拝領しています。 そして幕末まで,嫡子が居なくても幕府に相談し養子を迎えるなどをして生きながらえています。 ※養子を迎えた時点で乗っ取られているのかも・・・ 幕末の混乱期を越えて明治時代に貴族として名前がでてきます。 質問2:戦国大名から幕末まで存続し続けた大名家ってそんなに無いですよね? なぜ存続し続けられたのでしょう? 質問3:現在も蜂須賀家って存在するの?
- 締切済み
- 歴史
- 徳川埋蔵金発掘はやめたのでしょうか?
最近 徳川埋蔵金発掘をやりませんが、発掘する人はいなくなったのでしょうか? それとももう発掘されたのでしょうか? なお、霞ヶ関の埋蔵金の話は不要です。
- ベストアンサー
- 各種テレビ番組
- 徳川埋蔵金のなぞ
「武士の家計簿」のファンであり、磯田道史先生の本を多数読んでて凄い謎が出てきたんですけど、いわゆる「徳川埋蔵金」についてですが、武士には交際費や人件費、草履とりにも「お金」を渡さないといけない上にどんなに頑張っても給与は据え置きだと行ってました。 だとしたら徳川家はドンだけの家臣を抱え、大奥の姫方を抱え、内装や装飾にもお金をかけてるけどそんなに「埋蔵金」等と言うへそくりを作るほどお金に困窮してない生活とも言えないのではないか? だとしたらあれってやっぱり、脱税対策だったり、ほんとはあるけど「隠しちゃって」所得はこんだけなんですヨ勘弁してくださいとか言ってたんでしょうか?
- ベストアンサー
- 歴史