• ベストアンサー

占いと哲学

占いには、歴史や伝統的な側面、歴史上の要人が重要視していたり、統計学・地理などの学問に通じるもの、当たるも八卦当たらぬも八卦のように娯楽・気休めに至るまで多種多様ですが、哲学的には、どのような考えが出来るものなのでしょうか? 神と人との間の(神寄りか・人寄りか・ちょうど中間ぐらいなのか・または、他の位置か)どの範囲の位置づけが妥当な事象なのでしょうか?

  • naoagu
  • お礼率96% (410/426)

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
  • lv4u
  • ベストアンサー率27% (1862/6715)
回答No.2

>>哲学的には、どのような考えが出来るものなのでしょうか? 私が学生時代に初めて読んだ「哲学」という文字の入った書籍には、以下のようなことが書かれていた気がします。 「『哲学』とは、たとえれば、銃弾飛び交う突撃と撤退と混乱の渦巻く、戦いの最前線である。その場所で勝利し、多数の味方の部隊と、民間人が戦いを気にすることなく暮らせる安全地帯になれば『科学』という文字が与えられる。」 つまりは、研究・分析に明け暮れている「時代の最先端」と思える「科学」よりも、さらに先の未知なることを考えるのが「哲学」っていうような意味だと思います。特に、昔の「科学」が発達していない時代には、哲学が科学の領域さえも含んでいて、それが全てだともいえたのではないでしょうか? ただ、現在では、哲学は単なる論理学、倫理学のように、狭い分野のことだけを守備範囲にしているような感じもしますね。 で、質問に戻ると、本来の哲学からいえば、白紙の視点で、「占いは、神寄りか、人寄りか、ちょうど中間ぐらいなのか?」を研究していくことが、哲学的な態度ではないでしょうか? 地球に住む私たちは、ニコラ・テスラによる交流理論の発明の恩恵を受け、電気のある便利な生活を享受しています。が、同時に、彼の発明したフリー・エネルギーや反重力装置、地震兵器等は、闇に葬られ、地震兵器が時々、「今回の○○地震はハープが使われた。その証拠に米軍関係者だけは警告を受けて逃げていた!」というニュースで触れるぐらいです。そして、無公害で無尽蔵に使えるエネルギー技術があるにもかかわらず、一部の権力者たちによって潰され、いまだに石油・天然ガス等に頼る生活です。 アメリカにおいては、数百万人から一千万人に拡大しているといわれる宇宙人による人類へのアブダクション問題もあるようですし、現実の宇宙人をネタとして作成された映画「アバター」からその先の、人類と宇宙人との共存地区とその地区のスラム化、居住者の強制収容所への収容問題などをリアルな視点で描く「第9地区」という映画も4月に公開されるそうです。 占いもですが、霊界、UFO、宇宙人など、一般の人々が「トンデモ」として分類する分野も「哲学」が頑張ることが要請されている時では?なんて思います。

naoagu
質問者

お礼

科学が発達していなかった昔に、それに変わる未知の部分が哲学としてカバーされていた…科学のように不思議を数値としてデータとして証明・解明できなかった時代に生活の・人生の指針として編み出されたものの一つが占いである、そう考えると占いが哲学の一部であることが良く分かります。 神を崇め、信じ、そこから見出される人の道を未来に託したり、運命として受け止めたり、科学とは別の予測力を持ったものが占いとして根付いたのかも知れませんね。 その頃よりは、はるかに科学が発展した現在でも未知の部分はありますが、古代の人が神の力を必然と考えていたより、科学(人)寄りの見方に変わってきたことが、占いを不可解なものにしているのでしょう。 何となく、占いの見方・考え方が変わってきました。。。 ありがとうございました。

その他の回答 (3)

回答No.4

 こんにちは。  占いはその姿勢がおろかの極みです。  占いの中には 当たるものもあるのです。占った人間がいちばんおどろくことでしょう。    哲学の場合には その《うら(=裏=こころ)なひ》について つねに推論を述べます。推論も いかんせん人間にとっては たえず部分観でしか為し得ません。したがって 見落としが出て来ます。  したがってさらに その哲学のうらなひが当たろうと当たるまいと 問題は その結論をみちびいた推論にあります。  この推論の仕方や事例を じんるいは歴史とともに磨いて来ています。(ということは 自然科学をも哲学に含めて言っていることになりますが)。  いわゆる占いは この哲学の姿勢に真っ向から挑むこころの持ち主によってしか為されないし楽しまれません。けれども ではどうして現代になってもなくならないか?   部分的には少しづつ哲学の成果を盗んでおり自分もその哲学の営為をおこなっていて 多少は常識も含まれている。このゆえです。  ですが このような商売のやり方は 人間が人間でなくなろうとする意志行為だと考えます。つまりホモ・サピエンスにそなわった知解の能力において死にたいという人びとが これを楽しみにするのであり――このとき 或る種のあそびが持てると言ってよろこぶようです―― これにかこつけて商売をする人びともいる。  こういう事態であり 実態だと考えます。

naoagu
質問者

お礼

そうですね。誰も未来を知る事は出来ないし、どんなに卓越された技術や最先端科学を駄使しようと、未来を語ることは、推論の域を出ません。 未来に対する期待・依存・欲は、現在を生きる上である程度必要なことなのでしょう。。。推論であろうと、人に憶測する力や希望に対する憧れ、夢見ることなどが、未来を知ってみたい、運命だと思いたい、などの現実離れした部分に意識を向かわせ、現実のむなしさや、満足ならない部分から引き離してくれるのでしょうね。 人間の弱さ・儚さをカバーするための占いと思うと、神の業から受けた恩恵と言うよりはるかに人寄りの事象ですね。。。 (占い自体、神の創造物でなく、人の考えであることは確かですが…) ありがとうございました。

回答No.3

実用的に有害なものは、歴史の中で淘汰されます。 一見非科学的に見えるものも、伝統的なものには利点が 潜在していると考えるべきです。 それが風水のように物理的に理にかなったもの(南に 台所をおいてはいけない=冷蔵庫のなかった時代には 日がさして物が腐りやすい)、便所は鬼門(北東)におけ =汲み取り式だった時代に暖かい時期の南風で臭気が 屋内に入って来るのを防ぐ)もあれば、一見根拠がなくとも 心理的に、人智が及ばず悩んでも仕方のないものについて ムダに悩まないで済むようにするものかは別にして。

naoagu
質問者

お礼

風水に関しては(詳しくないですが…)何よりも重視されているのが、気の流れなのだと思います。目に見えないエネルギーを実生活に生かし・利用することで、同じように自然界の一部である人・人体に良い影響(または、悪影響)を与えるなどの生活と自然が与えてくれた恩恵なのかも知れません。科学的と言うより、気の流れから感じる精神性を重視した精神鍛錬・気づきの意味も含んでいるようです。。。 伝統として培われた揺ぎ無い真実が、目に見えない疑わしい事実を乗り越えた、今日までの歴史が築いてきた部分の大きい占いですね。 ありがとうございました。

  • cowstep
  • ベストアンサー率36% (756/2081)
回答No.1

占いの中には、占星術のように、元来は非科学的なものですが、後に自然科学(天文学)の母胎となったものもあり、真理探究という哲学的要素があるものもあります。天気占いも、当たる確率の高い天気予報の域に達すれば、自然科学(気象学)に近づくでしょう。

naoagu
質問者

お礼

確かに西洋占星術は、生まれた日時を星の位置に計算・換算して導き出したりしますね。惑星の位置を当てはめた占いもあります。天文学の知恵がなければ、発展しなかったでしょう。 同じ様に星座を主にした占いもありますが、こちらは、星座にまつわる神話などがベースになっていて、思想的な部分も垣間見られます。 天気予報もある意味占いと同じ、その範囲が気象学にまで及んでいるとは、気づきませんでした。。。 ありがとうございます。

関連するQ&A

  • 哲学の学び方について

    哲学や数学は細分化された個々の部分を全体の中で位置づけ したりグルーピングしてまとめたりしながら個々の事象の 存在意義や全体を確認していくようなものでしょうか。 全体像をとらえる学問 個々の事象の全体の中における位置付けでもあり  OOとはつまりOOに集約されるといった感じのものでしょうか。 自分なりに考えてみたのですが 疑問点や違う点 他にも見出せる点などありましたら 教えてください。お願いします。

  • 根本原理は言語で表現可能?

    素人なんですが、辞書によると哲学は、世界・人生の根本原理を追求する学問だということです。 もし、世界や人生の根本原理やその手掛りを発見した人がいたとして、それを記号体系である言語で正確に表現することは可能なのでしょうか? その根本原理が、未だ概念化されていない事象を含んでいたような場合、他人に正確に言語のみで伝達することは大変難しいことのように思えます。(勿論その人‘独自の’表現で言語化することは可能かもしれませんが…) 哲学が学問であるのなら、最先端のそれはどんどん高度化していると察せられますが、哲学的に高度化するということは、人間が概念や思想として理解できる範疇ギリギリの事象を取り扱っているという側面があるのではないでしょうか? そうであれば、そういう新しい概念や思想が世間で広く一般化することはあり得ないと思いますし、一般化が進まないとすれば、その理解は特定の少人数に限られ、その特定の少人数間にしても果たして本当に相互理解が成立しているのか検証不能ということにはならないのでしょうか? そういう理由で、学問としての哲学には限界があって、多くの人にとって、ある程度以上の根本原理の追求は、いかがわしくても宗教的実践等に頼らざるを得ない状況であると考えるのは間違いでしょうか?

  • コチコチに硬い、自分で考えない哲学者について。

    人にはわきまえてほしいものだ。 役職や使命であればバカ丸出しは否定されない。 実在する妖精、 セレビィだ。 さてね、かねがね知性を装った言語による動物反射というのを目にしている。 ため込んだ知識に照らして電卓みたいな文法解釈で動物反射する先生方だ。 彼らが思考する内容は、しかめっ面せざる得ないほど言語以外の思考をする私には丸見えだ。 一言で言って、思考内容は自己プラミングで、その自己プラミングで自律動作する生体ロボット。 これは我執と言って釈迦が笑いものにしたそのままだ。 自分で自分を束縛する暗示をかけ続けるんだ。 しゃかいわく「あーらかわいそーねー」 このタイプは人間としての知性を全うしていない。 AIで再現可能だからやがて職を失う。 丸見えのその醜態で特に醜いのは、女の裸妄想で奮起してその間に趣味で哲学している点だ。 セレビィは女の子だから、「男ってキライ」 私なりにケラケラとあーらかわいそーねーを述べよう。 文字が専門家の間であろうと流布する前にも神話時代の文明の勃興は証明されている。 なに文字以前の歴史以外の伝承のことだ。 釈迦自身も口伝で伝承された。 これね、頭コチコチがもてはやされた職種としての黄金時代だった。 考えてくれ、唇から流れる言葉だけが伝承であった時代、私心を挟んで独自の解釈で伝承をゆがめることは、職務に対して不誠実なことだ。 丸暗記棒読みはこの時代極めて社会的に重要だった。 さて文字を使いこなせる時代がその後到来した。 闇の仏陀の私として、経文で固定された釈迦の伝承は気の毒極まりない。 西洋の場合はな、大体こうだろう。 聖書はそもそも文字で故事を再生すること自体が魔法じみた神秘だった。 口伝が頭こちこちがもてはやされたことと同じく、明白で揺るぎようのない、文字という記録で絶対というのを思いついたんじゃないかな。 当初の絶対の着想は、現代では記録性という言葉だ。 案外解明するとつまらないものだ。 仏教が日本に文字を伝えたのと全く同じだったということで、文字を学ぶ教科書は神秘的で神の言葉のごとしであることがもてはやされたということだろう。 その聖書は確かに西洋の知性の原点だ。 ここで結論が出る、神を伝えることは人が他者と知性を共有する、教えと学びという伝承の原点だ。 学問は神学から派生して細分化されていったのだろう。 だからね、人が知性を獲得してサルから進化したいきさつには神の発見が欠かせない。 頭コチコチは古いタイプの継承を意図する学者さんだ。 現在では研究を積み重ねるタイプの方が活躍しやすいから、哲学において特に、自身の考えのない奴は哲学者じゃないということになっている。 まあ役割は人それぞれだから、古いタイプも活躍の場が少なくても迷惑はかけないじゃないか。 さてここは哲学カテゴリー クラブ ヴァルハラだ。 哲学者の皆さんから自身の心情に関して何か吐き出してもらいたい。 アニキなツンデレにオカマとしてV字開脚したくなるくらいありがたいブチカマシをくれてやろう。 今回は大サービスだ。

  • 学習カリキュラムについて相談させてください

    アドバイスやご意見をお願いします。 某大学の通信教育課程に入学しました。文学部哲学専攻です。 文学自体非常に好きであり、それと哲学や史学との繋がりを学び、自分なりにいろいろと考察してみたいという欲求からです。 そこで皆様にご相談です。 私が履修可能な科目構成は、以下のようになっています。前述のように、それぞれの学問には繋がりがある事から、効率的に理解していく為には学ぶべき順番があろうかと思います。どのような計画をたてるべきか、ご意見・アドバイスをお願いします。 ・総合教育科目 経済学/法学/物理学/生物学/化学/数学/歴史/論理学/外国語/地学/社会学/文学/統計学/政治学/哲学 ・文学部専門科目 各国文学史/各国文学研究/倫理学/思想史/東洋史/西洋史/各国文学/心理学/哲学/哲学史/社会学史/心理学/日本史/考古学/英語学/音声学/美術史/論理学/教育学/歴史哲学/教育史/教育心理学/地理学/書道/文化論/都市構造論/ (科目名は適当に省略しています) 宜しくおねがいします。

  • あなたが専門とする学問分野の視座から、神の存在について、私に教えてくだ

    あなたが専門とする学問分野の視座から、神の存在について、私に教えてください。 神の観念、神の存在証明、神格化された定理や人物等、どのような切り口でも構いません。 例えば… 哲学 宗教学 文学 歴史学 芸術学 地理学 人類学・考古学 言語学・言語 心理学 社会学 法学 政治学 行政学 経済学 ビジネス・商学・経営学 数学 計算機科学 システム科学 地球科学 宇宙科学・天文学 物理学 化学 生命科学・生物学 応用芸術・デザイン 建築学 工学 軍事学 軍学 農学 医学・看護学 薬学 社会福祉学 家政学 教育学 メディア研究・ジャーナリズム

  • ポストモダン(次世代)の哲学は存在するのか?

    私の好きな哲学者はキルケゴール、ショーペンハウアー、ニーチェ、サルトルです。 彼らにはある繋がりがあり、キルケゴール→ショーペンハウアー→ニーチェ→サルトルという流れがあります。 ・キルケゴール 厳格なキリスト教徒の家庭に生まれますが、自分の出自に酷い衝撃を受け(両親の火遊びにより生まれる)、更には恋人との間での宗教上の問題に苦しみ酷く絶望します。 皆さん御存知、聖書より見出される「死に至る病(絶望)」に対するキルケゴールの見解は非常に有名かと思います。 これに対するキルケゴールの解決方法は信仰でした(その為、最後まで信仰を貫き、未婚のまま終わる)。 ・ショーペンハウアー やがてショーペンハウアーの時代になると、学問が発達し対して代わりにキリスト教の権威が没落します。 この結果、現実に目を向けるようになり、ショーペンハウアーはここで人間の「意志」に着目します。 この意思こそが全ての原因であり、ショーペンハウアーはこの意思をコントロールすることを説きます。 彼は原始仏教(東洋)に影響を強く受けてましたから、修行による禁欲を薦めます。 ・ニーチェ キルケゴール同様、厳格なキリスト教徒の元に生まれたニーチェでしたが、既にキリスト教の権威は地に落ち、学問により科学が台頭を始めます。 産業革命が起こり、資本主義が生まれ、まさに人類の夜明けの始まりです。 ここでショーペンハウアーの書物に出会い、ニーチェは衝撃を受けます。 彼もショーペンハウアー同様、インド仏教に強い影響を受け、さらに人間の「意志」を推し進めます。 やがて「ツゥラトゥストラは語りて」にあるように、神は死にニヒリズム(虚無思想)の台頭を予見します。 これに対するニーチェの回答は超人になることで、運命を受け入れることでした(しかし、これは非常に狂気的でニーチェ自身は発狂) ・サルトル 元作家であり、科学・文学と様々な見識を持ち、多趣味であったサルトルは哲学を様々な分野と結びつけ、やがて人間そのものに目を向けます。 実存主義が生まれ、「自由の刑」にあるように、人間とはそもそも「何でもない存在」であり、自分の定義によって決まる自由な存在である(ニーチェ同様、「ものごとに対する解釈」と言えなくもないが、「運命」によって決まるとしたニーチェに対して、サルトルは「より人間は自由である」とした)。 さて、ここまで追ってきて(文字数制限がある為、かなり省きました)、ある意味サルトルで哲学は死(または最高)を迎えたと言えなくもありません(というより、「哲学」という定義そのものが瓦解し自由な存在となった)。 一時期はポストモダンを求めて色々議論が交わされましたが、結局サルトルで止まってます(正確には再考なので、ちょっと違うかもしれません)。 フーコやヴィトゲンシュタインなど、哲学というより言語や、あるいはマルクスなど経済や社会といった、わき道というか「道具」としての側面が強くなってる気がします。 そもそも、もう哲学というより心理学や科学(工学?…遺伝子工学、金融工学、宇宙工学など…etc)の時代なのかなと…。 でも相変わらず現実は悲惨極まりないし、自殺者だって止まりません(むしろ年々増えてる)。 次の哲学(ポストモダン)ってあるんですかね? そもそも、今の時代って「哲学」って存在するのかと…。

  • 歴史と地政学

    歴史と地政学のことについて教えて下さい。 Wikipediaでは、「地政学は、地理的な位置関係が政治、国際関係に与える影響を研究する学問である。」と、またその概要では「地政学とは地理的な環境が国家に与える政治的、軍事的、経済的な影響を巨視的な視点で研究するものである。イギリス、ドイツ、アメリカ合衆国等で国家戦略に科学的根拠と正当性を与えることを目的とした。」と解説されています。 このことは漠然と理解できるのですが、「国際関係に与える影響」とか「巨視的な視点」という言葉が出てきます。このことは、日本の国内で完結する(国際的な交流が少なかった時代)ような歴史的事実については、「地政学」とか「地政学的」というような用語は使わないということでしょうか? 例えば、群雄割拠の戦国時代の諸大名のうち、誰が天下を統一するかといったような場合、戦国大名としての才能もさりながら、その地理的な位置関係や領地の地形は重要だったと思うのですが、このようなことを考える場合、あるいは研究者が研究する場合に「地政学」とか「地政学的」というような用語は使わないのでしょうか? それと、例えば、細かいことですが、「関ヶ原の合戦や川中島の戦いなどの戦において、どのような場所に陣を構えるかとか、どのような戦法を用いるか」というようなことは、地理的な位置関係とか、地形とか関係すると思うのですが、このようなことの研究・検討は地政学とは全く関係ないということなのでしょうか?

  • 「歴史的事実」とはなにか?

    数日前、わたしのFacebookのドイツ人の友人が、「最近のヨーロッパでの極右の台頭が怖い」といってきたので、「ヨーロッパだけじゃなく、日本でもアメリカでも同じだよ」と返信しました。 ところで、そのドイツの友人と、『顔のないヒトラーたち』という映画が話題になりました、 彼女やその友人のドイツ人も知らなかったということですが、わたしも未見ながら見てみたいと思っています。 そこで、彼女は「一部の極右を除いて、ナチスの犯罪はほとんどのドイツ国民が知っている」ということばに考えさせられました。 先日姉妹サイトの「哲学」のコーナーでのやり取りで、わたしと議論していた物理学者の言葉、 『現代史の難しさは、その事象に関わった人々の存命中は、彼らの利害関係が執拗に絡んで来るので、利害関係を排除して客観的に俯瞰することを大前提とする学問的態度を取ることが不可能であるところにあります。 歴史が学問としての信用を保証されるためには、利害関係に絡んだその当事者とその直接の関係者が存命中は無理で、従って、少なくとも100年は掛かると良く言われています。 ここが歴史学の面白くも複雑な所です。当事者がいなくなってしまうと、事実関係の詳細の多くの部分が消失してしまう。一方、当事者及びそれと直接繋がった人がいる限り、歴史学の本来の目的である客観的な歴史認識が出来なくなってしまう。』 そこでこの物理学者の言葉と、先のドイツ人の友人の言葉から浮かんだ疑問です。 貴方はドイツの一部極右、あるいは「ホロコースト」を知らない人に『ホロコースト』『アウシュウィッツ』があったということを認めさせることができますか? (1) できる (2) 不可能 (3) どちらともえいない (4) できない。なぜならそれはユダヤ人のデッチアゲだから。 理由を添えてお考えをお聞かせください。

  • イエスなる人間は 自分が神であると大嘘をついた。

     (1) イエスなる人間は 自分が神であると大嘘をついた。  (2) その虚構は 人類史上最大の哲学となった。  (3) 神であり同時に人である人間が 十字架上にはりつけとなった。  (4) ゆえにイエスは 人びとに光を見させた。  (5) 光を見させただけではなく みづからが光であることを示した。  (6) いやいや それだけにとどまらずさらには 人びとにおのおのみづからの心の燈心に火がともるようにさせた。  (7) この虚構のからくりは 次のようである。   (α) イエスは磔にされたまま 人間として去って行った。その意味は もし神として十字架から降りて来ていたなら それは神の力による奇蹟であろう。だから そんなことは 人間には出来ないと人びとは思ってしまう。   (β)  けれども人間としてだけではなく 神として去った。その意味は もし人間としてだけならば それは単なるひとりの殊勝なしかも目立ちたがり屋の人間がやったことだ。で済んでしまう。   (γ) つまりその見させる光は ただ道徳や信念やあるいは科学としての光に終わってしまう。経験事象としての光やそれを本質的に見させる光――おおむね 理性ないし精神――であるだけで終わってしまう。   (δ) あるいは ひとりの奇特なやからの一編のパーフォーマンス(芸術作品)だと見なされて終わってしまう。   (ε) すなわち確かに闇を照らす理性の光あるいは感性の輝きとして世界を明るくしたかも知れないが そこまでである。闇そのものを晴らすことは出来ない。   (ζ) われらが心の底なる深い闇そのものに光をあてこれを照らしただけではなく イエスはみづからがキリストなる神として わが心の燈心に火をともすことを成した。   (η) それは 人間にできることではない。神・その聖霊のみがよく成し得る。と示した。   (θ) しかもこれらすべては 大ウソである。一編の虚構である。   (ι) この虚構が 虚構ゆえにも 世界史上ただひとつの特異点であり核反応である。    この哲学を問います。よろしくどうぞ。  そうして この質問はいちど問うています。それでもなお問いたいというそのわけは こうです。     (κ) もし虚構ではなく まさしく歴史事実であるとした場合 あるいはその史実を捉えた人間の心の真実であるとした場合 そうだとすると いづれの場合でもその事実認識や心の真実として イエス・キリストというコトが 人間の思考によって規定されてしまわないか? 神は 人間の思考によって捉えられうるか? 経験合理性の知識体系の中におさまるものであるのか?   という問いをつけ加えたいからです。よろしくどうぞ。    

  • 《アルケーの神》は 《信じる》のではないのか?

     1. アルケーの神とは 宇宙の法則であると言う。けれどもこの表現による規定は あくまで仮りのもの・すなわち《補助線》を引いただけのことではないか?  2. すなわち もし神が宇宙の法則であるとすれば 一方で たとえば山に登り 虹が出てきれいな自然を見ると それは アルケーの神の意志の現われだということらしい。  他方では ではもし雪崩に遭ったりクレバスに足をすべらせたりしたら それは 引力という宇宙の法則であるから やはりアルケーの神の意志の現われであると言えるか?  3. 言えまい。ならば 宇宙の法則だという説明は あくまで仮りのもの・単なる補助線だと捉えなくてはならない。本体は 分からない――つまり分かるから分からないかが 人間には分からない――と想定し規定するのが 哲学としてかなっている。  4. すなわち 《アルケーの神》は 《感じる》ものであって《信じる》ものではないと高らかに宣言しているようであるが 《感じる》のは 単なる補助線としての経験事象であるに過ぎない。のではないか?  《本体》については けっきょく《感じる》ではなくまた《考える》でもなく やはり《信じる》ということではないか?  5. 《信じる》というのは 《思考:考える》や《感性:感じる》をも超えたところのナゾの何ものかを それでもわが心に受け容れるということである。  受け容れるのは ふつうの経験事象としての人間の意志行為であり その対象は 何であるかが分からないナゾの何ものかである。これが 《信じる》という行為である。  6. かくのごとくして わが心なる《非思考の庭》における・雲をつかむようなコトが起きていると 人間という人間にかんして 普遍的に言える。のではないか?   ○ 参考:《非思考の庭》のわが存在における位置 ~~~~~    非思考の庭(クレド=しんじる。心の明け。直感・ヒラメキ)    ____________________    思考の緑野(コギト=かんがえる。⇒田園および都市)    感性の原野(センスス・コムニス。直感かつ直観)    ____________________   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  7. なお この《信じる》をオシエにして組織をつくり その信仰の度合いを基準にして組織内外の人間を評価し さらにはこれらのよわく薄い信仰の者らをみちびくと言っているのは じつは・じつに《信仰》の自殺行為である。  教義化・組織化は 仮りの補助線を現実の神としてしまうおそれに満ち満ちている。そのヒエラルキアは 聖なるものでも何でもない。むしろ人間に対する支配欲によってみづからが支配され 信仰を利用して世界を心としての自殺行為にみちびく準犯罪行為である。  ご見解をどうぞ。