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神社神道の寡黙

日比野 暉彦(@bragelonne)の回答

回答No.2

 こんにちは。  ★ 清浄な自然崇拝と結びついた、古来からの沈黙の宗教が日本の心の原点のようにも思えるのですが・・・  ☆ ということですよね。もののあはれという言葉で示すこともありましたが。  人間のおこなう行為についても もしそこにひとの自然本性にふさわしい或る種の言い方でかみわざを見たとするなら あはれ⇒あっぱれと言ったでしょうし。あるいは なにごとにつけても あはっ(つまり Ah ! Oh ! )と言って受け止めることであるなら そのように自然とのつながりを見ていた。身に帯びていた。と思われます。これを《あはれ(憐れ・哀れ)= Ahness < Ah 》と呼んだのでしょう。  けれども 人麻呂でしたか 外(と)つ国に旅立つ友に《ことだまのさきはふ国だが こと挙げぞわがする》と言って 道中の無事とその務めのよき結果を祈っています。  要するにこういうことではないでしょうか?  この自然――自然環界とひとの自然本性――とつながって生きていた人びとのそのこころは たしかにムラのやしろに ひとつには 目に見えるかたちを採ったかも知れません。それでも神はその神社の奥の森や山なのでしょうが。  そしてむろん ムラの祭りは このやしろの下に人びとが その年の収穫を神々にささげるところから来ています。初穂を奉(まつ)り 言わば神々と共食するところからだと思います。  この・どんちゃんさわぎをも伴なったおごそかなまつりが じつは すでにいづれかの時に すべて束ねられ言わば第二階のスーパーヤシロに寄せられてしまいました。  平屋建ての自然に満ちた社会にあって営まれていたムラムラのマツリは その上のお二階さんのおこなうマツリゴトのもとに従うという世界へと一変しました。  まつりという言葉から出た《まつらはす・まつろふ》と言うのは 支配する・従属するの意味になります。  これは お山の大将になりたいと言って どこまでもどこまでも駄々をこねる者が出て来たので 人びとは社会にも神だなをつくって そこにかれらを祀り上げたということのようです。《くにゆづり》と言われています。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  その寡黙さは、言わず語らずという、別な意味での雄弁なのでしょうか?  言ってはいけない、言う必要もない、という力のある沈黙なのでしょうか?  それとも無力の沈黙なのでしょうか?  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ これにつきましては どうでしょう? 一番目のがもっとも合っているでしょうか? 上に見たように歴史が推移したとするならです。  人びとは その遠い昔にアマアガリを行なったお二階さんたちがその《自然本性 つまり おのれが人間であること》を自覚するのを俟っている。これが 正解であるように思います。  しかも この間 第二階から号令を発してつくった国家神道というものも現われましたから もともとの神道は 嘆くところもあると考えます。  さらにその後 世の中がいろんな意味でここまで来ると 嘆こうにも嘆かわしいとも思えなくなったり あわれましく思えたかと思うと憐れむに値しないのではないかとさえ思えて来たりする。こういう情況になってきているほどでしょうか?  それともまだまだ ほほえんでいるでしょうか?  言霊というよりは 事霊がさきはふ国であるなら 事の一大事はやがて起こるかも分かりません。どうでしょう?

noname#112847
質問者

お礼

言葉なき雄弁・・・と思われますか 自然が神の場であり、場そのものが言葉に等しい・・・という事になりますでしょうか。 人が神の場の中にいる、という謙虚な自覚をもたらすものであったなら、やはり雄弁と見るべきでしょう。 その事が様々に利用されてきた歴史は、嘆かわしいと思わざるを得ない面があるという事ですね。 私もそのように思います。 威圧ではない、静かな雄弁がこれからも語られますようにとも思います。 有難うございました。

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