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果たして《天皇》は何なのか?

 現在の憲法に照らし合わせて そのままわたしの答えは 国の象徴であり元首だと考えます。それだけのことだという意味です。  ですから そうではなく・つまりそれだけではなく 何かほかにいろんな尾ひれがついているのではないか? つけられているのではないか? そしてそれはどうしてか? こういう見方からの問い求めです。  ひとつ問題となるべきことは 世襲制です。ただこれも新しく即位したときに 国民投票をすれば済むことでしょうから そして現段階においては しなくてもウイ(諾)の声が多いでしょうから あまり問題にもなりません。  たしかに歴史的ないきさつが――それはそれは長年のことですし 昔昔のそもそもの成り立ちの話から―― いろいろとあるでしょうが そしてそれはそれで探究や話し合いの主題になることでしょうが 基本的に言って わたしの言葉で アマテラシテ(象徴)であるという答えを持ちます。  これらをめぐって ご見解をお寄せください。  * 趣旨説明としての簡単な註です。  社会は スサノヲ市民圏とアマテラス公民圏とから成り アマテラス公民の内に 元首としてのアマテラシテ象徴なる公民がある。  ○ 《スサノヲ市民社会 ‐ アマテラス公民圏 / アマテラシテ象徴》  ○ Susanowoschaft - Amaterasutum / Amaterasitaet( l'amaterasite / amatersity )  ○ Yasiro(やしろ) - Superyasiro(スーパーヤシロ)  ○ まつり  ‐ まつりごと

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  • ベストアンサー
  • Ren-Fa
  • ベストアンサー率21% (11/51)
回答No.10

文化とはピンキリ どうでもいいものから、守るべきものまで幅広い そんな中に天皇が 在る のです 憲法の中にあるのは天皇の一部に過ぎない 日本を語るうえで、天皇は語られるべき「特徴」でしょう 世界的に見ても、しっかりとした「特徴」と認識されていると思います しかし、侍やちょんまげと同様に、仮になくなったとしても日本が成り立たなくなるようなことはない 首相がいなくなってもどうにかなりそうな国だし、微妙な表現ではありますけど 天皇の意義は、文化・特徴としての存在。そして、存在を続けるのを支えるのは、歴史的背景とその精神性でしょう。 戦後、天皇は消されるはずだった。しかし、その精神を尊重し今にいたるんだそうです 詳しく話せば横道なので省略 もしかすると所蔵する書物や物なども天皇以外にはふさわしくないものがあるでしょうし 物質的な観点も面白いかも

bragelonne
質問者

補足

 Ren-Fa さん ご回答をありがとうございます。  なるほど。やはり 文化ないし歴史的な背景のもんだいでしたね。しかもそれらが いまも生きているという観点で。  たとえばアメリカの大統領は 元首を兼ねていると思います。そのバラック・オバマの家系について 歴史的・文化的な背景を取り上げて その特徴こそが 元首ないし象徴を成り立たせているとまでは言わないはずです。ただし オバマさんの人間をつくっている要素があると見るべきはずだとは 大方の人びとは考えるでしょうね。  イギリス国王なら どうでしょう? アメリカのように一代限りどころか任期限りではなく やはり世襲制ですから 文化の問題は色濃いでしょうね。次の文の中の《天皇》の代わりに イギリス王を入れても文は成り立つのではないでしょうか?  ★ 天皇の意義は、文化・特徴としての存在。そして、存在を続けるのを支えるのは、歴史的背景とその精神性でしょう。  ☆ あるいは次の文章でも同じですね。  ★ 日本を語るうえで、天皇は語られるべき「特徴」でしょう / 世界的に見ても、しっかりとした「特徴」と認識されていると思います    ☆ ここまでお応えを書いて来て わたしの側に趣旨説明として足りない点があったことに気がつきました。  それは こうです。推測が入りますが 意図していたと気づいた内容を出来るだけそのままのかたちで述べてみます。  ○ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  天皇にかんして歴史的・文化的な特徴を考慮に入れない人びとが出て来たのではないか。  ただしそのような人たちのあいだでは たとえば世襲制によってその人生のあり方が決まっているということに注目して 楽であるなぁとかこんな特別な人生を送る人がどうしているのかとか思う気持ちが起きているのかも知れない。  これに対して 天皇は何であるかを明らかにしておけばよいはずだ。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 哲学のカテゴリとして 天皇は何なのか?と問えば 現在の社会におけるその位置づけという主題になるのではないでしょうか? そういう趣旨で質問したものです。  で 全体として考えてみるなら ちょうど次のように言っていただきました。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  しかし、侍やちょんまげと同様に、仮になくなったとしても日本が成り立たなくなるようなことはない  首相がいなくなってもどうにかなりそうな国だし、微妙な表現ではありますけど  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ このあたりの事柄も 問い求めの主題として回答を寄せていただくというかたちを採りましょうか。  【Q:長い歴史とその文化の中で 《天皇》をどのようにあなたは捉えますか?】  質問者の側に変な取り込みがありましたが あらためてご投稿をお寄せいただければさいわいです。いかがでしょうか?  日本の《精神》ないし日本人の心についての問い求めが得られるとも思います。

その他の回答 (10)

  • Ren-Fa
  • ベストアンサー率21% (11/51)
回答No.11

天皇に対し、歴史的・文化的意義を感じない人々は増えているでしょうし、増えていくでしょう これは避ける事の出来ない事なのかも知れません 現状、天皇は原爆ドームのような存在なのではないでしょうか 歴史的なことを伝えるために残されたという点、徐々にその存在意義を意識しない人達の増加している点、こういう部分では似ている気がします 長い歴史の中で見た時の天皇とは、2つに別れると思います 民衆の頂点としての天皇、文化・歴史を伝え遺すための天皇 前者は説明は不要でしょう 後者については、天皇という存在や、その天皇が行う公務などを知った時、少なからず疑問に浮かぶような事柄があると思います ・何のため? ・何をしているの? ・必要なの? など人によって数も質も違う疑問などでしょう その答えを調べたなら、それは歴史と文化を知ることになるでしょう ただ、それらは輝かしい物、どうでもいい物、忌わしい物全てを含みます 日本にとってではなく、大和国から続く民族としての、文化であり歴史であるのが天皇でしょう 答えにはなっているでしょうか?

bragelonne
質問者

補足

 Ren-Fa さん こんばんは。ご回答をありがとうございます。  なかなか快刀乱麻のごとき回答(――しゃれのような しゃれでないような――)は望みがたいのかも分かりません。  今回の Ren-Fa さんの思索を受けてこんなことを考えてみました。  先の戦争からはかなりのときが経ちました。天皇も代が変わりました。いま人びとは この天皇ないしその制度について いろんなことを考えているのではないかとわたしも思います。もうあまり考えないようになっているとすれば それもいまの変化に入ることではないかと思うわけです。  そんな思潮の中に身をおいて ご議論のあとを受ければ 次の一点がわたしには思い浮かびました。  ○ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  聖徳太子は 蘇我馬子が物部氏と対立し戦争をしかけたとき 馬子の側につき 参戦しています。そのあと 物部氏を倒したからと言って      一に曰(い)わく、和を以(も)って貴(とうと)しとなし、忤(さから)    うこと無きを宗(むね)とせよ。     人みな党あり、また達(さと)れるもの少なし。ここをもって、ある    いは君父(くんぷ)に順(したが)わず、また隣里(りんり)に違(たが)う。     しかれども、上(かみ)和(やわら)ぎ下(しも)睦(むつ)びて、事を論    (あげつら)うに諧(かな)うときは、すなわち事理おのずから通ず。     何事か成らざらん。  こんなことを唱えてもはづかしくないのでしょうか? 《さからふことなきを旨とせよ》というのは 自分とその味方に対して逆らうなということでしょうし 自分たちの敵には 逆らえと言っていることになるでしょう。  こんな矛盾した話の持ち主をわたしたちはどうしてあがめるのでしょう?  文化であり歴史であるその広い意味での《天皇》について われわれ市民もささえるべきは支えるでしょうが 矛盾やはづかしきことがらについては はっきりさせるのが筋ではないでしょうか?  ▲ (ヰキぺ:聖徳太子) ~~~~~~~~~~~~~~~~   http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%81%96%E5%BE%B3%E5%A4%AA%E5%AD%90  仏教の受容を巡って崇仏派の蘇我馬子と排仏派の物部守屋とが激しく対立するようになっていた。・・・馬子は、・・・諸豪族、諸皇子を集めて守屋討伐の大軍を起こした。厩戸皇子もこの軍に加わった。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

noname#103439
noname#103439
回答No.9

天皇ノ原義―天皇ハ国民ノ総代表タリ、国家ノ根柱タルノ原理主義ヲ明ラカニス。 此ノ理義ヲ明ラカニセンガ為ニ神武国祖ノ創業明治大帝ノ革命ニ則リテ宮中ノ一新ヲ図リ、現時ノ枢密顧問官其他ノ官吏ヲ罷免シ以テ天皇ヲ補佐シ得ヘキ器ヲ広ク天下ニ求ム。 天皇ヲ補佐スヘキ顧問院ヲ設ク。顧問院議員ハ天皇ニ任命セラレ其人員ヲ五十名トス。 顧問院議員ハ内閣会議ノ決議及ビ議会ノ不信任決議ニ対シテ天皇ニ辞表ヲ捧呈スヘシ。但シ内閣及ビ議会ニ対シテ責任ヲ負フ者ニ非ス。

bragelonne
質問者

お礼

 ご投稿をありがとうございます。  ですが 何ともはやこの文章を読んで自分で考えなさい ですか。  では自由にお応えしましょう。  裃は それはそれとしてあるでしょうが 中身も問題です。  いくさに負けたなら 何とも言えません。  たとえふたつの爆弾をこうむっても 勝ち戦に持っていかなくちゃ 裃が泣きます。信州に大本営をつくってあったのですから 何らかのかたちでかみかぜのあるのを俟つのでなくては 崇神ミマキイリヒコイニヱのミコトやオホタタネコらにもうしわけが立たない。  それとも《和を以て貴しと為す》のなら 外交活動を精一杯おこなわせて戦争を回避すべきだった。  あるいは 真珠湾を攻撃したあとただちに――たとえ卑怯だとののしられても――降伏するべきだった。  負けては何ともならない。    もし戦後の経済戦争がそれを引き継いだと見るのならば たしかにナンバーワンになったけれども 風船がしぼんでしまったことはもう見ないことにしようとは言い難い。  裃はふるいよ。

  • kadowaki
  • ベストアンサー率41% (854/2034)
回答No.8

半年のうちに世相は変った。醜の御楯といでたつ我は。大君のへにこそ死なめかへりみはせじ。若者達は花と散ったが、同じ彼等が生き残って闇屋となる。ももとせの命ねがはじいつの日か御楯とゆかん君とちぎりて。けなげな心情で男を送った女達も半年の月日のうちに夫君の位牌にぬかずくことも事務的になるばかりであろうし、やがて新たな面影を胸に宿すのも遠い日のことではない。人間が変ったのではない。人間は元来そういうものであり、変ったのは世相の上皮だけのことだ。 (中略) 私は天皇制に就ても、極めて日本的な(従って或いは独創的な)政治的作品を見るのである。天皇制は天皇によって生みだされたものではない。天皇は時に自ら陰謀を起したこともあるけれども、概して何もしておらず、その陰謀は常に成功のためしがなく、島流しとなったり、山奥へ逃げたり、そして結局常に政治的理由によってその存立を認められてきた。社会的に忘れた時にすら政治的に担ぎだされてくるのであって、その存立の政治的理由はいわば政治家達の嗅覚によるもので、彼等は日本人の性癖を洞察し、その性癖の中に天皇制を発見していた。それは天皇家に限るものではない。代り得るものならば、孔子家でも釈迦家でもレーニン家でも構わなかった。ただ代り得なかっただけである。  すくなくとも日本の政治家達(貴族や武士)は自己の永遠の隆盛(それは永遠ではなかったが、彼等は永遠を夢みたであろう)を約束する手段として絶対君主の必要を嗅ぎつけていた。平安時代の藤原氏は天皇の擁立を自分勝手にやりながら、自分が天皇の下位であるのを疑りもしなかったし、迷惑にも思っていなかった。天皇の存在によって御家騒動の処理をやり、弟は兄をやりこめ、兄は父をやっつける。彼等は本能的な実質主義者であり、自分の一生が愉しければ良かったし、そのくせ朝儀を盛大にして天皇を拝賀する奇妙な形式が大好きで、満足していた。天皇を拝むことが、自分自身の威厳を示し、又、自ら威厳を感じる手段でもあったのである。  我々にとっては実際馬鹿げたことだ。我々は靖国神社の下を電車が曲るたびに頭を下げさせられる馬鹿らしさには閉口したが、或種の人々にとっては、そうすることによってしか自分を感じることが出来ないので、我々は靖国神社に就てはその馬鹿らしさを笑うけれども、外の事柄に就て、同じような馬鹿げたことを自分自身でやっている。そして自分の馬鹿らしさには気づかないだけのことだ。 (中略) 戦争に負けたから堕ちるのではないのだ。人間だから堕ちるのであり、生きているから堕ちるだけだ。だが人間は永遠に堕ちぬくことはできないだろう。なぜなら人間の心は苦難に対して鋼鉄の如くでは有り得ない。人間は可憐であり脆弱であり、それ故愚かなものであるが、堕ちぬくためには弱すぎる。人間は結局処女を刺殺せずにはいられず、武士道をあみださずにはいられず、天皇を担ぎださずにはいられなくなるであろう。だが他人の処女でなしに自分自身の処女を刺殺し、自分自身の武士道、自分自身の天皇をあみだすためには、人は正しく堕ちる道を堕ちきることが必要なのだ。そして人の如くに日本も亦堕ちることが必要であろう。堕ちる道を堕ちきることによって、自分自身を発見し、救わなければならない。政治による救いなどは上皮だけの愚にもつかない物である。

bragelonne
質問者

お礼

 おのれが堕ち切ってから ものを言えと言いたい。  堕ち切ったあと何が見えるか? かつてと同じものがどう見えるか?  ものは見えているのか? その論議をとっぱじめから始めるべきなのだ。    天皇制という主題じたいについては その起源についての考察がまったく欠けていると言いたい。摂関だろうが大将軍だろうが それらはただ利用したに過ぎない。  それを思うと おほきみの候補を――むろん身内なのだが――次つぎに亡きものとして行って みづからの子供たちすらをも亡きものとし 後継者がひとりもいない情況をつくって 五世の孫を越前から迎えようと計画した雄略オホハツセワカタケルそのひと この《大悪天皇》のほうがまだましだ。  オホキミを受け継ぐはずだったイチノヘノオシハ 雄略ワカタケルに暗殺されたかれ その双子の子供たち 暗殺現場から命からがら逃げたオホケ・ヲケの二人 かれらの帰りをじっと待ったイイトヨのアヲ(おばさん) このイリ市長の系譜を思うべきである。  明治維新では 明治天皇という人はすり替えだという説まで出ている。草もうの志士らは 力をまとめるために天皇をかついだが どこかでお役御免にしようとも思っていたとも聞く。  あとは アマテラス帝国に《くにゆづり》をした出雲スサノヲ市民社会こそが 日本のくにを支えているのだと知るべきである。その昔 大昔のそのまた昔 スサノヲこそがすでに堕ちに堕ちて堕ち切ったのである。これはひとことで言えば ミラーニューロン現象として相手や周りの人びとの甘えをひとりの身にすべて集めこれを消化する過程で ちから及ばず侵した罪であったと知るべきである。  出雲では すでにわがこころすがすがしと かれはうたったではないか。    八雲立つ出雲八重垣・・・

noname#103439
noname#103439
回答No.7

1 なんにも云えず 靖国の    宮のきざはし ひれ伏せば    熱い涙が こみあげる    そうだ 感謝の その気持    揃う揃う気持が 国護る 2 雁の鳴きわたる 月の空    今夜いまごろ 戦地では    弾丸(たま)を浴びてる    朋友(とも)がある    そうだ 済まない その気持    揃う揃う気持が 国護る 3 戦に勝つにゃ お互いが    持場 職場に 命がけ    こんな苦労じゃ まだ足りぬ    そうだ その意気 その気持    揃う揃う気持が 国護る

参考URL:
http://www.youtube.com/watch?v=Jrt73zKzQ1M
bragelonne
質問者

お礼

 ご投稿をありがとうございます。  この歌詞で《アドバイス》ですか。  たぶん 天皇はアマテラシテ象徴であるという内容としては 同じくするが その考えの中身はちがいますよというご見解でしょうか?  象徴および元首という社会的な役割をになうと見るときも けっきょくそのひとに言わば主権の存する国民市民が 押しつけているのですよね。  それと同じように いわば過去における天皇のあり方を現在でも打ち出すというのは これも けっきょくそのひとに押しつけている。このようだとわたしは考えます。  ほんとは このいくら主権があるからと言って〔この〕押しつけをなくしたいとは思っているのです。  でもその考えは まだまだ早すぎるでしょう。  というふうにお応えいたしましょうか。

noname#103384
noname#103384
回答No.6

わが大君に 召されたる   生命栄光(はえ)ある 朝ぼらけ   讃えて送る 一億の   歓呼は高く 天を衝く   いざ行け つわもの   日本男児!   華と咲く身の 感激を   戍衣(じゅうい)の胸に 引き緊めて   正義の軍(いくさ) 征くところ   たれか阻まん その歩武を   いざ行け つわもの   日本男児!  かがやく御旗 先立てて   越ゆる勝利の 幾山河   無敵日本の 武勲(いさおし)を   世界に示す ときぞ今   いざ行け つわもの   日本男児!  守る銃後に 憂いなし   大和魂 ゆるぎなし   国のかために 人の和に   大盤石の この備え   いざ行け つわもの   日本男児!

参考URL:
http://www.youtube.com/watch?v=xPmQyMLkj_U
bragelonne
質問者

お礼

 つづけてですね。  けれどもこのうたは  ○ 出征兵士を送る歌  ☆ のようですね。いまとは憲法がちがっていましたね。こういうときもあったということだと考えます。  主権在民と戦争放棄などで根本的に違っています。ですからこのときの天皇の位置づけは いまでは過去のものだと考えますが そういうことではないのでしょうか?

noname#103384
noname#103384
回答No.5

天皇は元首である。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ 天皇は元首である。  ☆ わたしもそう思います。対外的にはまったくそうだと考えます。そういう社会的な役割をになっているという捉え方です。  対内的には 国と国民統合の象徴とか言いますね。けれども元首というのは そういう権威であり象徴なのだと思います。  これだけのことだと言えると考えますが どうもそうでもない解釈があるのかどうか。解釈でなくても 《文化》の側からいろんな歴史的な色合いをつけ加える場合があるのでしょうか? その点が分からないという問いになっています。  ありがとうございました。

noname#117439
noname#117439
回答No.4

オコリザルです。 私の出した質問の方は、もう暇で暇で。 日本人の信仰文化のもうひとつである仏教の外堀を埋めます。 無の悟りとは何ぞや!(マジギレ) 「有無を明白にすること」 あっけなく、ただそんだけ。 今のところブラフマンまで行き着きました。 それがお釈迦様の信仰を支えた、名も無き神(無神の神)では無いのかもしれません。まだ不明です。 私の場合無神と言う空白を照らす光明はアマテラスでした。 無神なり無心なりを照らす光明をアマテラスと表現する限り、仏教と神道はつながります。 それから神について語るのは困難だと判りますが、これは愛について語る困難とほぼ等しく、不可能と言う事では全然ないようです。 女性を口説くときは「愛してる」じゃなくて「ねーちゃんパンツ脱げや」と言った方が愛に忠実なのかもわかりません。

bragelonne
質問者

お礼

 オコリザルさん そちらのご質問は 複雑すぎます。ていねいに述べておられるのでしょうが かえって焦点が定まりません。と思います。  ブラフマンという宇宙の原理と人間の我れ(または 自身)としてのアートマン そして両者の一体(つまり 梵我一如)の説は バラモンのおしえですよ。  このバラモンのおしえを批判して――つまり 他に依存せずそれみづからが存立する実体としてのアートマンは無いという諸法無我の説を打ち出すことによって批判して―― ブッダが現われたのですよ。  量り知れない光という意味の無量光が アミターバつまり阿弥陀如来です。つまりこれを仮りに アマテラスと言っても それはただ表現の違いであるに過ぎません。アポルローンと言っても 中身に変わりはないでしょう。  非思考ですから そのような神の名をつけても あるいはぎゃくに 無神と言っても 同じことだというのが わたしの信仰の理論です。  たぶん 結論だけを投げ入れるようにして提出するのではなく その結論に到る推論の過程を じっくりと表わすようにするとよいと思います。最後の口説きのせりふにしても そうでしょうね。結論に到る筋道をとことん明らかにしていくのが 哲学だと思います。  そうしておけば 結論がたとえ間違っていたとしても じゅうぶん対処していくことが出来ます。推論の不確かなところを直せばよいということだと思います。どうでしょう。

  • compequal
  • ベストアンサー率42% (61/145)
回答No.3

bragelonneさん 興味深い質問だとは思うのですが、bragelonneさんの独自の概念系/用語法を、他人である私が理解するのはちょっとこれだけだと厳しく感じます。とりわけ、スサノヲ―アマテラスといったbragelonneさんが、よくお使いになられている概念は、もう少し一般的な言葉で説明していただくことはできないでしょうか?

bragelonne
質問者

お礼

 compequal さん ご投稿をありがとうございます。  ううーん。  ★ もう少し一般的な言葉で説明していただくことはできないでしょうか?  ☆ そうですか。今回の場合は 趣旨説明の中に書いたように 《註》として添えた程度にとっていただけばいいと思うのですが どうですか? まだわかりにくいですか?  ○ アマテラシテは アマテラスという言葉を抽象名詞化したかたちです。   リベラル・リーブル→リバティ・リベルテ   イークオル・エガル→イークオリティ・エガリテ   フラターナル・フラテルネル→フラターニティ・フラテルニテ  ○ スサノヲシャフト‐アマテラストゥーム  ○ やしろの上の二階が スーパーヤシロです。  ☆ とにかく 現行憲法の象徴天皇制でかまわないし じゅうぶんではないか? こういう単純な問いですよ。  そこに枝葉が付けられるのは おかしい。それは まさに枝葉であり お飾りのようなものではないか。だからいちいち持ち出さなくてもよいのではないか? こういう問いです。どうでしょう?

  • kappa1zoku
  • ベストアンサー率29% (334/1137)
回答No.2

ずいぶんと真面目な方ですね。 例えば、米軍の普天間基地の移転問題が議論されています。 大袈裟に言う人の中には、米軍が日本からいなくなると大変なことになると騒いでいる人もいます。 日本がアメリカに占領されてから、60年以上も経つと今そこにあることさえ誰も問わなくなります。 <天皇族>が朝鮮半島から日本に渡ってきてから、2千年近く経つのでしょうか? その中で培われたものは、<日本の文化>と呼んでいいものだと思います。 支配者の争いの中で、象徴的に生き残ったのも<天皇>と言えるでしょう。 ただ、僕は被支配者の末裔ですから、<天皇>=<日本の文化>とも言えないだろうと考えています。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ふうむ。  たぶん戦争によるのではなく外交と文化による征服 この異民族による征服説ですか。  わたしもその仮説については承知しております。おりますと言うだけではなく 投稿においてそういう仮説の紹介までおこなっております。ただし上にも書いたように武力による征服はなかった。そして 大勢が征服という意図ひとつのためにやって来たとも思っていません。せいぜいが 漢民族その他の異民族の侵入や政治的な失脚などなどから避けどころを求めて朝鮮半島からこの島国にやって来た。この程度に考えております。(その後 この地で婚姻をおこなったと見るわけです)。  さて その仮説は別にしても  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  日本がアメリカに占領されてから、60年以上も経つと今そこにあることさえ誰も問わなくなります。  <天皇族>が朝鮮半島から日本に渡ってきてから、2千年近く経つのでしょうか?  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ という論理でしたら 既成事実は もう問わないということのようですね。  時効のようなものとして時間が経ったら いちいち昔のことは問うなと。  ううーん。これは あまりいただけませんね。何万年前のことでも 禁断のリンゴを勧めたのは おまえだ いや あなたが欲しがったのよと言った言い訳論争もやっているというのですから。  まぁ デファクト・スタンダードというのもあるにはあるようですが。  ★ ただ、僕は被支配者の末裔ですから、<天皇>=<日本の文化>とも言えないだろうと考えています。  ☆ スサノヲ‐オホクニヌシの系譜だというわけですね。――えぇっ? そんなこと 分かるのですか?   主観の真実ということでしょうか。高千穂の峰にアマクダリした天つ神族ではなく 国つ神の側だということですね。  で 要するに 《象徴であり それ以上のものではない》という見方は 受け容れられると言えるのでしょうか? それがお聞きしたいところなのです。 

  • Ren-Fa
  • ベストアンサー率21% (11/51)
回答No.1

天皇はそう深いものではない そもそも、世襲制は過去一度途絶えている。天皇の治めていた国と、今の国とはあまりに違いすぎる 天皇とは文化の一部であり、風習、国の特徴である。その程度 だけど、君が天皇に意味や存在意義を問うなら 天皇が引き継ぐ 精神 について学んでみるといい 逸話など色々でてくるはず

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ だけど、君が天皇に意味や存在意義を問うなら / 天皇が引き継ぐ 精神 について学んでみるといい  ☆ 君 ですか。それはいいとして 質問はぎゃくです。  わたくしは 趣旨説明に書いた以上の意味や存在意義を問わないと言っているのです。  けれども なぜか そうでない場合があるのではないか? という推測のもとに問うています。  ですが 細かいところを見てみますと   ★ 天皇とは文化の一部であり、風習、国の特徴である。その程度  ☆ というあなたの意義づけは やや憲法以上の内容をつけ加え過ぎなのではないでしょうか?   ★ 天皇が引き継ぐ 精神  ☆ とは一体なんでしょう?  むろん  われわれの《文化》とかかわりがないと言おうとしてもいませんが わざわざ  ★ 文化の一部であり 風習 国の特徴である。  ☆ と見るのも 行き過ぎなのではないでしょうか?  つまりここは哲学カテゴリですから とうぜん哲学としてどういうご見解であるかを尋ねています。  もし《文化》を持ち出すのでしたら 現行憲法を離れて歴史的なことを言えばというように 事割り書きを添えていただくならよかったと思います。どうでしょう?  ですが 基本的に言って・また煮詰めたかたちで言って 象徴であり実務として元首であるというものだと考えます。それ以上ではないと言って 哲学による回答になるのではないか? こういう問い求めです。よろしくどうぞ。

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     1. 万世一系とは いま生まれて来ている人の誰についても例外なく言えることです。  1-1. 記録がないだけでしょう。    1-2. 男系は 家筋としては途絶えているかも知れないけれど 血筋は とうぜん辿れるわけです。  1-3. 一般の人びとの場合は 側室による男系一系が少ないだけでしょう。  2. 天皇家は 祖先を遡るとアマテラスオホミカミにたどり着くと言う。けれども アマテラスは アメノミナカヌシらの神々のあとに出て来た神である。  2-1. そして――出生の謂われは生殖のかたちが微妙だけれど――スサノヲのミコトの実の姉である。  2-2. つまり 一般の人びとは スサノヲの子孫となっているが 天皇家も スサノヲの子孫である。スサノヲも 天皇家の祖先である。  3. 象徴天皇という社会的役割りは 決してめづらしいことではない。  3-1. 《スサノヲ市民社会 - アマテラス公民圏》なる連関制としての社会形態は 二階建て構造を成す国家という状態にかんして 世界において一般性を持つ。  3-2. アマテラス公民は 《公務員一般(狭義のアマテラス)とアマテラシテ》とに分かれるが この・象徴を意味するアマテラシテが やはり世界において一般的な元首のことである。  3-3. 具体的に 国王・象徴天皇・大統領などがある。  3-4. 一党独裁の党総書記は ふつうの国家におけるふつうのアマテラシテであると言えるかどうか。  ☆ 具体例を三件挙げました。――人びとはなぜ 天皇について哲学しないままでいるのか?

  • 村上隆のフィギュアは 天皇へのオマージュか?

     それとも パロディなのか?  それは 例の16億円で売れた・《自己満足》の象徴のようなフィギュア作品を言います。  次が そのたたき台です。歴史的な背景の説明をともなったフィギュアの心の解明です。お聞きください。     *  フィギュアをめぐる萌えと燃え。  そこには負け組と勝ち組と規定したかたちに現われた階級闘争があるかないか?  たしかに 現代の日本社会としての固有のあるいはそれとして特殊な事情や情況はあるだろうが 問題はやはり通史的に捉えた日本人の社会そして特には 国家の誕生からその展開過程を焦点とする歴史 にその答えを解く鍵があるだろうね。  展開過程と言っても じつは 何にもない。誕生のあとそこで成立したその国家の仕組みが 内部での組み替えは起きたとしても――征夷大将軍や市民資本家が 実権を握るお上になったとしても―― まったくと言っていいほど その体制は変わっていない。  この社会の成り立ちとしては    スサノヲ( S )市民‐アマテラス( A )公民   この連関制である。これは 二階建て構造を有する。そして A 圏における権力と権威の分離をも考慮に入れるなら こうである。   市民社会圏( S )‐〈政府公民圏 ・ アマテラシテ(象徴)〉( A )     * アマテラシテ( amatérasité; amaterasity; Amaterasität ):     アマテラス( amaterasu )公民ないし天皇の抽象名詞化。  アマテラス圏のアマテラス政府は じつはすでにスサノヲ市民政府である。主権者スサノヲによって権力が構成されている。ただし 国家として成り立った《 A - S 連関制》じたいは いささかも変わっていない。  そして アマテラス圏なるお二階さんが スサノヲ市民らによって形成されているにもかかわらず 一般的なクウキないし社会通念としては 相変わらずその第二階なるあたまで立っているかのごとく 逆立ちした連関制である。  けっきょくことは――問題は―― アマテラス圏における象徴アマテラシテを どうするかにある。  そもそも――神話としての伝承によるとは言え―― スサノヲ市民らが もともと平屋建ての社会にあって生活しており そこから第二階をこしらえて アマテラス族をそこに住まわせたのは そのように《くにゆづり》をしたことからだったからである。  どうしてもアマテラス族が――かれらは それはそれは品行方正・学力優秀だったからのようだが―― この世の中を 自分たちにまかせて欲しいと頼みに頼んで拝みに拝んで それにとうとう根負けしたスサノヲらは 社会にも やしろを作ってそこにかれらをまつりあげた。これが くにゆづりだったことに起因する。    スサノヲらにしてみれば あまりにも駄々をこねるゆえに しばらくは特別の場所をあたえたという程度に過ぎなかったかも知れない。ところが 一たん第二階ないしあたかも 雲の上のスーパー・ヤシロなる神棚に腰を据えたが早いか あとは そのまれにみる能力をほしいままに使い切るまでに使いこなすほどに 国家経営にはげんだことになる。権力と権威との分離がなされたあとも このお二階さんとしてのまとまりは びくともしなかった。  結論である。  要するに 駄々をこねる子供から早く人びとと自由に対等に話し合いができるおとなに成って欲しい。千五百年経ったが どれだけ経ってもまだまだ待っているんだぞというメッセージを送り続けていることになる。これが フィギュアのねらいだという読みである。  その思いを大枠として――その解決がなされなけれ人間存在の話としては何ごとも始まらないほどの枠組みとして―― あとはその時代時代のなかでさまざまに文化的・経済的な進展に応じて そのメッセージの具体的な中身が変遷して来ている。反抗と言っても せいぜいが 一揆ていどである。  つまりは現代としては フィギュアもオタクも萌えも――そして 燃えは A-S 連関制におけるむしろ A 圏の側からの応答としてのごとくであるようなのだが―― このメッセージをそれとして体現していると考えられる。  むすび:  アマテラス圏は 社会のどう考えても主役であるしかないスサノヲ圏のスサノヲ市民らに その大政を奉還すべきである。はやくおとなにならねばならない。  権力をただちにスサノヲ圏に返すと 国際関係において チカラの均衡がくづれるおそれがあるとするなら その安全保障のことをも考慮しつつ 大政奉還していけばよい。  おまけ:  だから フィギュアに自分の時間を割く人びとは いわゆる階級関係における権力闘争をしようとしているのではない。日本においては それは 筋がちがう。  逆立してしまった連関制なる二階建ての成り立ちを 風通しのよい・おとなの話し合いができる自由な仕組みに作り直そうと言うのみ。  だから けっきょく自己満足でしかない世界において自己満足でしかない手段によって 心の内なる心の奥の心にうったえている。もともと くにゆづりをしたからには 返せとか下りて来いとか なかなか直接には言いづらい。まして 引きずりおろそうとは していない。心への呼びかけにおさまる。

  • 村上隆のフィギュアは 天皇へのオマージュか?

     それとも パロディなのか?  それは 例の16億円で売れた・《自己満足》の象徴のようなフィギュア作品を言います。  次が そのたたき台です。歴史的な背景の説明を添えた・フィギュアの心の解明です。     *  フィギュアをめぐる萌えと燃え。  そこには負け組と勝ち組と規定したかたちに現われた階級闘争があるかないか?  たしかに 現代の日本社会としての固有のあるいはそれとして特殊な事情や情況はあるだろうが 問題はやはり通史的に捉えた日本人の社会そして特には 国家の誕生からその展開過程を焦点とする歴史 にその答えを解く鍵があるだろうね。  展開過程と言っても じつは 何にもない。誕生のあとそこで成立したその国家の仕組みが 内部での組み替えは起きたとしても――征夷大将軍や市民資本家が 実権を握るお上になったとしても―― まったくと言っていいほど その体制は変わっていない。  この社会の成り立ちとしては    スサノヲ( S )市民‐アマテラス( A )公民   この連関制である。これは 二階建て構造を有する。そして A 圏における権力と権威の分離をも考慮に入れるなら こうである。   市民社会圏( S )‐〈政府公民圏 ・ アマテラシテ(象徴)〉( A )     * アマテラシテ( amatérasité; amaterasity; Amaterasität ):     アマテラス( amaterasu )公民ないし天皇の抽象名詞化。  アマテラス圏のアマテラス政府は じつはすでにスサノヲ市民政府である。主権者スサノヲによって権力が構成されている。ただし 国家として成り立った《 A - S 連関制》じたいは いささかも変わっていない。  そして アマテラス圏なるお二階さんが スサノヲ市民らによって形成されているにもかかわらず 一般的なクウキないし社会通念としては 相変わらずその第二階なるあたまで立っているかのごとく 逆立ちした連関制である。  けっきょくことは――問題は―― アマテラス圏における象徴アマテラシテを どうするかにある。  そもそも――神話としての伝承によるとは言え―― スサノヲ市民らが もともと平屋建ての社会にあって生活しており そこから第二階をこしらえて アマテラス族をそこに住まわせたのは そのように《くにゆづり》をしたことからだったからである。  どうしてもアマテラス族が――かれらは それはそれは品行方正・学力優秀だったからのようだが―― この世の中を 自分たちにまかせて欲しいと頼みに頼んで拝みに拝んで それにとうとう根負けしたスサノヲらは 社会にも やしろを作ってそこにかれらをまつりあげた。これが くにゆづりだったことに起因する。    スサノヲらにしてみれば あまりにも駄々をこねるゆえに しばらくは特別の場所をあたえたという程度に過ぎなかったかも知れない。ところが 一たん第二階ないしあたかも 雲の上のスーパー・ヤシロなる神棚に腰を据えたが早いか あとは そのまれにみる能力をほしいままに使い切るまでに使いこなすほどに 国家経営にはげんだことになる。権力と権威との分離がなされたあとも このお二階さんとしてのまとまりは びくともしなかった。  結論である。  要するに 駄々をこねる子供から早く人びとと自由に対等に話し合いができるおとなに成って欲しい。千五百年経ったが どれだけ経ってもまだまだ待っているんだぞというメッセージを送り続けていることになる。これが フィギュアのねらいだという読みである。  その思いを大枠として――その解決がなされなけれ人間存在の話としては何ごとも始まらないほどの枠組みとして―― あとはその時代時代のなかでさまざまに文化的・経済的な進展に応じて そのメッセージの具体的な中身が変遷して来ている。反抗と言っても せいぜいが 一揆ていどである。  つまりは現代としては フィギュアもオタクも萌えも――そして 燃えは A-S 連関制におけるむしろ A 圏の側からの応答としてのごとくであるようなのだが―― このメッセージをそれとして体現していると考えられる。  むすび:  アマテラス圏は 社会のどう考えても主役であるしかないスサノヲ圏のスサノヲ市民らに その大政を奉還すべきである。はやくおとなにならねばならない。  権力をただちにスサノヲ圏に返すと 国際関係において チカラの均衡がくづれるおそれがあるとするなら その安全保障のことをも考慮しつつ 大政奉還していけばよい。  おまけ:  だから フィギュアに自分の時間を割く人びとは いわゆる階級関係における権力闘争をしようとしているのではない。日本においては それは 筋がちがう。  逆立してしまった連関制なる二階建ての成り立ちを 風通しのよい・おとなの話し合いができる自由な仕組みに作り直そうと言うのみ。  だから けっきょく自己満足でしかない世界において自己満足でしかない手段によって 心の内なる心の奥の心にうったえている。もともと くにゆづりをしたからには 返せとか下りて来いとか なかなか直接には言いづらい。まして 引きずりおろそうとは していない。心への呼びかけにおさまる。    *  天皇が存在することによって ほかの人びとはすべて平等であって そのぶん社会の風通しがよいから 皇室(その制度)はたとえ自己満足であったとしても(*1) 存続している。それゆえ オマージュをささげている。というのか?  それとも このようなそれぞれの立ち場でのそれぞれの自己満足は起きていると思われるが これではやはり風通しはわるいのだ いつまで経ってもよくならないのではないかというパロディなのか?    *1 《皇室(その制度)はたとえ自己満足であったとしても》:これ    は ほかのすべての人びとが平等であると言っても ひとり(ひと    つの家系)は 特別な存在とされている。したがって その設定が    特別視の根拠や理由などについて 社会的な虚構を構成すると    いうような意味において 民族にとっての自己満足でたといあった    としても の意です。 

  • 事大主義(アマテラス予備軍症候群)とその後遺症

     1. ひとの言葉は あやまち得るスサノヲ人間語とあやまたざる〔と見なされる〕アマテラス普遍語とに分かれる。   《スサノヲ人間語 - アマテラス普遍語(科学語および人格語)》なる構造的な成り立ち  2. アマテラス語をよく使いこなすひとは 社会の中で一般に指導的な地位に上がることが多い。言いかえると スサノヲ市民が《あまあがり》すると アマテラス公民となる。   《スサノヲ市民社会 - アマテラス公民圏》から成る社会のかたち   3. このかたちは 二階建ての構造であるように思われる。お二階さんの中でさらにアマアガリが起きると いわゆる国家元首としてのアマテラシテが出来る。   《 S 圏 - A 圏(アマテラス公民 / アマテラシテ)》連関制    ・アマテラス公民:官僚・政治家その他もっぱらの公民と見なされる職務    ・アマテラシテ:国王・皇帝・象徴  4. ここに第三次のアマアガリがあり得る。それは特に 《皇帝なるアマテラシテ》の場合であり 《帝国》というのは なおほかの国家をも自分の支配下に置こうとする動きである。  5. 韓国は 大いなる帝国主義アマテラシテに事(つか)えるという事大主義なる行動をしばしばおこなって来た。これを アマテラス予備軍と呼び得る。そのクセを アマテラス予備軍症候群と言えるのではないか?  6. 大日本帝国に仕えた朝鮮は 日本が敗けたあと いろいろ協力を求めて来たように思われるが 敗戦国は叩けということになる。反日である。国是のごとく。  7. ジャパン・バッシングそのものは 自分の責任でそういう表現をするかぎりで 仕方ないことですが 問題は 《反日》が 自己表現の大前提になっていることにある。  8. ▼ (ヰキぺ:反日主義) ~~~~~~~~~~~~   http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%8D%E6%97%A5%E4%B8%BB%E7%BE%A9  ▽ 鄭大均:「反日は韓国のアイデンティティと不可分な関係があり、反日と無縁な韓国人はいない」  ▽ 崔碩栄:「韓国の過激な反日感情は自然に発生した感情ではない。『反日国家』韓国では、日本は『悪い国』だという情報だけが与えられ、人々が自然に『反日型人間』になるように仕組まれた『反日システム』という社会構造が形成されている。・・・  ▽ 黒田勝弘:「韓国は世界で最も日本非難論が活発で、韓国マスコミは日本非難なら何でもありで、極端な比喩による感情的論評を書き、反日報道ではデッチ上げなど内容が誤報と分かっても訂正はほとんどない。これは『反日病』だ」  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  9. もしこのようにおのれの行動方針が 真っ先に《反日・蔑日》を掲げているのならば 言葉としての《スサノヲ人間語 - アマテラス普遍語(科学語および人格語)》なる成り立ちよりも先に 日本叩きという頭が来ることになります。  10. すなわち 《統一方針なるアマテラス方言》が すべての言葉を凌駕してしまう。それは 子どもの頃から 頭に叩きつけられる。  11. これでは いくら思考能力を伸ばそうとしても 民族としての統一アマテラス語がつねに立ちはだかる。  12. これでは 気が狂わないほうが おかしい。のではあるまいか?  13. なお 中国の行動は アマアガリ・シンドロームに罹っていると見ます。最初のボタンをかけるときに そうなのである。

  • 《人間を国家的に》から《国家を人間的に》へ

     1. われわれのしゃべる日常の言葉は あやまちうるスサノヲ人間語です。    2. そこから普遍的な要素を抽出し 抽象的になったかたちではあるが あやまたない内容を表わそうとするのが アマテラス科学語です。  3. 抽象した要素としての言葉は 概念となりますが この概念を用いてさらに価値判断すると アマテラス人格語として――ということは 倫理学として・また倫理規範として――捉えられて来ます。  4. スサノヲ市民たる人間が これら科学語および人格語たるアマテラス普遍語を使いこなすようになること。これが 《人間化》だと考えられます。    5. さてこの人間の人間化をめぐっては 社会として・その形態としては 《国家にあってこそ初めて成し遂げられる》といった見解が出されています。  6. それは A (アマテラス)語をもっぱら駆使することが出来るアマテラス公民を 言わば社会の第二階に住まわせてそこから いまの S (スサノヲ)語にアマテラス語を採り入れるという人間化を政策的にも実現させようとするいとなみであるようです。  7. そこでは スサノヲ市民のアマテラス公民化 または 《 S 語 ‐ A 語》のしかるべき有効な二層構造化 これを果たそうとする人間の志向性であるように考えられます。  8. 《ひとは国家において人間である。自由である》のだとか。  9. けれども 現代の課題は――昔からの志向性をさらに伸ばして行くかたちとしての歴史的な課題は―― この国家の人間化 ではないでしょうか?  10. お二階のアマテラス公民をして その人間存在としていかに土臭きスサノヲ人間語を回復させるか?  ではないだろうか。  11. なぜなら アマテラス普遍語は いかに社会秩序を保つという統治のためとは言え お二階さんたちは その《我が家》であるアマテラストゥーム( das Amaterasutum )の名誉や面子を重んじるあまり 《あやまちの無さ》だけを強く声高く言い張るようになっているのではないか? あやまちをまぬかれる人間はいないのに。  12. 人間は しょせん スサノヲシャフト( die Susanowoschaft )なる大地の住民である。なぜここからアマアガリして 抽象性の世界に閉じ籠るのか?  13. 二階建て構造のかたちは のこったとしても実質的に 国家をそして A 圏公民をしてスサノヲ人間語の回復を得さしめること。《国家を人間的に》 ではないか。  14. それとも 究極のアマアガリとしての《アマテラス公民からさらに抽象化をおこなった象徴たるアマテラシテ( das Amaterasität; amatérasité; amaterasity )をになう人》のすがた これが 《人間化》のあり方であると言えましょうか どうでしょうか?

  • 《人間を国家的に》から《国家を人間的に》へ

     1. われわれのしゃべる日常の言葉は あやまちうるスサノヲ人間語です。(あやまつは人のつね)。    2. そこから普遍的な要素を抽出し 抽象的になったかたちではあるが あやまたない内容を表わそうとするのが アマテラス科学語です。(主観内容を共有しうる普遍概念の抽出)。  3. 抽象した要素としての言葉は 概念となりますが この概念を用いてさらに良し悪しの価値判断をおこなうと 科学語はアマテラス人格語として――ということは 道徳や倫理規範の問題として――捉えられて来ます。  4. スサノヲ市民たる人間が これら科学語および人格語たるアマテラス普遍語を使いこなすようになること。これが 《人間化》だと考えられます。(口先だけではダメでしょうが そこは誰しもおんなじ)。    5. さてこの人間の人間化をめぐっては 社会として・その形態としては 《国家にあってこそ初めて成し遂げられる》といった見解が出されています。  6. それは A (アマテラス)語をもっぱら駆使することが出来るアマテラス公民を 言わば社会の第二階に住まわせてそこから いまの S (スサノヲ)語にアマテラス語を採り入れるようにさせるという人間化を政策的にも実現させようとするいとなみであるようです。  7. それは スサノヲ市民のアマテラス公民化 または 《 S 語 ‐ A 語 》の二層構造のしかるべき有効な使いこなし これを実現しようとする人間の志向性であるように考えられます。  8. 《ひとは国家において―― A 語公民性の幅と深さを持ってこそ――人間である。それが 人間の自由である》のだとか。  9. けれども 現代の課題は――昔からの志向性をさらに伸ばして行くかたちとしての歴史的な課題は―― この国家をこんどは人間化すること ではないでしょうか?  10. お二階のアマテラス公民をして その人間存在としていかに土臭きスサノヲ人間語をも回復せしめるか?  ではないだろうか。  11. なぜなら アマテラス普遍語は いかに社会秩序を保つという統治のためとは言え お二階さんたちが その《我が家》であるアマテラストゥーム( das Amaterasutum )の名誉や面子を重んじるあまり 《あやまちの無さ》だけを強く声高く言い張るようになっていると見られるから。あやまちをまぬかれる人間はいないのに。アマテラス的な あまりにもアマテラス的な姿を呈するようになってしまたのではないか?  12. 人間は しょせん スサノヲシャフト( die Susanowoschaft )なる大地の住民である。なぜここから飛翔し人びとを措いて単独にアマアガリして その抽象性の世界に閉じ籠るのか?  13. 二階建て構造のかたちは のこったとしても実質的に 国家をそして A 圏公民をしてスサノヲ人間語の回復を得さしめること。《国家を人間的に》 ではないか いまの課題は。インタムライズム。  14. それとも 究極のアマアガリとしての《アマテラス公民からさらに抽象化をおこなった象徴たるアマテラシテ( das Amaterasität; amatérasité; amaterasity )をになう人》のすがた これが 《人間化》のあり方であると言えましょうか どうでしょうか?  15. 天皇 安倍晋三 シーチンピン パククネ バラクオバマ ・・・が 究極の《スサノヲ市民 - アマテラス公民》のしかるべき秩序構造化した《にんげん》でしょうか?   17. 人間の人間化の道は まだ終わっていないでしょうか? お考えをお寄せください。

  • 《人間を国家(公)的に》から《国家を人間的に》へ

     姉妹質問です。互いが互いにとって分かりやすくなれば さいわいです。  ここの主題は 《人間化》です。  1. われわれのしゃべる日常の言葉は あやまちうるスサノヲ人間語です。(あやまつは人のつね)。    2. そこから普遍的な要素を抽出し 抽象的になったかたちではあるが あやまたない内容を表わそうとするのが アマテラス科学語です。(主観内容を共有しうる普遍概念の抽出)。  3. 抽象した要素としての言葉は 概念となりますが この概念を用いてさらに良し悪しの価値判断をおこなうと 科学語はアマテラス人格語として――ということは 道徳や倫理規範の問題として――捉えられて来ます。  4. スサノヲ市民たる人間が これら科学語および人格語たるアマテラス普遍語を使いこなすようになること。これが 《人間化》だと考えられます。(口先だけではダメでしょうが そこは誰しもおんなじ)。    5. さてこの人間の人間化をめぐっては 社会として・その形態としては 《国家にあってこそ初めて成し遂げられる》といった見解が出されています。  6. それは A (アマテラス)語をもっぱら駆使することが出来るアマテラス公民を 言わば社会の第二階に住まわせてそこから いまの S (スサノヲ)語にアマテラス語を採り入れるようにさせるという人間化を政策的にも実現させようとするいとなみであるようです。  7. それは スサノヲ市民のアマテラス公民化 または 《 S 語 ‐ A 語 》の二層構造のしかるべき有効な使いこなし これを実現しようとする人間の志向性であるように考えられます。  8. 《ひとは国家において―― A 語公民性の幅と深さを持ってこそ――人間である。それが 人間の自由である》のだとか。  9. けれども 現代の課題は――昔からの志向性をさらに伸ばして行くかたちとしての歴史的な課題は―― この国家をこんどは人間化すること ではないでしょうか?  10. お二階のアマテラス公民をして その人間存在としていかに土臭きスサノヲ人間語をも回復せしめるか?  ではないだろうか。  11. なぜなら アマテラス普遍語は いかに社会秩序を保つという統治のためとは言え お二階さんたちが その《我が家》であるアマテラストゥーム( das Amaterasutum )の名誉や面子を重んじるあまり 《あやまちの無さ》だけを強く声高く言い張るようになっていると見られるから。あやまちをまぬかれる人間はいないのに。アマテラス的な あまりにもアマテラス的な姿を呈するようになってしまたのではないか?  12. 人間は しょせん スサノヲシャフト( die Susanowoschaft )なる大地の住民である。なぜここから飛翔し人びとを措いて単独にアマアガリして その抽象性の世界に閉じ籠るのか?  13. 二階建て構造のかたちはのこったとしても実質的な内容としては 国家をして・そして A 圏公民をしてスサノヲ人間語の回復を得さしめること。《国家を人間的に》 ではないか いまの課題は。  13-1. インタムライズム。公(A語)は 私(S語)の内に自然なかたちでおさめられてこそ 生きる。ムラ(市町村=S圏)が 主権をすでに理論的に持つのだからこれを実践して行くこと。  14. それとも 究極のアマアガリとしての《アマテラス公民からさらに抽象化をおこなった象徴たるアマテラシテ( das Amaterasität; amatérasité; amaterasity )をになう人》のすがた これが 《人間化》のあり方であると言えましょうか どうでしょうか?  15. 天皇 安倍晋三 シーチンピン パククネ バラクオバマ ・・・が 究極の《スサノヲ市民 - アマテラス公民》のしかるべき秩序構造化した《にんげん》でしょうか?   17. 人間の人間化の道は まだ終わっていないでしょうか? お考えをお寄せください。

  • アマテラス公民なるお二階さん 大政奉還しなさい

     アマテラス公民なるお二階さん 一階なる主権の存するスサノヲ市民社会に大政奉還しなさい。  こう合唱してゆくときではないか?  あのトランプも言ってたぢゃん。  世界各国についても 人類史における社会形態の〔変遷の〕歴史としてまったく同じ問題だと考えますが いかがでしょうか。

  •  《自然に帰れ》!?

     《自然に帰れ》!?  とルウソは言ったとか言わなかったとか。自然に帰るあるいは人間的自然を取り戻す これは 必要で大事なことでしょうか?  《人間》の社会におけるすがたを次のように捉えて その《自然》の問題を考えます。  1. われわれ人間は 社会を成して共生するらしいが そもそもどういう存在であって どういう存在の関係をむすび かつその関係の錯綜して過程する総合としてどのようなあり方になっているのか?   2. 社会人を スサノヲ市民およびアマテラス公民に分けます。しかも この市民( S )と公民( A )のそれぞれ要素は ひとりの人間に――当然でしょう―― そなわると捉えます。  3. このような概念装置を持って マルクスを読みます。  ▲ ( K.マルクス:ユダヤ人問題によせて) ~~~~~~~~~~   結局のところ   ( S ) 市民社会の成員としての人間(* つまり生活者市民スサノヲ)が 本来の人間とみなされ   ( A ) 公民 citoyen (* 人格の全体でもっぱら公共の仕事に就くアマテラス公民)    とは区別された  ( S ) 人間 homme とみなされる。  なぜなら   ( A ) 政治的人間(* アマテラスのそういう側面)がただ抽象された人為的につくられた人間にすぎず 比喩的な精神的人格としての人間であるのに対し   ( S ) 市民社会の成員としての人間(* スサノヲ)は 感性的な 個体的な もっとも身近なあり方における人間だからである。  【 S‐A 連関】 《現実の人間》は  ( S )  利己的な個人の姿(* もしくは 感性を自由気ままに発揮しあやまちうるスサノヲ人間語)においてはじめて認められ   【 A‐S 連関】 《真の人間》は  ( A )  抽象的な公民の姿(* もしくは アマテラス人格語ないし学術概念語)においてはじめて認められるのである。                   (城塚登訳)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ここで S:スサノヲと A:アマテラスとの連関のあり方は 次のふたつの形態があり得ます。   《 S‐A 》連関のかたち=《現実の人間》:      あやまちうるスサノヲ人間語を基礎としてその土壌の中から――     あたかもその泥の中から―― アマテラス規範語を磨き上げ そこ     に花咲かせる人間のすがた。   《 A‐S 》連関のかたち=《真の人間》:      簡単に言えば 理性ないしコギトがすべての意志行為を引っ張る     かたちのアマテラス人格語かつアマテラス学問語にもとづく人間の     すがた。この人間は 《あやまたない》と言われるようになる。      つまり無謬性・不可侵の神話を帯びる。  ☆ たぶん《 〈 S‐A 〉連関のかたち》=《現実の人間》の描像のほうが のぞましいと思うのですが それには 《スサノヲ的自然》を取り戻す必要があると考えられます。どうすればよいでしょう? あるいはすでに回復していましょうか?

  • ホノ二ニギ(天孫)は アマテラスとスサノヲの子孫か

     非論理的な話です。  いわゆる伝承上の第一代天皇である神武カムヤマトイハレヒコは アマテラスにとって来孫(らいそん)または耳孫(じそん)という五代目の孫です。まご ひまご やしゃご。そしてその子の きしゃご というのだそうです。    高千穂の峰に降臨したのは二代前のホノ二ニギです。これは 孫です。アメニキシクニニキシアマツヒコホノニニギのミコト。    さて このホノ二ニギの父・すなわちアマテラスの子は マサカツアカツカチハヤヒアメノオシホミミのミコトです。  ところがこのオシホミミは 例のアマテラスとスサノヲとの賭けのようなウケヒにおいて生まれた子です。  アマテラスの髪飾りの珠を取ってスサノヲが噛み 吹き捨てた息吹きの霧に生まれたと言います。  ならば   【Q‐1】 神武天皇とそしてそれからの歴代天皇は アマテラスの子孫であると同時に スサノヲの子孫でもある。  こう言えるか?    ところで むろんアマテラスとスサノヲは じつの姉と弟です。と考えるにつけても  【Q‐2】 この国は あまりにもアマテラス系をとうとび過ぎて来たのではあるまいか?  一般にアマテラス公民が スサノヲ市民に対して デカい顔をし過ぎて来たのではあるまいか?   【Q‐3】 スサノヲ市民たちをもとうとんだ時代は 栄えたのではないか?  いまは あまりにもその格差が――感覚的に言って―― ひどすぎるのではあるまいか?  これでは 先行き とうてい明るいとは言えまい。  【Q‐4】 このような単純な問題なのではないか? いまのわが国の状態は。  あまりにも幻想的な議論であるが――なんのことはない―― そもそも人びとが 幻想的なクウキにしたがって考えたり振る舞ったりしているのではないか?  【Q‐5】 まだなおこのクウキたる共同の観念にしたがうとすれば まづ世の中の主役であるスサノヲ市民らを大切にするしか道はないのではないか?  さもなければ これまでのクウキとして君臨してきた共同観念を打ちこわすことが もとめられなければならない。  こうではないか? いづれにしても スサノヲ市民主権の時代ではないか。それとも スサノヲ市民は 長年しもべとして仕えたかのような歴史の末に へなちょこ人間に成り下がったか。もうどうしようもないか?