• ベストアンサー

現存天守閣の定義とは?

最近、お城に行く機会が増え、とても興味を持っています。 現存天守閣も全国12箇所をいくつか訪れたのですが、そもそも「現存」天守閣とは築城時から残っているものなのか疑問を持ちました。関ヶ原後に建てられた城が多いので400年位経った城が多いとおもいますが、壊されたり焼失したりすることなく残っている天守閣や櫓・二の丸等はあるのでしょうか?(ありえない!と思われるかもしれませんが無知な故、お許し下さい)修復・復元したものだけど、当時の形のままだというのを「現存」としているのでしょうか? 調べたときに 「明治以前の復元は「現存」とし、それ以降のものを「復元」とする見解には異論が無いわけではありません」というようなコメントを見つけたのですが、明治以降・以前で分れているのでしょうか? あと、お城に関して豆知識等あったら教えていただけると興味深いです!

  • 歴史
  • 回答数5
  • ありがとう数3

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
回答No.1

基本的に、築城当時の姿をとどめているもの(小さな改築とか修繕は当然なされている)を現存天守閣と言います。 具体例としては、熊本城の宇土櫓とか世界遺産姫路城全般など。名古屋城天主のような、戦争で焼けて戦後コンクリートで再建したもんは、そうは言いません。一度、形がなくなったものは現存ではありません。

その他の回答 (4)

  • isaa535
  • ベストアンサー率56% (31/55)
回答No.5

松山城は三階櫓ではありません。 熊本城の宇土櫓、明石城の三階建ての櫓等江戸時代以前のものが 現存して国の重要文化財に指定されていますが現存天守に含みません。 三階櫓として幕府に届けた弘前城、丸亀城は建築主は天守として 建築しましたが、届出を櫓とした為、現存天守として数えています。

  • oska
  • ベストアンサー率48% (4105/8467)
回答No.4

>明治以降・以前で分れているのでしょうか? 現存天守閣は、国宝・文化財の定義とは全く無関係です。 (現存しているから、国宝・文化財なのです) 単純に「1868年の状態(姿)を、現在まで続けている主要な櫓」に過ぎません。(明治以降の修理は、問題ありません) ご存知かも知れませんが、松山城・丸亀城などの天守は江戸時代「天守と見なさず、御三階又は御三階櫓扱い」となっています。 備中松山城の天守なんかは、昭和初期まで荒れ放題で「屋根は落ち、壁は崩れ・・・」と悲惨な状態でした。 が、主な柱構造が残っていたのを修理して今に至ります。 まぁ、#1の回答が妥当でしようね。

  • isaa535
  • ベストアンサー率56% (31/55)
回答No.3

現存12天守の現存天守の定義は 文化財保護法に基づいて保存された古建築であり 国宝又は重要文化財の天守です。 天守ですので櫓の重要文化財は現存天守とは言いません。 12天守は文化財保護法で「認定」されていると言う事でしょう。 国宝天守は4 松本城、犬山城、姫路城、彦根城 重要文化財天守は8 弘前城、丸岡城、松江城、備中松山城、松山城、丸亀城、高知城、宇和城

参考URL:
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8F%BE%E5%AD%98%E5%A4%A9%E5%AE%88
  • m-tahara
  • ベストアンサー率38% (383/983)
回答No.2

 この分野に明確な定義があるかどうかは知りません。  ただ、私見で問題なければ一定のルールはあると思います。  基本的には「城」が存在意義を持っていた(本来の用途=防御本拠地があった)江戸時代以前に建てられ、その後取り壊されることなく(修復は別)現在まで残っているもの、これが「現存」天守であると思います。  明治維新とともに城は無用長物となりほとんどが解体撤去されてその跡地に県庁や学校などが建てられてしまいました。  そうした時代の変遷をくぐり抜け、言わば「生きた建物」としての姿を今に留めているものはやはり貴重であると思います。  特に天守は数が少ないため、そのほとんどが国宝・重要文化財として保護されています。  なお、江戸時代以前、と広く取ったのは早いものでは犬山城のように室町時代(16世紀)のものもあれば、一番最近のものでは江戸末期(安政年間1854~60年頃)に建てられたものもあるからです。  古くなれば建て替えることもあるため、このように築城時期はばらばらです。  また、ですから現存の天守がその城の最初の天守である、というケースはほとんどありません(あったとして犬山城位でしょうか)。つまり、現存の天守と言っても再建であるということです。  そこで御質問中にあるような疑問が生まれているのではないでしょうか。  個人的には既に述べたように江戸以前と以後では天守の意義が全く異なっており、明治以後は最初から復元という目的で作られているものですから、やはり意味が違っていると考えます。  ちなみに、御質問中にある櫓や門まで含めれば全国に結構残っています。また、門などは移築されて寺や神社などの門として活用されていたりするものもあります。

関連するQ&A

  • 現存天守の純度?

    全国に12ある現存天守ですが、外部内部ともに築城時の素材が多く残っている天守ってどこの城になりますか? 姫路城は昭和の大改修で柱を残して一旦解体されたと本で見かけたので、姿形はほぼ築城当時のままでも外装内装の素材(瓦、漆喰、木材等)は昭和のものなのかなと疑問が浮かびまして・・・ 築城当時の素材が数百年持つとは考えにくいのですが、12ある現存天守のうち、築城当時のままからほとんど手を加えず残っている天守はあるのでしょうか?

  • お城の現存遺構についてお聞きしたいです。

    お城の現存遺構についてお聞きしたいです。 現存遺構ですが、一般的には天守だったり、櫓、門のことをいいますが、石垣は入るのでしょうか? 石垣を含めると、現存遺構があるお城というのがほとんどになると思うのですが、一般的には、天守、櫓、門のことをさすのでしょうか? ご意見などお待ちしています。

  • 現存する日本の城

    (1)明治維新で基本的に各地の城が破壊されましたが、逆に言うと現存している城が残された理由はどういうものですか? (2)大規模な修復や再建も含んで、建設当時の城全体の形態(天守閣だけではなくて本丸や二の丸など)が残っている城は現存しますか? 総合的には、やはり姫路城になるのですか? 以上、よろしくお願いします。

  • 現存最古とはいうけれど…(日本の城)

    現存最古の城と言ってもある時期に解体修理を行ったとか、大規模補修が加えられたとか、やむを得ないこととは言え、ほとんどがそういうケースではないかと思われます。 そこで質問なのですが現存する日本の城(天守閣、櫓、門など)で、建設以来ほとんど手が入らないまま(小規模な改修程度は含む)現存しているものは、どこの城の何と言う建物ですか。 よろしくお願いします。

  • 現存天守っぽい現存やぐら

    現存天守は現在わずか12天守?が残ってます。   12棟?12塔? ですがふと思ったのですが、一国一城令等をはばかって、要害だの寺だの名乗った実質的な天守閣はほかに現存してないのでしょうか? また復興天守等でも、これは特に必見の価値ありと思われる天守があればご紹介願えればと思います。

  • 戦国時代

    【質問1】城に必ずあるものを1つ選びなさい。 A.天守閣 B.水掘 C.土塁 D.石垣 E.城下町 答えはBだと思うのですが、合っていますでしょうか。 【質問2】城生城の特徴として、誤っているものを一つ選びなさい。 A.戦国武将佐々氏が居城していたことがある。 B.尾根道を遮断する徹底的な防御施設を持っていた。 C.攻城兵を様々な包囲から攻撃する虎口を持っていた。 D.中央に高い天守閣がそびえ、攻城兵を圧倒した。 E.川などの自然地形を巧みに利用した山城であった。 答えはEだと思うのですが、合っていますでしょうか。 【質問3】安土城の本丸の特徴を示すものとして、誤っている文を一つ選びなさい。 A.天主(天守閣)に、織田信長本人が住んでいた。 B.本丸御殿は、京都の内裏に似た構造であった。 C.本能寺の変の直後、天主(天守閣)・本丸御殿ともに炎上した。 D.本丸御殿は、天主(天主閣)から見下ろされる位置にあった。 E.現在、かつての天主台の上に天主(天守閣)が復元されている。 答えはCだと思うのですが、合っていますでしょうか。 【質問4】安土城の特徴を示すものとして、誤っている文を一つ選びなさい。 A.防御には不向きな幅の広い、まっすぐな大手道があった。 B.隣山に六角佐々木氏の居城観音寺城があった。 C.信長創建の寺を除くと、石垣や礎石しか残っていない。 D.近江国(滋賀県)の琵琶湖の内湖に面していた。 E.信長はこの城の完成により、初めて上洛することができた。 答えはCだと思うのですが、合っていますでしょうか。 【質問5】豊臣大坂城において秀吉が日常住んでいた場所はどこか。 A.二の丸 B.天守閣 C.西の丸 D.山里丸 E.奥御殿 答えはAだと思うのですが、合っていますでしょうか。 【質問6】豊臣大坂城の特徴を示すものとして、正しい文を一つ選びなさい。 A.豊臣時代の天守閣は、太平洋戦争の大阪空襲で焼失した。 B.第一期工事では、二の丸や西の丸がつくられた。 C.数は少ないが、現在、豊臣時代の櫓や門をいくつか見ることができる。 D.表御殿と奥御殿の間は「松の廊下」という渡り廊下でつながっていた。 E.山里丸の茶室において、たびたび秀吉は賓客を接待した。 答えはBだと思うのですが、合っていますでしょうか。 【質問7】大坂の陣について、誤っている文を一つ選びなさい。 A.冬の陣では、徳川方惣構を突破できなかった。 B.冬の陣の後、徳川方は惣構を突破した。 C.夏の陣の最中に、徳川方は外堀を埋めた。 D.夏の陣で、主要な建物は焼失した。 E.夏の陣で、秀吉の子秀頼が自殺し、豊臣氏は滅亡した。 答えはBだと思うのですが、合っていますでしょうか。 【質問8】徳川大坂城について正しい文を一つ選びなさい。 A.面積では、豊臣大坂城と変わらない規模であった。 B.江戸時代を通じて、ついにこの城に将軍が住むことはなかった。 C.豊臣大坂城や江戸城には見られない、石垣の巨石使用が特徴である。 D.天守台は豊臣大坂城のものをそのまま利用した。 E.豊臣大坂城の本丸の石垣や堀を利用して、その上に築城した。 答えはDだと思うのですが、合っていますでしょうか。 【質問9】大坂城の立地に関する説明として、誤っている文を一つ選びなさい。 A.瀬戸内海と淀川を抑える交通の要地にあった。 B.南から延びる上町台地の先端部にあった。 C.東側は低湿地、北側は淀川で、敵に攻められにくかった。 D.西が大阪湾に面していて、港に直接つながっていた。 E.古代に難波京がおかれたところで、その施設の一部も利用された。 この問題は全くわかりません。ご教示お願い致します。

  • 徳川の埋蔵金伝説

    徳川幕府が末期の頃、幕府は深刻な財政難に陥り、江戸城の維持、管理もままならなくなり、城の白壁もところどころ剥がれ落ちていたそうですが、しかし明治時代以降、徳川の埋蔵金伝説が脈々と語り継がれていて、以前は頻繁に民放テレビ局が発掘調査に協力していたりもしていましたが、このような大量の埋蔵金が今も地中に埋まっている可能性はあるのでしょうか?ご意見をお聞かせ下さい。

  • 日本の歴史建造物は創建当時と異なるが多いの?

    最近、日本の歴史建造物について調べたりしたのですが、今、残っている歴史建造物は昔から残ってるやつは少なく、再建したものが多いそうですがなぜなのでしょう。 気になった歴史建造物のを調べていたら、創建当時のものではなく再建した時のもので異なるそうなんです。 古墳時代は分からないけど、特に奈良時代以降から平安、鎌倉時代までの・・・。 もしかして、再建時にオリジナリティを入れて建てたとかあるのでしょうか・・・。 縄文は分かるにしても、弥生は謎に包まれて分からないですが、古墳時代又は奈良時代から江戸時代までに消えた建物もいくつかあったんじゃないかとも言われています・・・。 それで、書物を参考に再建したものあるとかあったんですかね。 平安神宮はその典型です。 当時の平安時代背景建造物とは少々異なるものの明治時代に創建しています。 しかし、こういうのが多いということは日本は歴史建造物を創建当時のままに保存してこれなかった理由とかあるんですかね。 焼失事件があったようで、それが関係しているとかなのでしょうか。 それとも、復元と復原の違いが関係していますかね。 (能力などの技術力不足又は資源不足を含めて) 日本の歴史建造物は復元したものが多いらしいので・・・。 大人のくせに江戸時代以前の歴史は無知な上だし、私主観なので間違い認識ならすいません。 ※参考程度に  東大寺の創建当時、再現CGです  (東大寺内部の芸術性も又、古代の中国辺りや古代の朝鮮半島辺りに似たような又は近い様式をしています。)  ↓  https://www.nicovideo.jp/watch/sm12549049  絵巻図もあり東大寺縁起という。  焼失を2回していて、再建は2度もしています。

  • 天守閣とは?

    お城に関する書物を読んでいると、天守閣とはお城の一部で城主の部屋というような書き方をしているものがありました。これは正しいのでしょうか? サイト等で調べてみると、天守閣とは領内の中で一番主要な建物と記されているところもあり、少し混乱しています。どなたか分かりやすく教えてて頂けないでしょうか? できればお城についても、どこまでをお城と言って良いのか教えてください。

  • 天守閣って一体何のための建物?

    日本各地に残る城遺跡には必ずと言ってほど天守閣 (再建されたものも含む)、またはその跡地が展示されていますよね。 という事は、江戸時代に建設されたどの城にも必ず天守閣があったと考えるべきなのでしょうか? また、天守閣自体は一体何のための建物だったと考えるべきでしょうか? 姫路城を訪れた事があるのですが、天守閣内部に城主がそこで日常生活をしていたのかどうか、説明がなかったように思います (記憶違いだったらご免なさい)。 もしかすると天守閣は政務や会議をするための設備であって、家族との日常生活は別の平屋でしていたのかも? よく時代劇などで、時の殿様が天守閣の一番高いところから町を見下ろして、感慨にふけるシーンがありますが、実際にこれって可能だった? それと江戸城なんですが、元々は天守閣が存在していたのですが、1657年の大火で焼け落ち、当時の将軍家綱公が再建しない事を決定したと聞きましたが、と言うことは天守閣なんて飾り物であって、言ってみればあっても無くても構わない、実際には何の役にも立たない代物とも考えられるんですが ・・・ あとすみません、ついでに天守閣と本丸の違いを教えて下さい。  もしかして天守閣の事を本丸と呼んでいたのであれば、大火以後の江戸城には本丸が存在していなかったのかな、と考えています。 愚問で申し訳ないですが、宜しくお願いします。