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【神=怨霊】→【神=すぐれた能力を持つ者】への転換期はいつ?

現在では、すぐれた能力を持つ人のことを「神」といったりします。 エリック・クラプトン = ギターの神様 マイケル・シェンカー = 速弾きの神様 などですね。 しかし、かつて怨霊と神とは同義語であったといいます。 菅原道真・井上内親王・藤原広嗣・早良親王など、 神として祀られている人は政治的陰謀によって不幸な死を遂げた人々だとされます。 ということは 【神=怨霊】と言う概念が、いつのまにか【神=すぐれた能力を持つ者】という概念に転換したのだろうか、と思います。 A.この転換期はいつだと思いますか。   またそう思われる理由はなぜでしょうか。    B.それともかつては神には【怨霊】【すぐれた能力を持つ者】の二種類があり、  そのうちの【神=怨霊】と言う概念のみ失われてしまったのでしょうか。  そうであるなら、【神=怨霊】と言う概念が失なわれたのはいつだと思いますか。  またそう思われる理由はなぜでしょうか。 C.それともA・Bどちらでもないのでしょうか。   そうであるなら、現在概念がないのはなぜでしょうか。   それとも、【神=怨霊】という概念は現在でもありますか。 質問の形式がややこしくて申し訳ありませんが ABCを選択の上、回答いただきたく思います。 もちろん、推測でも結構です。 よろしくお願いします。

noname#163492
noname#163492
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  • nemosan
  • ベストアンサー率22% (582/2598)
回答No.4

中国の古典文学『封神演技』は 「(生前すぐれた能力を持っていた)死者」=「神」 と認定する物語だったと思うけど?

noname#163492
質問者

お礼

回答をありがとうございます。 中国の話ではなく、日本の怨霊信仰の話をしています。 中国の信仰と日本の怨霊信仰は異なります。

noname#163492
質問者

補足

わかりにくい質問で回答者のみなさんに質問の趣旨が伝わらないようですので、締めさせていただきます。 ご迷惑をおかけいたしまして、申し訳ありませんでした。

回答No.3

日本の神様ですが、古代より2面性を持つことはよく知られております。 いわゆる、荒魂(アラみたま)、和魂(にぎみたま)です。 よって、お祀りするわけです。機嫌良く怒らせないように毎年何回も祭りをするんですね。

noname#163492
質問者

お礼

回答をありがとうございました。

noname#163492
質問者

補足

認識の転換期についての質問です。 申し訳ないですが、回答がずれていると思います。

回答No.2

回答の前に  怨霊=神、という感覚には若干違和感があります。 というのも、怨霊というのは精神的概念であって、具現化しないようなものと考えられますが、太古の昔から何らか形で「神」「God」は具現化していると考えられているからです。  これは最終的には「偶像崇拝の是非」で対立することになりますが、 根本的に怨霊というような思念体のような歴史観はむしろ少ないと考えるべきでしょう。  アミニズム(自然崇拝)において、太陽と月と水(河川)が多くの宗教概念の原始・元素であり、人の感情とは一線をひいた存在が「神」という考えもありますので、 怨霊=神というのは、あまり説得力はない上に、極めて少数派と言えるでしょう。 A、Bの回答  上記の説明通りです。 Cの回答  存在しますが、それを神という概念で捉えることの妥当性の問題はあります。  祟りと怨霊を同じものするのは不適切とも言えますから

noname#163492
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 怨霊≒神と表記するべきでしたか。 少数派だとお考えならば、それでも結構なのですが 例えば菅原道真が怨霊であることは万人が認めています。 そういった信仰が 現在はなぜなくなってしまい、 すぐれた能力を持つ人=神という概念に変わったのかを問うています。 申し訳ないですが、それについての回答だとは思えませんが?

noname#163492
質問者

補足

>現在はなぜなくなってしまい ↓ いつ、なくなってしまい の間違いです。すいません。 もちろん、なぜなくなってしまったのかとても興味ありますが。

  • FEX2053
  • ベストアンサー率37% (7987/21355)
回答No.1

これが参考になるかな? http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E4%BB%8F%E7%BF%92%E5%90%88 表向きは↑だとしても、多分「天皇=神」が公式に推し進められた明治 の頃までは、一般的に「神は祟るもの、仏は救うもの」だったと思います。 神道は「祟らないようにお願いする」のが基本的な目的ですからね。 じゃないと、葬式を仏教でやりませんもん。先祖は普通祟りませんから。

noname#163492
質問者

お礼

早速の回答をありがとうございます! 「神は祟るもの、仏は救うもの」というのは、そのとおりでしょう。 つまり、明治のころまで怨霊と神は同義語だったというご意見ですね。 私も、明治に神仏分離令が出されたり、陰陽道が廃止された時期に 何かしらの意識の転換があったように感じています。 参考になりました。ありがとうございます。 豊臣秀吉や徳川家康なども神として祀られていますが、 彼らについてはどうお考えですか。 よろしければ意見を聞かせてください。

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